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俺的シャニマスシナリオランキング~イベント編~

あんまり更新しないのも寂しいので。書くのが結構不定期&長期だったので全体でテンションに差があります。

まずは10位から。カウントダウン方式で行きます。

第10位:『流れ星が消えるまでのジャーニー』

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流れ星が消えるまで一緒に、少しだけ旅をしよう
出会った日のこと覚えているよ 
たくさんの時間を過ごしたね

キミたちが忘れたとしても
覚えているから

大丈夫だよ、安心して

流れ星が消えるまで
一緒に、少しだけ旅をしよう
『流れ星が消えるまでのジャーニー』あらすじ


第10位は2020年10月開催の『流れ星が消えるまでのジャーニー』。
10位にこのシナリオ、というのは少し以外に感じる人も多いかもしれない。アルストロメリアのシナリオでは、衝撃的な展開で話題を呼んだ『薄桃色にこんがらがって』等がやはり注目されやすく、起伏に富んだ目立つ展開の無いこのシナリオは埋もれがちとも言われる。しかし、私はこのシナリオはシャニマスの隠れた名作であり、「双子の姉妹」という少し特殊な関係性への洞察を促すものだと考えている。

「双子の姉妹」とは、他の人間関係には無い非凡な接近性がある。瓜二つの外見に、重なり合う感性、生育環境の影響も借りることで、まるで二人で一人のような、不可分で二人だけの世界が作られる。しかし、歳を重ね心が発達していくにつれて、二人で一人だった関係にも変化が訪れ始める。心も、体も。
このシナリオが描こうとするのは、過去から現在にかけての大崎姉妹の変化だ。二人がどのように生きてきて、何を思い、今に至るのか。二人にとって、互いはどんな存在で、それはどう変わってきたのか。「変化」を大きなテーマとしてユニットの中心に据えてきたアルストロメリアの、最も大きな変化の核心がこのシナリオにはある。双子の姉妹という極めて密接な関係性で育った二人の少女が、混ざり合い、そして分離していく、その心の揺れ動きを丁寧な筆致で静かに静かに描き出していく。
「流れ星」とは何を表しているのか?なぜ「消える」のか?そんなことにまで思いを馳せて読むとより楽しめるだろう。

服が2着、同じもの
靴が2足、同じもの
イチゴ、ピーチ、砂糖菓子
ケーキの上に、同じだけ
服が2着、違うもの
靴が2足、違うもの
違う遊び、違う願い
イチゴとピーチはそれぞれで
砂糖菓子は、はんぶんこ
『流れ星が消えるまでのジャーニー』エンディング「シャンテ、これからも」



第9位『OO-ct. ノー・カラット』

それぞれの時間に向かって、ふたりの時間に向かって 遠い未来と、過去を照らして
そのピアノはぎこちなく音をたてた
まるで、初めての楽譜に向かい合うときのように

結成から時を経て、実力派として頭角を現したシーズ
しかしデュオにはいまだ仕事をこえる紐帯がない

それでもリズムは生まれ、旋律はめぐる

それぞれの時間に向かって、ふたりの時間に向かって
遠い未来と、過去を照らして
『OO-ct. ノー・カラット』あらすじ


第9位は2021年4月開催の『OO-ct. ノー・カラット』。
9位は低すぎると思う人が多いだろうか。シーズ初のシナリオイベントということで実装前から期待はされていたが、いざ実装時されるとそれは大変な反響だったことも記憶に新しい。重苦しい物語展開、長大な文量、衝撃的な結末、そのトリプルパンチは数多のユーザーに多大なダメージを与え、脳裏に爪痕を刻み込むこととなった。

とはいえ、それほどのパワーを持つシナリオということはクオリティは当然素晴らしい。シーズというユニットの持つ大きなテーマ「アイドルであるとはどういうことか」が深層まで掘り進められ、それは最新のシナリオ『モノラル・ダイアローグス』に至るまで脈々と続いていく。にちかWINGシナリオがそうであるように、シーズという存在自体にそれまでのシャイニーカラーズ、ひいてはアイドルマスターへのアンチテーゼの提示という役割が明確にある。「アイドル」に対する究極的な「凡人」としての在り方を焼き付け、それまで積み上げてきた物語の見え方をがらりと変革させてしまうシーズというユニットは、鮮烈な毒を持っている。

