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NECRO5:動物大集合(4)

【あらすじ】
・不死者の暮らす街、臓腐市で、主人公ネクロが無茶苦茶する。
・今回の主役はネクロではない。

【登場人物紹介】
・タキビ:人型のタキビ。口が悪く気が強い。
・ネクロ:死なずのネクロ。自分勝手な乱暴者。
・カット:全身爪人間。無口。
・アイサ:皆殺しのアイサ。ネクロの恋人。幼稚。
・ジル:底なしのジル。ネクロの恋人。興味しんしん。
・バレエ生命いのちのバレエ。ネクロの恋人。涙もろい。
・グンジ:腑分けのグンジ。ネクロの恋人。ひどく怖がり。
・シラギク真白ましろの檻のシラギク。家族思い。
・キクラゲ:型崩れのキクラゲ。シラギクの夫。
・ヤマネ白爪しろづめのヤマネ。シラギクの娘。
・その他の白菊邸の人たち:サン、ヒュー、ギジンなど。

(3)より

■■■

 真白ましろの屋敷の主と私兵、筋金入りの犯罪者2人、ヒトならざる現象の受肉体、女米木めめぎ生研のマスターピース。人並み外れた不死者が集うその部屋で、襲撃を最も早く感知したのは誰よりも凡庸なタキビだった。腹の奥から沸騰するように上り、脳みそを加熱するあの感覚……一時期の同居生活中に数え切れないくらい感じた不快感。むかっぱらが鳴らすアラートは超常の感知能力や恋人たちの愛よりも鋭敏で、早かった。

 だから部屋の扉にびしりと切断線が走った時、骨でできた壁と戸が崩れ落ち〈死なずのネクロ〉が顔を見せた時、タキビは驚かなかったし、スムーズに準備に移ることができた。カットを引き寄せて掌の内に握り、敵意を目覚ましにアイサを起こす。しかし、後から行動を始めたシラギクの方が《カッター》の完成よりも先に攻撃を終わらせていた。

 骨の檻。寄木細工のように組み合わさってネクロを瞬時に囲ったそれは、シラギクが拳を握る動作に連動して各部をスライドさせ、内側の体積を縮小させた。本来であるならば破壊不可能、ゆえに回避不可能なプレス。だが今回に限っては意味がない。ネクロが無造作に振るったナイフによって、骨の格子はばらばらと崩れ落ちた。

「凄いわね、ほんと」

 シラギクは散乱した骨と、破られた部屋の壁、そしてネクロが左手で引きずる潰れた肉塊を順に見て、呆れたように肩をすくめた。

「あっぱれと言いたいわ、〈死なずのネクロ〉。まだ投票が始まってもないのに対立候補の本拠地に乗り込んでこの狼藉ぶり。タマムシさんから聞いてた通り、本当にめちゃくちゃなのね。あなたの方はどう? わたしのこと知ってるかしら?」

 喋りかけてくるシラギクを一瞥すらせず、ネクロはこちらを、正確にはタキビの横のバレエを凝視していた。その右手には鋸刃のついたナイフが握られている。《ネクロのナイフ》。ネクロとその恋人たちの肉体を媒介にして、物理のレイヤー上に翻訳されたレコード。タキビは、自分が手にしている《カッター》とそれを見比べる。

「タマムシさんとわたしは市役所時代からの旧知なのよ。親友として太鼓判を押しますけれど、彼女とあなたとの相性はばっちりね。……やだわ、話がすぐ逸れるのは悪い癖。勘弁ね。で、戻すけど、わたしの家に何の用事かしら、〈死なずのネクロ〉。目的を教えてちょうだいな」

「目的だと?」

 バレエを見つめたまま、ネクロが言った。ため息をひとつ落し、左手の肉塊を投げつける。びしゃりと音を立てて檻の格子にぶつかったそれにはまだ息があった。肉団子になってもまだ、ヤマネはへし折れた骨の鉈を握りしめていた。……不愉快だった。言いぐさも、やり口も、全部が。この男がヤマネに何を言い、どう暴力をふるったのか、想像するのも厭だった。

「『それ』も同じことを訊いてきた。娘か? 俺もタマムシから聞いている。てめぇら、本当の親子じゃないんだってな。血は繋がってなくても、馬鹿なのはよく似ているってわけだ」

 この口ぶりが昔から癇に障った。理解や共感を最初から放棄し、自分と異なる相手を見下して一方的に価値観を押し付けるその精神性が嫌いだった。タキビはネクロを睨みつける。ネクロはそれを無視し、バレエを見ている。バレエもネクロを見返している。当たり前のように、説明不要とばかりに。こんなこともわからないのはヒトではないと言わんばかりに。

「バレエ、殺しに来たぞ。お前は俺を裏切った」

「うん、ネクロ。ありがとう」

 微温ぬるめたミルクのような甘い応酬に、室内の温度がどろりと溶けた時、シラギクが大きく指を鳴らした。それを合図に部屋と家具を構成する骨の1本1本が組み変わり、壁と天井が大きく開き始めた。食器棚や衣装箪笥が展開図に起こすようにして平らに潰れ、内装が目まぐるしくちらつくモザイクのように改造されてゆく。屋敷内の部屋は繋がり、余計な凹凸が均されて、戦闘に充分な空間を持った大広間が形成される。

