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【2020忍殺再読】「タイラント・オブ・マッポーカリプス(後編)」感想

カラテの光…ラグの雪…

 ニンジャスレイヤーAOM、シーズン3最終話(後編)。旅は終わり、国は滅び、テーマパークは閉演する。滅びゆく悪の組織のかなしさを描くことにかけて、『ニンジャスレイヤー』という小説はとても優れています。かつてのザイバツやアマクダリがそうであったように、ネザーキョウの最期もまた、痛切で、切なく、かなしいものでした。欺瞞に満ちた暴力を無節操にバラまき、弱者を踏みにじり殺し続けた邪悪であるにも関わらず、その領土にかかる落陽は、たまらなくエモーショナルで、泣きたくなるものがありました。感情移入のコントロールがうまいのか……シナリオ運びの秀逸さによるものなのか……そのこみ上げてくるものに幾つかの理屈はつけられるでしょうが、個人的には滅びの中でスケッチされる情景の美しさに理由を見て取ります。その美しさは、魂が握りつぶされるほどの壮絶さを伴ったものであり、善悪を越えて焼き付く、心の王国になりうるものでありましょう。

 たとえば、ネットワークに散るラグの雪。コトダマ空間の存在自体は、ティピカル・サイバーパンクなわけですが、本来、映像に翻訳されたものであるその情景を、何の衒いもなく「現実」として描いているところにしびれます。これは電脳世界が物理世界に従属するものではなく、両者が等価である忍殺だからこそ生まれえた混同だからです。インターネットのお話であったシーズン3において、恵みの雨は荒廃した大地ではなく、PCの中に降るべきであり、それは、圧政と抑圧から解放された市民たちが、家に引きこもって「市街から人が失せた」という転倒を引き起こす。これは何もかもを裏返しに描き続けたシーズン3の特異性をこの上なく表したものであり……インターネット巡る長い長いこの旅路を、1枚に凝縮した見事なスケッチでした。

 ……よくよく考えてみれば、ラグの雪、インターネットに接続された瞬間に大容量のメガデモをぶち込んだ根性のねじ曲がった悪ふざけクソ野郎がいたということでしかないのも最高なんですよね。全然まったく、いい話ではない。インターネットは最悪。最悪なところも好もしい。シーズン3は、インターネット賛歌として、ここに締めくくられるのです。

 たとえば、大槍を担ぎ口笛を吹いて街道を行く鬼の武者。物理の地面を踏みしめ、物理の風を震わせて、電脳のネットワークではなく、形ある道をゆくその様は、まさに時代劇の風景であり、ネザーキョウの風景です。惰弱なモータルや、負け犬のニンジャたちのためにあったニンジャランドが滅びようとも、鍛え上げたカラテは否定しようもなくまっすぐに大地に突き立っている。鬼という地獄を、現世に留め続けている。タイクーンがそうであったように、シテンノもまた自分自身がネザーキョウそのものであり、ゆえにネザーキョウを必要としない者たちでした。逆に言うと、必要でもないにも関わらず、ネザーキョウが大好きだった馬鹿者たちがシテンノでした。仕上がったカラテは、強く、たくましく、他者に交わらずともたった1人、気持ち1つで、自我を成り立たせうる。

 ……それは、言い換えれば「絵になる」ということです。風景の中に、その1人を描きこめば、できあがる。「惰弱」というコトダマを1つ土産にぶらさげ、カラテは真直ぐに道の先を向く。ネザーキョウの情景がそこにある。シーズン3は、カラテ賛歌として、続き続けるのです。

惰弱の果てにあるもの

 タイクーンとシテンノが去り、コクダカというチケットの期限が切れた時、ネザーキョウの跡に残されたものは、彼らこそが本当の「惰弱」であったという残酷な真相でした。「弱肉強食」という御旗は、強食側だからこそ安心して振りかざせていたのだという、みっともなく、かっこわるく、情けなく、しょうもない、事実でした。キキョウの紋が外れ、再定義された自己は、自嘲混じりの歪んだ笑みを向けるようなクズであり……しかし、かつて自ら惰弱と呼び蔑んでいたそのしたたかさは、今の自分をそのままに肯定する(誤魔化す)、カラテとはまた別の、マッポーを生き抜く強さでもありました。テーマパークから帰っても生活は続き、インターネットでは幾つもの顔を使い分ける。それは、タイクーンやシテンノにはできないことでした。

 ゲニンという在り方の弱さは、シーズン3のいては悪の組織の「欺瞞」として憎たらしく描かれるものでした。しかし、主人公たちからも、それどころかネザーキョウの本来の在り方からも否定されていた、そんなゲニンたちの弱さが……みっともなさが、かっこわるさが、情けなさが、しょうもなさが……それゆえに、クワドリガの命を救えたという事実に、私は泣いてしまいます。それは惰弱であり、カラテを汚す汚濁でした。しかし、薄汚いからこそ、まっすぐに死へと向かう美しいカラテを濁し、その軌跡を歪めることができたのです。出来損ないの定規にしか、引けない線もある。それは、ニンジャスレイヤーのような表舞台の主役たちが奮う、意志と運命に寿がれたカラテ「ごとき」には、決して真似のできないことだったと私は思います。

