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哲学のトレーニング方法~1時間でライプニッツ『24の命題』を読む~

 これからお話しする「哲学のトレーニング方法」は、ライプニッツの『24の命題』を哲学書を読んだことがない人が1時間で読めるようにする方法のことです。しかし、西洋形而上学最高峰がいきなり読めるようになったりするんでしょうか? 哲学の意義を知るためにもまずはサクっと読めるようにしたいですよね。その方法の要点を簡単に纏めると以下になります。

1)テクストの言葉の意味ではなくて、論理的な構成に着目して整理する。
2)疑問を持ち、自問自答する。文脈を推理する。
3)疑問や推理に対してテクストから答えを読み取る。
4)1)~3)のトライ&エラーを繰り返す。

早速やっていきましょう。「第一命題」は以下のように短い文章で表現されています。いきなり、意味不明な文章でびっくりされるかもしれませんが、まずは難しいと先入観を持たずに「ふ~ん、哲学の文章ってこんな感じなのか」と思って眺めてみてください。

一 なぜ無ではなく、なにかが実在するのか、という根拠が自然のなかにある。これは、根拠なしにはなにものも生じない(Nihil fit sine ratione )という大原理の帰結である。同様にまた、なぜなにか他のものではなく、むしろこのものが実在するかという根拠がなければならない。


残念ながら(苦笑)、冒頭から意味不明ですよね。「実在とは?」「根拠とは?」「自然のなかにあるとは?」と「?」が3つくらい連発します。もうこれだけで挫折確定というところでしょう。しかし、もしも、この同じ文章が以下のように書かれていたらどうしょう?

「なぜ、無ではなく、在るのか? また、どうして私は二人とは存在せず、ただ唯一の存在なのか。こんな疑問を誰でも一生に一度は持ったことはないだろうか? この疑問に答えはあるのだろうか? 何かが存在しているということに根拠はあるのだろうか? もし、そんな根拠があるとすれば、それは「神が世界を創造した」といった説明だけでは到底納得できないだろう。根拠を存在の外部に求めれば、必ず「では、神はどうやって存在したのか?」といった疑問が重ねて生まれるだろうから。この疑問には終わりがない。神が存在するにせよしないにせよ、世界を創造したにせよしないにせよ、それ以上は遡れないような原因こそが根拠でなければならないはずだ。そういう根拠をどうやって見出すことができるだろうか。それは、自然の外部に求めるのではなく、自然のうちへと求め、自ずとそれが究極根拠だと理解できるようなものでなければならないはずだ。」

どうでしょうか? 最初の文章に比べれば、かなりわかりやすいのではないでしょうか。私がかみ砕いた文章は、必ずしもライプニッツの「第一命題」を正確に表現したものではないですが、哲学書はこういう風に自分でかみ砕き、またテキストに戻って自分自身の理解を問いただしてテキストの意味がちゃんと自分の言葉で説明できるか、検証しながら読み進める必要があります。それが、哲学書を読むということです。哲学書を読むということは書いてあることをなぞることではなくて、自分自身の理解とテキストをすり合わせることなんですね。ですから、いきなり最初から厳密に正確に理解しようとする必要はありません。心配ご無用です。専門家だって解釈は一致してないことがほとんどで一つも文句が出ないような「正解」は出せていません。言い換えれば、沈黙の著者と対話することが哲学書を読むということです。

こういう風にすべて自力でいきなりかみ砕けるようにはならないですが、それなりに哲学書が読めるとうになるという経験は1時間もあれば、体験することができます。では、そのトレーニング方法を解説していきます。

第一のキーワードはテキストの論理構成です。たとえば、先の「第一命題」の冒頭の一文でまず理解すべきことは、「実在」や「根拠」や「自然」の具体的な意味ではなくて、文章で表現されている論理的構成です。整理してみましょう。ここではまず、「実在の根拠」なるものが、「自然のなかに」あると表現されています。ここから、最低2つの主張を読み取ることができます。まず、「実在」なるものには根拠があるということ、もう一つはその根拠が自然の外ではなくて、「内」にあるということです。ここで読み取るべきことはこれで十分であり、逆を言えばこれ以上をここで読み込まないようにしましょう。

論理を手がかりにテクストの構造を整理したら、次に必要なのは疑問を持つことです。たとえば、「実在の根拠ってあるけど、何かが実在するのに根拠って必要?、あるからある、じゃダメなの?」「自然のなかに実在の根拠があるっていうことは、根拠は自然のなかに見出すことができるようなものだっていうことかな?」という感じです。こうやって、自問自答して読み進めることがとても重要です。というのは、「根拠とは何か」「自然のうちに実在の根拠があるとはどういうことか」といった疑問が生まれ、それを説明していると思しき文章が続くパターンが多いからです。たとえば、「第一命題」では「根拠なしにはなにものも生じない(Nihil fit sine ratione )という大原理の帰結」という文章が続いていますが、明らかに根拠や実在について説明されています。つまり、「根拠なしには何ものも生じない」という大原理の帰結として、「実在の根拠が自然のうちにある」と主張しているのがこのテクストであることがわかります。この「大原理」が正しいかどうかはともかくとしても、ともかくライプニッツは「何かが実在しているのだとすれば、その根拠は必ず自然のなかに見出すことができるはずだ。自然の摂理ののなかに、「なぜ在るのか」という根拠があるはずだ。」と主張しているわけです。私たちは存在について普段根拠を問題にしたりしませんが、「なぜ、無ではなくて在るのか」という誰もが一生は一度に抱きそうな疑問について、ライプニッツは「それは自然を注意深く探求すれば自ずから理解できる」と言わんとしているかのようです。尚、この理解はあくまでざっくりとしたもので、間違っていて問題ありません。しかし、こうやって自問自答すると、どうでしょう? あれほどとっつきにくく思われたテクストが親しみやすくなってきた気がしませんか? 第一命題をもう一度読み返してみてください。

