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なつかしくてあたらしい人たち

(都合により、今日から時々こちらへテキストをあげます。いつもの場所は、もちろんまだあります→ブログ168song

どっちらかった人生を歩んでいることでは、けっこう定評があるんですよ。それで、そんな患者が周囲から度々言われることがある。そのトップ3がこちら。

第1位「もっと文章書きなさいよ」

第2位「もいっかいラジオやりなさいよ」

第3位「写真をじゃんじゃん撮りなさいよ」

1位~3位すべて、とても漠然としたアドバイスだ。周囲の声もぼんやりしていて、「あんたの文章ってなんか飽きない」とか、「声がなんか好き」とか、「あんたの写真ってなんかおもしろいね」とか。けっしてテクニックを褒めているわけではない。

それで何が言いたいのかというと、今日は、ちらかった人生のなかの第2位にまつわる話。

2000年前後に、ラジオ番組を作ったり、あろうことか番組に出演してしゃべったりしていたことがあった。だいたいはコミュニティFM局という、規模の小さなところが、おもな活動の場所だった。ほかにも色々おしゃべりの仕事はしていたけれど、声の仕事だけでは食べていけない。そこからステップアップすることもなく、数年で辞めてしまった。

その時、一緒に番組を作っていた仲間とは、20年近くたった今も交流がある。正直、オレたちって仲がよいよなと思う。勢いあまって、昨年(2016年)末、同窓会を通り越して、ほんものの生放送を皆でオンエアしてしまった。今はいいおじさんとおばさんになって、それぞれ別々の道を生きているんだけど、本気の生放送は4時間にも及んだ。

患者は、一部コーナーを企画したり、そこで使用する音素材を作ったり。あ、あと特設WEBサイトも作ったな。あれは大変だったぞ。そしてパーソナリティとしておしゃべりした。あのときは寝ても覚めても準備していて、今思い出しても我ながら気持ちが悪い。

そのとき患者と一緒に、DJとして出演したのは、現役プロのラジオDJ中野耕史。ともに「戦友」と呼び合う仲で、ゲリラ生放送企画もオレたちの発信だった。たまにしか会うことはないし、なにか頻繁に連絡をとりあっているわけでもない。ただ、なかなか縁が途切れない。

中野耕史とは、そのコミュニティFM時代、一緒に番組出演していたことがある。週に1度、4時間の生放送を2人で担当していた。彼とのコンビは、たったの2ヵ月間だ。なぜなら中野耕史は、オレとコンビを組んで2か月後、コミュニティ局からステップアップし、キー局へデビューしていったから。番組の回数にすれば、一緒だったのは8回だけ。それなのに今も友だちでいるとは、いったいどういうことなのかよくわからない。

いまも細々と(笑) ラジオ時代の仲間との、その縁は続いている。ひょっとしたら、「なつかしい」ばっかりじゃないからかな。年はとったけど、新しい話もするもんね。仲間というのは、ほんとうに不思議で興味深い関係だと思う。

まあ、オレがまたラジオに出るかどうかというテーマはまた別の話で。声をもってして、何かを伝えるということについては、引き続き検討中ということです。だってオレの本業は、患者業なんだもの。