見出し画像

NECRO2136:指切りげんまん(1)

【ネクロ13:あらすじ】
・不死者の暮らす街、臓腐市で、主人公ネクロが無茶苦茶する。

【ネクロ13:登場人物紹介】
ネクロ:死なずのネクロ。自分勝手な乱暴者。
ヒブクレ:鶏頭のヒブクレ。モヒカン。
ハンザキ:早仕舞いのハンザキ。大食い自慢。
マナコ:ACHE企画制作部チーフ。今年は大吉。
ユビキ:ネクロの恋人。人見知り。
グンジ:ネクロの恋人。ひどく怖がり。
アイサ:ネクロの恋人。幼稚。
バレエ:ネクロの恋人。涙もろい。
その他のネクロの恋人たち:サザンカ、タマムシなど。

■■■

■20:00 /// 南妃髄みなみひずい奇々葉ききば町 奇々葉体育館■

『早い、早い、〈早仕舞いのハンザキ〉! 2.3t……2.4t……この長い歴史を誇るストマック・デッド・エンドにおいても、分速0.1tの嚥下量は破格のスピード! その異名に偽りなし! しかし、先の借り腹の破裂は大きく響いている! 怒涛の追い上げ! しかし、現在トップ〈蛇腹のチュウブ〉とはまだ1t以上の開きがある! まだまだわからないこの勝負! 制限時間は明日の朝7時! 戦いは始まったばかりなのです!』

 はち切れそうな腹をさするヒブクレの横で、ハンザキが骨付き肉をひっつかむ。突然取り上げられた肉は、驚いて目を見開いた。その焦げついたまぶたの上には今回の大食い大会のスポンサーである沼腹ぬまばら自然食品の刻印がある。不死者だけが暮らすこの臓腐ぞうふ市に、生きた動物は存在しない。ペットも、食肉も、全てはどこかの企業が雇った人間を「生きたままま」加工して摸した代物であり、中でも沼腹の「アルバイト」は、人肉ではないオリジナルに似た味がすると評判だった。ただ、そのありがたみは自分で食べてこそだとヒブクレは痛感していた。

「ハンザキィ……俺、もうぼちぼち限界だぁ……」  

 不死者であるため苦痛はないはずなのだが、内臓が圧迫される感覚は想像以上に不快だった。こんなつもりじゃなかった……。ヒブクレは後悔する。ハンザキと一緒に出るからと、友人のロンドンにチケットをもらった時点で嫌な予感はしていた。「今回の大会はコンビバトルなんだぜ。胃袋から下を接続して、3人の助っ人に消化と排泄を手伝ってもらうことができる。ま、ハンザキには俺1人で充分だけどな」。自信満々に胸をはるロンドンは、1時間ともたず腹の肉を破いてリタイアとなり、観客席にいたヒブクレが2人目の助っ人として駆り出される羽目になった。

「ハンザキィ……勘弁してくれぇ……」

 蠕動する蒸し焼き麺を野菜汁で啜りこみながら、ハンザキはちらりとこちらに目をやり、申し訳なさそうに頭を下げた。以前も無口な奴だったが、大食い用に食道を改造してからは輪をかけて喋らない。その代わりに、セコンドであるハマチの親父が声を張り上げる。

「この根性無しが! ダボが! ハンザキ気にすることねぇぞ! ヒブクレの腹ァ、破裂させるつもりで食ってやれ!」

「そんなぁ……あんまりですよ、親父さん。こっちは善意で手伝ってやってんでさぁ……」

「恩着せがましくなにぬかしやがる! 『商店街で10年間買い物無料』! そう聞いて引き受けたのはてめぇだろうが! ロンドンといい、最近の若ぇのは根性と責任感が足りねえ! ハンザキをちったぁ見習ったらどうだ!」

「若いも何も、お互いウン千年生きてんだから誤差じゃないスか……」

 やかましい! と、ハマチはゆでだこのように顔を赤くし、ヒブクレの頭をはたいた。それだけの衝撃であやうく戻しそうになり、口を抑える。前から短気な親父だったが、今日は特にひどい。大会の雰囲気に酔っているのか。基本、自分の商売のことにしか興味のないこの親父が、ここまで他人に入れ込むのは珍しい。

