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necro0:深海博愛(前編)

【あらすじ】
・不死者の暮らす街、臓腐市で、主人公ネクロが無茶苦茶する。
・今回の主役はネクロではない。

【市役所職員一覧】
市長:ゲレンデ
暗黒管理社会実現部:部長ウォリア、係長ネアバス
市民自我漂白推進部:部長シラギク、課長マルメロ
臓腐いきいき生活部:部長クモツ
都市人口調整計画部:部長シジマ
魂魄産業戦略開発部:部長アサヒガワ、課長ヨツツジ、ニトウ、ハツカ
市内災害拡大振興部:部長タマムシ(代理市長)、課長シュアン、キイロ
屍材職員製造活用部:部長コマチ
市バス管理センター:局長スロウ
選挙操作委員事務局:局長ゴト

◇◇◇

 〈蛸〉が上陸したのは西妃髄にしひずい区の海水浴場だった。時間帯は休日の正午近く、利用客は多かったが、後にその様子を証言できた者はほとんどいなかった。当時は肉体のスペアを持っている不死者も少なく、巻き込まれた市民の多くが生きたまま体を押し潰され続けることになったからだ。想像を絶する激痛の中でまともに記憶を保てるはずもなく、ましてや上陸地点であるその海水浴場の利用客は、最も長く苦痛が継続した被災者だった。

 数少ない証言者の1人は、海がいきなり盛り上がったのだと後に語った。海の家から砂浜に立つ赤いパラソルを眺めていた彼は、その時、一瞬だけテーブルに目を落とし、顔を上げた。1秒にも満たないその間に、砂浜は上陸した〈蛸〉に埋め尽くされ、赤いパラソルも、その下に居た親子連れも見えなくなっていた。そこから彼自身が飲み込まれるまでにはさらに短い猶予しかなかったが、事態を目に焼き付けるには十分だった。

 火傷の水膨れのように海と砂浜が膨れあがってできたそれは、よく見ると無数の死骸の集合体だった。大小さまざまな魚と、名前もわからない不気味な虫と、自重で割れ開き肉と血の光沢をぬめらせる海獣の山。本来の生きた姿と違い、なぜかその全ては色素が抜け落ちたかのように真っ白で、自身の血、そして巻き込んだ不死者や海藻だけが、紙粘土に落とした絵の具のように色として練り込まれていた。

 悲鳴を上げる時間すら与えず砂浜中の市民を取り込み終えた〈蛸〉は、あっという間に彼の眼前を埋め尽くす壁となった。激痛に全ての意識を持っていかれる直前、彼が感じたことは2つだった。1つは温度。ぬめぬめと蠢く有機的な外見にも関わらず、自分の体をからめとったその肉は氷のように冷たかったのだという。そしてもう1つは匂いだった。大量の死骸を含んでいるにも関わらず、それに死んだ魚介特有の臭みはなかったそうだ。かといって、無臭でもない。

 強いていうなら、大きくなってから母親に抱きしめられた時に嗅いだ頭皮の匂いに似ていた、と彼は後に語った。


【necro0:深海博愛】


 煮えすぎた味噌汁が音をたてて沸くまで、ニトウは自分の人差し指を眺めていた。指紋の流れを断つように、まっすぐに赤い筋が走り、だらだらと血が流れている。ハツカが居間で点けっぱなしにしているテレビに気を取られていたのがまずかった。気がついたのは、まな板の上の絹さやが血まみれになったのを見た時だ。不思議なことに痛みはなく、いつ切ったかはわからない。血で汚れていない右手でコンロの火を落とす。

 口に含み、血を吸う。ふやけた指は傷を残したまま1度綺麗になったが、すぐに真っ赤になる。ハツカに絆創膏を持ってこさせようかと思ったが、休みに働かせるのも気がひけた。同じ市役所職員同士、普段の忙しさはよく知っている。労働は永遠に続く生の暇つぶしであり、できる限り効率が悪く、面倒である方がいい。わかってはいるのだが、未だ生前の意識が抜けきらない。

 血で汚れた絹さやを水で洗い、腕に移した味噌汁の上に散らす。落し損ねた血液がじわりと汁に広がるが気にならない。腐ったものを食ったところで、どうせ死にはしないのだ。不潔という概念も、この不死者の街においては徐々に薄れつつある。腹をくだすことは不快だが、その不快という感覚も最早形骸化した名残でしかない。