「じゃ、みんな、お願いね」

 シラギクがそう言うや否や、見覚えのある輪郭がネクロめがけて突っ込んできた。大型鳥類の脚を思わせる巨大な骨格によるドロップキック。ネクロは首周りに恋人の肉を寄せ集め、その大質量の衝突を頭蓋骨と肉を潰しながら受けきった。即座に返す左拳の大振り。〈白脚しろあしのサン〉はそれを空中で器用に前転してはじき、着地する。その急襲に遅れ、残る3人の私兵も身に科した骨格を振りかざし、駆けつける。

 〈白舌しろじたのユマク〉はカエルを思わせる骨の舌でネクロの右腕を絡みとり、〈白尾しらおのテンノウジ〉は魚に似通った骨の尾びれで切りかかる。〈白牙はくがのヒュー〉は一撃必殺の隙を伺い、ワニの口吻を模した骨の牙を打ち鳴らす。シラギク・グループ最高峰の屍材技術が注ぎ込まれた黄泉帰りの肉体たちは、その高い性能を発揮して台風のように荒れ狂うネクロの暴力を捌いてゆく。

 だが、平常時と比べると彼らは精細に欠いていた。それは素人であるタキビの目からも明らかだった。私兵たちのスキルは破壊されない外装骨格を前提として鍛えたもので、それを壊すことが可能なネクロとは噛み合わない。そして、何より怯えている。臆している。ネクロと彼らの間で、過去に何があったかタキビは知らない。それでも、バレエの「彼女たちの骨を全部壊した」という発言と、正気を失った車椅子のギジンの様子から充分に想像はできた。想像しただけで、むかついた。

「はあ、やれやれ。どっこいしょ」

 みるみるうちに劣勢に傾いてゆく自陣のことを気にする様子もなく、シラギクは檻の前に椅子を作り、腰かけた。血みどろに刻まれ、小さな悲鳴をあげながらも果敢にネクロに向かってゆく我が子をどんな表情で眺めているのか、タキビの位置からは見えない。ギジンの車椅子の横に転がったヤマネに手をかざすその素振りからも、意思は漂白されていた。

 かざした手の下、へし折れた骨の籠手はまっさらに修復され、その無傷を呪いの蔓草のように這い上がらせてヤマネの肉体が起き上がった。くすみひとつない学生服姿に戻り、一瞬惚けていたヤマネは、横にいる母と弟、そして目の前の凄惨な戦闘を見て、すぐに状況を飲み込んだようだった。しかし、その察しの早さに反して動こうとはしなかった。ネクロが握るナイフを凝視し、足を小刻みに震わせている。

「ヤマネ、侵入者よ。追い出しなさい」

 その一切を無視して、シラギクは娘に命令した。ヤマネが自分の母に顔を向けたことで、その表情がタキビにも見えた。ヤマネは怯えていた。その中にほんの少しだけすがるような甘えが見えた。それは紛れもなく子供が母親に対して向けるものだった。それを見返すシラギクの表情はやはり見えない。だが笑っているとタキビは確信した。

「さあ、行きなさい」

 しつけた動物に命じるように、シラギクは言った。その声には喜びともいえないまでのほのかな温度が確実にあり、それは間違いなくヤマネを踏みにじることに対して灯ったものだった。

 顔をくしゃくしゃに歪め、転げるようにネクロに向かってゆくヤマネの背をタキビは目で追った。人間離れした膂力としなやかさで、ヤマネは両腕の骨格を振るう。ネクロの肉体がぶつ切りに分かれ、すぐに寄せ集まり化け戻る。一瞬とは言え、恋人たちと切り離されたことにネクロは激昂したようだった。こん棒で肉を叩くようにめちゃくちゃにナイフを振り回す。

 戦闘を本職とするヤマネたちと違い、その攻撃はヒステリックで荒々しい。普段だったら、目をつむりながらでも避けられるものだろう。しかし、ヤマネは、ひい、ひい、と悲鳴をあげながら、必死の形相でナイフから逃げ惑っていた。切っ先が骨格にわずかにかする。傷がつく。恐怖が足を絡めとったのか、致命的な隙が生まれる。タキビはたまらず顔をそむける。

 肉が床にぶつかる音がする。おそるおそる視線を戻すと、ヤマネはネクロの巨体で仰向けに抑え込まれていた。下顎を力任せに掴まれ、そのまま腹部までの肉を引きはがされた。剥き出しになった中身に拳が叩きこまれ、屠殺される家畜のような声が漏れる。やめて、と血みどろのテンノウジが叫び、助けに入るように飛びかかる。彼女もヤマネと同じく、怯えている。

