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ラクに生きてね、と思うけど

「こどもの時はラクで良かった。ずっとこどもでいたいと思っていた」という人は、大人びていると思う。

私は自分がこどもの時、親に食事を作ってもらうことや、身の回りの世話をしてもらうことを当然と思っていた。父親が毎日働いていることも、母親が毎日家事をしていることも、大変そうだなとは思わず、こどもって出来ることが少なくてつまらない、とさえ考えていた。

こどもだ。こどもじみている。

大人の大変さを想像できるこどもは、賢い。そして、自分がこどもであることをありがたく思い、このままずっとこどものままでいられたらいいのに、と思うのかもしれない。

私も、年齢や役割だけはとりあえず大人になって、ようやく、大人は大変だなあ、と思うようになった。

でも、こどもの頃に戻りたいとは思わない。

今まで試行錯誤しながら、頑張ってここまできたのに、全部やり直しになるのが嫌だからだ。

私は、幸運なことに、自分のことはだいたい自分で決めて人生を歩んできた。たくさん失敗したけれど、後悔がないと思える根幹は、その一点に尽きると思う。

そして、「大人は大変だなあ」と思うけれど、やっぱり「こどもはもっと大変だなあ」と今でも思う。

3歳のミコが、お菓子をもっと食べたいとか、歯磨きしたくないとか、いろいろ言うので、「大人になったらお腹がいっぱいになるまでお菓子を食べられるから!歯磨きしないまま寝ても誰も何も言わないから!」と言った。「それで太ったり病気になったり虫歯になって、自分が痛い目を見るだけだから大丈夫!大人っていいね!」

10歳のいっちゃんは、やけくそみたいな私の発言を隣で聞いて、あはは、と笑った。結局、お菓子ばかりを食べて生活できないし、大人は自ら歯磨きをする。

でも、それを自分で選択してやることと、大人に強制されてやるのとでは、訳が違う。勉強だってそうだ。

私は勉強が嫌いだったので、中学生の時、「大人になるまで、あと何回、中間テストと期末テストがあるのだろう」と考えてクラクラした。その上、受験というビッグイベントがある。

もし、お腹の盲腸が時々シクシクと痛んだら、いつ爆発するかと気がかりだと思うが、学生時代の私は、そういう「痛むタイプの盲腸」を抱えて生きているようなものだった。たくさん楽しい出来事もあったけれど、いつも「勉強しなくちゃ」という “盲腸”がうずいて、うっすらと苦痛だった。

こどもの時から、自分の意思で歯も磨くし、夢に向かって自ら勉強したい!と思えたら、そういう苦痛は少なかったのだろうか。

そして、こどもは「ウサを晴らす」手段も少ない。思春期という、超絶に気持ちが不安定な時期になっても、自由になるお金がないし、行動範囲も限られている。学校や勉強や友人関係でイライラしたときに、逃げ込む場所が、大人よりも少ないと思う。

じゃあ、大人になった私は、上手にウサ晴らしできているかというと、そうでもない。でも、いろんな方法があるんだよね、と思える現在と、泣いてふてくされるしかなかったこども時代とでは、大きく違う。

こうして、私個人の「現在」と「こども時代」の違いを並べてみると、結局、今も昔も生きるのが下手なんだよなあ、と思わざるを得ない。

それでも、大人になると選択肢が増えるし、勉強だって、したければすれば良いし、したくなければしなくて良い(そして、していない)、という「今の方がマシ」という感想が残るというわけだ。

そこで、2つのことを思う。1つ目は、「私はせっかく大人になったのだから、もうちょっと上手に生きたい」ということ。2つ目は、「うちのこどもたちは、できれば盲腸の痛みナシで、楽しくこども時代を過ごしてほしい」ということ。

1つ目は話が長くなりそうなので割愛する。私は私の気分をまだ掴みきれていない。

2つ目も難しいと思う。どんなに夢があっても、受験はプレッシャーだし、勉強は多くの人にとってストレスだ。だから、痛みを全てとることは出来ないと思うが、そのプレッシャーやストレスに打ち勝つ、燃料みたいなものをドカドカと放り込んでやりたい。

全く詳しくないけれど、アドレナリンが出ている状態、というのだろうか。

もうずいぶん前から言われている「褒める育児」というのは、そういうところを目指しているのだと思う。「私はできる!もっとやれる!もっとやりたい!」と思わせるには、出来ないことを指摘するのではなく、出来たことを褒めて伸ばした方が良い、という考え方。

その一方で、「褒められ続けて育った人間は、社会に出て叱責を受けるとすぐにくじける」と、否定する意見も、繰り返し言われている。

私は、「褒める育児」賛成派だ。賛成派の私だって、こどもが失敗したり適当なことをすると、すぐに小言を言ってしまうし、世間で叱られたり、周りと自分を比較して自信をなくす体験なんて、いくらでもあるだろう。

「褒める育児」で親に褒められる経験なんて、簡単に吹き飛ぶような厳しい現実が、こどもの時からきちんと用意されている。だから、安心して褒めていいと思っている。それに、心配しなくても、たいして褒めることなどないのだ。褒めたいと思ったら、出し惜しみしなくていい。

もちろん「やる気」は本人の内側から盛り上がってくるものなので、親から褒められたこと以外が燃料になることも多いと思う。こどもが大きな機関車だとしたら、親はリスくらいの小動物で、せっせと小さな石炭を運ぶくらいの役割しかできないような気がする。

それでもまあ、できることがあるなら、やりたいと思うのが親だ。

そして、リスが石炭を運ぶ理由は、こどもを大成させて、自己満足するためではない、ということも念のために書き足しておく。

あの厳しい受験や競争の痛みを減らすため。大人になってからも自分を粗末にしないようにするため。

自分の痛みを、こどもに引き継ぎたくない。ほとんどの親は、そう思って、せっせと、自分が良いと思った石炭を運んでいるのだと思う。

こんなに何代にも渡って子育てが繰り返されてきているのに、人間はちっとも子育てがうまくならない。時代の流行に左右はされるが、それでも自分の信条で石炭を選び、運んでいる。けれど、その子その子にあった石炭かどうかの見極めも難しい。逆に火を消してしまうことすらある。

それでも、親は石炭を運び続ける。もうそれは、祈りの儀式でしかないのでは?と思うが、止めることは出来ないのだ。

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