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父の入院(1)

 体育祭を翌日に控えた9月13日の夜、1本の電話が鳴り響いた。「お父さんが倒れた!すぐ来て!」せっぱ詰まった母の声だった。
 ポケットに財布とケータイを突っ込み、200mほど離れた実家へ全速力で走る。薄明かりの中、ガレージの前で横たわる父と、その頭を抱きかかえる母の姿。「救急車呼ぶよ!」。落ち着かなければ。懸命に頭を働かせる。母に病院に持って行く物や戸締まりを指示する。意識はかろうじてある。なぜ倒れたのか見当がつかない。やはり焦っていたのだろう、119で僕の自宅の住所を言ってしまったようで、救急車が近くにいるのになかなか来ない。焦る。救急車に乗り込む。救急隊員の呼びかけにかすかに答えている。意識があることに望みを託す。声をかける。「父ちゃん!今が死ぬ時じゃないよ!死ぬ時じゃないよ!」

 病院の廊下で強く手を組み、ただただ待つ。やがて医師の説明がある。「後頭部を強く打たれていて、脳が前へ押し出され、前部がかなりつぶれて大量に出血しています。意識があるのが不思議なくらいです」。
 CT画像には大きな血だまりが写っていた。「ただ、幸いなことに、脳幹や脳の上部など生命維持や運動に使われる部分の損傷はありません。ただちに命に関わることはないでしょう」。
 その日から、長い闘いの日々が始まった。
 病状の進行を抑えるため、氷で体を冷やし低体温の状態にする。脳内の圧力を下げるための薬を点滴する。睡眠薬で深い眠りに維持する。
 医師の見立てでは、「非常に重篤な状態で、植物人間になってもおかしくなかった。時間がたっても以前のように戻ることは無理だろう。介護なしで生活はできないでしょう」

 目を覚ました父は、なんだかどこを見ているのかわからない。何かボソボソと言っているが、意味不明だ。そしてすぐに寝てしまう。すっかり精気をなくし、やせ細って、僕の知っている父とは全く違ってしまった。暗い気持ちになる。
 それでも、少しずつは記憶が戻ってくる。自分の名前や住所はわかる。子どもと孫の区別はつかない。声もなんとか聞き取れる程度にはなってきた。看護士さんが「おはようございます」と声をかけてくれる。「&%#$△…」「えっ?何?」やっと聞き取る。「…グッモーニング」。…英語かい。小さい頃は、父が英語をしゃべるのが誇らしかったが、中学に行ってそれがむちゃくちゃだとわかってしまった。立ち上がる練習をする。療法士さんも声をかけてくれる。「岡崎さん、私のこと、わかりますか?」「…ジャパニーズ」。笑いが起こる。そういうところは変わってないか。
 ドラッグストアで買い物をしていると、母が薬剤師の人と長々と話し込んでいる。「何を話しよったん?」「『お父さんを最近見かけませんね』というから入院したことを言ったら、『あんなおもしろい人はおらん。いつも話すのを楽しみにしとったのに』と、すごい心配してくれた」。そういうことが続く。行きつけだった整骨院でも、近所の家庭菜園のそばの家の人も、心から心配してくれているという。
 すぐ近くで暮らしていた。ほんの200m。1分の距離。でも、忙しさにかまけてご飯を一緒に食べることもあまりなかった。知らない間に雑草を抜いてくれたことの礼も言えてなかった。ただ親であることに甘え、感謝の言葉も伝えていなかった。
 父のことは知っているつもりだった。でも、こうしてあちらこちらから、初めて会う人から、「お父さんはどう?」「絶対に生きてもらわんといけん人じゃ」「できることは何でもするから、何でもさせてください」と、真剣な顔で言われる。「父ちゃん」。僕は深く眠っている父の寝顔にそっとつぶやく。「父ちゃんはどんな人なん?」。僕は父のことを、実はほとんど知らなかったんだ。


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