『おおっと! 〈早仕舞いのハンザキ〉ペースを乱したか!? その隙をつき、現在3位〈輪切りのイカリ〉が追い上げる! 前回チャンピオンの意地を見せるか!』

 ワァ、と観客席が大きく沸いた。耳と目に薄い幕が張ったようで実感がない。ひょっとして、今、自分は「苦しい」のだろうか。失われた苦痛を求めて、その手の店に通う市民もいるようだが、ヒブクレにその気持ちはわからない。永遠の生は確かに退屈だが苦しいのはもっとごめんだ。ハンザキは、何を思ってこんな大会に出たんだろう。

『〈蛇腹のチュウブ〉、追い上げに警戒したか腹部の蛇腹を1段延ばした! 一方、〈輪切りのイカリ〉も形状変化! 口から肛門まで70cm! 嚥下・消化・排泄の物理的距離を縮めるチャンピオン反則スレスレの十八番! 〈早仕舞いのハンザキ〉も、箸運びと咀嚼の速度を上げる! 聞こえるでしょうか!その音は最早食事というよりはエンジンの……ガガ……えっと、サザンカさん、これ大丈夫? このまま話せばいいんですよね? テステス、臓腐市の皆さん、聞こえますでしょうか

 実況に割り込んだ女の声に、熱狂に包まれていた会場が沈黙した。ヒブクレも、ハマチと顔を見合わせる。極度の集中状態にある選手たちだけは、咀嚼をとめることなく、音をたてている。

聞こえていますね。私は女米木めめぎ生研遠伝第3開発室の室長グンジと申します。現在、サザンカさんに手伝ってもらって、市中全域のラジオをジャックしこの放送をしています。あっ、えっと、サザンカさんって言うのは……

 言われてみれば音声は複数に重なり合っていた。体育館内の実況放送だけでなく、観客や選手の持つ携帯ラジオ、市営放送の回線までが、女の声を揃って発している。「グンジ」と「サザンカ」。ヒブクレはその名前を知っていた。法なきこの臓腐市において「市民の生活様式を根底から破壊しうる」という理由により、例外的に犯罪者と定められている女たち。この街では有名人の部類に入る。

「親父さん、サザンカってネクロの旦那の恋人ですよね。旦那のカラダに封印されてたんじゃ……」

「ああ? てめぇ、どこにひきこもってやがった。ネクロの馬鹿が失敗しくさりやがって、今は全員自由の身だ」
 
 ははあ、とヒブクレは相槌を打つ。

「このグンジとかいう奴を迎え入れる時に下手こいたんだってよ。大体、ユビキとかいう怪獣女のてっぺんが肉肥田にくひだからでも見えてたろ。昨日も暴れたとかで、地震に津波にむちゃくちゃだっただろうが」

「なんか揺れるなあとは思ってましたけど」

 ネクロの旦那、落ち込んでやしないだろうか、とヒブクレは少し心配したが、まあ、あの性格だから平気だろうと思い直した。旦那ならば、落ち込む暇があるならば、行動するに違いない。今も、逃がした恋人たちを追いかけて、市内を走り回っているかも。

 ……裏切った恋人は、殺す。その身勝手な約束に巻き込まれて、この臓腐市はどれだけの被害を受けるんだろうか。退屈を紛らわす刺激の予感に、ヒブクレはほんの少し不謹慎な笑みを浮かべた。


【NECRO2136:指切りげんまん】


■20:12 /// 臓腐区 肉肥田町 肉肥田電波塔■

 今回の騒動で臓腐市がどれだけの被害を受けるのかといえば、そりゃあまあ、市民ほぼ全員皆殺し、建造物はあらかた倒壊し、市内の7割が焼野原と化す程度だろうとグンジは目算していた。全長13km。人間の規格をはるかに超えたユビキを殺し、迎え入れるためにはネクロにもそれに匹敵する大きさが必要で、そのためにはネクロの肉体に別の肉体をくっつける必要があった。そして、肉はいくらでも市民としてこの街の中に転がっている。