そうしてあたかも探偵のようにテクストの論理を手がかりにそこで何が問題になっているのかを自ら考え、コミットしていきます。そしてまたテクストに戻り、ざっくりした理解をブラッシュアップしていきます。こうして、文章を手がかりにまるでパズルをはめていくようにライプニッツが表現している思想に徐々に触れていく、これが哲学書を読むということです。センスやコツは必要ですが、この方法で読んでいくと、全く意味不明だった命題が、面白いほど読めてきます。そうすれば、哲学の問題が如何に抽象的でナンセンスと思われても、人間に全く何のアプローチの余地もないのでは決してなく、むしろ、知性がその神秘に触れることが許されていることを実際に体験できるはずです。

 しかし、実際には以上のような論理を手がかりとする原則だけで哲学書が独学で読めるようになるのはハードルが高いということも事実です。というのは、哲学書を読むためには、哲学書に書かれている文章を手がかりとして、自ら問題を発見し、コミットしていく姿勢が求められるからです。ただ丁寧に文章をなぞったり、一言一句を正確に把握しようとしう姿勢以上に、知性だけではなくて、感性や想像力も総動員して、問題を発見し、自ら考える姿勢が求められます。したがって、哲学書を読むためには、マニュアル化されたメソッドではなく、論理的な思考と一種のセンスが問われることになります。そこで、このトレーニング方法を実地に理解して頂くために、読書会を随時開催していますので、ご興味がある方は是非、ご参加ください。最後までお読みいただき、この記事をご購入いただければ、私から皆様に直接ご連絡致します。実際に『24の命題』を紐解きながら、哲学書を読む方法を理解して頂き、そしてそれが同時に哲学的な体験となっていることを確かめていきます。

また、哲学書を継続的に読んでいくためには、たとえば、ネオ高等遊民氏が主催している読書会サークルなどはお勧めです。初学者から専門家までが在籍しており、仲間や相談相手を見つけることもできるでしょう。


哲学が難解なのは、哲学が主題としているものが、善や存在、正義といった万人の理解が決して一致し得ないような抽象的な対象だからです。たとえば、「善とは正義が実現されることである」などと説明しても、主語はもちろんそれを説明する述語もよくわりません。「行いや性質などが好ましいこと」といった辞書的な説明も同語反復になっています。つまり、わからないものが主語で、それを説明する述語もわからないから、わかりようがないので、哲学は難解で手が付けられないのでしょう。最初から意味を理解しようとせず、論理を手がかりに文脈を整理し、感性や想像力を働かせて疑問を持つというアプローチが重要である所以です。「ビールとは何か」という問題であれば、万人の理解がバラバラだったとしても、具体的に指示対象を限定することで一致した理解が得られるはずですが、哲学の場合は、問題にしたいことが結局は「わからないこと」ですし、各人の理解も確かめようがないことなので、「考える」ということ自体を諦めたくなるのもやむなしです。「結局、わからないから人それぞれだよね、考えても無駄だよね」と対話や思考の可能性を最初から諦めるのではなくて、そこに何らかのアプローチを見出し、人間が自ら意思決定できるようにすることが哲学の一つのミッションです。

また、哲学は簡単なところから徐々にトレーニングを積んで始めるべきではなくて、いきなり最高峰の思想から読むべきだと私は考えています(※ただし、これが実際に可能であるためには、良き導き手、ガイドが必要です)。なぜなら、哲学は他の学科と違っていて、メソッドがありません。基礎から徐々に理解を積み上げて、何かがわかるようになる、できるようになる、という性質の学問ではなくて、「わからない!」ということを体験して、そこから道を自ら見出すのが哲学です。初めから道があって、その上を着実に歩く、という風に哲学はなっていません。そうなってはならないのが哲学です。人生もカオスだからこそ、歩むべき道が何であれ求められると思いますが、「考える」という自由を味わうためにはまず、約束された道は何一つないと思い知らせてくれるような根本的な体験が出発点になければいけません。これこそが哲学的な経験と言えるような体験が出発点になければ、そもそも始まりようがないのが哲学です。そもそも、万事が人間の思う通りに運ぶなら、哲学は必要ありません。人間の努力をあざ笑うかのように自然は無慈悲で奥深く、理解し難いからこそ、自ら考える知の営みが意味を持ちます。およそ答えが出るとは思えないような問題、そんなことが問題だったのかと思うような驚きに対して、自らかたちを与えるのが哲学です。したがって、哲学がどういうものかをまず知るためには、哲学の問題とはどのようなものなのか、その問題に対して天才がどういうアプローチを行ったのかをまず経験してみることが重要です。冒頭で私が「1時間で読めるようにする」と言ったのはこのことです。このような稀有な喜びを皆様と分かち合えたら、これに勝る喜びはありません。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。著者とライプニッツの『24の命題』を実際に一緒に読んでみたい方は、是非、本記事のご購入をよろしくお願いいたします。実際に1時間ほど説明しながら一緒にZoomで読みましょう。テクストはこちらで用意しますのでご安心ください。

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