「……ヤマネさんたちが、あなたのお子さんを殺したって本当ですか」

 タキビは耐えられず、シラギクに尋ねた。

「あなたは彼女たちに復讐しているんですか」

「昔はそのつもりだったけど、今は違うわね」

 シラギクはギジンの髪を梳き、一拍の後にそれに応じた。

「だったらどうして」

「どうしてかしら? 実はわたしも、わからないのよ」

 穏やかにそう答え、手をかざす。肋骨が床からトラバサミのように生え、ヤマネの外装骨格を修復する。

「最初はわたしも間違いなく怒っていたはずなのよ。この街がこんなになって、特別な力も手に入れて、チャンスだと思ったのね、きっと。殺しても殺したりないあの子をいじめ殺した同級生を捕まえて、永遠に苦しめてやるんだってタマムシさん相手に息巻いてた気がするわ」

 真白の骨から無傷が這いあがり、くすみ1つない学生服が立ち上がる。こちらを一瞬見たヤマネに、シラギクは無言でうなずきかける。瞳を真っ暗に閉ざし、ヤマネはテンノウジを生きたまま解体するネクロに向かう。噛み切った唇の端から血が垂れている。

「今はもう、全部思い出せない。そんなことほんとにあったのかしら。あの子の顔も名前もわからないんだから笑っちゃうわ。永遠って本当に信じられないくらい長いのね。過去も未来も馬鹿みたいに遠くて、白い靄がかかっているの。わたしたちはそうやって少しずつ漂白されているんだわ」

 顔面を殴りつけられ、ヤマネは再び床に倒される。両足首を掴まれ股から半分に千切られる。骨格が再び断たれる。それはすぐさま修復される。ヤマネはまた立ち上がり、骨ごと切り刻まれる。巨大なけだものに反芻されるように、繰り返し、繰り返し。母の気の済むまで、繰り返し。

「だから、自我漂白も、市長選挙も、実はどうだっていいのよ。目的を尋ねたことを、ネクロを馬鹿だと言っていたわね。同感だわ。そんなものはないのよ。どうせお先は真っ白で、まっさらなのよ。続けてるから、続けてるだけ。意味なんてない何もないわ。これも同じよ。わたしたちは家族を続けているから、続けているの」

 シラギクはそう言った後、でも、それでもね、と少し言葉を濁した。

「あの子たちがああやっているのを見ると、今でもね、ほんのね。ほんのちょっぴりだけなんだけどね……」

 シラギクは声にかすかな温度を宿らせながら、泣き叫びながらネクロに縋りついている自分の子供たちを見つめていた。自分の命令と力によって、子供たちであることを強いられ続けている子供たちが心と体を生きたまますり潰される様子を、おそらく白濁に呆けたヒトの輪郭に笑みを浮かべながら、車椅子に座る我が子の仇を優しく撫でながら、あるはずのない何かを期待してじっと見つめていた。焼け残った骨にこびりつく煤のひとひらのように、髪と瞳だけがただふたつ残されて黒かった。

「だめだよ、シラギクさん!」

 立ち入ることのできない老婦人の時間に土足で割り込んだのは、言うまでもなくバレエだった。彼女は同情と共感で胸をいっぱいにしたように、瞳を涙でうるませながら檻の格子にすがりついた。かわいそう、かわいそうとまくしたて、タキビさんもそう思うよね、と強く同意を求める口調で言った。

「タキビさんも、ヤマネさんたちを助けてあげたいよね」

「それは、まあ……」

 助けたいよりも、話をしたい。シラギクと話をすることはできた。理解をしたと言えるほど自分は傲慢ではなかったが、少なくともその言葉に耳を傾けることはできた。微かに残った母の執着を知ることができた。ではヤマネはどうなのだろう。彼女も彼女でこの親子関係に固執しているように見えた。閉じ込める檻を壊したところで、おそらく救われない。永遠の時間は心を混線させている。だが、バレエはそんな機微を理解しない。

「大丈夫。わかってる」

 甘く、優しく、わからない。

「私が、みんなを少しでも幸せにしてあげる」

 当たり前のように滑らかに。この世の真理を語るように。〈生命いのちのバレエ〉は、その自分勝手で乱暴な気持ちを口にした。そうして檻の格子の隙間から突き出した、白魚のように細く綺麗な人差し指。潤む瞳からついに1粒涙が零れたのと同時に、その先端がぷっくりと膨れ、色のないネズミの死骸を1匹産み落とした。続けて、2匹。4匹。シラギクがそれを見て、椅子を蹴倒し立ち上がった。8匹、32匹。老婦人が初めて見せた焦りの表情かおは、すぐに諦めのそれに変わった。

 256匹。8,192匹。2,097,152匹。栓は既に外れており、おそらく全てが手遅れなのはタキビの目からも明らかだった。噂には聞いていた。他ならぬシラギクと〈魔女〉の策略により、バレエはかつてもこうしたのだと。指先から渾渾こんこんと湧き出る動物の死骸は、怒涛となり、津波となり、この街の全てを飲み込んだのだと。全ての生命からあらゆる苦痛を奪いとり、幸せにするために。


■■■

〈生命のバレエ〉の「出産」に物理的な制約はない。バレエが望んだイメージは、彼女が言うところの関数として魂に打ち込まれ、肉体とのひもづきを通して必ず実行される。極端な話をするのであれば、彼女が「1秒後に1兆匹のシロナガスクジラを産む」ことを望めば、1秒後にこの惑星は塵となる。あまりにも大きくわかりやすいリスクに対し、ストッパーとなるものは本人の理性しかなく……つまり全く信頼に足らぬものしかなく、それは彼女がこの法なき臓腐ぞうふ市において「犯罪者」となった理由と言える。