 飯ができたぞ、と呼びかけるとハツカは億劫そうに立ち上がり、テーブルについた。ひょろ長い腕を折り曲げて不作法に肘をつく。ニトウが配膳した昼食を見て、何か言いたげに眉をひくつかせた。なんだよ、と問いただすと、ハツカは崩れたように笑った。

「先輩は相変わらず凝ってるな、と」

「そんな大したもんじゃない」

 海老の素揚げと、卵焼き、絹さやの味噌汁。小鉢のアスパラの胡麻和えは常備しているもので、冷蔵庫から出しただけだ。合わせて30分もかかっていない。

「近頃、食事が面倒になってきた僕なんです。飢えるのは嫌だから食いはするんですけど、生産的じゃないですよね」

「死なないのに、嫌なのか」

「嫌ですよ。苦しいですからね。たまに怖くなりませんか。名前も記憶も忘れてって、ヒトからかけ離れていくのに、苦痛だけは忘れられなくて……。最後は、永遠に苦しみ続けるだけの肉の塊になるんじゃないかって」

「随分、他人事ひとごとじゃないか」

 ニトウとハツカが所属している部署は、痛覚遮断第2課と言い、まさに今話題にしていた「苦痛」の抹消を目的とした部署だった。『臓腐ぞうふ市の皆さまのより一層の安心と健康のために』をスローガンに掲げる市役所にとって、永遠の生を地獄に変えうる「痛み」の解消は大きな課題であり、他部においても同様の部署が複数設けられている。

「負けが目に見えてますからね。やっぱ僕たちも安死課と同じく外科手術方向に舵を切るべきだったんですよ。上が魂産部だから魂をいじくる方向に進むのはわかりますけど……頭がかたすぎるんだよなアサヒガワ部長は」

「そう言うなよ。1課に新しい課長が来てからは、うちもマシになったじゃないか。専門家ってのは凄いもんだよ」

「ヨツツジ課長ですか? 優秀なのはわかるんですけど、なんか怖くないですかあの人……。元々は獄坂屍業ごくさかしぎょうの研究者だって触れ込みですけど、眉唾らしいですよ。本当はどこかの宗教団体のトップだとか。〈魔女〉の手下だって噂もあるみたいです」

「〈魔女〉ね。本当にいるなら、それが一番だけど」

 白磁のように美しい〈魔女〉に囁かれた者は、契約をとりかわすことによって苦痛から永遠に開放される。それは臓腐市で昔から語り継がれている都市伝説であり、事実、痛みを感じなくなった市民も複数存在する。ただ、市役所は〈魔女〉の存在には懐疑的であり、無痛も永い生がもたらした脳の最適化によるものだとする見方が強い。

 ニトウは改めて人差し指を舐めた。未だに血は止まらず鉄の味がするが、痛みはやはりない。もしかすると自分も気がつかないうちに〈魔女〉と契約を取り交わしたのかもしれない。

「あら、どうしたんですかその指」

「野菜を切っててちょっと」

「この絹さやですか。引っ越しの挨拶でもらったんですよね」

「ああ。儀同うさぎさんだったかな。まだ生前の名前を覚えているのに驚いた。両親が趣味で家庭菜園をやっているらしい。そう聞くと、美味く感じるな。美人だったし」

「女にはあんまり興味ないんですよね、僕」

 ハツカはそう言って、絹さやを指でつまみ上げると、口内に放り込んだ。後輩の不作法な様子に顔をしかめていると、チャイムが鳴った。ハツカに席を立つ様子はない。ニトウが渋々腰を上げ、インターホンを取ると、聞き覚えのある声が出た。ちょうど先ほどまで話題にしていた隣人の儀同だった。スリッパのまま土間に出る横着をして、玄関を開く。

「あの……テレビ……」

「テレビ?」

 儀同は、季節感のない長そでに覆われた腕で、不安げに自らの肩をさすっていた。蚊のなくような声で、障子紙にプツプツ穴を開けるように話す。

「見ましたか? 私のお母さんたち、西妃髄区に住んでて……」

「おっしゃってましたね。頂いた野菜、楽しんでますよ」

「西妃髄区が、大変なことに」

 血の気のひいた表情で、儀同はそう言った。ニトウは慌てて室内に戻ると、居間で点けっぱなしだったテレビを見た。バラエティ番組だった画面は切り替わり、咀嚼されて吐き出された回虫の群れようなものを映していた。それが西妃髄区を上空から映した映像だとニトウが理解できたのは、報道ヘリに乗るレポーターのわめき声を聞いたからだ。蠢く肉の津波はその一端からするすると蛸の腕に似た触手をこちらに伸ばし、悲鳴をあげるレポーターに巻きついた。直後、金属がプレスされる不快な音が響き、画面は暗転した。

