【書評】渡辺考『少女たちがみつめた長崎』

 本書はそれだけでも意義があるものと言えます。そういう意味では是非ともお勧めしたいのですが、別の意味で意義が出てきました。
 例の「ひろしまタイムライン」のやらかし――本書は2019年の同名ETV特集を書籍化したものです。長崎ではできて、広島ではどうしてああも無惨に失敗したのか? ちょっと考えてみましょうか。

同年代の日記を、後輩である少女が読む

 本書の基となった番組と、「ひろしまタイムライン」はよく似た構造があります。被爆した少女の日記を、長崎の女子高生たちが読み、書いたかつての少女たちと振り返ること。丁寧な対話がそこにはあります。

 これはアンネの日記にもあるアプローチで、海外でも定番です。アンネの受難に入る前に、おしゃれや映画スター、そして異性に憧れる。そんな柔らかい少女の心を見つめること。まず共感する入口から奥へ入る。そういうアプローチです。もはや聖典であり、かえって距離があいて、むしろ暗いから避けたいという気持ちを捨てるところから入る。そんな手法であり、これは極めて効果的であるといえます。今年NHKでも放映された『アンネ フランク 時を越えるストーリー』が、似た構成でした。若い女性がスマートフォンを片手にアンネの足跡を追いかけ、何を思っていたのか、追想することで距離を縮めていたのです。

 本書では、かつての少女たちが集まり、思い出話をする場面が何度か入ります。華やいで、そこには歳月を乗り越えた青春があって――若やいだ声が公園に響く場面では、タイムスリップ感が味わえます。

 おばあちゃんたちも、私たちと同じ青春があったんだ――という入口から、日記を解読し始めると、一転して現代の少女たちは「理解できない」と困惑しはじめます。
 こんなに痩せていた? ありえなくない?
 ずっと金属にヤスリをかけている? 疲れるよね? しんどい、つらいってあるし。
 お国のために? 醜敵アメリカ? 神国日本の勝利を信じる? おかしいって思わなかったの?
 当時の軍国少女の愛国心に信じられない思いを感じてしまう。そんな戸惑いがあります。この“戸惑い”こそが大事だと思えます。当時の戦争体験者に「信じられない」と言えるかどうか? 敬意や失礼だという思いが邪魔してしまうかもしれない。日記を読んで共感し、壁を取り払ったこそできる。そういう役割を感じます。

 軍国少女の思想背景を、本書では当時の少女が説明をします。これが「ひろしまタイムライン」に欠けていたアプローチです。あの企画だって「朝鮮人にこういう思いを抱いた経緯は何ですか?」と筆者側が少年に問われていたら、あんな短絡的な投稿なんてなかったはずでしょうに。
 この番組にせよ本書にせよ、存命する複数名に聞き取っているからこそ、危ういことをせずに済んでいます。元軍国少年なり少女に聞くなりしても、その方が上流階級だったり、いまだに大東亜共栄圏を肯定するような方だったら、ただただ危険なだけです。

 理解できないのは、むしろ当たり前のことなのです。原爆投下後、その思いは強まっていきます。あぶらを滴らせ痛いと言う少女たちをみてしまう。火傷があるから幸せな結婚ができないと言われる。ガラス片や大豆ほどのコンクリート片が何十年も体内に入っていている。体内に時限爆弾のように残り続ける放射能の毒。生き延びた罪悪感。何もかもが信じられないと思ってしまう気持ち。

 そんなものを「わかるわー」と言ったら? むしろ嘘くさいかもしれない。簡単に言い切れないかもしれない。そういう戸惑いはある。わかるとは言い切らないで、彼女らは語り継ぐこと、自分なりの発信について考えるところで終わります。

“共感”の罠

 これは以前の「ひろしまタイムライン」のエントリでも書いたのですが。
 長崎ではできて、広島ではできないこと。それには皮肉にも『この世界の片隅に』も影響を及ぼしているのではないかと思えるのです。
 あの作品そのものは、よいところもたくさんある。けれども、“共感”で止まって“拒絶”、理解できないところまで至っていないのではないかと思えました。だからこそ【#あちこちのすずさん】のような、ズレたハッシュタグを募集してしまう。

 すずさんみたいにおしゃれや工夫で戦争を乗り切った人はいたでしょう。それに「わかりみー! 私もおいしいご飯食べたいために工夫するもんね〜」と言ったところでそれが何なのか? このご時世、食料を巡って殺人はそうそう起きない。戦争中、戦後まもなくはあったんですよ。「片岡仁左衛門一家殺害事件」でも検索してみてください。
 おしゃれにしたって、パーマをかけたところで石をぶつけられはしない。おしゃれしたい心は同じでも、石をぶつけられる気持ちはわかるはずがない。わかってたまるか、という話です。
 アプローチとしてひたすら浅く、中途半端なところで終わる。それでいいのか? それにあのコンテンツの消費側は、浅いところで止まって、年代や趣向の赴くまま、とんでもない浅瀬に流されてゆきます。
 映画雑誌『映画秘宝』では、すずさん役声優がコスプレをして微笑みました。