 ちなみに一度打ち込んだ関数を取り消すことはバレエ本人にもできない。彼女の肉体を破壊することで一時的に出産を中断することは可能だが、バレエは起き上がりに属する不死者であるため、実質的には意味をなさない。事前に関数に盛り込まれた条件を満たすまで死骸の発生は必ず続く。言い換えれば、条件が設定されていない場合、バレエは未来永劫動物を産み続け、星はおろか宇宙すらもが動物の屍肉で埋まることになる。

「え、じゃあ、今回は?」

 ジルの長い説明を聞き終えて、開口一番タキビが発したのはその間の抜けた問いだった。蛇口が開かれてまだ5分。骨の格子の向こう側は既に天井までネズミの肉で埋まっており、檻の内側にも潰れた肉や絞り出された血が腰の高さまで注がれていた。眼前を埋める屍肉の壁は巨大生物の内臓じみており、増え続ける自らの体積によってぬらぬらと身をよじる。

 正気からかけ離れた光景を前にしても、犯罪者たちは呑気だった。肩の上まで肉汁に浸かったジルは「どうなん?」と気安く尋ね、バレエは「設定してないよ」と軽く応じる。アイサは腹の中で、興味なさげにあくびを1つ。取り返しのつかないスイッチがいともたやすく押されたことにタキビは目眩を覚えたが、ジルに背を叩かれ、かろうじて己を保った。

「顔が青いよタキビちゃん。私が何か忘れたの?」

 ジルはそう言って、もこもこの服からぶら下がったピンクのぼんぼんを引き、フードをつぼめた。幼い少女の目元が隠れ、にたにた笑う唇と歯だけが残る。屍肉のスープをかき分け、バレエの前にまわった彼女は……実体消滅現象は、保存則を踏みにじる宿敵の顔を正面から見上げた。

「また私に尻ぬぐいさせることに対して、何か言うことはない?」

「ごめんね、ジル。迷惑だよね。私なんかがあなたにいつも」

「昔から口先だけは殊勝なんだから」

 字面と違い、その口調はあきらかにおもしろがっていた。底なしの胃袋よりも貪欲に、このトラブルを愉しんでいるようにタキビには見えた。宿敵ではなく、旧友に話しかけるようにジルは続ける。

「あなたの狙いはわかったよ」

「ジルは頭がいいもんね」

「打ち込んだ関数は取り下げられない。それは魂と肉体の関係性そのものだから。だけど、それをうやむやにできる馬鹿がちょうどさっきやってきた」

 タキビも遅れて気がついた。〈死なずのネクロ〉。真白とはほど遠い、どす黒く歪な愛の檻。迎え入れた他者を人間1人分の魂と肉にまとめるというその不死性は、バレエの魂と肉に刻まれた関数を薄め、動物たちも内側に折り込んで逃がさないだろう。ただこのままでは無理だ。シラギクの命令によりヤマネたちがネクロを邪魔している。肉の海に潰されようが、彼女たちがそれを中断するとは思えない。

 だからこれはシラギクに対する脅迫であり、交渉なのだ。ヤマネたちへの命令を解き、自由にしろ。そうすれば、自分はネクロに囚われてやる。バレエはそうシラギクに突きつけている……。

「ダメだね。そんなの許さない」

 タキビの結論をジルが代弁した。そう、ダメだ。シラギクはこの条件を飲まないだろう。この惑星ほしが滅ぼうとも、彼女は彼女のささやかな楽しみを手放さないに違いない。そして、許さない。ネクロの恋を邪魔することがタキビたちの元々の目的だ。バレエがあの男と結ばれる選択肢なんて認められるわけがない。

 その事情をどこまで理解しているのか、バレエは突きつけられたNOに対して困ったように微笑むだけだった。我儘を言う子供をなだめる例の表情。閉じた系の中で歪な歯車がどう噛み合ったのか、タキビにはわからない。博愛はいつも通り、一方的な共感を一方的に口にする。

「ジルが何を考えているのか、私にもわかったよ」

「いや、バレエちゃんは何もわかってない」

 ジルは言う。クツクツと笑って。

「私が出張れば全部おじゃんだってことすらも理解していない。違う?」

「……え? でも」

「増えた死骸を消すことはできても、『増え続ける』ことは防げないって言いたいんでしょ? でもそんなの楽勝で解決だよ。増え続けるなら、消し続ければいいだけだって」

 ジルのその結論に、バレエは首をかしげた。自分の指先からわき出す、ネズミの死骸に目をやった。

「無理だよ。この子たちはこれからずっと永遠に……」

「だから! 私が永遠につきあってあげるって言ってるんだよ、バレエちゃん」

 ジルは言う。そこに込められた複雑な感情をタキビは推し量り、そしてそれは錯覚なのだと思い出す。ジルに魂と自我はない。風雨に曝され続けた岩が偶然ヒトの顔に似るように、たまたま感情のこもった声に聞こえる音を、たまたまヒトの形に寄せ集まった肉の一部が発しているだけ。彼女は現象であり、仕組みであって、不死者ではなく、ヒトではない。

