見出し画像

20230208記録

・読みました。

・今後の再読に備え、リアルタイムでの初読体験をある程度言葉になおして記録しておくことにします。感想未満の散文的な内容であり、可読性は低いですがご容赦願います。

・当該作品、及び同作者のそれに類する作品のネタバレを多く含みます。


■■■

・「今、自分は戯言シリーズを読んでいる」という、20年前に感じたあの肌触り、手触り、読み心地そのままが、リアルタイムな体験として押し寄せてくるプロローグの衝撃が凄まじく、その肌感覚と「今、自分は初見の文章を読んでいる」という客観的事実が脳味噌の中で衝突し、読んでいてめちゃくちゃ混乱しました。「戯言シリーズの初見の文章を読んでいる」ということは、現時点におけるまで、明らかな矛盾であったため、精神と肉体が追い付かない。

・とはいえ、1章以降は、メフィストの芳香がほどよくぬけ、短いページ数でぎゅっとまとまった人間シリーズ後半あたりの「あの感じ」で進むため、混乱を起こすことなくナチュラルに読めました。

・そういう意味でも、本作を読んで一番ブチあがったのはプロローグであったように思います。りすか4はめちゃくちゃに感動したのに、こっちは極めて平静に嚥下できてしまった。十数年ぶりの完結と、十数年ぶりの続刊の差異。実際、アトガキにも「終わりでも始まりでもない続き」とあり、そういう位置におさまるよう、狙いすまして書かれたんじゃないかと思います。


■■■

・戯言シリーズは、ミステリの「探偵が言葉を語ることで物語が真実に到達する」型式を応用し、上に厚塗りする形で、「語り部が戯言を語ることで物語が正しく流れない」ことを語り、「正しく流れないからこそ、物語が本来辿り着くはずのトゥルーバッドエンドではなく、ありえないハッピーエンドに辿り着ける」ことを描いたまっかなおとぎばなしだけだったわけですが、こういったテーマのようなものを、「人象衛星」という作中に実在する具体的なものとして降ろして、そこから新しいものを語り始める本作の手つき……私は、続編の作りとしてとても好みです。

・要は、続編としての立て方が、忍殺AOM的で好みです。

・具体性を伴わず展開された西東さんと戯言遣いの応酬が(世界の終わりって結局なんなんだよ)、手にとれる実物として作中で描かれるのは、陳腐化であり卑近化であるけれど……きっちりとこれまでの物語をやり終えたからこそ、それが再現性を持ったただの一技術として昇華されるんだ、これまでの「特別」が「当たり前」になったところから続く物語をスタートするんだ、という挑戦的な姿勢はものすごくAOMを感じます。資源化するナラク。

・あと、忍殺で思い出しましたけど、「パパの戯言シリーズその1。まず名乗れ。誰が相手でも。そして名乗らせろ。誰が相手でも。」が、「いかにこれまで繰り返し殺しあってきた敵同士と言えど、ニンジャのイクサにおいてアイサツは絶対の礼儀だ。古事記にもそう書かれている。」以外のなにものでもなくて読んでて爆笑しました。

・アイサツは戯言ではなく、カツ・ワンソーの「法則」の方なので、いーちゃんはちゃんと忍殺を読んだ方がいい。ニンポとジツを混同している。家族と話をしているだろうか。


■■■

・しかし今更になりますが、「戯言」と並んで歩いた結果、玖渚友が「法則」とネーミングされたことを踏まえると、戯言シリーズにおける彼女とは、まさしく「物語の正しい流れ」そのものであり、このミステリサーガにおける謎と推理と真実だったんだなとしみじみ痛感しました。クビキリサイクルにおいて、戯言遣いのために階段を昇るというルール違反を犯した時点で、物語の流れは既に歪んでおり、ネコソギラジカルのまっかなおとぎばなしは約束されていたんだなと。

・本当のことを言うならば、いくら言葉を尽くしたところで、物理法則が変わるわけがない。だから、言葉を尽くすと物理法則が変わるこれは、まっかなうそでありおとぎばなしである……というのがこれまでのお話。

・そういった物語として語ってきたもろもろを、あまりにも直接的かつあけすけに、作中の具体的な実物・実話に置換してゆく(「完全なる人流のコントロール」を可能とする「人象衛星」の名前がそのまま「玖渚」だったり、玖渚友と戯言遣いが接触した結果、その「完全なる人流のコントロール」ができなくなったり……)本作の数々のAOM的描写はやはり笑ってしまいますし、「この小説ではその次の話をする」という気概にも満ち満ちていて、小気味よさを覚えます。

・(「完全な人流のコントロール」の実現を玖渚友が途中で放棄してしまったという挿話に、このシリーズにおける「最悪」の定義を思い出したり……)

・そして何より、それらを作中の具体に落とし込んだことで、「戯言によって歪められる前の物語の流れは、本当に『正しい』流れだったのか?」というそもそも大前提を疑うリスタートになっているのがとてもすばらしいですね。「物語の正しい流れ」。そんなものがもし本当にあったなら、「それは忌むべきディストピア」であって、正しくもなにもないのではないか。ごもっとも。