すずさん × 映画秘宝 - のん 公式ブログ https://lineblog.me/non_official/archives/13219241.html

 私はあれをみた瞬間、血の気が引いたのです。というのも、戦時中を舞台にした映像作品を見て、こうため息混じりにつぶやく戦中派を思い出したのです。

「こんなに綺麗な顔色のわけないでしょ。もう痩せこけて、顔だって蒼ざめて……」

 すすざんのレシピを再現したら結構美味しいという感想にも、嫌なものを覚えました。材料は同じでも、戦争と現在ではそもそもが食糧の品質が違います。すいとんでも、今の材料で作ればそこそこおいしくなる。そこまで想像していますか?
 当時のレシピを再現して戦時中の暮らしを思うという取り組みを、そんな理由でやめてしまったという話も知っています。むしろ再現することで、

「なんだぁ、うちの親が戦時中は貧しかったっていうけど、結構いいもの食べてたんだね。大袈裟だったんだ」

 という感想が出てきてしまったから。
 『この世界の片隅に』について言えば、もう混沌としていてわけがわからないのです。なまじ主演声優が、『あまちゃん』主演後、不条理な扱いであったからこそ、彼女への応援と、キャラ萌えと、オタクコンテンツとして楽しみたい考え方が混在としてしまって、本来の戦時中の日常を感じる意義がどんどん薄れていったと思えてしまうのです。本来、戦時中のすずさんに感情移入するものであり、不遇の朝ドラ女優を推すためのものではないはずなのですが。混同を感じます。あの女優さんには一切悪意はありませんが、どうにもあのドラマ絡みはクラスタのルールが強固で、ついていけません。

 歴史をコンテンツにすることで、ただ消費する流れは出てくる。のみならず、日本では“共感”を重視する流れがあってひどいことになりそうだという思いはしているのですが……。

突き放す意義

 『はだしのゲン』が秀逸である理由も、本書で思い出しました。
 敗戦後、180度価値観が変わったことへの不信感、消化しきれない思いも本書は書いています。墨で塗り潰そうと、もう教わったのに。そう東京弁を使いながら皮肉っぽく塗りつぶしたという感覚は、まさに少女のものだと思いました。
 なまじ若いから、染まってしまう。180度変わったら、大人にように器用に飲み込めず、からかい嘲笑いたくなる。そんな皮肉な視線が生まれています。

 私が『はだしのゲン』をはじめて読んだ時の興奮も思い出しました。あの漫画は原爆の悲惨さもあるけれど、話として斬新でおもしろかった。大人が勧めてくる漫画で、あんなワルい主人公はいなかった。ババアを騙して肥溜めに突き落とし、米軍からまんまと盗みを働き、給油口に角砂糖を入れる。そんなワルいガキが堂々としている作品は新鮮だったのです。いい子はお婆さんを騙さない、盗まない、車を壊さない。なのにゲンはなんなの? 私にとってあの作品は、ピカレスクでもありました。

 どうしてそうなるのか? 理解できないこともたくさんあるし、ゲンたちが激怒しつつ、広島弁で主張するところには激しすぎて近寄り難いものも感じました。それが彼らの人生だし、皮肉ったり笑い飛ばさないとやっていけないことは、成長して戦中を知る人の体験談等を読んでも理解できるようになりました。水木しげるにせよ、山田風太郎にせよ、めっぽうおもしろいことを言いつつ、戦争がらみになれば辛辣で厳しいことを言い出す。それは彼らのみならず、自分の周囲の人もそう。

 そういう善人の仮面を捨ててでも、語れない怒りややりきれなさがある。

 そこをどう捉えるかも本来大事だと思いますが、漂白はどうしても生じてくる。『アンネの日記』も、削除部分があったことは有名です。

 そういう生々しいアプローチをしているからこそ、本書はよいと思えました。現代人の規範にあわせてやたらと丸めることで、見えなくなることもある。朝ドラの『エール』がやらかしていることです。


<朝ドラ「エール」と史実>「鐘の鳴る丘」成功と復活の真相。実際の古関裕而は戦後すぐ活動再開していた?(辻田真佐憲) - Y!ニュース https://news.yahoo.co.jp/byline/tsujitamasanori/20201021-00203391/

 現代人でも理解できるように、戦争体験者の話を丸めてしまう。そのほうが数字も取れるだろうし。そういう流れは、戦争を描いたコンテンツのリメイクのために繰り返されてきました。もう、そうやって丸めることはできないという、そんな限界点に達したのではないかと、出来が良い本書を見てしみじみと感じました。

 ありのままの姿を現代人が見て、共感できないと思ったとしたら? 本来そういう見方は禁忌であるはずですし、被爆のような体験にまで共感を求めることは、はっきりと言えば思いあがりではありませんか。

 それに「ひろしまタイムライン」は、戦争への共感がどれほど粗雑に、邪悪に使えるか示しました。戦争中の少年になりきって、彼の持っていたものとされたレイシズムが投稿されました。そんな差別感情に共感する投稿が、現代人から続出したのです。

 長崎の企画が2019年で、ひろしまタイムラインが2020年。NHKでは一体何が起こっているのでしょうか。この長崎のように、広島の被爆体験継承も模索していかなければならない。そう強く感じた一冊でした。


 

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