挫傷ざしょう区、臓腐区の沿岸で先日から断続的に続いている地震の原因は、〈指忌ゆびき町のユビキ〉によるものです。ご存知の通り、彼女は非常に身長が大きく、居るだけでこの街をボロボロにしてしまう。彼女の恋人である〈死なずのネクロ〉は、そのことを心苦しく感じ、再び彼女をその肉体と魂に迎え入れるべく、今、奔走しています。そこで、市民の皆様にも手助けをして欲しいのです

 ネクロは化け戻りに属する不死者であり、他者を殺し、自らの中に迎え入れることで「ネクロ」というヒト1人の形に押し固める力を持っている。迎え入れられた者は、ネクロの体重をヒト1人分だけ増やして自由を失う。グンジも含め、彼の恋人である犯罪者13名にとって、彼は愛すべき男であり、同時に自由を奪う牢獄でもあった。

 とはいえ、彼に迎え入れられることが嫌かと言えばそんなこともない。グンジも元々はそれを望んで彼にアプローチをかけたわけで……話によると、ユビキもそれを望んでいるという。彼女の大きすぎる肉体は、本人にとっても持て余す個性であり、そのため、彼女はネクロに殺され「1人分」となることを求めているらしい。

通常、〈死なずのネクロ〉の迎え入れは、彼の密度を増やすのみで体積の増加にはさほど寄与しません。しかし、彼には愛してもない人間を取り込むことに抵抗があるらしく、恋人以外を迎え入れた場合、力の発現が中途半端になります。つまり、迎え入れた分だけ巨大化する。〈死なずのネクロ〉が〈指忌町のユビキ〉を殺せるだけのサイズになるためには、皆さんの肉体が必要なのです。そのために皆さんには死んで頂きたい。それでは……

 殺し合ってください、とグンジは命令し、放送を切った。ため息が漏れる。研究発表の場を除き、話すことに慣れていない。肉肥田電波塔の中階層。自分の命令に従って殺し合いを始めたはずの市民たちの声も、さすがにここまでは届かないようだ。代わりに、ボウボウと、象の鼻息を何倍にも拡大したような轟音が聞こえた。グンジは窓からひょいと顔を出す。燃え上がる挫傷区と肉肥田町を背景に、それらを引きずるようにして歩くおぼろげな巨大な肉塊。ネクロだった。

 ボウ、ボウ、ボウ。

「なんですか! 大きすぎて何言ってるのか! わからないですっ!」

『バカ共に細かく説明してやる必要はあるのか、ですって』

 天井から急に響いた声にグンジは驚いたが、すぐにそれがサザンカのものだと気がついた。市内のラジオ・ケーブル・ネットワークの支配者である彼女は、この街のあらゆる場所を知り、どこにでも声を届けることができる。先ほどの放送も、彼女の協力によるものだった。

「今はぁ! ハヤシさんの影響でぇ! 私の命令の強制力も落ちているんです! 事前に説明しておかないと! すんなり殺し合ってくれないんですっ!」

 ボウ、ボウ、ボウ。

『それはありがたいが、お前の力を借りなくても俺1人で何とかできたのに、ですって。……グンジ、無理して大声出さなくていいわよ。私が伝えるから』

「……よく言いますよ。キイロさんの転写体ですら、危なかったじゃないですか。愛さない他者を迎え入れることが、ネクロさんの肉体と魂にどれほどの負荷をかけていることか。大体、今回も、市民の回収を始めるのは私の一斉命令を待ってからって話だったでしょう。市民を皆殺しにした後、ネクロさんの恋人である私の魂を取り憑かせてしまえば、迎え入れるのも楽になるはず」

 ボウ、ボウ、ボウ。

『ユビキとの約束だ。少しでも早く彼女を迎え入れてやりたい……妬けるわね』

 説教をしても聞く耳を持たない男なのは承知の上だ。グンジは話を切り上げ、さっさと行ってくださいとネクロに伝えた。ネクロは既に人型から逸脱しつつあるその巨体を震わせると、足元に群がる車両を蹴飛ばし、建物を突き崩した。1歩歩くごとに何かが踏み破られる。汚らしい汁だまりが地面に広がり、燃え移った炎が肉を焼く。よろよろとした足取りはどこか哀れを誘ったが、彼自身が始めたことだ。グンジに引き留める気は毛頭ない。

