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Side-Bでの●●生活について(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。
※「太宰を拾った日」Side-AおよびSide-Bのネタバレがあります。

頂いたお題はこちら:

ものあしさんこんにちは。
以前、コンテナ生活における太宰の排泄事情について考察されていましたが、その事について、もうひとつ非常に気になっていたことがあります。(未読の方へネタバレすみません汗)

劇場特典の『太宰を拾った日side-B』で、織田に拾われた太宰がベッドに横たわって1日ほとんど動かず、「食事と排泄を除けば、ほとんど身じろぎすらしない。」とありました。全身傷だらけで動けない以上、排泄もやはり織田の手を借りながらベッドの上で…だったと思われますか?食事や着替えや包帯の取り替えはおそらくベッドの上で行われたはずですし…。『side-B』での太宰は意図的に喋らず、織田の言動に反応もしていなかったということなので、どうやって排泄の欲求を看護者である織田に伝えていたのかもとても気になっていました。是非ものあしさんのお考えをお聞きしたいです!

『side-B』の、食事や排泄に関するこの文章、あまりにも超人的で人間離れしているbeastの太宰の生々しい生活感のようなものが感じられて物凄く印象に残っています。

『side-A』の方は何か、元気だな、楽しそうだな、と笑

織田は、小説『side-B』で、青年(太宰)との共同生活は「魚を飼う作業」に似ていた、といっていました。そのように「ひどく露悪的な表現をあえて」使う意味とは何なのだと、ものあしさんは思われますか?

文章おかしいところ多くて申し訳ありません。ものあしさんの文スト考察、これからも楽しみにしています!


■はじめに

お題を頂きありがとうございます!排泄事情!あの考察はすこぶる楽しかった記憶があります~。
個人的に珍考察部門でNo.1の称号を与えてあげたいくらいには気に入っています。
未読の方、よろしければ。

さて、今回は太宰を拾った日Side-Bについてですね。飼育…されてましたね。本当だ、よく見ると「排泄」という言葉が…!
ところで皆さん、Side-Bはお好きですか?Twitterではよく辛いだの地獄だのというお声を聞くことが多い一方で、結構好きだというお声もちらほら見受けられるような感じがします。
私個人は、最初読んだとき胸糞悪い気分になりながらも終盤はホロっときたのを覚えています。その後は考察を通じてどんどんBEAST耐性が付いてきたので、今はSide-Bも結構気に入ってます。
太宰さんのやりたいことは徹頭徹尾はっきりしていますのでね、そういう意味ではとても潔くてわかりやすいし、太宰さんの持つもう一つの側面が醸し出す味わい深さがなかなか良いなあと感じています。そしてSide-AとSide-Bを横に並べて比較しながら読む楽しみもこれまた乙なものでございますね。

■排泄事情

では排泄事情について、ひとまずSide-Aの方から復習してみましょう。
Side-Aではトイレは1日2回限定だと明記されていました。1日2回が多いか少ないかは別としてちゃんとトイレに行かせてもらってたのは現実的だし良心的ですよね。
トイレの間だけは手足を縛ってたタオルや紐は取ってもらってたのかな?それともつけっぱなしでぴょんぴょんしながらトイレに…?
せめて手のタオルは取っておいてもらわないとお尻拭けませんけれども…その辺は織田作がトイレットペーパーを差し出して、太宰が後ろに手を縛られたままお尻を拭くなんていう芸当でもしていたのでしょうかね?
Side-Aはお題主様のおっしゃるとおり明るく楽しく健全な妄想が広がりますね。

一方のSide-Bは「食事と排泄を除けば、ほとんど身じろぎすらしない」。この場合の排泄もさすがにトイレで行われていると思いますが、手足を縛られているわけではないので、少しの介助で済ますことができたのではないかなと想像しています。
織田作は太宰の目が語りかけようとすることには注意を払っていたようですし、伝える手段としては太宰が目線を少しトイレの方に向けて動かすなど、人間らしさを伴わない機械的な動作によって為されていたのかもしれないですね。あたかも動物のもつ習性のひとつであるかのように排泄も扱われていたのだと思います。トイレの回数について議論する人間らしいSide-Aの描写とは対照的で、Side-Bでは人間らしさの一切を拒絶していることが伺えます。

