時間を超越する『本』について(お題箱から)
※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。
頂いたお題はこちら:
ものあしさん、こんにちは。いつも楽しく考察を読ませて頂いています!さて、今回私が個人的にこうだと面白いな、と思ったことについて書かせていただきます。
私が考えたのは、『文ストの本編の世界が本の中の世界であり、本当は私達が生きている世界が本の外の世界なのでは無いか』、ということです。もちろんしっかりとした確証は無く私の妄想でありますが、見ていただけると幸いです。
私が最初にこの考えが思いついたのはBEASTを読んだことがきっかけで、BEASTの太宰さんが終盤の方で、「彼が生きている唯一の世界」というようなことを言っていた記憶があります。ということは他の本の中の世界の状況も読み取ることができると考えられ、また、勿論太宰さんの素晴らしい頭脳から先読みできたとも考えられるのですが、私はBEASTを読んでいて芥川と敦くんに、まだBEAST世界では起きていない船上の戦いについて触れているところから『BEASTと本編では時間がずれているのか』とずっと疑問でした。もしも時間がずれているのであれば、他の世界よりも時間が遅ければ似ている世界があったときに未来を読むことも可能、つまり本編が本の中なのであれば、太宰さんが未来を読むことが可能な理由とも言えるのではないでしょうか。このようなことから、私は文スト本編は本の中の世界なのではないか、と考えました。
ちなみに本の外は現実世界、というのは一番わかりやすいかな、と考えただけのものなのであまり気にしなくて良いものです。私は文章を書くのが下手なので長ったらしくぐちゃぐちゃな文ですが、この考えについてなにか意見等あればぜひ聞いてみたいです!
お題を頂き、ありがとうございます!文スト本編が本の中の世界なのではないか説はやっぱり根強いですね!
お題主様の考察を読んで以前書いた記事のことなど思い出しておりました。本編世界は小説の中の世界で、外側には小説家の世界線があるのではないか、というようなことを書いてますので、よろしければこちらもご覧ください。
それから、BEAST太宰が未来を見ている理由については考察初心者だった頃に未熟で荒い考察を書いたことがあります。
ということで、今回はちょっと違った観点からもう少し踏み込んだところまで考察をしてみようと思います!
■可能世界は"本に折り畳まれて内在している"
BEASTが存在する「可能世界」と本来の世界である「本編世界」がどういう関係性になっているのか改めて振り返ってみましょう。
図にするとこんなイメージになるでしょうか。
可能世界同士はマルチバースのように並列になっているけど、本編世界と可能世界は並列の関係性ではなく入れ子構造になっている、というところが特徴的かなと思います。
見方を変えれば、『本』という物体を手に持っているとき、その人は無限の可能性で存在する人間たちを手のひらの中に乗せているような状態になる。『本』というのは一個の物体でありながら、内側に無限の広がりをもつ装置である、ということですよね。
BEAST太宰がいるのは、『本』の中の世界。『本』の外に出るためには本来、本編世界において誰かが白紙の本にBEASTの物語を書き込まなくちゃならないはずです。
だけど太宰は異能無効化の持主なので、特異点が発生して「世界の分断を強制接続させた」。
ここで気になるのは「分断を接続」という書かれ方。世界を俯瞰したのではなく、バイパスのようなもので強制接続して記憶をハッキングした、という受け止め方ができるような気がします。
現実世界だけではなく、すべての可能世界の無限個の太宰の記憶を瞬時に読み取ったことで、無限個の太宰がひとりの中に格納される、そんな経験をしたのかなという感じがしますよね。
太宰は「ここは彼が生きて、小説を書いている唯一の世界だ」と言っていることから、すべての可能世界を探索してなお織田が生きている世界はここ以外になかったことを知っているようなそぶりでした。
そこで気になるのは、お題のテーマになっていた『本』の中にいる太宰がなぜ未来を読むことができたのか、という点になってくるんですよね。
「書籍」というものの存在を考えたとき、書籍には時間を超える機能が備わっているのではないか、というのがひとつの切り口になる気がしています。
例えば、図書館に所蔵されているある本を想定してみましょう。
その本は、数十年前からその図書館で色んな人の手に渡り、おそらく数十年後にも同じようにその本棚に鎮座し、数十年後を生きる人々の手に同様に渡っていく。
本はずっと変わらず同じ場所にいる、だけれども外を流れる時間というのはダイナミックに進んでいきます。
本の中の時間というのは、ほぼ静止している。ずっと同じ時間の中に閉じ込められている。なので、本の中の時間と、外を流れる時間というのは、最初から切り離されているものなのかもしれません。
あるいは本というのは、本棚に置かれているその地点から時間を超えて、過去へ、あるいは未来へ繋がっているひとつの特異な空間であり、特異点のようなものであるともいえます。
だから、『本』の中にいる太宰は、『本』の中にいながらにして未来の現実世界を知ることができる。それは本という存在が持つ、時間を超越するという根本的な特殊機能によるものだったとも考えられるのではないかなと思っています。
■不自然に偏重する確率
『本』の中には無限分岐するすべての可能性が内在している。だとすれば、そこは無限の可能性が自動演算されているような世界だともいえます。未来を自動演算するといえば、織田作とジイドの特異点を彷彿とさせる。
キリスト教的な捉え方では、神というのは、過去の、そして未来のあらゆる可能性を知っている無限の全知全能の存在である。時間を超越している存在でもある。織田作とジイドのふたりの特異点はそんな神の世界に近づいたような特異点でした。そして、白紙の本の内側にも同じことがいえます。
しかし気になることがひとつ。
可能世界には無限のあらゆる可能性が存在するといいながら、織田作が生きている世界がたったひとつしかないのは一体なぜなのでしょう。
「ここは彼が生きて、小説を書いている唯一の世界だ」という太宰の台詞から、織田が生きて小説を書くということは、それだけ実現可能性の低い、なにかの法則を強制的に破らなければ決して到達できないような世界だということになります。無限の可能性が等しく分布しているはずの可能性世界なのに、です。
なぜ、織田作の生死に関する確率だけこれほど歪んでいるのか。
考えあぐねた結果、思い至ったのはこれでした。
「白紙の本にはあらかじめ、織田作の死が書き込まれていた」
織田作の死は、神のようなごとき存在の手によって白紙の文学書に最初から書き込まれていたという可能性です。
それは、神が自身の子であるキリストを地上に送り込むことを約束していたかのような、神の御手によって定められた世界の掟であった。
そんなような妄想をしてみるのも面白いのかもしれないなと思います。
いずれにしても、本編世界<可能世界という入れ子構造が、我々の現実世界<本編世界<可能世界というさらなる入れ子構造に繋がっている説は、考察の中でも特にそそられるテーマのひとつですね。少なくとも、現実世界のメタファーではあるのだろうなと感じます。
おもしろいお題を頂きありがとうございました!
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