誰よりも強い「アイドル」への想いを持ったにちかと美琴、通じ合えるはずなのに決して交わらない心。「凡人」「アイドル」「努力」「才能」「過去」「未来」、そして「幸福」。茨の道を裸足で進み、血を流し続けるようなにちかの姿は、私たちに生きるということについての思索を余儀なくさせるだろう。

奈落
ステージの下 客席のざわめきをいちばん感じる場所
ここを上がったら、ひとりになる

奈落
見上げる場所 始める場所
ここを上がった時のために、全てがある
『OO-ct. ノー・カラット』オープニング「Ⅰ」



第8位:『感光注意報』

小さな発掘物が、5人の時間を優しく揺さぶる
暮れも押し迫ったある日
倉庫の整理を行っていたプロデューサーは
アンティーカの収納ボックスの中に
見覚えのない品を見つける
忙しさとともに暮れるのが常の年の瀬
しかしその小さな発掘物が、
それぞれの時間を優しく揺さぶっていく
『感光注意報』あらすじ

第8位は2021年12月開催の『感光注意報』。
これは少々地味と言うか、恐らくあまり顧みられることのないシナリオだと思う。しかし、個人的にはそんな部分まで含めてこの作品は完成していると思っている。
このシナリオは「記録を残すこと/消えること」についての考察、そしてある人に対してのであると私は考える。

物語は、プロデューサーが事務所の倉庫で古いインスタントカメラを発見するところから始まる。カメラの中身を確かめるために現像しようとするプロデューサーだったが、折角なので現像前に使用回数を使い切ることを決意。アンティーカのメンバー5人の写真を撮ることとなる。順調に撮影を進め、5人分の写真と、余った1枚は集合写真を撮り無事に撮影を終えるが、現像した写真はほとんどがぼやけてしまっており、無事に現像できたのは最後に撮った集合写真だけだった。

作中、記録の役割を持つ写真は、記録を放棄してしまう。写真という媒体は永遠のように見えて実に儚い、動物的なメディアだ。まるで私たち人間の「死」のように突発的で不可逆な記録の喪失を引き起こすことがある。切り取られた永遠の瞬間は、時間の深遠へ永遠に葬られることとなる。
瞬間を切り取るものである写真の中では、時間は完全に静止する。写真に閉じ込められた人や物は、たとえもうこの世に存在しなくとも写真の中でその姿を永遠に保つ。それが故に、写真の死は永遠の世界の死。私たちは時間が過ぎ去り万物は変化する世界へと否応なく押しやられる。

写真というものの意義は霧子を通して語られる。写真とは、日々の生活の瞬間を切り取ったものである。しかし、それは同時に特別な瞬間でもある。というのも、「記録に残った日常」とは、それよりずっと多くの「記録に残らない日常」の中から浮かび上がってきた瞬間だからだ。膨大な時間の中からある瞬間を切り取り、記録として残すこと、それは瞬間であり、瞬間ではない。写真の中で静止した時間は、それを見る私たちの心に長大な時間を湧き起こさせる。写真はいつか死ぬ儚いメディアである。しかし、その瞬間の記録が私たちに与える感動は永遠だ。
つまり、特別な瞬間を切り取る写真というものの本質はむしろその逆であり、「記録に残らない日常」の記憶を私たちの心に沸き立たせることにある。
写真とは、「特別な瞬間」を切り取ることにより、日々の生活の中の何でもない、時間と共に忘れ去られるような瞬間を私たちに想起させるもの。霧子の言葉を借りれば「聞こえなかった時間を写すもの」である。

きっと……写ってます……あのカメラに……
聞こえなかった……時間……
『感光注意報』第5話「感光・5」

写真は写さないものを写す。その地平では最早写真の死は問題の外だ。たとえ撮った写真が消えたとしても、写真を撮ったという記憶が消えなければ、心の中でその瞬間は生き続ける。遠く離れたとしても、共に過ごした日々の煌めきがまだ自分を照らしているのなら、写真には意義がある。

ここまで述べた一連の「記録」の物語は、このシナリオの実装直後に発表された「三峰結華」声優交代と深く関係していると考えていいだろう。この物語は、三峰結華という少女を形作ってきた重要な存在が変更され、それまでゲーム内に実装されていたボイスも完全に録り直しという事態に対してのシナリオチームからの一つの解答ではないだろうか。
何もかもが作り替えられ、「彼女」の記録は完全に消失するのだとしても、楽しかったあの日々は、心震えたあの瞬間は消え去りはしないのだと。


