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【2020忍殺再読】「エスケープ・フロム・ホンノウジ」感想

 それにやっぱり、子供の死がまったく不可解であるよりは、不可解さは相変わらずあろうとも、一部分だけでも、何らかの答えが与えられた方がいい。
……『阿修羅ガール』、舞城王太郎、新潮文庫、p.328

ネザー・インフラストラクチャ

 ニンジャスレイヤーAOM、シーズン3、第6話。異人の目を通じて描かれる、最悪都市ネザーキョウの最悪の実態と最悪の文化の在り様。モータルとニンジャが魂を燃やし、繋ぎ、言葉なき地獄の中で本物の物語を紡いでゆく継承のお話であり……そして、同時に物語の文脈に乗せられて人が死んでしまう感染のおぞましさを描いたお話でもあるでしょう。「究極的に言ってしまえばAとBは同じだ」という傍観者の文言で、今、目の前にある邪悪や、今、起こっている凌辱・虐殺を平らに均してしまうことは、原作者の望むところではないと察しつつも……やはり、トリロジーで描かれたフジキド・ケンジの「全てに意味がある物語」、ドリームキャッチャーを中心としたどこかキナ臭いリコナーの構造、そして本作で描かれたファイアストーム隊の「本物」の物語が帯びる熱、それらの全ては私の中で結びつき、対照させ、比較させ、ネザーキョウという舞台を、ある種のアンチ忍殺小説として読ませてしまうことになるのでした。たとえ、それが箇条書きマジックなのだとしても、うがった見方なのだとしても、そう誤読するに足る、魅力的に過ぎる余地と行間がこの傑作エピソードにはありました。

 ファイアストーム隊を通じて描き出されてゆく首都ホンノウジの実態の中で最も衝撃的だったものは、ネザー国家とでも言うべき、地獄を基盤としたゲニンの生活様式だったと私は思います。「頭空っぽの脳筋暴力モヒカン軍団」とも思われたこの国の背景を支えるものは、非常に理知的かつ合理的に組まれた呪術・魔術であり……しかし、その事実が指すものが「ネザーキョウは、実は頭空っぽの脳筋暴力モヒカン軍団ではなかった」ではなく、「忍殺世界で、頭空っぽの脳筋暴力モヒカン軍団をやるにはこのくらいの下準備が必要だった」ということなのが、抜群におもしろい。昔、小学○年生で連載されていた『ズボラーキングのばらちゃん』という漫画がありましたけど、主人公ののばらちゃんは、作中でズボラをするために、明らかにズボラで削減されるよりも大きな手間をかけて下準備を行うんですよ。つまり、カラテーキングみつひでちゃんってこと?

 これは目的と手段の転倒が醸し出すギャグマンガ的な滑稽さでもありますし、同時に、タイクーンのテーマパーク運営者としてのクソ真面目さ……よく言い換えるならば人間性を示すものでもあるでしょう。タイクーンやシテンノにはそう言った下準備を必要としないだけのカラテがあると思われますし、この取り組みは(勿論、キキョウ・ジツの布石という意味も同時に持ちはしますが)、弱者であるセンシ・ゲニンたちがモータルを凌辱・虐殺できるよう優しく手助けする、彼岸の道徳・倫理に基づくあたたかみでもあるでしょう。モータルが虐げられ、苦しみ、ただの資源として浪費され、絶望の内に死んでゆく。我々の価値観において、どう見ても「地獄」でしかないそれは、ゲニンという国民たちの文化的で健康的な凌辱・虐殺ライフを支える福利厚生だということ。地獄というインフラが支える国、ネザーキョウ。それは共感ができないからこそ、ファーストコンタクトSFにも似た興味深さを持って、未知の文化として、私の心を強くくすぐったのでした。

