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あなたにここにいてほしい。『YOUR/MY Love letter』はアイマスの到達点である。

先日、シャニマス生配信にて新シナリオイベントの開催が告知された。タイトルは『YOUR/MY Love letter』

イベント報酬カード S/SSR【signal】桑山千雪

アルストロメリアのシナリオとしては、傑作『アンカーボルトソング』の次の物語であるということもあり、私の期待値は既に限りなく高いものだった。イラストやキャッチコピーには過去のシナリオを彷彿とさせるような表現もあり、『アンカーボルトソング』を経たアルストロメリアの新たな物語の始まりを、私は発表された瞬間から今か今かと待ち続けていた。

そして解禁された4月1日、私は完膚無きまでに叩きのめされた。

断言したい。今回のシナリオ『YOUR/MY Love letter』はシャニマス史上、いや、アイマス史上最も優れた物語であり、二次元アイドルコンテンツの歴史に名を刻む作品であると。この物語はアイドルマスターというコンテンツの到達点であると。この物語を読んで感じたこと、考えたことを最大限表現できるよう努力する。超ネタバレなのでそこはご注意を
この記事が、名も知らぬ誰かのもとへ届くことを願って。

アイドルであるということ

『YOUR/MY Love letter』は、アイマスとしては非常に特殊な物語構造となっている。アルストロメリアのシナリオであるにも関わらず彼女たちのセリフは非常に少なく、大部分を所謂「モブキャラ」による群像劇が占める。
これは、彼らの日常の中での「アルストロメリア」との関わりを描いていくことで、「見られる」存在であるアイドルとは一体何なのか、それを浮き上がらせていく物語だ。
物語に登場する「名もなき人」は5人。彼らはそれぞれが自己と他者、あるいは世界との関係や繋がりに悩み、厭んでいる。
彼らの中でアルストロメリアは憧れであったり、肯定してくれるものであったり、只の日常の一コマだったりする。そこに特別性は無い、彼らは彼ら自身の人生を生きているのであって、アルストロメリアはどこまでいってもアイドル、他者であり、その力には限界がある。

そして、そんな有限な存在であるアイドルが持つ力というのが本作の極めて重要なテーマである。

ここで、興味深いシーンがあったので紹介したい。

第2話「voice for Someone」より

ここで描かれるのはアルストロメリアのファンである高校教師と甜花の会話だ。「本質」である素の自分と「属性」である教師という側面の乖離に悩む気持ちを綴ったメールに対し、甜花は「先生らしくない先生が好き」と答える。
この甜花の答えは適切なものとは言えない。甜花の「先生らしくない先生」とは単に叱らない先生ということだけを指した言葉であり、教師本人のパーソナリティを重んじるものではない。
しかし、そんなことは全く問題はない。なぜなら、ここでこの高校教師は感動したのである。どのような表現であったにせよ、甜花が「自分」を励まそうとしたことに涙し、「これで生きられる」とまでの言葉を口にしたのである。この高校教師にとって、アルストロメリアは文字通り生きるための力である。これは「見られる存在」であるアイドルの特性である。アイドルとは、ファン一人一人の中で咀嚼され、形を変えて生き続けるのだ


架け橋としてのアイドル

アイドルであるとは一体どういうことか。サービス開始からの4年間、シャニマスはこれをずっと問い続けていると言っていい。人々の前で歌い、踊り、笑顔を振りまく、そこにどんな意味があるのか。
『YOUR/MY Love letter』で提示されるアイドル像、それは「架け橋」というものだ。率直に考えれば、アイドルと架け橋というものは結びつき辛い。橋というものはそれ自体に価値は無く、2地点を往来する為の道具に過ぎないが、それに対してアイドルは、多くの人から愛される、価値のある存在だからだ。
「架け橋であるアイドル」とは、その片方の要素だけを持つものではない。人と人を結びつける為の「道具」でありながら、光り輝いて人に笑顔を与える存在だ。シナリオを踏まえればこうも言い換えられるだろう。アイドルとは、想いを届ける存在だ。
想いを届けるアイドルとは、直接的でもあり、また間接的でもある。自分たちの想いを届けること、誰かの想いをまた別の誰かに届けること、そういった想いの循環の架け橋となる存在、彼女たちが目指すアイドルとはそういったものである。

