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織田作という奇異なる存在(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。

頂いたお題はこちら:

ものあしさんこんにちは。
考察記事を時折拝見させていただいております。
ところで、文ストの織田作之助が織田作之助ではない説というのはご存知でしょうか?
pixivにあるこの小説(考察文?)です。

この考察文から簡単に言うと
「織田作之助は名前や嗜好こそ織田作之助であるが、容姿や黒の時代の文体から見るにレイモンドチャンドラーや彼の作品のフィリップ・マーロウの要素の方が強い」
といえます。
この考察文と結論を久々に思い出して読んでいたところであるキャラが思い浮かびました。

シグマくんです。

というのも私自身、当初シグマくんは銀河鉄道の夜のカムパネルラだと思っていました。(存在しない行き先の切符やジャケットの裏地の銀河からそう考えました)しかしその後の他の要素等から星の王子さまあるいはその作者サン=テグジュペリだと考えていました。
しかし、ツイッター等で見かける考察では三島由紀夫やカミュ、そのほか私の知識にない文豪が挙げられており、同じ考えの人がいないことに驚いていました。

そこで思い出したのがこの織田作之助≠織田作之助の説です。
文ストの織田作之助は織田作之助とレイモンド・チャンドラーがかけ合わさったような存在である。
それを考えると、他にも複数の文豪の要素を併せ持ったキャラクターが存在するのではと考えました。

さらにいえばシグマくんは「本から生まれた存在」です。つまり「本から生み出せる存在は、複数の文豪を掛け合わせたものも可能である」のではないのでしょうか?

文ストの織田作之助も、本から作られた存在かも知れないですね。
それか本名交換とかしてて流暢な関西弁を喋るレイモンド・チャンドラーが出て来ても面白いですが。


■はじめに

お題を頂きありがとうございました!とても新鮮な内容で思わず息を呑んでしまいました…。そしてpixivの織田作不在論の考察、すごいですね!
元ネタの文豪の文章とカフカ先生の文章を一文ずつ照らし合わせるというのは文字書きさんだからできることであって、私のような小説を書く才能が皆無の人にはそういった共通性などはまったく見分けがつかないのでとても勉強になりました!
最近ではSide-Bにも"大いなる眠り"という表現が出てきましたね。それもご丁寧にも"ビッグスリープ"というルビまで振られて。レイモンドチャンドラー感は増すばかり。

モデルとなった文豪以外にもキャラに投影されている文豪がいる、というのはぼんやりとした印象ですがよく感じています。
織田作以外にも、例えば太宰さんからはカミュ感、中也からはフィリップKディック感を感じます。それ以外にも白紙の文学書の1984感もありますし、気付けていないだけで比較的新しい時代の著名な作家へのオマージュと思われる箇所はたくさんあるのだと思います。
誰の中にどの作家のエッセンスが込められているのか、それを探してみるのもまた楽しいのでしょうね。三重にも四重にも楽しめるような仕掛けが施されていて何度でも美味しいのが文ストの魅力のひとつでもあると思います。

さて、頂いたお題について考えていたら相当妄想が膨らんでしまったので、織田作の考察とシグマの考察の二つに分けて別の記事を立てて回答させて頂こうと思っています。
この記事ではまずは織田作から!後ほどシグマの考察も返信させて頂きます。

■織田作とジイド

織田作不在説はめちゃくちゃ興味深かったです。
織田作ってすごい奇妙な存在だなあと思うのです。
皆さんは「なぜ同じ異能力を持つ人が存在するのか」と気になったことはありませんか?
通常異能力はその人固有のものであり、異能の継承は同姓同名でなければいけないという制約まであることを考えると、まったく同じ異能を持つ人が二人いる、しかも別々の作家で、という状況はすごく不自然な感じがします。
織田作を織田作単品で考察してもあんまり何も出てきそうにないので、同じ異能を持つジイドを介して考察するほうが真相に近づけるのかもしれません。というかこの二人、二人でひとつなのでは…?
その前に、一つ余興を。

