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【2020忍殺再読】「タイラント・オブ・マッポーカリプス(前編)」感想

点と面

 ニンジャスレイヤーAOMシーズン3、最終話前編。本エピソードについて言えることは、とにもかくにもむちゃくちゃにおもしろいということでしょう。おもしろい。本当におもしろい。おもしろすぎる。今回、久しぶりに読み返してみて、とんでもない「おもしろい」の密度と濃度に、私は思わずひっくりかえって尻もちをつき失禁をした。10年を超える連載を経て、原作者とほんやくチームのエンターテイメント技術は、最早円熟だなんてお上品なものではなく、読者をぶん殴りぶち殺す腕力(かいなぢから)の領域にまで達しています。本エピソードは、そんなテキストカラテの全てが完璧に噛み合って生まれた、ある種の到達点……『スズメバチの黄色』や『クルセイド・ワラキア』に並ぶ、大・大・大エンターテイメントに仕上がっています。

 複数勢力入り乱れる群像劇でありながら、わかりにくい部分は一切なく、全ての勢力・全ての主演が登場するだけで場が盛り上がり、かといっていずれのシーンも100%シリアスにはなり切らない忍殺独特のおもしろ味も備えています。お話の熱量は、読み進めるほどに指数関数的にはねあがってゆき、一方で、国1つ分の大ぶろしきは、ニンジャスレイヤーvsタイクーンの個人と個人のイクサへと魔法のように折りたたまれてゆくのです。『ニンジャスレイヤー』は最終章において、「主人公がボスを目指す連戦と、その周辺の群像劇を同時並行に語る」……言うなれば、「線と面」の構図をとることが度々ありますが、本エピソードはそれがより一層高純度に突き詰められ、「点と面」とでも言うべき極まった画を物語中に完成させています。

 エピローグも含め、全19セクションにも及ぶ大群像劇を、ニンジャスレイヤーとタイクーンのイクサが、脊椎のように貫いているのです。連戦でもない、小細工もない、最終章まるまま全てを使って、主人公とラスボスが1対1でカラテを打ちあい続ける。戦う相手はたった1人で構わないという証明は、3セクション目までの過去編で終えている。このシンプルさは、まさしくカラテの王国:ネザーキョウの最終章に相応しい極端なものであり、そしてタイクーンというカラテ大怨霊を成仏させるカラテ大供養でもありました。ニンジャ・エンターテイメントというジャンル、そして「カラテの物語」は、本エピソードをもって1つの完成を見、そして後に、シーズン4という、新しい型式へと結びついてゆくことになります。

不立言霊、空手微笑

 ……主人公とラスボスが、1対1でカラテを打ちあい続ける。このシンプルさは、まさしくカラテの王国:ネザーキョウの最終章に相応しい極端なものであり……そして、やはり、実にこの土地らしい、言葉のコミュニケーションに欠いたものであったように思います。インターネットが禁止され、コトダマを奪われ、共感を十分に持てないこの国は、ゆえに感情のエネルギーがネットワークを通じて拡散することがなく、個人の中に留め置かれ、高質量を備えます(「電子データであろうと、極めて高密度の情報であれば質量を備えうる」)。どいつもこいつも激重感情高熱爆弾を抱えながら、いっこうに気になる相手と話し合いの場を持とうとしない奥手でがさつな武将ボーイばかり。そのやりとりはひたすらにすれちがい続け、誤解が誤解を生む恋愛漫画の地獄がここには現出しています。

君たちはちゃんと話し合ったのか?

 君たちは、ちゃんと、話し合ったのか?

 それをちゃんと言葉にして相手に伝えてやらんかい!!!

 最終章に至ってついにネザーキョウ上に描画された、織田信長・明智光秀・蘭丸、明智光秀・蘭丸・明智常醐のディスコミュニケーションダブルトライアングルのおぞましさ、悲しさ、そしてアホ臭さに、私はもう泣いていいやら笑っていいやらわかりません。ネザーキョウとは、まさに、こういう土地であり、こういう連中であり、こういう邪悪な大馬鹿たちの暮らす国でした。そしてその舞台に上がった外の演者たちも、多くがそれにつられて対話なきカラテの祭りの中で、踊り狂うこととなりました。雁首並べて結局は自分のことしか考えず無益な会議を繰り返すUCA、相手の言葉に耳を傾けることなく一方的に悪質なストーキングを続けるモモジ・ニンジャ、依頼の全うのみを優先しターゲットの話に興味を持たないアズール、外に通じない内輪の語彙を使い続けるオムラ・エンパイア、暴走により話の通じない怪物と化すアナイアレイター、相方の話を軽く聞き流して済ませてしまうグラニテ、そして何より、ネオサイタマが誇るこの世で一番人の話を聞かない男……「大体わかった」の権化、マスラダ・カイ!