覚えてるよ
……写ってない時間のこと
『感光注意報』エンディング「屋上に光」



第7位:『天塵』

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行き先も結末も知らないけれど 彼女たちはもう一度彼女たちを始める
283プロに所属してしばらく
ノクチルのもとに初仕事の話が舞い込む

いつのまにかアイドルとして
走り出してしまった幼なじみたち

行き先も結末も知らないけれど
彼女たちはもう一度彼女たちを始める
『天塵』あらすじ

第7位は2020年6月開催の『天塵』。
こちらも大変人気なシナリオで、毎年開催しているファミ通のシナリオ人気投票では上位常連である。
先ほどの『ノー・カラット』がシーズの初のシナリオであったことと同様、この『天塵』もノクチルというユニットの最初のシナリオであり、ノクチルとは一体どのようなユニットであるかが明確に示されるものである。

ノクチルが持つ特異性は大きく分けて二つある。
一つ目は、メンバー四人全員が幼馴染で構成されているということである。幼い頃から長い時間を共にしてきた少女たちがアイドルとなり、芸能界という大海へと漕ぎ出していく中でどのように関係性が変わっていくのか、あるいはどこが変わらないままなのか、そんな点がノクチルというユニットの持つ魅力の一つであり、面白さである。
二つ目は、「アイドルとなった理由」である。ノクチル以外の他ユニットでは、ユニットを組むことになったのは当然ながら283プロへの加入後である。彼女たちの場合は、加入する時点で(理由は人それぞれだが)アイドルになりたいという明確な意志があった。それに対し、ノクチルは幼馴染であり、それ以前から積み上げてきた関係値がある。四人の間の中心的人物であり、精神的な支柱である浅倉透がアイドルになった(その理由も随分特異である)ことで他の三人もそれに付随する形でアイドルとなった。つまるところ、彼女たちは「アイドルになりたい」というアイドルにとって本来原初的な衝動であるはずのものが欠落したところから物語を始めるのである。

『天塵』というシナリオの素晴らしさ、それはある意味での反アイドルマスター的な、新たなアイドル像を提示したことである。

ノクチルはこの物語の中で、アイドルとしては完全な大失敗をする。その失敗の影響は大きく、テレビ局からも半ば干されるような形となり、小さな営業の仕事をしても誰も見ようともしない。見られることが存在意義であるアイドルという存在にとって、誰からも見られないということは死を意味する。
しかし、彼女たちはそんな状況を全力で楽しむのである。衝動のままに、道理もへったくれもなく、ただ隣に友達がいるから、それは楽しいのだ。
それまでシャニマス(あるいはアイマス)で描かれてきたアイドル像は、For someone = For myself、つまり、アイドルとして誰かを楽しませることが自分の喜びと一致するというものだった。しかし『天塵』で描かれたノクチルは純粋なFor myself = For ourselves、ただ皆でアイドルをすることの楽しさこそが第一義であり、観客の有無は関係ない。そんなアイドルとしての有り様を提示したのだ。

羅針盤も持たずに海へ漕ぎ出した少女たち。まだ朧げで小さな、しかし確実に光を放つ彼女たちのアイドルとしての第一歩は、胸が締め付けられるほど純粋で、涙が出るほど美しい。

暗い波間に、ときどき花火の明かりに照らされて
小さく光っているあの子たち
夜光虫みたいにかすかで、不安定に揺れていて
なんて伝えればいいんだろうな……こういう美しさのこと
『天塵』エンディング「ハング・ザ・ノクチル!」



第6位:『The Straylight』

その光は「もう迷いはしない」と、そう言った
迷光を身に纏う前、
偶像は、ただの少女たちだった。

今、かつての少女たちは言う。
もう迷いはしないのだ、と。
『The Straylight』あらすじ

第6位は2021年1月開催の『The Straylight』。
このシナリオはタイトルからしても気合が入っている。なんせ"The"Straylight、「これがストレイライトだ」と言っているのだから。シナリオチームは自らストレイライトファンに対して最大級に期待を煽っているのである。正に背水の陣。半端な物を提供する訳にはいかないわけだ。

そしてその期待は最高の形で報われることとなる。

ストレイライトの(感謝祭シナリオを含めた)シナリオはこの記事の執筆時点で6つあり、私は勝手に最初の4作品を「ストレイライト四部作」と呼んでいる。このシナリオはその内の4番目、つまり四部作を締め括る物語である。

