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台湾の中国式朝食店

今週水曜日の夜にユーチューブで行った台湾在住作家の片倉佳史さんとの対談は台湾式の朝ご飯屋さんの話題が中心だったが、話の中でちょっとだけ触れた中国式の朝食店について、ちょっと詳しく述べたい。

 この形態の店は戦後に中国から移民してきた人達によって始められたのだが、台北の朝食店の形態としては非常に目立つ。だからガイドブックやネット上ではこの形態の食事が台湾式の朝ご飯だと述べられている。僕自身はあれを台湾らしい朝食だと思っては欲しくない。あれは台湾でアレンジされた中国式朝食だからだ。この形態の店は台湾では一般的に豆漿店(トウチァンティエン=華語)と呼ばれている(24時間営業で夜中も開いている店もある)。燒餅(中華パイ)や油炸粿(細長い中華揚げパン)、饅頭(バントー)や豆乳(タウリイェン)などを提供している店だ。 特に中国山東省の食品の影響を受けたような物が目立つが、上海系の点心や広東系の甘い焼き菓子など、中国の他地域の食品や 西洋系のハンバーガーやサンドイッチまで売っている店もある。

 中国山東系の食品が目立つので、第二次大戦後に台湾へ移民してきた山東人やその子孫の店が多いのではと思われがちだが、実は台北市内の豆漿店の多くは客家系台湾人経営の店が多い。実際、僕自身も豆漿店の経営者がお客さんと客家語で話している光景を何回も見たことがあるし、客家系の友人からも豆漿店で働く人は客家訛りのある華語を話す人が多いと聞いたこともある。

 また、豆漿店で特に目立つのが「四海」や「永和」という二文字が店名に使われている店だ。全く同じ店名や似たような店名が非常に多い。しかも今やこれらの店名の豆漿店は台湾全土だけでなく、中国の都市やアメリカ、カナダのチャイナタウンでも展開されている。なぜ同名や類似店名がこんなにも多いのか。そしてなぜ客家人の店主が多いのか。それは台北市と新北市を結ぶ中正橋(新店溪という川にかかる橋)のたもと(新北市永和地区側)で開店して成功した豆漿店と、その店で修行した台湾中部の苗栗縣西湖郷出身の邱豐彩さんと多いに関係がある。

 1960年の苗栗縣西湖郷は元々貧しかった上に、度重なる自然災害の影響で、多くの人々が生活に苦しんでいた。当時20歳だっ た邱豐彩さんは台北縣(現在の新北市)永和へ移った。永和には遠い親戚のおばさんが住んでいたからだ。おばさんのご主人は中国国民党政府と共に台湾へ渡ってきた山東人であった。このご主人から邱豐彩さんは、永和側の中正橋のたもとにあった「東海豆漿店」で修行しながら働く道を紹介してもらった。「東海豆漿店」の大株主はこのご主人と同郷の人だったからだ。邱豐彩さんは修行期間が二ヶ月も経たない頃、「東海豆漿店」の大株主の推薦と援助もあって、「東海豆漿店」の株主の一人になった。この「東海豆漿店」が大成功してから、株主同士の揉め事が原因で、「東海豆漿店」は「四海豆漿店」、「世界豆漿店」 という二店に別れてしまった。

 1960年代の苗栗縣での生活は苦しくて、若者に仕事の機会はあまりなかった。当時、豆漿店の商売はとても儲かり、公務員や教師の給料の 10倍も20倍も稼げたそうだ。そして豆漿店では常に人手不足であった。そこで邱豐彩さんは自分の兄弟や親戚たちに技術を伝授しただけでなく、故郷の若者たちに声をかけて、自分の店で修行させながら働かせた。邱豐彩さん自身も違う分野の料理職人や業者から様々な点心や焼き菓子などを学び、自身の店で売る商品の種類を増やしていった。 邱豐彩さんの教え子たちも次々に自分の店を持つようになっていった。彼の直接の弟子だけでも 1,000 人近くいて、孫弟子まで含めると 2,000 人から 3,000 人くらいいるそうだ。弟子や孫弟子達は邱豐彩さんの故郷である西湖郷出身の客家人たちだけでなく、 近隣地区の客家人たち、さらに新竹や桃園の客家人たちもいるそうだ(もちろん、一部にはホーロー系台湾人もいる)

 邱豐彩さんは 1967 年に政府の経済部に「四海」という店名で商標登録しているけど、弟子や孫弟子たちが豆漿店を出店する時に「四海」の名を使っても権利金を徴収していない。また、邱豐彩さんのお兄さんが率いる弟子たちは「永和」の名を好んで使うそうだ。中には「四海」も「永和」も両方店名に使う人たちもいる。こういうことであちこちに同名店、類似名店があるのだ。

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