ネザーキョウよいとこ1度はおいで

 向こうがズカズカとこちらに土足で踏み入る以上は、向こう側の「正しさ」なんて重んじてやる必要は全くなく、彼らはどこまでも邪悪な殺すべきニンジャなのだ……という大前提は決して忘れるべきではありません。しかし、それでもあえてその前提を忘れて本作を読み直してみると(これが許されるのが、フィクションのよさであり、当事者ではない読者の特権だよなと思います)、一見、ネザーキョウの最悪さを表した上の引用のツイートが、彼らの価値観においては、理想的な首都ホンノウジを讃える美辞麗句として読むこともできることに気づきます。弱肉が苦しみもがき消費されてゆく様は、ネザーキョウにおいてどこまでも正しく、荒廃は彼らが世界にしかけた最終戦争の大目的、行き着く果ての理想郷の姿なのですから。

 だから私はドーンブレイドというニンジャがとても好きです。読者という立場にあぐらをかき、「フィクションの登場人物として」という但し書きを置いた上で、彼の真面目さがとても好もしく映ります。彼はファーストコンタクトSFにおける理想的なエイリアンであり、そして物語を追い、ネザーキョウへのある程度の理解を経た上で読むと、非常に(地獄においては)善良で、(地獄においては)誠実で、(地獄においては)真面目な、とても「正しい」ニンジャだったことが伺えるからです。邪悪と傲慢の極みに見える上の引用ツイートにおけるやりとりも、ネザーキョウの価値観を踏まえて読むと、惰弱の道に堕ちた「間違った」友人へと向ける極めて悲壮な決別と覚悟であることが読み取れます。たとえ共感ができなかろうとも、そのひたむきさ……カラテの美しさは時に邪悪なニンジャに、強烈な輝きを付与します。その在り方を成立させる式、それだけで読む者の心を強く打ちえます。ワイルドハントのように。ドラゴンベインのように。

 ドーンブレイドとカネト。2人の関係性はどのようなものだったのか。カネトの視点で進行し、ホンノウジを地獄と重ね合わせるこのエピソードは、それを他人のコクダカにあぐらをかき真のカラテを失った傲慢な腰抜野郎と、本物のカラテに薫陶を受けて自らカラテをつかみ取った真の男のように、表向きは語っています。しかし、実はこれは真っ当な手段で努力を続けコクダカを獲得し自己実現を遂げた真の男と、土壇場で逃げ出したブザマをとりつくろうべく言い訳を塗り重ねる惰弱な腰抜け野郎のお話でもあるのです。彼らは互いに友人が腰抜け/怪物になってしまったと心から悲しみ、怒り、そして殺すしかないと心に決めているのです。カラテするしかない状況で、それでも最後にアイサツという言葉を交わし、しかしそれすらもすれ違うのです。ドーンブレイドはカネトの名乗る「ファイアストーム」の名を否定し、カネトはジェイソンの名乗る「ドーンブレイド」の名を否定する。言葉の余地は最早なく、カラテしかない。そして皮肉にも、その状況はこのエピソードの視点人物ではなく、悪役であるネザーキョウ側の価値観に寄り添うものなのです。ネザーキョウは、カラテの国なのですから。

 ……余談ですけど、弱者にはとことん厳しい癖に、「落ちこぼれの強者」に対しては妙に優しいのがネザーキョウの歪なところですよね。正しい価値観から外れ、純粋にそれを全うできない落ちこぼれに対してすら「お前が確かなカラテをもってそれを実践するのであれば構わない」という言い逃れの余地が残されているのが、本当に手厚い。強者に対してとことん甘い。

 バレなきゃなんでもしていいし、バレたとて、極論タイクーンを殺せるのならば、強いお前が正しいというのがネザーキョウの道徳であり倫理です。この甘さ、歪にもほどがあるやさしさは、タイクーンという人物の複雑な造形を読み解くための鍵でもあり、そして、それが国という規模に拡大されたことでどうしようもない弱みになってしまうという、組織としてのネザーキョウの悲劇性を描くものでもあるでしょう。やっぱ、国とというよりも、テーマパークなんですよね、ネザーキョウって。