ストレイライト、直訳で「迷光」となるユニット名を冠する彼女たちは、最初はその名の通り、正に迷う光だった。冬優子と愛依に代表される二面性は、彼女たちの武器でありながらも弱点であり、瑕疵だった。あさひと冬優子の対極的な価値観は、ユニットとしての行く先など到底照らし出さなかった。そんな彼女たちが辿り着いた一つの到達点、それを描くのがこのシナリオだ。

ストレイライトはシャニマスの1周年目に追加された追加ユニットだ。故に、シナリオではそれまでのユニットでは描けなかったものを描き出す。ストレイライトというユニットの意義、それはやはり二面性、仮面を被る(彼女たちに言わせれば迷光を纏う)ということだろう。その点において彼女たちはある種の後ろめたさ、自信の無さを必然的に持ち続ける。
シャニマスの物語を大雑把に定義すれば、それはアイデンティティを探す物語であると私は思うのだが、ストレイライトはそのアイデンティティを迷光を纏うという行為の中から見出そうとする。そういった建前と本音、仮面と素顔といった二項対立をどう捉えるか、ストレイライトは物語を通して様々な角度から解釈していく。その一つの終着点がこの『The Straylight』である。

ストレイライトは立ち止まらない。あらゆる苦難を乗り越え、誰にも負けないアイドルの道を征くその姿は正しく最強のユニットだ。

「ストレイライトは立ち止まらないユニットです」
芹沢あさひ役、田中有紀さん



第5位:『くもりガラスの銀曜日』

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星のしずくが、時計の針を回していく
(キミに、伝わりますように)

忘れかけたいつかの香り『雨粒のインク』
キミをまるごと知らなくて『食パンとベーコン』
輝きだした12文字『素敵色のハニィ』

星のしずくが、時計の針を回していく
忘れものをたどる連作短編

(キミが、伝わりますように)
『くもりガラスの銀曜日』あらすじ

第5位は2020年5月開催の『くもりガラスの銀曜日』。
これはイルミネーションスターズのシナリオでは珍しく(というより唯一)、時間軸が過去と現在を行き来する物語構造である。シャニマスのシナリオは基本的に人間関係を主眼として描く。それはアイドル間であったり、もっと外であったり、逆に内であったりするのだが、時間軸の変化は描く人間関係の表現幅が当然大きくなる。ユニット結成当初のまだギクシャクした関係から、時間が経ち親密となった関係へ、その2つの瞬間を切り取り、交錯する展開は関係の変化をより際立たせ、印象的なものとしている。

一部の例外を除き、イルミネーションスターズのシナリオは三人の関係性を掘り下げる話をひたすら繰り返していると言っていい。こういう言い方をすると批判しているように聞こえるかもしれないが、これはイルミネの強みであり、魅力である。良い意味で内輪に籠る物語は、非常に繊細な心の揺れ動きの表現や、言葉一つ一つの多様な解釈を可能とする。『くもりガラスの銀曜日』は、そんな典型的イルミネシナリオの金字塔である。

このシナリオのテーマは「言葉と心」だと私は考える。思いを伝えるために使う「言葉」は、その特性上、確実に限界がある。「言葉」を介したコミュニケーションで「理解」し合うことは真の意味で「理解」出来ているのか、それを保証するものは何もない。結局お互いの心は見えそうで見えないまま、くもりガラス越しに見つめる他ないのである。
しかし、「言葉」には限界と、そして可能性も秘められている。「言葉」はそれ自体で意味を持たない、記号として日常的に用いられる。「私」という言葉が言葉自体に私個人の情報を含まず、発する人間とその状況に応じて意味が変化するように、「言葉」は本来的に道具であり、行使する人間がいて初めて成立する。そして「言葉」は記号であるが故に、人の心を容易く容れてしまう。発した「言葉」が相手に響き渡り、共鳴した時、その記号は本来とは異なる意味を持つ。そこでは「言葉」本来の意味は失われ、音の反響だけが鳴り響き続ける。共鳴した人間の間だけの「言葉」による「言葉」を超えた共通理解、それが「言葉」の可能性だ。このシナリオを読めばこの意味がきっと理解してもらえると思う。

「言葉」というものの限界とそれ故の可能性、人の心を知ろうとする心、思いが通じ合うこと。『くもりガラスの銀曜日』は、小さな小さな心の触れ合いを、3人の少女達を通して優しく静かに描き出していく。