 コトダマの立たない座で心を通い合わせるためには、カラテでモータルの首をひねり、邪悪に微笑むしかない。インターネットの制限された、通信の重い国、ネザーキョウ。だからこそ、リコナー、そしてトム・ダイスとサクタ博士は、シーズン3を代表するレジスタンスであり、彼らが見せた「話し合う」姿勢は、マスラダたちの旅の中で重要な意味を持ったのだと私は思います。

カラテのように振る舞うコトダマ

 シーズン2がシンウインターを読み解く物語であったように、シーズン3はタイクーンを読み解く物語でした。ただカラテを奮うだけのニンジャでありながら、あまりにも強大であるがゆえに、そのシンプルな構造だけでは自重を支えきれるはずがなく……はずがないのに実際、支えられている不可解。ならばそこには隠された構造(≒ギア・ウィッチクラフト)があるはずであり、それがこの推理小説の秘された「真相」でした。本エピソードでは、3セクションもの分量をかけて、タイクーンの解決編が描かれます。ヴィランの背景を描きすぎないことに定評のあるモーゼス&ボンドとしては、これは異例の措置と言え、そこからも、本シーズンとは「タイクーンとは何者だったか」を問い、考える物語だったことがわかります。そして、その回答の中心に立っていた犯人の名は、第六天魔王織田信長……忍殺史上「最悪」と呼んでもおかしくない、身の毛もよだつコトダマとカラテの魔人でした。

 イノベーティブ性を高め、過去と未来を見通したゆえに、「今この時」以外の全てを捨てさったカラテという現象そのものが、オダ・ニンジャです。時系列と文脈を持たぬがゆえに、「世界を焦土に変える」までにランダムに地上を自走し続ける力の塊。神話より生きるニンジャとしての永い歴史の上に置かれた、「モータルの生五十年」は、本来長さを持ちながらも、そのスケール差から点にしか見えません。長さを持たないただの1点に、ノーリターンとなるポイントはない……。ランペイジレベル100とでも言えるその災害ぶりは、それだけでも恐ろしい脅威なのですが、オダ・ニンジャという魔人の真の恐ろしさは、それほどまでにカラテそのものでありながら、誰よりも強いコトダマをその力の上に重ねられるという部分にあります。共感性を双方向性ものではなく、コトダマをカラテのように他者にぶつけるバイパスとして使用する。それはカラテと化したジツとでも言うべき、暴力の極地です。

 カラテとは他に影響を与える力でありながら、その影響が向かう方向を思い通りにすることは困難です。影響を与えた他者と言葉を交わすことで、ある程度の操作は可能ですが、死んでしまえば言葉を発する術はもうなく、その影響をコントロールすることはできなくなる(故に、死者への手向けは「コトダマに包まれてあれ」なのでしょう)ものです。しかし、オダ・ニンジャは違いました。強大なカラテと共にコトダマを相手に打ちつけることで、他者のミームを自分のミームで上書き保存することができたのです。カナダの地名を書き変えるように、北米の生態系を作り換えるように、他人の物語を書き変える。これは他者のローカル空間に土足で踏み入るどころの騒ぎではない、ニンジャとして最も重要な部分を犯す凌辱行為であり、忍殺という小説における「邪悪」の定義の最上位だと私は思います。

 多くのヘッズと同じく、私は、タイクーンの思想と行動は、オダ・ニンジャへの執着を理由とした模倣だと予想していました。ボンモーのろくでもなさを甘くみていたのです。真相は、オダ・ニンジャによってミームを上書きされたために、ただその通りに挙動していたというものでした。水がホースを通るように、「そういう構造であるから」「そういう挙動をしている」というだけの、機械的な必然だけがそこにはあったのです。明智光秀の肉体と精神はそのままに、ただ搭載するプログラムだけを挿げ替えられて完成した欠陥品は、数多のバグとエラーを吐き出しながらも、全ては「惰弱」の題目の下に丸め込まれてゆき、世界を荒野に変えてゆく。「理由もなく世界を滅ぼす」空虚を、理由もなく再現し、そしてその再現も失敗しているという三重の虚無がそこにはありました。最早そこには、言葉も意味も価値も文脈もなく……ただ、カラテだけがありました。

 巨大な機構は動く。現実に動く。キョートを私する。モータルを殺す。無限に殺す!止める術は無い!そしてそこに意味など!意味など無いのだ!

……「キョート・ヘル・オン・アース:急:ラスト・スキャッタリング・サーフィス」#6 より

 しかし! それでも!それでもなお! ニンジャは可能性なのだと、『ニンジャスレイヤー』は語り続ける小説です。狂人の書いた、狂人の文学です。リアルタイムで読んでいた時、私は、タイクーンはその虚無に満ちた在り方ごと、マスラダに一切を無視されて死ぬのだろうと予想しました。空虚なカラテは空転し、宙を切って、何も殴らないままに死んでゆき、ゆえにそれが「タイクーンをカラテで殺すことは、彼の理屈を肯定するに過ぎず、勝利にならないのでは?」という疑問の答えになるのだろうと。ボンモーの狂気を甘く見ていたのです。死人は蘇る。ニンジャの形をとった以上、スシを食い、カラテを奮い、名前を持って、生きて居る限りは、絶対に意味がある。ニンジャをなめるな。

 私は忘れていたのです、そこにいるのは残骸となった明智光秀でも、破綻したアケチ・ニンジャでもなく、「タイクーン」という名を持つ、1人の新しいニンジャであることを。(後編に続く)

未来へ……(コトダマのように振る舞うカラテ)

 最後に。魔人オダ・ニンジャを通じて描かれた、カラテのように振舞うコトダマのおぞましさ。その延長線上にある、タイクーンが奮うカラテの強大さ。それに拮抗するマスラダの根源にあるものが、その逆の「コトダマのように振る舞うカラテ」であることは……あまり語りすぎると野暮になりますが……やはり、読んでいて感極まってしまうものがあります。

 カタとは、自問自答するカラテであり、クミテとは、対話するカラテであるということ。たとえこの世の全てがはぎ取られ、後に残った唯一の真実が、オダ・ニンジャやタイクーンの言うようにカラテだったとしても……その時は、カラテが言葉の代わりを果たすだけなのでしょう。言葉は、コトダマは、決してなくなることはない。全てに、意味はあるのですから。


■twitter版で2021年9月26日に再読。