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細川家の刀剣:詳註刀剣名物帳より③池田貞宗、小夜左文字、長岡藤四郎、三斎来國次

詳註刀剣名物帳から、細川忠興や細川藤孝など細川家でかつて所有されていた刀剣について紹介していきます。

今回の記事では
・池田貞宗
・小夜左文字
・長岡藤四郎
・三斎来國次

を紹介しています。


池田貞宗


池田貞宗 長一尺二分 代金三百枚

表裏護摩箸、京都町人蓮池常知と申者所持、先に取り次ぎにて細川兵部大輔幽斎老金弐枚にて求め、中務殿(細川立孝)へ傳ふ 池田三左衛門輝政殿黄金百枚に求め、秀忠公へ上る、寛永六年四月廿六日利常卿へ渡御の刻拝領。

詳註刀剣名物帳では中務殿=細川立孝と記しています。
けれど時系列的に幽斎の四男・孝之のことではないかなあと思います。
忠興の二男というのも間違いですし。



小夜左文字


小夜左文字 長さ八寸八分代 千五百枚

光甫覚書には、元幽斎老所持三斎老へ傳る、其節玄旨老も存命なり能因法師の命なりけりの歌の心を以て御秘蔵にて御名付なり。
一説に遠州に浪人ありしが、死後に一二歳の男子有て後家金谷へ此脇差を賣に行けるが、小夜の中山にて切れて死す、脇差も失る。
母の妹男子を養育して常に右の趣を語る、成人の後掛川の研屋へ弟子に遣す、或時浪人體の者来て左文字脇差の研を頼む、其者語りけるは何年以前小夜中山にて女一人此脇差を持来る奪ひ取しが後日心許なく思ひ殺しけると云、右脇差を見る體にもてなし、即座に母の敵を討つ、其頃は掛川の城主山内対馬守と云ふ右の趣御聞届召出されけるとか、脇差は対馬守へ上る後ち黒田(筑前)の御家にも有る、
浅野但馬守にも有り、上井(土井の間違いか?)大炊頭殿にもあり、京都町人の方に今在り寛文七には五百貫なり。


長岡藤四郎


長岡藤四郎 在銘八寸二分 無代

秀忠公より拝領にて長岡三斎所持、表裏刀樋影樋あり又上る。
其短刀秀忠所持以前のこと詳かならず、長岡三斎は細川越中守忠興の事なり、長岡とは細川の家名を襲さるまえの称なればかく記しては紛はしき事なり、また上るは忠興より再び将軍へ進らせし事なり。


三斎来國次


三斎来國次 長九寸分中 無代(一本に銘ありとあり)

南都より出る細川三斎老御求め上る。
細川三斎は細川越中守忠興なり、この刀南都の寺より出で候と壽齋の記にあり上るは徳川家へ献じたるを云ふ。

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