『で、グンジ。実際、どうなの?』
 
 ネクロを見送ったグンジに、サザンカが話しかけてきた。

「全市民に私を取り憑かせることは難しいですね。女米木生研のシェア率は市内トップ。その全ての製品には私の分割魂バックアップが練り込まれており、命令によって操ることが可能……理屈の上ではそうですが、先ほども言った通り、ハヤシさんの影響で操作の精度は落ちています。また、少数ではありますが、女米木の屍材を身に着けていない市民もいますから」

『確かに市役所の連中なんかは、拾えないわね』

「元から計画外ですよ。市役所相手に今の不安定なネクロさんが勝てる道理はありません。現状の見込みにおいても、ネクロさんが、ユビキさんの元に戻れるかどうかはギリギリの勝負なわけですし、余計な敵を増やす余裕なんてありません」

『その点については、安心してちょうだい。さっきから市庁舎内での動向も『聞いて』るんだけど、市役所の見解はおおむね、ネクロに協力する方向で固まってる。〈指忌町のユビキ〉は、彼らにとっても悩みの種だったみたいね。中でも痛遮局の連中なんかは、率先して市民狩りを始めてくれたみたいよ』
 
 痛覚遮断維持保全局、通称・痛遮局は、臓腐市民が本来感じるべき苦痛を〈魔女〉に捧げることで取り除くことを仕事としている。その性質上、〈魔女〉が率いる結社……苦痛主義ペイニズムの影響を色濃く受けており、市役所の中でも異分子とされている部署だった。市民皆殺しという今回のイベントは彼らにとっても大量の苦痛を〈魔女〉に捧げられるチャンスなのだろう。ちなみに〈魔女〉の名前はギギと言い、13人の犯罪者、そしてネクロの恋人の1人でもある。

「ギギさんがネクロさんに協力するよう命令したんですかね?」

『あいつはそんな殊勝な奴じゃないわよ。殊勝なのはそうね……たとえば、バレエ。ネクロを手伝いに、今、こちらに向かっているみたい。バレエは、ギギと違って人がいいし、ユビキとも仲がよかったから』

「〈生命いのちのバレエ〉ですか。戦力としては非常にありがたい。順調じゃないですか」

 うーん、とサザンカは言葉を濁した。

「何か問題が」

『大問題が1つあるわ。ネクロの恋人の中でもね、最悪のじゃじゃ馬がこっちにちょっかいかけにきてるのよ。アイサよ。〈皆殺しのアイサ〉。知ってるでしょ。肉体が前世紀の兵器群で構成されている特殊な起き上がり。臓腐市の外の世界の住人、不死者以外の全生物を皆殺しにしたあの大馬鹿よ。解放されてからは、大人しくしていたし、私も油断していたんだけど……』

「ネクロさんの邪魔をするつもりなんですか」

『邪魔どころの話じゃないわ。何が気に食わなかったのか、肉体を山のような核弾頭に変えて、臓腐市めがけて落下してきてる。全部むちゃくちゃにする気なのよ。着弾まであと数分もない。アハハ、いくら臓腐市が不死者の街とはいえ、チリも残さず吹き飛んだらもうおしまいね。復旧に何千年かかるやら』

「……それって、私も死にますか?」

『骨も残らないでしょうね』

 最悪だ、とグンジは頭を抱え、その場にうずくまった。


■20:48 /// 腎痛じんつう区 上空■

 永遠の生がもたらす退屈を嘆く連中はたくさんいるけれど、それは感度の低い低能の戯言であって、こんな惑星元から最悪だし、何の張り合いもないゴミだまりだとアイサは知っていた。ほとんどの臓腐市民が記憶のもやの向こう側に追いやっている「不死者」が生まれる前の世界のこともアイサはよく覚えていて、臓腐市に臓腐市という名前がつく前から彼女はこのくだらない街に住んでいた。ブレザー。ランドセル。学習机。こうして街に向けて落下するだけでも、それらの記憶が蘇り反吐が出る。