地獄を脱する道は言葉で形作られている

 不立文字を嘲笑という形で実践し、拈華微笑を暴力に翻訳して実行する。「である者」ではなく「する者」であれというニンジャの教えをあまりにも極端に解釈しすぎているばかりに、まるで死者へのそれのように教え子たちがセンセイのカラテを好き勝手都合よくつまみ食う、歪なミーム伝達。そういった特異な環境の中にあるからこそ、本エピソードでスポットが当たったファイアストームたちの継承の物語の、真っ当な熱さ、健全な輝きは、一種異様な力を帯びて語られることとなりました。『ニンジャスレイヤー』とは、自らが積み上げたカラテに意味づけを施す物語であり、そしてその付与される意味が少しでも自らの望むものになれとコトダマを紡いで祈る物語です。ドージョーを国と読み替え、ミームを道徳と倫理にし、そして補正のためのコトダマを惰弱と切って捨てた果てにある、どこまでも無限に拡大してゆく暴力の連鎖と何もない荒野。ファイアストームは、そんなネザーキョウと違い、見取り稽古ができるようニュービーの真横でカラテを奮い続け、そして彼らの自主性も重んじたほんの少しの奥ゆかしいコトダマによって彼らを意味へと導きました。

 ネザーキョウの歪なやさしさは、落ちこぼれの強者すらも優しく掬い上げ、彼らに自分たちが強者であることを甘く甘く保証するでしょう。しかし、それはあくまで「落ちこぼれの強者」に対するものであり、そこからすらも外れ、完全に「弱者」となってしまったゲニンには、最早何も残されません。積み上げたカラテの全てはドブに捨てられてしまった……否、「カラテがドブに捨てられた」という認識自体が、カラテにカラテ以外の何かを求める、「である者」に呪われた唾棄すべき惰弱であるわけで……元より無意味と知って受け入れていたその是を、是と受け止めることができなくなってしまったゲニンこそが、カネトなのかもしれません。本作は、1人のニンジャ未満が、崩壊しかかった自己を急ごしらえで再構築し、ニンジャとして組み立て直す物語でもあるのでしょう。

 それは余りに拙速な組み立てであり、ファイアストームの熱気に酔ったカネトの勘違い・思い込みだと切り捨てることもできるかもしれません。カネトは、トム・ダイスを差し置いてファイアストームを名乗るにしては、あまりにも彼らと共有した時間が短く、そして、さして相互理解を進めたとも思えません。しかし、「人は、一瞬で、変われる」と別のエピソードにおいて語られている通り、あるいは、フジキド・ケンジがドラゴン・センセイに師事した時間はとても短かった事実が示す通り、理解の正しさや蓄積した量はさして問題でないのかもしれません。ただ、その継承は、前述したファイアストームのドージョーの流儀からは外れるでしょう。必要なものを自分勝手にかき集めるような、憧れのタイクーンを好き勝手に読み解くような、まさに、カネトの骨身に染みついた、ゲニンの流儀に則ったカラテの意味づけ行為。しかし、だからこそ、それはコクダカのようにファイアストームから与えられたものではなく、カネトが自らの意志によって選び取ったのだと、胸をはって誇れる意味でもあるのでしょう。

 ファイアストームと最初に出会ったとき、カラテではなく、対話を選択したこと。言葉を使用したこと。それこそが、カネトが地獄を脱する道を、自ら言葉によって形作った証明なのだと私は思います。

地獄へ向かう道は物語に舗装されている

 ……しかし、果たして、これはそんなにすばらしいことなのでしょうか。よきことなのでしょうか。あまりにも美しく、正しく、強すぎるファイアストームとカネトの物語を、どこか不気味に感じてしまう私がいます。ほぼ類似の事象が恐ろしくグロテスクな形をもって語られたオダ・ニンジャとアケチ・ニンジャの過去回想や、ドラマと呼ぶにはあまりにもシステマチックに機能しミームを伝達させてゆく……さながら、群体型ニンジャとでも呼ぶべき「ファイアストーム」の性質が、『ニンジャスレイヤー』の王道に微かな疑いを抱かせます。これは本当に、継承の物語だったのでしょうか?