「……先輩、これって」

 気づくとニトウの背後から、ハツカと儀同もテレビをのぞき込んでいた。気弱そうに見えた儀同が、勝手に家に上がり込んでいることにニトウは驚いたが、そんなことに驚いてる場合ではない。それを指摘するように、町内に市役所のサイレンが鳴り響き始めた。職業柄、ニトウはその警報を熟知していた。レベル4。意味するのは、臓腐市全土が壊滅する可能性のある大災害の発生だった。

 ◇◇◇

 屍肉の津波と化した〈蛸〉は、苦痛に身もだえするように無数の手足をのたうたせ、市内の全てを破壊した。立ち並ぶビルや強力な不死者も、それの進行を妨げる障害物にはなりえなかった。たとえ肉の衝突の1波目に耐えようとも、海深くから溢れる屍肉は2波、3波と続き、その質量という単純な暴力には際限がなかった。また、厄介なことに、〈蛸〉は明確な意思を……それも恐らく殺意を持っていた。圧縮された魚の死骸でできた手足は、どこまでも長く、細く伸び、逃げ惑う市民を追い詰め、はるか上空に飛ぶ報道ヘリすらも絡めとった。

 〈蛸〉の発生源は西妃髄区沖の海中であり、莫大な質量の全てがその1点から臓腐市目がけて扇状に広がっていた。西妃髄区が飲み込まれた時点で、次は隣接する妃髄ひずい区、東妃髄ひがしひずい区、南妃髄みなみひずい区が被害を受けることは明白であり、中でも発電所を始め重要拠点の集中する東妃髄区の壊滅を目前にして市役所も手をこまねいてはいかなかった。市長の不在に伴い、代理市長を務める市内災害拡大振興部部長〈様変わりのタマムシ〉が、部長級職員の現場対応を承認したのだ。それに伴い、ちょうど西妃髄区の邸宅で休養中だった市民自我漂白推進部部長〈真白ましろの檻のシラギク〉が、一番に行動を開始した。

 自身の能力により体内の骨を排出・拡張したシラギクは、その名前の由来でもある巨大な骨の檻を組み上げ、東妃髄区内の重要拠点を取り囲む隔壁を構築した。骨の隙間を埋めるのは、遅れて現場に急行した臓腐いきいき生活部部長〈柔らかな肉のクモツ〉である。クモツは、シラギクと共に肉の津波を受け止めながら、その不定形のボディを増殖させ、〈蛸〉の内部に根を広げた。暴れまわる獣に網をかけたように、〈蛸〉はクモツの肉体によって一部拘束され、ようやく侵攻の速度を緩めた。ただ、その対応が一時しのぎに過ぎないことは、クモツ当人も含め、市役所の全員が理解していた。

◇◇◇

「いやぁもう、くたびれたくたびれた。久しぶりのお休みだってのに、たまんないわね、ほんともう」

 東妃髄区でのひと仕事を終えたシラギクが、会議室に姿を現した。優雅な身のこなしとは対照的に、はしたない手うちわで顔を扇いでいる。お疲れさん、というタマムシのねぎらいを無視し、白スーツの老婦人は会議室の片隅から椅子を引き寄せると、会議進行中の一座に勝手に加わった。ロの字に並べた机を囲むタマムシたちを一瞥し、偉そうにそっくり返る。

「はいはいはい。代理市長サマに、シジマさんにスロウさん、わたしを含めて4名ね。休日出勤までして働いてやったってのに随分欠席が多いこと。レベル4は部長以上10名が全員集合って取り決めだったと記憶していたけれど、間違っていたかしら?」

「ゲレンデ市長はお子さんと旅行中だね」

「アレに社会性は期待してないわよ。部長の数が足りないんじゃないかって言ってんの」

「コマチ部長は防御壁の準備のために現地で地盤と混ざってる。ゴト局長はそれの護衛。アサヒガワ部長は降ろした戦闘機で〈蛸〉の発生点に爆撃を」

「ウォリアの馬鹿は?」

「聞くまでもないよね。独断専行で好き勝手してる」

 苦労してるわね代理市長サマと、シラギクはケラケラ笑った。長年のつきあいで彼女に悪意がないことをタマムシは知っている。微笑み返すに留めた。とはいえ、無駄話をしている場合でもなく、時間にうるさいスロウの視線も痛い。