『ねえ、アイサ。何が不満なの? 力になれることがあるなら言って』

「うるせえ、のぞき女が。しにさらせ」

 体内から響く甘ったれたカスの声をひねりつぶす。自分を構成する鉄の肉に、いつラジオの端末が紛れ込んだのかは知らない。忌々しい。サザンカは、あの頭の悪い女どもの中でもマシな方で、決して嫌いじゃなかったが、憎たらしいことには違いない。隙があれば足をひっかけるし、倒れた先が泥水なら躊躇なく頭を踏みにじる。鉄と火以上に、敵意と悪意で自分ができていることをアイサは自覚していた。

 愚劣に囲まれたまま妥協して生きるコツは、殴ることだ。殴れば、殴り返される。暴力の応酬を通じた敵意と悪意の交換こそが、奴らを許すに足る唯一の理由であり、つまり、奴らは所詮そのやりとりを収める器程度の価値しかない。鉢植えをアパートの3階から投げ落とし、ガキを電柱に縛りつけて犬の糞を食わせる。刃物を持ち出すまでも早かった。制御のきかない娘の行動に、両親はいつも泣き暮らしていたが、それこそがアイサが求めていた反応であり、充足だった。嫌がられれば嫌がられるほど、いい。

 しかし、限界があった。応酬の規模はより大きく、苛烈であるべきだ。なのに、生に限りがある人間には奮える暴力にも限りがある。力任せではせいぜい殺人程度で、権力者になったところで、しがらみが滅亡を許さない。歯噛みする彼女にとって、不死者のからだは最高のプレゼントとなった。彼女の以外の全員にとっては、とんでもない不幸だったかもしれないが。……いや、彼女とネクロ以外の全員にとっては、か。

「ネクロ……」

 その名前を呟くだけで、黒々とうずまく自分の中心が一層おぞましく沸き立つのをアイサは感じた。脳味噌空っぽの男が好きだった。頭の悪い、何も考えていない、想像力のない軽薄なバカが。ネクロはその中でも最高峰だ。あの男の語る中身のない愛のうだうだを聞き、低能代表のバレエや頭お花畑のキイロなどはときめいているようだが、まったく救いがたいクズだと言わざるをえない。裏切りと応報、その構造。それだけでしかない、ただの仕組みであること。自分に似ている。ネクロという男の肝はそこにある。

「ネクロ……!」

 欲情していると自覚する。ブースターの熱が上昇する。裏切ってやりたい。邪魔してやりたい。あの男の全てを根底からむちゃくちゃのぐちゃぐちゃにして、その全てを悪ふざけで台無しにして、否定してやりたい。それがどれほどの報復を生むのか、暴力の応酬になるのか。死という枷をなくし、際限を失った世界で、どこまでもやり尽したい。地上に向けて突き進む核弾頭からだの速度が一層速くなる。視界が赤い。興奮のあまりレッドアウトしたか。いや、今、自分は「見る」のに眼球を使ってはいない……。

 気がつくと、アイサは血の海の中にいた。

「……なに?」

 かさを増やした肉体全てに血の水圧が絡みつき、強烈な減速を引き起こしている。周囲は見渡す限りの赤。ユビキをはるかに超える今の己の体積、15,200発の兵器群を全て浸からせるほどの広大な血の海だった。アイサは展開していた肉体を連鎖的に折りたたみ、ヒトの形へと戻してゆく。その行為にも血が絡みつき、腹立たしいほどの時間がかかる。

 熱線を放ち、周囲の血液を蒸発させる。上空に脱出を図ってみると、案の定、水平線の彼方まで血の海が広がっていた。おそらく臓腐市上空全てを傘のように覆っているのだろう。誰だ。あの頭の悪い女どもの誰かか。それとも市役所の兵隊か。いずれにせよ、自分の悪意に対し、抵抗が返ってきたのだとアイサは理解した。嫌がられている。気分がいい。

