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父の入院(3)


1月。
 父は、お正月の半日、一時帰宅することができた。子ども・孫に囲 まれ、上機嫌だった。将棋も指した。最初の一手で「う〜ん、困った」 と言い、みんな大笑いした。将棋を覚えているか疑問だったが、意外 に覚えていた。しかし、時にあり得ない手を使い、「それはないじゃろ う」と駒を戻されたりもした。初めて孫に負けた。だが満足そうな表 情をしていた。そしてうつらうつらして、将棋を指したことも、孫に 負けたことも忘れてしまった。
  
 病院には3ヶ月しか入院できない。もっとリハビリを受けさせてや りたいが、それが国の定めたルールだ。「家庭での介護は無理」という のが関係者の一致した意見である。しかし、受け入れてくれる介護施 設がない。父は将棋を指せるぐらいしっかりしているが、夜中に起き て、わけもわからずあちこち動き回る。実は、そういう認知症の症状 というのは、施設は一番嫌うのだそうだ。手がかかるからだ。むしろ、 動けないほうがいい。父ももっと動けなければ受け入れてもらいやす いらしい。あんなにがんばってリハビリをしているのに。
 それからこれもルールで、数年前からベッドに拘束できなくなった。 拘束するのは非人間的、それはそうだ。でも、拘束しないと、自分で ベッドから起き出て徘徊し、こけて骨を折る。(実際、父は入院中に転 倒し、肋骨にヒビが入った。)そして、老人が骨を折ると寝たきりにな ることが多く、認知症も急速に進む。どちらが本人のためか、なかな か難しい問題だ。施設でも新しい法律に困っているという。これまで 関心もなかったことが、急に身近で切実な問題となる。

 気がつくと、父のことを考えている自分がいる。今、病院でどうし ているのか。何を考えているのか。そして、切なくなる。自分が、こ んなにも親のことを考えるようになるとは思ってもみなかった。父が、 その時間をくれた。
 ふと、未来について考える。僕には、現在、過去、そして未来があ る。もちろん、父も「晩ご飯は何かな?」とか「家に帰れるかな?」 と考えることはできる。しかし、それはあくまでも「今」のことだ。 父はその今の記憶をなくしてしまう。すると、それを未来のことだと 言えるだろうか。
 未来というものは、現在を起点にして存在する。しかし、父からは その現在の記憶が失われていく。父はもしかすると、一歩踏み出すご とに足もとが崩れていく、そんな中を必死で歩いているような思いで いるのかもしれない。父には現在の断片的な連続はあるが、僕たちの ような「未来」はない。自分がどう考えて、そしてそれが実際にはど うなっていくのか。自分の仮説は、正しかったのかどうか。それがない世界。そう考えると、未来というものが誰もに与えられた当たり前 のものではないと思えてくる。
  
 未来があるということは、何か特別な幸運である気がしてくる。もし未来がもう決まり切ってどうにもならないことならばともかく、自分の力で変えていける可能性があるものならば、なおさらだ。

 それもまた、父が僕に教えてくれたことかもしれない。

(おわり)  

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