■文豪と享年

開けてはいけない禁断の扉、それが文豪と享年の話だと思っています。
なぜかって…?
例えば、福沢諭吉の享年は66歳。福地桜痴の享年も66歳です。
例えば、中島敦の享年は33歳、芥川龍之介の享年は35歳です。

あーーーーっ……

なるほど……

ってなってしまうことがあるじゃないですか。
なので見て見ぬふりするのが一番だとわかっているんですがそれでも誘惑には勝てない、人間とはそういう弱い生き物ですね。

では、織田作の享年はどうでしょう。織田作は33歳で亡くなっています。
中島敦も33歳なのでこの二人は同じですね。
そしてもう一人33歳でお亡くなりになられた方がいます。
文豪ではありません。
イエスキリストです。

え?これってそういう話?
はい、今からそういう話をします。
妄想が炸裂した、象徴的な話しか書いてませんので、そういうのがあまり得意でない方は回れ右をされた方がいいかもしれません。

■贖罪のキリスト

織田作とジイドの繋がりを話すにあたって、私が伝えたいことは基本的にひとつだけ。それは、二人ともイエスキリストを象徴している存在なのではないか、ということです。
「狭き門」「一粒の麦…」の意味を織田作にもたせるために当てられた文豪、それがジイドなのではないか。
この二人は特に史実で繋がりがあったわけではなさそうですし、織田作のみならずジイドも史実らしさの濃度が薄めだと思います。
ジイドの異能名になっている『狭き門』は純愛の話です。
世俗的な満足よりも苦しみを通じて狭き門から神の国へと至ることを望んだ女性と、そんな彼女を愛する主人公との間に生じる心理的な葛藤を細かく描いた作品なのですが、どこまでも清らかで穢れの無い純粋な物語であり、その作中には戦犯扱いされるハードボイルドな文ストジイドの面影はどこにもありません。(ジイドの全ての作品を読んだわけではないので、どこかには文ストジイドらしいキャラがいるのかも)

一方でジイドが書いた自伝とされている『一粒の麦もし死なずば』にジイドは贖罪の意味を込めています。ジイドは同性愛の傾向があったり、悪魔の存在を肯定したり、一般的なキリスト教文化においては異端とされる性向を持っていたので、それらを告白することで贖罪する。それと同時に「自分の人生」を作品として世に残すことで、その作品が一粒の麦としての役割を果たし、本を手にした不特定多数の心の中に実を結ぶことを期待している、そんな作品だと解釈されています。

そして文ストにおいて、織田作というキャラクターにも贖罪というテーマ性が付きまとっていることから、織田作とジイドが果たす役割というのは「贖罪」であり、彼らは「贖罪のキリスト」なのだろうと考えています。

織田作がキリストであると考える理由は別記事に書いていますので、織田作=キリストにピンときていない方はどうぞこちらを。(ネタバレ回避したい方は目次から「■「織田作の死」という中心点」をクリックして飛んでください)

キリストは十字架にかけられ死を遂げることで「贖罪」としての役割を果たしますが、それだけでは終わりません。キリストは「復活」し、「再臨」します。
復活と再臨の役割を担うキャラクターがいるのかどうか、いるとしたら誰なのか、そういうのを妄想するのもとても楽しいですね。

■サクノスケとジイドの特異点の先に

弟子のユダに裏切られて死刑判決を受け、ゴルゴダまで十字架を担いで歩いたイエスキリストのごとく、本国の奸計により裏切り者にされ、かつての同胞から攻撃を受けて荒れ野を流離ったミミック。
彼らがエルサレムたる横浜にたどり着いた先に求めていたのは、天衣無縫の名を冠すサクノスケでした。
天衣無縫とは「天人の着る衣にはほころびがない」ことを表す言葉。その語源は中国唐代の小説『霊怪録』にあり、天界から降りてきた織姫の着ていた衣には縫い目も継ぎ目もなかったことから来ています。つまりこの衣を纏うものは天界から派遣された織姫だと、そういう意味として捉えることもできますね。