くもりガラスの向こうを見たいって
そう、思い続けていたいから
『くもりガラスの銀曜日』第6話「くもりガラスの銀曜日」



第4位:『many screens』

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この穏やかで優しい夜が 願わくは世界中のスクリーンの上に 訪れていますように
急遽決まった朗読企画のために
練習時間を確保したい放クラのメンバーたち

しかし5人が揃うタイミングは見つからず
一同はオンラインツールを利用して
毎夜集まることになる

賑やかな練習の後には心安らぐ休憩のひと時

この穏やかで優しい夜が
願わくは世界中のスクリーンの上に
訪れていますように
『many screens』あらすじ

第4位は2020年8月開催の『many screens』。
順位付けした私としてはこの4位からはシャニマス最高傑作級のシナリオだと思っているので心してほしい。

放課後クライマックスガールズというユニットの中心に据えられているもの、それは「応援」だと私は考える。
この応援という行為は、シャニマス全体を通しても随所に見られる概念である。応援とは、言葉や音楽によって誰かを励ますことだと定義できる。放クラがこれまでのシナリオで構築してきたアイドル像は、そういった誰かを勇気づけ励ますアイドルである。
そんな応援するアイドルである放クラはこのシナリオで新たな応援の在り方を見せる。それは「みんなで」「誰かを」応援するという新たな在り方だ。それまで放クラが行ってきた応援とは、応援する者と応援される者が、それぞれ1:1の対応関係となる。それはダイレクトだがクローズドな応援であり、その域内のみで成立するものだ。これに対し、放クラが見せた新たな応援である「みんなで」「誰かを」応援すること、それは開かれた応援の形である。開かれた応援とはパブリックな空間によって実現されるものだ。劇中で行われたように、まず放クラ含めた「応援する側」がインターネット等の超空間的媒体によって同期し、その上で「応援する対象」を認識、声による干渉を可能とする。これは昨今隆盛のオンライン配信等に類似である。

こうした開かれた応援によって放クラが描き出す物、それは「旗手」としてのアイドルの姿である。応援することとは誰かを勇気づけ励ますこと、それは無機質な生成を底に置くものではない。対象へと向かう想いが不可欠だ。そういった意味で、開かれた応援は必然的に無数の想いが集まるものとなる。そういった無数の想いを集約し、誰かの下に大きな力として届けようとする意志の力の役割、それが「旗手」としてのアイドルであり、このシナリオで放クラが提示したアイドル像だ。
では、アイドルが「旗手」ならば、アイドルは全く無機質に役割を遂行するだけの装置に堕してしまうのだろうか?そんな問いも生まれるだろうが、それは全くの間違いである。つまり、こう表現するのが妥当だろう。「旗手」とは、無数の想いを大きな意志へと変換させる存在であると。
前述の通り、開かれた応援とは無数の想いが集まる場所であり、対象を想うことは一口に言えば祈りである。誰かに向かう大小様々な祈り、そこには放クラの五人それぞれの物も含まれる。そんな多様な祈りがパブリックな場で発露すればそれはカオスであり、霧散しかねないだろう。故に「旗手」は想いを集約し、鼓舞し、届ける。それが劇中では「燃えるぞ」という言葉で実現されたのだ。

「燃えるぞ」の応援によって見えてくるのは沢山のファンの姿、沢山の人間の姿だ。劇中では人の命は蝋燭の火に喩えられ、開かれた応援の場では、その火はそこに集った名もなきファン一人一人の姿に重ねられる。ともすれば日常に埋没してしまうような些細な人々の営みの中には生きた人がいること、たった1いいね、たった一つの応援コメント、たった1再生、その裏には命があるのだということがこれ以上ない程情緒的に描かれる物語だ。このシナリオ以降、シャニマスはこういった視点、私好みの表現をすれば「そこにある命を想う」視点を度々物語のテーマとするようになる。そしてその視点は『YOUR/MY Love letter』で頂点に達する。その嚆矢となったこのシナリオはシャニマス史的に見ても重要だろう。