■■■

・机上の空論、内実を伴わない設定、本編を放置して描写されるキャラクター漫才、REALの欠如、駄洒落、親父ギャグ、奇の衒い……おおむね戯言と呼んでいいそれらのノイズでページの表を軽薄に埋め尽くし、その裏側に透けて浮かび上がる見えない言葉で本当に語ろうとしていることを語るのが西尾維新の小説である……あるいは、戯言とノイズで覆い尽くされた軽薄な紙面をもってしか語れないなにかを語るのが西尾維新の小説である、と私は思っているのですが、本作はページの表に綴られた言葉が、ストレートに語るべきことを語っているように感じられます。

・トリックも、フーダニットも、ホワイダニットも、驚くほどに明らかにクビキリサイクルと対比できるよう作られているし、あらゆる点で厳密に続編として作品を完成させている。いや、実のところ西尾維新の小説は常にめちゃくちゃ真面目なんですが、いつもは恥ずかしがって裏に隠れがちなその真面目さが、堂々とページの表で胸をはっている。

・おそらく本作とほぼ同じ題材であり姉妹編でもある怪盗フラヌールが、新本格ミステリ、もとい新青春エンタ、もとい「夢とロマン」への憧憬と再燃を、あまりにもド真ん中の西尾・シャイボーイ・維新っぷりで語っていたこともあり、本作の戯言での語らなさ、西尾維新にあるまじきに大真面目さはちょっと読んでいて驚いてしまったし、逆に言えばこの人いつもあんな感じだったのは、やっぱりわざとやってたんだなと思ったり。

・何しろ本作では「どんどん推理小説の舞台は狭まっていく」原因を主人公が真正面からぶっ壊しますからね。「夢とロマン」に表向きケチをつけまくることで、「それでも」「それでも」「それでもやっぱり私は……!」とやっていたフラヌールとは真逆のアプローチ。

・そして、本作がそうなったのは、やはり語り部が、玖渚友が担う「法則」側、あるいは哀川潤が担う「行動」側に大きく寄った、あるいは交じったものになっているからでしょう。

・つまり、本作は、まさしく、戯言を引用するにとどめ、「マジで言ってる」。


■■■

・玖渚盾という主人公について。

・戯言遣いと青色サヴァン、その両名のキャラクター性とテーマとストーリー、及びそれらを束ねて「戯言遣い側を主役・語り部にした」というこれまでのシリーズの作りを、ネジ1本に至るまで丁寧に解体した上で、続編を担う主人公として組み立てなおされており、ものすごいです。厳密性と真面目さの塊。「物語の続き」の権化にして、推理小説が放つカウンターパンチ。さながら機械仕掛けです。

・「何もしていないのに壊れても、やったことをやっていないとは言えない」という彼女本人による彼女の言語化にも表れている通り、どこまでも「戯言(言葉)」と「戯言(言葉)に歪められる物語」でしかなかった両親の物語以外にも、「行動」の物語である最強シリーズの流れもしっかり組んでいるのが、とてもよくできた主人公だなと思います。哀川潤から名前をもらったことが幸いしてちゃんとカラテも重点できている。「子供に名前をつけるときは慎重になってよく考えろ」。なるほど確かに有言実行。

・つまりは、戯言遣いを青色サヴァンに翻訳し(具体化し)、語り部らしい語りと、主人公らしい行動で物語を動かすキャラクターであり、そんな彼女が「冗談キディング」を「マジで言ってる」のがこの小説でのおおよそであったなと。

・本作において「冗談キディング」が何を指すのか、というのはちょっと難しかったのですが、現時点での私の解釈は、「戯言(言葉)」だけでなく、「戯言(言葉)とそれに歪められる物語」ひっくるめて……つまりは両親なわけですが……の総称なのかな、というところです。

・つまり、このシリーズの世界観まるまま=「冗談キディング」ということでもあるわけですが、実際悪い冗談みたいですからねこの世界。今回も読んでて「まだこいつらこんなアホみたいなことやってんのか」と10回くらい思いました。……小賢しい理屈をこねるなら、語り部が戯言遣いであるがゆえに、これまで外側から語れなかったまるままを、今回初めて俯瞰できた。俯瞰できたからこそ、それを言葉にできて、新しくそこに名前がつけられたんだな、と。「冗談キディング」を「戯言」で語ることはできない。「マジ」でなければ、語れない。

・なので、「冗談キディング」を「マジで言ってる」語りの中で、「戯言」だけを取り出して語る方法が「引用」になるのは、ものすごく筋が通っているな、と思います。


■■■

・以下は、ここまで挟めずにはみ出した四方山話。

・「戯言シリーズ」と対になる形で「人間シリーズ」という名前が冠されていたことを踏まえると、玖渚盾に対応する形で同様の外伝シリーズが展開される場合、やはり名前は「機械シリーズ」となるのでしょうか。

・本作の舞台が城であったのは、玖渚盾ととてもよく似た性質を持つ、JDCの龍宮城之助の名前からとったのかな、と考えました。題材的に姉妹編である怪盗フラヌールの舞台が竜宮城であったことも、私の妄想をたくましくさせています。

・オメガ城といい、かがみの孤城といい、玖渚城といい、在りし日のメフィスト作家は、自分を象徴する初期の作品を建材にして、十数年越しに城を建てる習性があるんでしょうか。



この記事が参加している募集

読書感想文