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コロナ禍になって駆け込み寺に駆け込めなくなった

美術館に行くのが好きだ。

ひとりでぷらっと出かけて、なんとなく作品と向き合って、またぷらっと帰ってくる。

そこで体感するゆったりとした時間の流れや、はたまた高揚感なんかは、私の身体の隅々にじんわりとチャージされて、持ち帰ったそれは日常の中で少しずつ消費されていく。

だから美術館に行くことは私にとって日常を生きるための睡眠や食事と同列のものと言っても過言ではなく、息ができなくなりそうなときに助けを求める駆け込み寺のようなものでもあるのだ。

その駆け込み寺に、おいそれと駆け込めなくなった。

昨年から引き続き日常を蝕み続けるコロナ禍のせいで、不要不急の外出は制限を余儀なくされている。
美術館自体は(大半は予約制で駆け込むというには多少の不便さはあるものの)開館しているため、行こうと思えば行くことはできる。
しかしうちにはワクチン接種対象外のこどもがいる。感染は拡大の一途をたどり、こどもらが通う保育園もその影響を受け、臨時休園の措置がとられたりもしている。私個人の行動で彼らにリスクを背負わせることはできない。

コロナ禍を通して、アートへのアクセシビリティの悪さに対するもどかしさが私を苦しめている。
貯金をはたいて美術品を1点、何か買ってしまおうかとも考えた。
しかし美術館へ向かう足取り、天候、温度、湿度、多幸感にあふれた帰りの電車、その一連の行動は何物にも代えがたいものがあるのだ。
場の持つ空気が、こんなにも「状態」に影響する。

本当は、「美術館に行けなくてもステイホームでこんなに楽しめているよ」「代わりにこんなことをしているよ」「駆け込み寺はここにもあるよ」といったことを見つけて発信したかった。
しかし、この投稿の着地点は只々「苦しい、苦しい、苦しい」だ。

2021年8月31日。
今年もクソみたいな夏が終わった。

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