他の命が、この命をおうえんできるように
おっきな声を出す
そんな死神をやってみます……!
『many screens』エンディング「あげサゲ!!!!!」



第3位:『アンカーボルトソング』

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それでも降るわ、それは必ず
あの日もこんな雨だった
今日とおんなじ音のする
今日とおんなじ匂いのする
あの日もこんな雨だったのに
それはいつかのほうが綺麗で
次も綺麗かどうかは知らない
それでも降るわ、それは必ず
『アンカーボルトソング』あらすじ

第3位は2021年5月開催の『アンカーボルトソング』。
アルストロメリア最大のテーマである「変化」は、このシナリオを以てある種の完結を迎える。10位にランクインした「流れ星が消えるまでのジャーニー」も同様に「変化」を主軸とした物語展開をしたが、今作とは似て非なる「変化」だ。「流れ星~」が過去から現在までの変化を暖かく振り返る内容だったのに対し、「アンカーボルトソング」は過去と現在で「変わってしまったこと」、そして未来へ向かって「変わっていくこと」を見つめるものなのだ。
アルストロメリアが抱える大きなテーマとして「未来への憧れ」というものがある。これはユニット名の由来である同名の花の花言葉だが、このテーマはシナリオ中では逆の用いられ方をされることが多い。即ち「未来への不安」である。

ひたすら前向きに未来を目指せるほど、やけにはなれないのよね
ファン感謝祭編(アルストロメリア)「いつまでも、いつまでも」

事実、今作で描かれるのはそれぞれがそれぞれの仕事に向かい、思いがすれ違うアルストロメリアの姿だ。双子の姉妹と少し年上のお姉さんで構成されたアルストロメリアは「家族の様なユニット」であり、いつも一緒な、固い絆で結ばれたユニットだったはずなのだ。そんなユニットとしての在り方を「仕事」によって忙殺され、身も心も離れ離れになってしまったアルストロメリアは未来をどのような感情で見つめていたのか、それは「憧れ」ではないことは確かだろう。

そんな変化していくことへの不安が大きなテーマとなっている今作だが、もう一つ、今作を傑作足らしめているテーマが存在する。それは「他者からの視点」である。
今作において、「未来への不安」を抱えているのはアルストロメリアだけではない。いや、むしろ彼女たちよりその不安は強いと言っていいだろう。メディアを通して彼女達の情報を得、日々の活力にしているファン達が「変わってしまったアルストロメリア」にどんな思いを抱くか、そこで生まれる寂寞の念はきっと本人達以上のものだ。
劇中、そんなファン達は「仲良しだったアルストロメリア」のスライドをSNS上で共有する。まだあまり大きな仕事もなかった頃、いつも一緒だった頃、まるで家族のように結ばれていた頃の写真を集め作られたスライドは、ユニットメンバーである甜花をして「アルストロメリアだ……」と言わしめるものだった。それは決して自分達だけの物ではない。ファンが望み、ファンと作った、不変の原点「アルストロメリア」だ。こうして「変化」の問題は当事者だけ留まらず、より大きなフィールドへと拡大して行く。

みんなの……大事な……アルストロメリア……
『アンカーボルトソング』第5話「みんな」


アルストロメリアが出した結論、それは「匂わせる」ことである。
聞き覚えの無い方も居るかと思うので「匂わせ」についての解説も載せておく。

「匂わせ」
明言せずにそれとなく気づいてもらえるような方法で仄めかすこと、匂わせること、とりわけSNSなどにおいて恋人がいる事実を直接的には示さないが間接的に自慢するような行為のこと。
「匂わせ」Weblio辞書ページ参照

ここで「匂わせ」という概念を使用したこと、この点にこそ今作最大の意義がある。ただ共にいることを示すだけならば、写真を撮るだけで事足りる。事実、この「匂わせ」を提案する場面ではアルストロメリアの3人で写真を撮っただけだ。それは「匂わせ」ではない。しかし、彼女達はあえて「匂わせ」という言葉を使う。それはなぜか。

「匂わせ」という行為は人為性の塊である。直接的な現実を映さず、人為的な仄めかしを行うこと。それが「匂わせ」の本質だ。そしてだからこそ彼女達は「匂わせ」なければならないのだ。
前述の通り、ファンが求めるアルストロメリアは、一緒で、仲良しで、変わらない存在だ。ソロ活動が増え、ユニット活動が減少した存在では決して無い。しかし、現実にはアルストロメリアは変化していて、ユニット活動も減少している。前者の意味のアルストロメリアは既に、いや、最初からなくなっている。それでもファンはそんな「アルストロメリア」を求め、寂しい思いをしているのだ。そんな思いに応えようとする彼女達3人の出した結論、それが「匂わせる」ことだ。
この「匂わせる」という決断は、理想像としての「アルストロメリア」をこれからも作っていく決意、決してファンに寂しい思いをさせないという決意なのである。