「で、実際のところどうなの、シラギク部長」

「無理ね。どうしようもない。クモツさんも大して保たないでしょう。市庁舎の予備電源は?」

「ウン百年ぶりに動かすから心配だったけど、問題なさそうだって屍活部が」

 タマムシがそう言った瞬間、会議室は薄闇に包まれた。市内の喧騒を伝えていた壁面のテレビも一斉に落ち、室内は唐突に静かになった。シラギクは俯いて笑いをこらえ、シジマは沈黙を保ったままぴくりとも動かない。スロウは指を鳴らして復旧までの時間を数えている。スナップが丁度10度鳴ったところで、会議室は再び明るくなった。テレビの中継は既に切り替わっており、〈蛸〉が東妃髄区の重要拠点になだれ込む様子が画面に映し出されていた。

「ほら、問題ない。ちゃんと復旧した」

「市庁舎は、ですけどね」

 坊主頭をつるつると撫でながら、独り言を呟くようにスロウが言った。小柄な体を折り曲げぼそぼそと喋る様子は一見気弱だが、実のところ誰よりも口うるさく、そして仕事ができることをタマムシは知っている。事態発生から1時間足らずで全市バスのシフトと経路を切り替え、避難バスとして機能させたのは、間違いなくこの市バスセンター局長の功績だった。

「市バス各号から逐次報告を受けているのですが、市民は完全にパニック状態です。その上、市内全域の電気まで落ちたとしたら、もう収拾がつきません」

「収拾がつかないことはないね。死なないんだから。生きたまま潰され続ける苦しみで気が狂うからもしれないけれど、それも1,000年もすれば正気に戻る。街がぶっ壊れたところで、10,000年後には元通りさ」

「簡単に言ってくれますね。私は市バス網の組み立てをいちからやり直すのはごめんです」

 スロウ局長の立場ならそうだろうが、うちは違う、とはタマムシも口に出せなかった。タマムシ率いる市内災害拡大振興部としては、今回のような派手な「イベント」は、市民の退屈を紛らわすほどよい刺激であり歓迎すべき事態でもある。だが現在のタマムシは市長代理でもあり、あまり自部に偏った発言をするわけにもいかない。それに、自分がしなくともシラギクが代わりに言うだろう。

「わたしとしては、市民が1度頭パーになってくれた方が助かるわね。正気の人間の自我を漂白するのは手間がかかるから」

 やっぱり。タマムシがちらりと視線をやると、シラギクは老婦人の外見に似合わない幼い仕草で舌を出してみせた。

「苦しむことになるのはちょっとかわいそうね。でも、調整部さんだって今回の災害は助かるのじゃないのかしら? 例の実体消滅現象で苦労してるって聞くし、一旦市内をまっさらにしちゃおう……だなんて」

「我々は常日頃から計画だって実体密度の削減に取り組んでいる」

 体温を感じさせない低い声でシジマが言った。役職は、都市人口調整計画部部長。生理的な運動が見て取れず、彫像のように停止したまま腕組みしている様子は、相変わらず死人めいている。

「今回のような想定外のトラブルは、我々としてはむしろ迷惑だ。ただ、市の壊滅はこの街ならば十分に起こり得るリスクであるし、起きた場合も含めてスキームは策定している。再発を防げる目途さえたつならば、根本的な問題ではない」

「あらそう。相変わらずかっちりやってるのね。同じ不死者の癖に」

「取り返しがつくことは、目の前の仕事を適当に片付ける理由にはならない。それよりも」

 頬を膨らませるシラギクを一瞥すらせず、シジマはタマムシを睨んだ。

「タマムシ代理市長。現在旅行中だというゲレンデ市長とユキミくんの保護が先決だと私は考えている。〈蛸〉によってユキミくんが傷つき、ゲレンデ市長が怒り出すことが、我々が最も恐れるべき事態だろう。それと比べれば、市内の壊滅程度、取るに足らない被害であると君もわかっているはずだ」

「もちろん。それが我々の本分だからね」

『臓腐市の皆さまのより一層の安心と健康のために』というスローガンは、部署ごとに解釈が分かれるとは言え、究極的には同じことを言っている。すなわち、「〈死なずのゲレンデ〉を怒らせないこと」、イコール「彼女の息子のユキミを守ること」である。彼女がその規格外の不死性を攻撃に用いた場合、取り返しのつかない永続的な被害が……つまりは、失われたはずの「死」に匹敵する被害が、この市にもたらされる可能性があるからだ。