人間あなたたちが発明した未来や過去なんて関係ない。バレエちゃんが産んだ肉を私が食べる。私はそうできていて、ここに在る。ネクロに奪われるなんて、許さない」

「ジル! うれしい……すごくうれしい!」

 バレエは感極まったように声を上げ、すぐに悲し気にうつむいた。

「でもダメだよ。私なんかにつきあって時間を無駄にする必要なんてない。あなたがひとりが背負い込んで苦しむだなんてよくないよ。絶対に後悔する日が来るよ」

「……話聞いてた? いや、ごめん。一応言ってみただけ。わかってた」

 あなたに話しても全部無駄。

 ジルはそう言って、檻の中に貯まった血肉ごとバレエの全身を食らった。屍肉の噴出口である人差し指だけが、檻の格子に阻まれて消え残る。その断面から肉のあぶくが立つように、頭が生え、胸が生え、裸のバレエが起き上がる。死んでいたわずかな間に関数を追加で打ち込んだのだろう。右脚からエミューが、左脚からトラが、両の乳房からシロサギが産まれ落ち、浴槽に湯を満たすように檻の隙間を詰めてゆく。

 どろどろざらざらと流れる肉の土石流に足をとられ、タキビは転倒する。またたく間にのしかかる重さに呼吸が潰れ、その無様にアイサが舌打ちする。《カッター》を床に突き立て起き上がろうにも、刃先は骨に刺さらない。全身にかかる強烈な肉圧に歯を食いしばった瞬間、それらの全てが消え失せ、視界が晴れる。ジルの攻撃……そう理解した瞬間、再び死骸の津波がやってくる。

 出産と食事。増殖と消滅。怪物2頭のいたちごっこにもみくちゃにされながらも、タキビはひとつの確信を持って動物の海をかきわけていた。ジルとバレエの対峙。その前提となった理屈の1つには不備がある……『シラギクの命令によりヤマネたちがネクロを邪魔している。肉の海に潰されようが、彼女たちがそれを中断するとは思えない』……ゆえの、脅迫であり交渉。だが、この理屈はこう続けるべきだ。

 それ以上に、ネクロが、あの男が、恋人を諦めるはずがない。

 指先に触れる硬い感触。肩が抜けるのも構わずに、タキビは骨の格子に縋りつく。トラの背骨がへし折れ、シロサギの肉が潰れる轟音にかき消され、ジルとバレエの声は聞こえない。だが駆動音がする。鋸歯が回る音がする。圧縮されたネズミの屍肉でまだらに塗り固められた格子の向こうから、黒々と煮える暴力の渦がにじり寄ってくる悪寒がする。誰よりもネクロを嫌っているタキビだからそれを感じとれた。むかっぱらが鳴らすアラートは超常の感知能力や恋人たちの愛よりも鋭敏で、早かった。

 わかっていた、とバレエのように言うつもりはない。それでも当たり前のように滑らかに、この世の真理を語るように、その血濡れに塗れて煮えた手は、屍肉をかき分けタキビの眼前の格子を掴んだ。その指を、そこに込められた力を見ただけで敵意と殺意で魂が燃えた。やるじゃん、と腹の奥でアイサが口笛を吹く。異様な熱を放ち真っ黒に沸騰する拳を睨みながら、タキビはその称賛を否定した。やるのはこれからだ。《ネクロのナイフ》を防ぐのだ。

 ……自分は骨を断てなかった。「島」では何もできなかった。だが防ぐことなら。バレエを守ることなら。タキビは《カッター》を構える。屍肉の向こうに宿敵が見える。駆動音。駆動音。駆動音。暴力が、来る。

『あ、これは無理だ』

 びしり、と。

 アイサの呟きと同時にその音が鳴り、肉壁と格子の区別なく全てに水平の線を引いた。斜めにずれてゆく視界の中で、ジルが放った一撃が骨を残して辺りの屍肉を消し去った。タキビの目の前にネクロが立っていた。すがりつく私兵の残骸を5つ引きずりながら、既にナイフを振り終えていた。タキビの足元に、自分の胴体ごとまっぷたつになった《カッター》が落ちていた。『〈無限のユキミ〉だ』とアイサが言う。『ネクロのやつ、ナイフにあのガキをまぜてる。あれはもう、無理だ』。

 床に体が叩きつけられる衝撃。ただしそれは上半身だけだった。立ったままの自分の下半身の向こうに、長く伸びたネクロのナイフの先端が見えた。それはジルと交戦中のバレエを確かにとらえ、左腕を横から切断し、心臓の肉に食い込んでいた。崩れ始めた骨の檻が、床にぶつかり硬く湿った音をたてる。その向こうでバレエは驚いたように自分をとらえた凶器を見て、ネクロを見て、タキビを見た。そして笑った。わかってる。大丈夫。