やっぱり……か、悲しい……から……
今..….寂しい人が、いること……
変わらないでって……
遠くに行かないで……って……
今、思っている人が……いるから……
『アンカーボルトソング』第6話「のびる、びる」

『アンカーボルトソング』もまた「そこにある命を想う」シナリオである。想いに応えるなんて表現だけでは不適切な、名もなきファン達一人一人まで心を延ばし、悲しみに寄り添い、力になりたいと思う、生命の肯定が根底にあるのだ。



第2位:『はこぶものたち』

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君と君の無数の隣人のために
やがて春の訪れを聞こうという季節
芽吹いてくるどんな葉も
同じ形をしていないように
イルミネーションスターズの3人もまた
それぞれの時間と向かい合っていた
ゆっくり目を閉じて、耳を澄ましてみよう
そしてたくさんの心が隣り合う場所で
君の座らないたくさんの席を想おう
君と君の無数の隣人のために
『はこぶものたち』あらすじ

第2位は2022年1月開催の『はこぶものたち』。
このシナリオを読み終わった時、俺は震えていた。すごいものを読んでしまったと。今後これを超えるシナリオはあるのだろうかと(二ヶ月に超えられる)。兎に角、そのレベルの傑作である。
今作がテーマとするものは非常にプラクティカルな、現実的なものである。それ故全体的な雰囲気は異質で硬く、好みじゃない人は多分本当に好みじゃないタイプの作品だろう。だが、同時にこの作品は実にシャニマス的であるのも事実である。

今作が提示するテーマを列挙してみれば、「利他」「利己」「倫理」「存在意義」「届けること」「自己肯定」「他者」等々数多い。しかし、恐らくこれら全てのテーマは「世界との関わり」という大きなテーマの元から枝分かれしていったもののように思う。『はこぶものたち』は、私達が世界に「参加」していること、その意味を問う物語だ。

この物語の優れた点は、物語を調停する大きな目線が存在しないことだと私は考える。作中には沢山の登場人物が存在し、各々の価値基準の下行動した結果の堆積として物語は紡がれていく。そこでは「作者の目線」は剥ぎ取られ、人々の意志が大きなうねりと化して物語を運ぶ世界が現前する。即ち、今作には「明確な悪者」や「乗り越えるべき壁」等といった作為的なギミックは存在しない。あるのはただの、私たちの世界とよく似た、複雑で不条理な世界だ。
登場人物達は基本的に善人である。イルミネーションスターズの3人、フードデリバリーのアルバイト、ファッションデザイナー、サッカーチーム、TV番組の出演者、これら以外にも数多くの人間が登場するが、彼らは皆、基本的に善人である。誰かの期待に応えるため、誰かに喜んでもらうため、大きな理想を実現するため。環境に配慮した衣服、離れた場所の時間と温もりを届けるフードデリバリー、全ての観客を楽しませるために心を尽くすアイドル。行動原理は様々だが、それらは善良な気持ちから生まれたものだ。
しかし、その世界には調停者が存在しない。善意から始めたことは必ずしも善とは成らず、悪にすら成り得る。作中で描かれる悲しみの殆どは善意から生まれたものであり、そこでは被害と加害、善と悪といった対立構造は最早成り立たなくなる。こうして世界の善悪の概念は曖昧なものとなる。

……なんで僕たちがサッカー?って思われるかもしれないけど
たくさんの人の間に入って
ものとか時間をつなげる仕事なんです、本来
『はこぶものたち』第5話「みんなが」

ここで「倫理」の問題が立ち現れる。善いと思った行動が必ずしも善に結びつかず、ましてや悪に転じる可能性があるならば、善いことをしようとすることは無意味なのか。

この問題を踏まえてキーになるのは「主体性」の概念である。
作中で、イルミネーションスターズの3人はサッカーの試合のハーフタイムショーをすることになる。しかし、彼女たちを応援に来たファンとサッカーチームを応援に来たファンの間で衝突が生じてしまう。3人は責任を感じるが、その責任の所在をはっきりと断定することができない。イルミネーションスターズというユニットは、何よりも全体の意思を重んじる。「自分がしたいこと」よりも「2人がしたいこと」を優先するため、今回の仕事もユニット単位での意思が底に流れているものだった。故に、彼女たちは「自分のせい」にできない。自分たちが「○○のため」というような他律で行動していたこと、「主体性」が欠如していたことを悔やむ。