「アサヒガワ部長に頼んで、魂産部に捜索にあたってもらってるよ。ゲレンデ市長本人が近くにいる以上、ユキミくんの安全はほぼ保障されてるようなものだし、まぁ、大丈夫だと思うけどね」

「怖いな。我々も可能な限り、人員を割こう」

「助かるよ」

 タマムシは眼鏡を外し、両目を目蓋の上から揉んだ。市長のことも不安ではあるが、〈蛸〉が市街や市民に対して与える被害も、実際のところは厄介だ。災振部として刺激になる騒動は望むところとはいえ、壊滅までいってしまうとさすがに不便も生じる。求めるべきは「適度な災害」。とりあえずはコマチの地形操作によって、市のどこに防御壁を隆起させるかを決める必要があった。タマムシは眼鏡を戻し、その議題を切り出そうとした。しかし、それはノックの音によって遮られた。

 タマムシの許可を待たずに会議室の扉が開き、くせ毛の頭がぬるりと室内に入り込んできた。外に出ている部長の誰かが戻ってきたのかと思ったがそうではない。指定の黒スーツを着ているにも関わらず、漂わせる空気の不吉さがそれを実際よりも黒く染め、空間に入った亀裂のように見せていた。亀裂は、会釈し、言った。

「魂産部、痛覚遮断……第1課のヨツツジです」

 その名前を聞いてタマムシは思い出した。市役所に入って3年足らずで課長に昇進した出世頭。魂産部を持つアサヒガワ曰く、恐ろしく優秀ではあるが、部下や同僚から好かれていないらしい。それが災いしてか〈魔女〉の部下だという根も葉もない噂もたっている。確かに、生理的な嫌悪感を呼び起こす男ではあった。

「どうしたの? 何かあった?」

「アサヒガワ部長が〈蛸〉に撃墜を。通信で、会議室には戻れないから自分の代理を務めてくれと」

 案の定! とシラギクが手を叩いてケラケラと笑った。それにつられるように、ヨツツジもにんまりと口角を上げ、椅子をとらないまま、ゆったりとした足取りで机に近寄った。突っ伏すように天板に手をつき、言う。

「報告がもう1つ。記録課の方での特定が終わりました」

「何が?」

 ヨツツジは、じっとりと視線を上げて、タマムシを見た。

「〈蛸〉を産みだしているのが誰なのか。西妃髄区沖の海中に誰が沈んでいるのか。今回の事件の犯人の特定が」

◇◇◇

 西妃髄区沖。発生点。魂魄産業戦略開発部部長〈神降ろしのアサヒガワ〉の戦闘機は、それを召喚した本人ごと捻りつぶされ、破片となって海上に降り注いだ。海上とは言っても、既にそこに海はなく、果実の皮をむくように後から後から湧き上がる屍肉が、その破片の全てを受け止めた。〈蛸〉の操作は神経の伝達によるものではなく、市民を狙って捕えることができるのは全て協力者の助力によるものだった。主へのフィードバックは何もなく、ゆえに、彼女は、海底で、ただ静かに全てを思いやっていた。

 取り囲む金網が彼女が浮かび上がることを許さなかった。もちろん、彼女はその力によって金網を壊すことも可能だったが、それは望まなかった。今回の騒動を起こす際にも、金網を決して傷めることのないよう、細心の注意を払って肉を産む指先を隙間から外に出した。彼女は、自分を殴りつけ、切り刻み、乱暴した後、おもしろ半分にここに沈めた悪漢のことを思いやっていた。もしここから出てしまえば、彼は望みが果たされず傷つくことになる。それはあまりに忍びなく、愛が許さなかった。

 彼女は全てを愛していた。臓腐市に暮らす全ての不死者を愛していた。数百年間、溺れ続けるという地獄の苦しみの中で、自分を閉じ込める時に悪漢が金網で手を切ったことを悲しんでいた。名前を忘れ、記憶を忘れても、それだけは忘れることはなく明晰な正気のままに悲しみ続けていた。彼はあの時どれほど痛かっただろう。苦痛なんてなくなって、みんな幸せでいて欲しい。だから彼女は協力者の……〈魔女〉の提案を、喜んで受けた。

 彼女に既に生前の名前はなく、後に付く〈生命いのちのバレエ〉という名前も未だない。この時点での彼女は、臓腐市を滅ぼす、ただの海底の博愛だった。


(中編)へ続く


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