■太宰の奥底にあるもの

織田作はとても勘の鋭い人なので、些細な情報から非常に多くのことを感じ取ってますよね。
そして、太宰さんの一番深いところを知っている、それも直感的に理解できるのはやっぱり織田作なので、太宰との初対面で織田作が感じた直感もBEAST太宰さんの本質を突いている言葉なのではないかなと思っています。
織田作が感じた直感は、①こいつは数百人規模で人を殺している ②こいつは俺のことを知っているという2つ。それと合わせて連想から到達した気付きがこちらでした。

ここに心はない。心に似たがらんどうがあるだけだ。

文豪ストレイドッグス 太宰を拾った日 Side-B

織田作がいうなら、本当にこの通りなのだと思います。織田作はおそらくこの部分では間違わない。
BEAST太宰さんの内面には奈落のような深淵さも黒さも、それさえも存在しない。漆黒の闇が広がっていることと、空洞であることは違うと思います。漆黒の闇は少なくとも闇で埋め尽くされているのでそこには実在があり、黒い色をした心という実体がある。しかしBEAST太宰さんにはそれさえもないというのなら、本当にBEAST太宰さんはまるでからくり人形のように中身が空っぽなのか、あるいは意図してそうしているのか、ということになるのではないでしょうか。
しかしBEASTのルパンのシーンを読んだことがある人ならだれでも、太宰さんの心が本当に空っぽであるなんて、そんなことがあるはずがないことを知っていますよね。

Side-Aで印象に残っている描写のひとつに、共同生活の中で見られた太宰さんの迫真の演技というのがあります。文句つけたりあれこれ要求したり…っていうあのくだりですね。
これと対をなすSide-Bの太宰さんもやはり迫真の演技をしているのではないでしょうか。
Side-Bでは演じている対象がより太宰さんの本質に近いので、演技らしさがあまり感じられないというのはあると思いますが、「目的意識のもとに意図的にやっている」という点はAもBも共通しているのだと思います。

その目的意識とは、織田がマフィアを嫌うよう仕向けることであり、自分に対して一切の感情を抱かせない、別れの際に織田作が少しも戸惑いや痛みを感じることのないようにする、そのために太宰さんはSide-Bで徹底的に心を押し殺していたのだと思います。
その演技が勘の鋭い織田作にまったく気取られることがないほどに完璧なものだったのは、それだけ太宰の中に強い覚悟があったからだとも言えます。その演技が成功した証が、織田作の放った露悪的な表現だったのではないでしょうか。
それでも「こいつは俺のことを知っている」という部分だけは隠しきれずに織田作に気づかれてしまったのは、織田作の勘の鋭さが太宰の完璧な采配をもわずかに上回っていることを物語っているように感じます。

■「織田作の死」という中心点

文スト世界という銀河の中心には「織田作の死」という一点があるんじゃないかと思うことが私はよくあります。織田作の死を基軸にして救済の連鎖は回っているような、そんな感触です。
なぜなら、織田作の死なくば太宰は人を救わず、太宰が人を救わなければ敦も鏡花も、今の芥川も存在せず、文ストの本編の話は回っていかないから。
そして実際に太宰さんは鏡花を救ったり探偵社を救ったりするその度に、ルパンのマッチ箱を介して織田との記憶という一点へと回帰している。
そういう意味においては、織田作はキリストのような存在だなあと思います。

織田作とジイドの対決の際に残された非常に印象的な聖書の一節「一粒の麦、もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし」。
この一節は、イエスキリストが死をもって人類の贖罪を為したこと、我々はキリストの流した血によって救われていることを表現しているとも言われており、織田作の死によって多くの登場人物が救済されていくという救済の起点となっているあたりからキリストらしさが漂ってくるように感じています。
だとすれば、BEASTとはキリストが人類のために贖罪をしなかった世界であり、当然ながらどこにも救いはない、神の国が到来することもない、そういう世界線だと受け止めることもできるかもしれないなあと思っています。
人は自分を救済するために生きていると織田作は残しましたが、傷や痛みを強さに変えていくことが登場人物に与えられた救済の道なのだとすれば、織田作がこの言葉を残せなかった世界は傷や痛みを弱さのまま引きずってしまう世界線とも言えるかもしれません。

BEASTの考察は今まで何度もしてきているにも関わらず、考察するたびに新たな発見があるので、なかなか奥深いんですよね。考察する度に好きになっていく話、それがBEASTだなと感じています。

お題を頂きありがとうございました!


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