「でも、ごめんね、タキビさん」

 待って、とタキビが声を発する前に、回転にする鋸刃に引き込まれ、バレエはネクロに抱き寄せられた。タキビは自分の下半身を引きずり倒し、必死で断面を合わせた。ぐずぐずと樹脂にくを擦り合わせ癒着する。まだ立てない。回復が遅い。だから這いずるように、タキビはバレエとそれを抱きしめるネクロににじり寄る。2人の肉体は溶け、ぐずぐずに混ざり始めている。

「まって、待ってください!」

 ヘドロのように渦巻く黒に、微温ぬるめたミルクが薄灰を混ぜる。どうしようもなく閉じた2つの系。永遠に交わることのない平行線は、互いを愛撫するように螺旋に絡み、舐め、擦り、食っている。まるで動物の交尾だった。けだもののまぐわいだった。そのグロテスクな光景にタキビは目をそらしかけ、堪える。直視する。バレエを。言葉を。話し合いを。

「バレエさん! あなたとはまだ、もっと……」

「うん、ごめん。あなたもネクロのことを愛してるんだよね」

 しかし、その返答に、タキビの時間は止まった。

「だから、私がネクロにこうされるのを止めようとしたんだよね。ごめん、ごめんね。嫉妬してたんだよね。ジルとアイサといっしょで素直になれなくて。どうしても恥ずかしかったんだよね。でも大丈夫。私はわかってる。あなたもこうして一緒になれば、わかるから。もっともっと幸せに……」

 自分は「島」で失敗した。勝てると踏んで臨んだ戦いにも敗北し、捕まった。それでも、目的の相手と会い、話をすることは叶ったのだと思っていた。しかし、それも間違いだった。話なんて一度もできていなかった。会話なんても一度も成立していなかった。煮詰めたスープが濃くなるように、不死性はヒトを自分だけの理で動く閉じた系へと変えてゆく。彼女はとびっきりだった。ネクロと同じく。どこまでも自分だけの理屈で、自分だけの気持ちで、他人の理を推しはからず、踏みにじる怪物。

 〈生命のバレエ〉は、もう、タキビにはどうしようもない。

 完全な敗北を悟り絶望的な気分で見上げる先で、バレエは何か優しい言葉をタキビに向けて喋り続け、零れ落ちる動物の死骸と共にネクロの中に飲まれていった。またね、とジルが呟いたのが聞こえた。永遠に思えたその行為を終えた後、快楽の余韻にネクロは一度身を震わせ、そして目を細めてタキビを見下ろした。かつて、ネクロが自分に向けていた視線と、それは種類が異なっていた。

「お前も俺のことを愛しているとバレエは言っていたな」

 鉄鍋が煮えるような声に、確かな甘さが混じっている。すがりつくヤマネたちをナイフでこそげ落し、蹴り転がす。ぐじゃぐじゃに潰れたヤマネの一部と、刻まれた骨の爪がタキビの目の前まで転がる。彼女はまだ息があり、半分潰れた頭部でなにかをぶつぶつと呟いている。

「タキビ、お前は俺に約束をした。サザンカと会えるまで俺を助けるという話だったな。なのにお前は、アイサを俺に渡さない。お前はそれをこう説明したよな」

 恋人のように熱く甘く囁く大嫌いな男の声。身の毛もよだつ怖気に耐えながら、タキビは鉄と爪を縒り合わせ、ヤマネの骨を引き寄せた。《カッター》を渾身の力を込めて押し当てる。今度こそ、ゆっくりと、刃がその内に食い込んでゆく。タキビの右腕にはまるように骨の籠手が加工されてゆく。

「アイサは力を取り戻していて今の俺では勝てない。だから、自分が説得すると。だが、どうだ? タキビ、お前はアイサの力を借りながらも、負けてここに捕まっていた。こんな雑魚同然のカスどもに」

 ネクロはそう言って、ヤマネの頭部を踏みつぶした。潰れる直前、ヤマネと目が合った。彼女は、許して、助けて、と呟いていた。充分だった。まだ話したりない。それでも、今、タキビが立ち上がるには充分だった。

「アイサは力を取り戻していない。お前は嘘をついていた。俺との約束を反故にした。ありがとう、タキビ。嬉しいぜ」

 敵意と悪意の鉄を芯に、共感性の爪を鎧に、人型の応報を手助けに、タキビは体に力を込める。これは自分勝手な行動だと思っていた。アイサとジルははやしたてても、カットは悲しむ行為だと。この街の誰もがネクロを気にしておらず、このクソ野郎をわからせることなんて誰も望んでいないのだと。だが、ここに1人被害者がいた。真白の骨は、あるはずのなかった承認をタキビに与え、その行為に正当性という燃料を注いだ。酔い過ぎないように少しだけ、それでも起き上がるのには充分なだけ。

 そしてタキビは立ち上がる。それを見たネクロは、真っ黒に塗りつぶされた穴のような目を獰猛に細める。その右手に握られたナイフが悦びに震え、バレエ1人分増えた鋸歯を回す。タキビはそれを、真正面から見返した。