「どこのどいつだ!」

 アイサの呼びかけに応じ、足元の血が泡立だった。申し訳程度にヒトの形をした突起が立ち上がり、巨大な名刺が空に投影される。「臓腐市役所 市内災害拡大振興部 虐殺企画第2課課長シュアン」。市役所の兵隊の方だったか。ババアが作った、頭でっかちのクソバカ風紀委員集団。課長か。雑魚だ。血の人型が、溺れるように口を開く。

『〈皆殺しのグンジ〉様ですね。申し訳ありませんが、一度拘束させていただきます』

「犯罪者だから!? しったこっちゃない!」

『いえ、違います。犯罪者の認定は暗黒管理社会実現部が独断で行っているもの。我々、市内災害拡大振興部は、あなた方が臓腐市にて引き起こす様々な「イベント」を、貴重な娯楽として捉えています。我々はあなた方に敵対しない』

「へえ! じゃあ、手伝ってくれるの!?」

『……しかし、限度というものがあるのです』

 人型がひっこみ、無数の血の刃が海から延び上がる。まるで地獄の針の山のよう。そう来なくては。視界いっぱいに広がり蠢く刃の群れに、頭から突っ込む。全身の鉄の肉が引っ搔かれ、小気味よい不快な音がする。ただ痛みはない。……痛みは、ない! 途端、怒りが沸騰した。低能が。クズが。ギギだけは絶対に許さない。この惑星のただ1つの価値である応酬は、今、あの女のせいで、苦痛に欠け、常に不完全だ。

 八つ当たりめいて暴れ回り、血の刃を蒸発させてゆく。手ごたえがなくつまらない。海に潜ろうとしても水圧にそれを阻まれた。違和感がある。この血の海は確かに大したものだが、自分の推進力を留めるほどの厚みはない。「水圧」ではない、とアイサは考える。それ以上の何かが働いている。この量が一瞬で目の前に現れたのも今思えば不自然だ。まるで時間そのものをいじくるような……市役所の課長ごときでは到底不可能な次元の……「犯罪者」に匹敵する……少なくとも部長級の……部長。市内災害拡大振興部。

 市内災害拡大振興部?

「タマムシィーーッ!!」

 聞き覚えがある部署名と、知人の名前がリンクした。ほどけてゆく記憶の勢いに任せ、その名前を叫んだ時、アイサの背に、とん、と指が触れる感触があった。途端、全身が逆螺旋にねじ開かれ、肉体を構成する兵器の幾つかが、むしり取られた花弁のように離散した。体の時間を力任せに巻き戻された違和感に、アイサは歯を食いしばる。身をよじりながら飛びのき、睨みつけた視線の先に、女が1人。

 すらりと伸びたスーツの先、革靴の先端の1点で、女は血の海の上に静止していた。アイサの背を押したときについたのだろう、右手人指し指の血を舐め、にっ、と眼鏡越しに屈託のない笑みを浮かべる。

「相変わらず無茶苦茶やってるんだなあ、アイサちゃん」

 余所余所しく乾いた、よく通る声。

「うるせえよ、ババアの手下がえらそうに。しっぽふるだけが能のクソ犬が」

「汚言症、治ってないんだねえ」

 指を頬に当て、わざとらしく首を傾げる素振り。

「しっぽふるだけなら私も楽なんだけど……相手がいないんだ」

「しらねえよ」

「市長がまたどっか行っちゃっててさあ。息子さん以外の興味が薄い人だから。責任感持ってほしいよね」

「しらねえっつってんだろ! なんのつもりだ!」

「なんのつもりって、決まってるでしょそりゃ。私たち職員のスローガンはいつだって、『臓腐市の皆さまのより一層の安心と健康のために』だよ」

 宙に投影される名刺の文言は、「臓腐市役所 市内災害拡大振興部 部長タマムシ」。市役所設立に関わった最古参の職員の1人であり、本来の市長が不在の際に代理も数度務めたことがある有力者。縦割り化の著しい市役所内において、別部署から犯罪者の認定も受けている苦労人。彼女はネクロの愛する13人の恋人の1人でもあり……つい最近、職場復帰を果たしたワーカーホリック、別名〈様変わりのタマムシ〉と言う。


(2)へ続く