「弱い」想い

この物語において「想い」は重要なキーワードだ。劇中では、何度も様々な形で「想い」が描かれる。想いを伝えるのは容易なことではない。伝えたとしても伝わったのかどうかすら定かではなく、あるいはそれが意図せずして相手を傷つける場合だってある。自分の想いが本当に伝わるという保証はどこにも無い。それが名前も知らない他人ならば尚更のことだ。
アルストロメリアはこの「弱い」想いに一つの答えを出す。それは単純なことで、つまりは何回も伝えればいいのだ。
この「伝える」というコミュニケーション方法は極めて多様な手段によって実現される。顔を合わせて、電話越しで、手紙で、SNSで、それらは「伝える」ためのメディアではあるが実情として大きな差がある。目と目を合わせて言葉を交わすことと、携帯端末越しの文字だけのやり取り、そのどちらがより「想い」が伝わり易いかというのは自明だろう。この差は様々な不和として現実社会に表出している。ネットいじめ、誹謗中傷など、何も知らない人に対して我々は往々にして残酷となる。
そんな個人化が進み、人と人との繋がりが希薄となっていくこの世界を救うものは何だろうか?


「あなたの、名前を教えてください」

この閉塞と寂寞に満ちた世界を救うもの、それは名前を知ることである。このシナリオ最大の意義はこのテーマを提示したことであり、本作が比類ない傑作であることを最も雄弁に裏付けるものだ。

「名前を知ること」とは即ち氏名を知ることでもある、が、それだけではない。人が歩んできた道筋や、そこから紡がれる言葉、何に笑い、何に怒り、何に感動したのか、そういった個人のバイオグラフィを知り、それを名前によって現実的な存在として実体化させることである。
そしてこのプロセスによって生成される副産物的な価値観こそが最も重要である。それは、すべての人には名前があることを知ることである。

作中にこのことを象徴するようなシーンがある。

第1話「song for Someone」より

こういったことは現実に往々にして起こる。人身事故によるダイヤの遅れは都会ではあまり珍しいものではないだろうし、事故による遅延や渋滞で遅刻した経験のある人も少なくないだろう。そして多くの人は、不運な被害者や、自らの手で人生を締めくくった人のことは気にも留めず、何なら悪態を吐きながら目的地へと急ぐだろう。それはプロデューサーも同様だ。

これは当たり前のことである。何故かと言えば、私たちは当事者ではないからである。線路に飛び込んだ少女でも、少女の親友でも、恋人でも、親族でもないからである。私たちにとっては「名も知らぬ誰か」の不幸に過ぎないからである。人生の主役が自分である限り、人間はその周囲までしか感情を分かち合えないことがほとんどだ。

第3話「color for Someone」より

コンビニの店員に対して傲慢無礼な態度を取る男も同様である。店員は男にとって人生の脇役であり、「名もなき人」であるため特段気にも留めない。だが恋人は人生の中の一定の位まで上り詰めている、即ち「名もなき人」ではないため店員とは異なった態度を取る。男の行動は良識から見て批判されるべきものではあるが、本質的な部分では極めて正常だ。自分の家族と初めて会った人、そのどちらとも態度を変えずに話す人間などいないだろう。
そしてそういった他人への無関心という態度の全ての原因は「名前を知らないこと」なのだ。

世界を変えるのは「あなた」

アルストロメリアはラジオのリスナーたちに「名前」を尋ねる。職種、ハンドルネーム、あだ名、役職、属性、そういった他者の目線が常に存在している「あなた」ではなく、「あなた」を「あなた」たらしめるもの、そんな「名前」が知りたいのだと。

日常には、ともすれば気にも留めないくらい沢山の人との関わりに満ち溢れている。電車に乗り合わせた中年男性、コンビニバイトの外国人、道を走り回る子供、それを追いかける母親、彼らは「名もなき人」ではなく、その一人一人に名前があり、自分の人生を懸命に生きていることを知れば、世界に少しだけ優しくなれる。他人の不幸にちょっとだけ苦しめるようになれる。誰かもあなたの不幸を一緒に苦しんでくれるようになる。だから「名前を知ること」はきっと世界を救うだろう。「あなた」が特別であるように、誰もが特別で、主役なのだ。

第6話「present」より

アルストロメリアは架け橋である。想いを届け、想いは別の誰かに伝わり、また別の誰かに繋がっていく。「名前を知ること」は自分と他者が同居する世界というものの広さを知ることでもある。