「お前は俺を裏切った。だから俺はお前を」

「……はい、そこまで! 悪いけど一度、口を挟ませて!」

 鎌首をもたげるように振り上げられていたネクロのナイフが空を切り、それを受けるべく《カッター》を構えていたタキビもつんのめって再び転倒しかかった。空間を食らい広げたように、ネクロとのタキビの間に割り込んだのは小柄なピンクフードの少女、ジルだった。恋人の1人に割って入られたことで、ネクロもその昂りを身に潜め、気の抜けたように肩を落とした。

「……ジル、おい。てめぇ、ふざけるのもいい加減に」

「黙って、ネクロ。今回はマジだから」

 マジでおもしろいことになるから。犯罪者屈指の愉快犯はそう言葉を続け、にたりと歯を見せた。全くひるむ様子なく巨体の足元に近寄ると、その悪戯っぽい笑みをより深め、自分の恋人に指をつきつけた。ネクロがひるんだように、顔を下げる。

「ネクロ、質問。白菊邸にバレエちゃんが監禁されていることを誰に教えてもらったの?」

「……あ? 市役所職員だよ。知らねえ奴だ。くせ毛で胡散臭かった」

「なるほど、痛遮局のヨツツジだね。決まりだ」

 問題なのは順番だった、とジルは興奮したように呟いた。

「痛覚遮断契約の基盤は、虐殺を行ったバレエちゃんの魂を使って結ばれてる。前にネクロが迎え入れた時は、バレエちゃんが後だったから契約が反故にならなかった。あの女はネクロの中でそれを成立させていた。だけど今回の順番は逆なわけ。先にバレエちゃんが迎え入れられ、あの女は外に取り残された。打ち込まれた関数と同じで、結ばれた契約は曖昧に薄まり、その効力は、今、切れる」

「ジルさん、一体何の話を」

「決まってるでしょ、タキビちゃん。返って来るんだよ、あなたたちがあの性悪にずっと奪われていたものが」

 ジルがそう言って笑った瞬間、床に転がる私兵たちが喉をすり潰すような絶叫を上げた。それに呼応するように、ネクロが顔をしかめ、膝を着く。かき抱くように傷を抑え、身をよじり、火を起こすふいごのようにとどめなく悲鳴が上がる。やがてそれは屋敷の外からも聞こえてくる。タキビは慌てて窓に取りつき、開く。腰が抜けるほどの爆音が室内に飛び込んでくる。沸騰した湯がヤカンを鳴らすような高温と、野獣が身もだえして地面を転がりまわるような怒号が、数万数億重なりあった悲鳴となって体を打った。

『痛い……痛い……痛い! あの女、やりやがった、てばなしやがった!』

 そして、その悲鳴はタキビの奥からも聞こえていた。ただ、アイサのそれは心なしか嬉しそうだった。それでもその衝撃はあまりにも耐えがたいようで、嗚咽し、胎児のように腹を内側から蹴った。タキビは何がなんだかわからない。この場で異常がないのは、自分とカット、そしてジルだけだった。

「私は不死者じゃないから、そもそも契約対象外。変化はないね。タキビちゃんとカットは生まれつき痛覚神経が備わってないから、返されるものはない」

「ジルさん、これはもしかして」

「うん、私たちは見事にはめられた。シラギクたちがバレエちゃんを捕まえることも、それを狙ってネクロが襲撃をかけることも、全てあいつらが描いた絵図だった。言ったでしょ。連中はもっとまわりくどく、なんかめんどくさいことを企んでるって。御覧の通りだよ、タキビちゃん」

 名前だけは知っていた。噂だけは聞いていた。シラギクと彼女は、かつてバレエを使ってこの街から苦痛を奪い去ったのだと。彼女は苦痛主義ペイニズムと呼ばれる魔術結社の長であり、犯罪者であり、そしてネクロの恋人だった。〈魔女〉、またの名を〈痛みのギギ〉。市長選に立候補したその薔薇と水晶の魔性は、当選するよりも早く「全市民に苦痛を返す」というマニフェストをやり遂げた。


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【エピローグ】

 臓腐市全土に走る数千年、あるいは数万年ぶりの激痛は、赤黒く滲んだ大気を歪曲させ、地響きのように街路を揺らしていた。解除された契約は、永い永い生の中で受けた痛みをひとつひとつ丁寧に巻き戻し、市民の上に刻んでいった。絶え間ない悲鳴に潰れた喉は、皮肉にも不死の力ですぐに回復し、いつまでも新しい声であり続けた。起き上がりも黄泉帰りも化け戻りも、〈魔女〉の一派を除き、ただ喚き散らす肉の塊と化していた。街の機能のほとんどは停止し、そこかしこで火の手が上がる。火災は悶え苦しむ市民たちを容赦なく飲み、新しい痛みを塗り重ねる。情勢は既に選挙どころではない。しかし、〈ルール〉は狂いなく、投票に向けて時刻を進めていた。