 これは、「ファイアストーム」という特異なニンジャが、その物語的な正しさによって他者を上から塗りつぶした感染だったと読むことはできないでしょうか? 勿論、それはくだらない邪推であり、うがった読解であり、誤読であるでしょう。キッズアニメの都市伝説を訳知り顔で話すような、稚拙な弄びに過ぎないでしょう。しかし、それでもやはり、カネトは本当にこれでよかったのか、自らが組み立てた正しさに殉じて、物語的な盛り上がり・おもしろさに自分の命を消費してしまってよかったのかと私は思ってしまいます。どこまでも読者を楽しませるエンターテイメントであり続ける忍殺は、読者を裏切らないがゆえに、キャラクターを恐ろしい目に合わせることを躊躇せず、そしてその残酷さを時に自覚的に描きます。

 今さっき出会ったばかりのファイアストームなんか放り出して、助けてもらった恩義なんて全部無視して、ネオサイタマに逃げ帰ることはできなかったのでしょうか? 不如帰の象徴のように描かれる妻子は、実のところ彼が言葉をもって組みあげた「お話」上の文脈であって、実は帰ってしまえば案外ずるずる、格好悪くともなんとかなった可能性はないのでしょうか? 読者の好感度なんて無視して、腰抜け野郎になって逃げだせた可能性はないのでしょうか? ないでしょう。本作はぞっとするほどに緻密に、カネトの逃亡(エスケープ)の可能性を塞いでいます。ほぼ全ての局面において、カネトの生存条件はファイアストーム隊と協力し合うことになるよう設定されています。落命の原因となった空中の攻防すらも、カネトが自分の命をBETしなければカネト本人も助からないという状況になっています。そして、その結果、カネトは死に至り、ファイアストームを名乗ります。最早、ファイアストームを名乗らざるを得ない、正しい物語へと押し流されてゆきます。仮にカネトが克己せず、ドラマに参加できずに身勝手な逃走を選択したとしても、結局は同じ状況に至っただろうというシチュエーションの精度が、私は怖くてたまらないのです。

 ホンノウジを逃れ、地獄を脱する道を物語は美しく舗装しています。この上なく盛り上がる、読者をとことん楽しませる、エンターテイメントという地獄へ向けて。

未来へ……

 本エピソードにおいて多くの謎を提示しながらも、結局、「ネザーオヒガン」という土地が何だったのかについては、シーズン3では明かされずに終わったように思います。関連シャードにおいては、「現世とオヒガンの間に存在する物理的な領域」「オヒガンの特殊な辺縁領域」「紀元前からモータルの持っていた「地獄」という概念に対する恐怖や想像力や物語やコトダマがオヒガン内で集積し、混ざり合って沈み、やがて質量を持って堆積していったもの」などの説明もなされていますが、なぜコトダマ空間において地獄のイメージだけがそのように特殊な効力を持っているのか(地獄が特別ではなく他のイメージに由来する土地もあるのかとも思ったのですが、シ・ニンジャ/ヤモトの様子を見る限りでは、やはりネザーオヒガンは特別なようです)は結局はわかりません。ヤモトとブルーブラッドの地獄旅行が、今後、それを明かしてゆくのでしょうか……。

 シーズン3においては、ネザーとは結局のところ、「明智光秀が地獄から蘇った!」「インターネットは地獄だぜ!」というフレーバーテキストとして読んでしまうのが素直なように思います。しかし、比喩でもなんでもなく、マジの話でインターネット=地獄なの、おもしろすぎますね。読者視点でのネザーオヒガンという土地のわからなさ・説明のされなさがそのまま、地獄/インターネットを、機構を理解しないままに皆が使用している匣=「ギア・ウィッチクラフト」だと示している……と言語化すると格好いいですが、要は「みんなよくわからんままスマッホ使ってるし、よくわかってないので誤変換とかしまくって困る」というクソ卑近な話でしかないところが、なんというか、凄い。ニンジャスレイヤーって、やっぱ、ヘンテコな小説なんだなあと思います。

■note版で2021年2月23日に再読