第6話「present」より



再考・「Anniversary」

アルストロメリアの楽曲「Anniversary」は、発表から既に一年以上経過している曲である。これまで私はこの楽曲をアルストロメリアの前作であるシナリオ『アンカーボルトソング』と紐づけて解釈していた。というのも、この楽曲には「メモリー」「未来」「毎日」「もう一度」といった時間的要素を含む歌詞が頻出するのだが、それが『アンカーボルトソング』の持つ「変わるもの、変わらないもの」といったテーマに合致するからだ。

しかし、この解釈にはどうしても納得のいかない点が一つあった。それは「ふたりで」「あなた」という歌詞だ。納得がいかない理由は単純明快、アルストロメリアは3人ユニットだからである。「あなた」という歌詞はまだ一人一人がそれぞれに対して言っているのかな、とか二人を指して「あなた」という言葉を使うのも不可能ではないかな、という解釈は多少強引だが可能である。しかし、「ふたりで」はいくら何でも弁護不可能だった。故に私は今までこの歌詞からは目を背け、都合の良い部分だけ解釈して後ろめたさの残る感動に甘んじていたのである。

そこに彗星のように現れたのが『YOUR/MY love letter』である。
本作によって私の「Anniversary」は完成したのだ。
少し長いが歌詞を全文引用させてもらう。

どこまでゆけるのかな
伸ばせば届くのかな
ふたりで描いた夢を追いかけて
今はまだ旅の途中

あなたのこと これから先も
想ってゆく それは変わらないから

護りたい
あなたとの毎日と
これからの未来へ続く道を
たくさんの愛に満ちた温もり
そう それは 陽だまりに咲くリバティ
束ねては 贈る ひとひら
Anniversary
Anniversary

悲しみが押し寄せて
涙を連れてきたら
どんな形でも寄り添いたい
離れてても私たちつながってる

それぞれに願い それぞれに迷い
別々の場所で大人になってゆく
それぞれに出逢い それぞれに憂い
でも最後はひとつだから

護りたい
あなたのその笑顔と
握り返してくれた手のひらを
かけがえのない時間と安らぎ
そう それは 散ることのないメモリー

遠回りでもいい
ひとは誰も完璧にはなれない
別れとその痛みを経験して
最高の幸せにたどり着く

My love…

今 光が降り注いでゆく
待ちわびた時を祝うように
青空へと向かう鳥のように
何度でも 何度でも
歌うLove song

Your love…

護りたい
あなたとの毎日と
これからの未来へ続く道を

護りたい
あなたのその笑顔と
握り返してくれた手のひらを
かけがえのない時間と安らぎ
そう それは 散ることのないメモリー
束ねては 贈る ひとひら
Anniversary
Anniversary
Anniversary

遥か彼方のあなたの元へ
もう一度届けよう
https://lyricjp.com/ats/a05f0c4/l052fd9hより引用

まず、アルストロメリアは3人ユニットである。そこに変化はない。
ではなぜ無理のない解釈が可能となったか。それはこの歌は"3人の"歌ではないからである。
「Anniversary」はアルストロメリアが名もなき誰かに歌った歌なのである。
即ち、「あなた」とは「この歌を聴いている誰か」であり、どんな時でも側にいるよ、という意味の「ふたりで」なのである。

同伴者としてのアイドル

アルストロメリアは架け橋である。これは本稿でずっと述べてきたことだ。
私はここでこうも言いたい。アルストロメリアは同伴者である、と。
架け橋であるとは、人と人を繋ぐことだ。アルストロメリアは人々に想いを届け、人々は自分の想いを届ける力を貰う。そしてそういう循環には「名前を知ること」が必要であるというのは前述した。

では、「名前を知ること」はアルストロメリアにとってどういう営みなのか。それは即ち、皆と苦楽を共有するということだろう。「名前を知ること」は個人という存在の肯定である。自己の周囲までしか展開されなかった世界が「名前を知ること」で拡張され、多様な人々が見えてくるようになった時、そこにあるのは喜びだけではない。自己の世界に他者が見えてくれば、当然喪失の苦しみも生まれる。親しい人間に不幸が起これば、自分にまでその不幸というものは伝染する。これは「名前」を知らなければ起こることは無い。自分の世界を広げなければ、他者に何が起ころうと心は凪いだままだ。

ならば、「名前を知ること」は正当化されるのか?それで喜びが増えたとしても、他者の苦しみが永遠に自己をも苛むのではないか?
この命題に対し、アルストロメリアが出した答えが「同伴」である。
たしかに、「名前を知ること」には苦悩も付きまとう。しかし、他者の存在を肯定する世界はきっと素晴らしい。アルストロメリアは、「名前を知ること」で他者の喜びも悲しみも共にするという決意をしたのだ。「Anniversary」の歌詞は、そういった同伴の文脈で理解すればつじつまが合う。