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 ……市内某所。〈全てのサザンカ〉は、人間の許容量を遥かに超える激痛に、数百度の気絶と失禁、数十度の発狂と死亡を繰り返していた。市内全域のラジオ・ケーブル・ネットワークに広げていた神経肢、総延長4,000kmに及ぶその全てに痛みの電気信号が走り、脳を焼く。血液の代わりに溶けた鉄が流れ、自分の輪郭が端部からあやふやに溶けてゆく。グンジに声をかけた時点でおおよそ予測できていた結末であり、懐かしき「痛み」に対してもある程度の覚悟をしてはいたが、やはり正気は保てない。それでもサザンカは明滅する意識の隙間で、自身の神経肢に通る信号を感じ取っていた。選挙放送用のラジオ回線。痛みという電気信号を音に変え、声に変え、〈魔女〉が放送を始めるのを、サザンカは確かに聞いていた。

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 ……西妃髄にしひずい区、白菊邸。〈真白の檻のシラギク〉は節々に走る痛みにうめき声を上げながらも、肉体を回復させて起き上がり、状況の理解に務めていた。〈生命のバレエ〉の暴走は止まったが、確保には失敗。〈死なずのネクロ〉の排除も失敗。我が子の1人は〈人型のタキビ〉に取り込まれ、残る5人も痛みで使い物にならない。見事に策略にかかった自分の間抜けぶりに、笑みが漏れる。憎らしいあの〈魔女〉はこの状態を投票期間まで継続することだろう。手勢以外の全員が痛みにもだえる木偶ならば、皆殺しにして投票を集めることも容易いに違いない……。冷静に思考を走らせる内に、シラギクはいつの間にか痛みと苦しみを忘れ去っていた。それは極めて当然だった。亡くした子供の顔も白むこの老いの中、骨を差し置いて苦痛ごときが焼け残るはずがない。

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 ……臓腐区、臓腐市役所市庁舎。〈支配のコマチ〉は痛みを堪えながら、唾を飛ばして部下に指示を出していた。痛遮局を内に抱える市役所は、元々〈魔女〉の気まぐれがもたらすこうしたトラブルを予測しており、配布する改造肉体の痛覚神経をある程度鈍らせていた。だが、たとえ人並みの痛みが蘇ったとしても、市役所職員ならば全員が同じように働いたことだろう。街を守り、市民を守る。燃えるような職業意識がそれを成す。しかし、その目的は痛覚の再遮断ではなかった。痛み苦しみ程度など、今、生じている最悪のリスクと比べれば些細な問題だった。細心の注意をこれまで払ってきたから大丈夫のはず……だが、もし、万が一。〈無限のユキミ〉が傷つき、痛がったなら。苦しんだなら。元市長にして最悪最強のモンスターペアレント……〈死なずのゲレンデ〉の怒りによって、この街は終わる。

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 ……腎痛区、苦痛主義ペイニズム結社ビル。〈痛みのギギ〉はマイクのスイッチを入れた。

「ギギです。あなたたちの肉体と魂に再び帰ったその甘美を想像するだけで、私は嬉しく思い、そしてそれを手放した我が身を少し寂しく感じます。血の荊は再び咲いたでしょうか。また地獄が見れたでしょうか。痛みとは行動の証そのものであり、世界に己を釘づけする魂そのものです。『大丈夫、わかっています』。これは私の大切な友人の口癖でした。私も彼女程ではないけれど、皆さまのことがわかっています。あなたたちは、もっとそれを望むでしょう。投票期間まであと少し。私はあなたたちを鏖殺し、願いを叶え、この街を新しく作ります。忘却も漂白も懊悩もない刺激に満ちた永遠の街で、苦痛に震えるだけの1つの肉の塊になりましょう。……待っていて、愛しのネクロ。今度は私があなたを迎え入れてあげるから」

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 ニトウは、椅子に深く腰かけ〈魔女〉の放送を聞く新入りの姿を観察していた。一見するとガタイがいいが、へらへらと砕けたその表情がどこかひょろ長い印象を与える。昔、結社に属した経験もあるらしいが、醸す空気からはわからない。鼻につき、疑わしい。軽薄な所作の全てに、他人の神経を逆なでするような何かがある。

『ここに来てお前の顔を見て驚いた』

 全く物怖じする様子なく、新入りはしゃがれ声でそう言った。

『痛遮局の職員は〈魔女〉とは契約上の繋がりがあるだけで、結社に属している訳ではない。あのバスでお前は確かにそう言っていた。はは、呆れたよ。大嘘だ。市役所に投書の窓口があるのなら教えてくれないか』

「心にもないことを口にするな」

『その口調! ははは、前の丁寧なですます口調はどうしたんだ、ニトウくん。臓腐市役所痛覚遮断維持保全局契約第4課課長のニトウくん。一緒に名刺を見せてくれた、あのミキサーマスクの部下は元気かな?』

「元気だよ。本当によく喋るなお前。ついでに教えてくれないか? どうして、〈死なずのネクロ〉を裏切った?」

『裏切った? まさか。そんなおそろしいことをするものか』

 新入りは乾いた声でそう笑い、夢見るように天井を見上げた。

『俺は約束を守るし嘘をつかない。投票もちゃんとネクロに入れる。ただ、いつもの通り、ちょっとちょっかいをかける方法を思いついた。それだけだ。恋人だなんて、つまらない立場におさまるものか』

 俺はネクロの親友なんだよ、とプラクタはしゃがれ声でそう言った。


【NECRO5:動物大集合】終わり

【NECRO6:痛みあれかし】に続く