これは、責任と主体性の強固な結びつきを示す。「ユニット」という集団と自己意識を同化し、明確な「個」の意識が表出しない。責任の所在は曖昧となり、全体を責めることは個を責めることと同義となる。個を全体と同化した自己意識は、対外的にもその指向を強くする。「私たち」が「観客」にショーを披露するという認識の中では、「観客」に含まれる多様な個人の姿が覆い隠され、均質化される。それは世界の実像とは乖離した単純化された世界観だ。3人はそのことを自覚し、多くの人の存在する世界を想像する努力をすることになる。

わたしたちのこと、すっごく好きでいてくれる人たちがいて……
いつも、そういうステージに立たせてもらえてるでしょ?
でも、この前はもっともっとたくさんの人がいたの、あそこに
『はこぶものたち』第6話「きみの座らないたくさんの席」

主体性の自覚とは、自分以外の他者を個人の存在として認めることである。
主体性の自覚とは、自分の行動に責任を持つことである。
沢山の人の心が折り重なって出来ている世界を想像し、自分も参加者の一人であるという自覚は、「自分のため」と「誰かのため」の調和へと繋がる。「誰かのため」に頑張ることは「自分のため」であって、「自分のため」に頑張ることも「誰かのため」になる、そんな想いの循環で世界は廻っている。
「私」も「あなた」も「善」も「悪」も「自分のため」も「他人のため」も、その全てが隣り合い循環しているとすれば、この世界の倫理はつまり「祈り」であると言えるかもしれない。良い世界になれという祈り、幸せになりたいという祈り、誰かに喜んでほしいという祈り、それらがきっと誰かのためになるのだと信じられたのなら、善はきっと祈りの中にある。

どこかで走って、頑張ってる人がいるって
そう思うと、自分も頑張ろうって思えて……
走ってほしい
……もし、自分のために走ってるんだとしても
頑張って漕げば漕ぐだけ、誰かの笑顔に近づいて……
だからまた、自分のために走ろうっていうふうに思えたら……
それは、誰かのためになるのかな
『はこぶものたち』エンディング「運ぶ人」

『はこぶものたち』は極めて実践的な、世界との関わりについての物語である。多様な解釈のできる作品であるため、私の解釈は個人的な思想が多分に含まれている。是非とも実際に読んでみて欲しい。この作品を読んだ人それぞれが「エシカル」について考え、悩み、社会に参加することでこそ、この作品の意義は生まれるはずだ。



第1位:『YOUR/MY Love letter』

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すべての名のなき人たちへ
心が泣きそうな時に聞いた歌
笑い声が聞けない時に消すテレビ
ありがとう、の乾いた音色
おめでとう、をためらうくちびる
客席にいるわたし
スポットライトを浴びるあなた
それから……膨らんだ春のつぼみ
愛を贈ろう
花の種が風に乗るように
すべての名のなき人たちへ
『YOUR/MY Love letter』あらすじ

堂々の第1位は2022年4月開催の『YOUR/MY Love letter』。
私とシャニマスについて話したことがある方ならばこの結果は「知ってた。」だろうし、このシナリオについては前回の記事で散々書き倒したので、もう今更書くつもりはない。『はこぶものたち』まで書く時点で相当疲れた。

兎も角、このシナリオは傑作揃いのシャニマスのシナリオの中でも最高傑作であり、そんじょそこらでお目にかかれるレベルの作品ではない。
これまで再三述べてきた「そこにある命を想う」視点の完成系がこのシナリオだ。
特に、このシナリオが他(例えば第2位『はこぶものたち』)と比べて優れている点は「サウンドノベル」というメディア形態を如何なく発揮した作品だからだ。これこそは物語を「ゲーム」で読むことの神髄であり、その感動は圧倒的である。つべこべ言わずにとっとと読みなさい。

教えてください
あなたの、名前を
『YOUR/MY Love letter』第6話「present」



おわりに

シャニマスには素晴らしいシナリオが他にも沢山存在する。アイドル達の織り成す人生を通して、自分と、そして世界に対して少しだけ優しくなって貰えたら嬉しい。お疲れ様でした。



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