遠回りでもいい
ひとは誰も完璧にはなれない
別れとその痛みを経験して
最高の幸せにたどり着く


「あなたの、名前を教えてください」とは、多くの人とより多くの人の幸福を共に喜び、不幸を共に苦しむための願いの言葉であり、祈りの言葉なのだ。


すべての名もなき人たちへ

架け橋としてのアイドル、同伴者としてのアイドル、誰もがきっと誰かにとっての特別で、かけがえのない存在であるだろう。ここまで私が述べてきたことはこれだ。

では、私たち「名もなきシャニマスユーザー」は一体何なのだろうか。画面越しにアイドルを見つめ、アイドルたちの織り成す物語を読んでいる、そんな私たちは何なのだろう。私たちにとって「プロデューサー」とは一体何なのだろうか。私たちは「ファン」なのだろうか、それとも「プロデューサー」なのだろうか。
正直に言えば、この問題は到底私には扱えない。何故なら、『アイドルマスター』というコンテンツにおいてここは不可分の領域であり、「ファンでありプロデューサー」という無茶な融合が10年以上に渡り継続しているからだ。ここに答えを出すのは余りに危険であり、それ以上に意味もないだろう。

よってここでは私は『シャニマス』というコンテンツに限定して私の持論を語らせてもらいたい。
まず、283プロに「プロデューサー」は一人である。それが所謂「シャニP」であり、他ブランドと比較しても明確なキャラクター付けがされていることからもこれはほぼ確定だ。
そして、その「シャニP」は私たちであり、私たちではない、というのが私の持論だ。この矛盾としか思えないような主張は、事実説得力のあるものではないだろう。だが語らせてほしい。これは私の、シャニマスというコンテンツへの意思表明でもあるからだ。

私たちは「シャニP」ではない。283プロに入社したこともなく、アイドルと実際に会話したこともない、こんなことは当たり前だ。小学生だって当然理解できる。
ではなぜ私たちは「シャニP」でもあるのか。それは、「シャニP」と同じ物語を体験しているからだ。屁理屈だと思った人も多いだろう。私も否定する気はない。
だが、アイドルと一緒にW.I.N.G.、ファン感謝祭、G.R.A.D.、Landing Pointを駆け上がり、誕生日を祝い、意外な一面を発見し、優勝に喜び、敗退を悲しんだ、あの時間は紛れもなく「プロデューサー」だったと言えるのではないか。私たちは「プロデューサー」としてアイドルと向き合っていなかっただろうか。
もちろんシャニマスユーザーの中には色々な人がいる。担当のガシャが来た時だけ触る人、W.I.N.Gしかプレイしたことがない人、プレイスタイルは様々だ。だが、そんなシャニマス体験の中で一瞬でも本気でアイドルを大切に思ったり、アイドルの悲しみを取り除いてあげたいと思ったことが、ほんの一瞬でもあるのなら、その人は「名もなきシャニマスユーザー」ではなく「プロデューサー」であり「シャニP」なのだ。これは論理ではない、私の信条だ。


世界に舞い散る花の種

『YOUR/MY Love letter』で提示されたテーマは解決があるようなものではない。人が人である限り、「想い」は確実には伝わらなく、争いもする。他者に対しての無関心は人間の普遍的な状態であり、やはり世界はこのまま残酷に続いていくのだろう。だが、良い世界になれと祈るのは無駄ではない。このシナリオを通してアルストロメリアから貰った勇気を誰かに届け、優しい世界になるように祈るのは決して無駄ではない。

「想い」の種は今まさに私たちの手の中にあり、芽吹かせるのは私たち自身だ。あなたの想いが私に届いたように、私の想いが、まだ見ぬあなたへと届きますように。『YOUR/MY Love letter』はそんな願いの込められたタイトルだ。


随分長文となってしまいましたが、ここらで締めさせていただきます。
この記事に込めた想いが、誰かの中で花咲くことを信じて。
それでは。

心が泣きそうな時に聞いた歌
笑い声が聞けない時に消すテレビ

ありがとう、の乾いた音色
おめでとう、をためらうくちびる

客席にいるわたし
スポットライトを浴びるあなた

それから……膨らんだ春のつぼみ

愛を贈ろう
花の種が風に乗るように

すべての名もなき人たちへ
『YOUR/MY Love letter』あらすじ

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