そんな二人が出会い、同じ異能力を掛け合わせた先に広がっていた特異点の世界は現実と非現実の境目のような不思議な世界でした。

二人が特異点の世界に到達している間、すべての主導権は異能に明け渡されています。肉体と意識から異能が乖離し独立して勝手に動いている、そういう世界とも言えるかもしれません。
ジイドはその世界を求めていた、この世界に至るためだけに生きてきた、と言っていますが、そこは地上的存在から脱却し、時間を超越した世界の外側にあるような場所であり、贖罪を為して狭き門を通った先にのみ到達できる神の国に近い世界だとも捉えることができます。

■織田作と海

織田作を奇異なる存在へと押しあげているもう一つの理由に、夏目さんとの出会いのシーンがあります。
夏目さんとの出会いのシーンは文ストにしては珍しくとても抽象的だと思いませんか?どこか現実ではない世界のような、絵画の中もしくは夢想の中のワンシーンのような、現実と虚構の狭間のような印象があります。
また、織田作が作中で唯一小説家を目指している人物である点も気になります。そこにさらに「海」というモチーフが絡んできているので、その方面から少し想像を膨らませてみようと思います。

織田作は「海の見える部屋で」小説を書くことを夢見ていますが、海への思い入れは一体なにを表しているのでしょう?
織田作が読んだ夏目先生の3部作がもし『こころ』だったとすれば、小説の冒頭に出てくる湘南の海辺の情景が織田作の中で深く印象に残っているから、というような考え方もできるかもしれません。
しかし残念ながらこの記事を書いている「ものあし」という人間は異様なほどに象徴的な話が好きな人なので、今回も海という存在のもつ象徴的な意味から探ってみようと思います。

海はよく渾沌であり死の領域である、神の反対に位置する領域であると言われます。
深淵でありアビス、世界が生まれる前の原初の空間、神による創造の対極でありいわば「創造された世界の外側」あるいは「世界が生まれる前の世界」という意味を持ち得ます。
そこで思い出して頂きたいのが過去のこちらの考察です。文スト世界の外側には小説家の世界線があるのではないかという考察をお題主様とコラボしながら書かせて頂きました。


「小説家の世界線」が「文スト世界」という創造された世界の外側にあるのだとしたら、その「小説家の世界線」というのは海の中にあるとも言い換えられるのではないでしょうか。だから織田はそこを眺めながら執筆するのだ、とも解釈できます。小説家という夢そのものが海の中に内包されているような感じですかね。
また夏目先生との出会いのシーンが「雨に混じって、海の飛沫の混じった霧が漂っていた」空間であることから、そこが文スト世界と外の世界との境界線のような場所であったということも想像できます。

■本を読むことで点るスイッチ

織田作が狭間の領域に到達したきっかけは「織田作が史実の夏目漱石の本を手にしたこと」と何か関係しているのかもしれません。
先日カフカ先生が本棚劇場の脚本には伏線が…という爆弾発言をしていましたが、その本棚劇場の脚本では、敦くんがかつて図書室で手に取ったという古い本が、その本との運命的な出会いが、敦くんの役割の重要性を決定づけている、というような話がありました。
そして敦くんが手に取った本というのは、ギルド戦で思い出した「光と風と夢」であり、史実の本人の著作です。

一方織田作が手にしたのは、史実の自分の著作ではなく、夏目漱石の著作。自分の著作を手にすることで1というスイッチを押すことができるのだとしたら、自分ではない異能者の著作を手にすることは0.5のように半分のスイッチを押せるのかも。
あるいは、最後の数頁が切り取られ、読了に至らなかったから0.5のスイッチしか押せないのかも。
だから織田作は小説家に憧れるが道具は持っていない、海の飛沫が霧となって吹き付ける狭間の領域までしか進むことができない。
海の領域を天界とするならば、織田作は天界と地上のちょうど中間に位置するような存在なのかもしれません。
「贖罪のキリスト」は天界に最も近い地上的な存在として地上での使命を全うしました。
「再臨のキリスト」は天界から派遣されますが、贖罪のキリストとは違い、天界へのアクセス権を持っているはずなので、0.5ではなくちゃんと1のスイッチを押した人物である、そういう想像もできますね。

と、気付いたらお題の内容からだいぶ遠いところに来てしまいました…
今回も暴走気味な妄想にお付き合い頂きありがとうございました。
肝心のシグマくんの考察はまた次回。


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