 一方で、シーズン3では、ゲニンめいた在り方……「惰弱」の濁りの行き着く先のおぞましきも語られています。突き詰めた惰弱は、中間進化のリディーマーを経て、モモジ・ニンジャに……つまりは「醜悪」に至るのだと私は解釈しています。悪でも邪悪でもなく、醜悪。モモジ・ニンジャという規格外の怪物は、その多岐に渡る概念全てをまるまま人の形に固めたような存在であり、ヒャッポ・ニンジャを巡る彼の戦いは、その悪性がもっともえげつない形で発露したものでした。一度まとまりを持って決着がついたドラマを蒸し返し、ヒャッポ・ニンジャの物語を中途で打ち切って台無しにしたその醜さは、『ニンジャスレイヤー』という小説すらも汚損する凄まじいものであり、まさにリアルニンジャの所業であったと思います。

 ……そして、その所業すらもを、後悔してしまうのだから、たまったものではありません。まともに関わるべき存在ではない。災害、災厄、そのたぐい。欲望の下に、物語を汚しておきながら、それに肯定的な意味づけすらも行わない。これほどおぞましいことがあるでしょうか。圧倒されてしまう。底の抜けた醜悪は、奇妙な愛嬌すらも備え、ヒャッポ・ニンジャの命は丸め込まれてしまう。それも当然で、「醜い」という概念は広大であり、カワイイすらをも内包しているのです。「惰弱」は「醜悪」に至り、全てを都合よく誤魔化し、カラテを骨のないぐだぐだなものにふやけさせてゆく……。

カラテの王:タイクーン

 リアルタイムで読んでいた時、私は、タイクーンはその虚無に満ちた在り方ごと、マスラダに一切を無視されて死ぬのだろうと予想しました。空虚なカラテは空転し、宙を切って、何も殴らないままに死んでゆき、ゆえにそれが「タイクーンをカラテで殺すことは、彼の理屈を肯定するに過ぎず、勝利にならないのでは?」という疑問の答えになるのだろうと。ボンモーの狂気を甘く見ていたのです。死人は蘇る。ニンジャの形をとった以上、スシを食い、カラテを奮い、名前を持って、生きて居る限りは、絶対に意味がある。ニンジャをなめるな。

 私は忘れていたのです、そこにいるのは残骸となった明智光秀でも、破綻したアケチ・ニンジャでもなく、「タイクーン」という名を持つ、1人の新しいニンジャであることを。カラテの果てに、全ての装飾を焼け落した先に残ったただ1人のニンジャ。それはミームの傀儡でも破たんしたプログラムでもリビングデッドも哀れな虚無でもない……血肉を通わせ、自らの意志を持ってカラテを奮う、紛れもない本物のカラテの王でした。

 過程がどうであろうとも、今、生きて、カラテを奮い、スシを食らうその存在が、虚無であるはずがなかったのです。ニンジャは形を持った虚構の怪物であり、ドアの向こうに実在し、天井にはりついているものなのです。ユカノはドラゴン・ニンジャの残骸ではなく、エーリアスはシルバーキーの代用品ではなく、エルドリッチはジェノサイドの副産物ではなく、エトコから始まったオイランドロイドの物語は、やがてウキヨの自我となったこと。ニンジャは「対照」でも「配置」でも「対応」でも「象徴」でもない、生きた一個のREALであるということ。どれだけ遠く離れても人間の延長線上に立っている。不純物を焼き落とし、幾ら「カラテあるのみ」と地の文が繰り返そうとも、決して、それは、カラテそのものになることはない。カラテそのものになることは、絶対に、できない。

大義そうに立ち上が」るその姿に、私はタイクーンというニンジャの人となりを見ます。この局面に至ってなお、自らだけに全てのコクダカを集約させるのではなく、どれほど狭く小さくとも、領土を……訪れたニンジャたちがカラテを思うさま楽しめる土地を、モータルを無限に苦しませる虐げ続ける仕組みを、そして、オオカゲが舞う空を、彼は最期まで手放すことはありませんでした。国という形をとり、テーマパークを運営してしまったがゆえに、彼のカラテにはコトダマという不純が紛れ込んだというのに、それは彼の理想を妨げるものであるはずなのに。

 ニンジャスレイヤーと打ちあい、大成仏を遂げてなお、燃えカスは残り、必ず瑕疵は生じうる。完全な物語を、モーゼス&ボンドは望まない。インターネットを断ち、ハイクを惰弱と切り捨て、言葉を手放してもなお……共感のツールを全てを放棄したはずなのに、それでも彼は「誰かのために」を決して手放すことができなかった。世界にただ1人ではなく、他者と繋がり続けた。ネットワークは、インターネットは、決して滅びることはない。

 タイラント・オブ・マッポーカリプス。タイクーンという1人のニンジャは、故に「カラテ」そのものではなく、「カラテの王」であったのだと、私は思うのです。

未来へ…

 未来の話をするならば、それはやはりシーズン3のエピローグになるでしょう。誰も彼もが、読者よりも速く前を向き、新しい物語に踏み出してゆく、その力強さにはたまらなく救われますし、故に、誰ももう振り返ることはないネザーキョウという国に、強い郷愁を覚えます。エネルギッシュで、パワフルで……そして不完全さに満ちた、旅の終わり。「もうニンジャスレイヤーが終わってもいい」と思えるほどに、美しく完璧であったシーズン2のエピローグと異なり、マスラダとコトブキのネオサイタマへの帰路は、どこまでもしまらない、思わず笑ってしまうものでした。そしてそれは、カラテと邪悪が色鮮やかに咲きほこり、元気なろくでなし共が好き放題に暴れ回っていたこのシーズンの幕切れとして、相応しいものであり……そして、地獄どころの話ではなく最悪で邪悪で混沌に満ちた都市、ネオサイタマを舞台とした新シーズンの開始を告げる凶兆でもありました。

 落ち着かない映像がここまで本気で落ち着かないこと、ある?

■2021年10月23日にtwitter版で再読。