ルーツを知ること、語ることルーツを知ること、語ること

 『ゴールデンカムイ』にどうしてこんなにハマったのか? 作品の出来そのものが素晴らしいということも無論ある。のみならず、北海道ルーツを持つ人間にとっては、自分たちの先祖が何者であったか辿ることに繋がっている点も大きいと思えるのです。

 かくいう私も、先祖は庄内藩の屯田兵だそうです。それまであまり意識していなったけれども、先祖が北海道に上陸し、アイヌの世話になったであろうことを想像すると、不思議な気持ちになりました。

 幕末史を調べていると、不思議なことにつきあたる。
 ペリーが来るよりも早く、東北諸藩はロシアの圧迫感に警戒心を抱いていた。幕府だって知ってはいる。蝦夷地警備もすることとなった。
 それなのに、幕末もののフィクションでは、西南の人々が開明的で、東北諸藩はノホホンと現実逃避した後進的な人にされてしまう。こりゃなんだ?
 どうにも引っかかる。そういう引っ掛かりを、『ゴールデンカムイ』の土方にせよ、鶴見にせよ、うまいこと消化している。中央に敵意を燃やし、東日本を見ようともしない連中にショック療法をやらかす。やっていることは反政府的でありながら、奴らがカッコいいのはそういう歴史の重みを背負っているからだと思えるのです。

 けれども!
 そこでピタッと考えが停止しかねないのは、アイヌの存在があるから。アシリパにせよ、キロランケにせよ、ウイルクにせよ。そんな和人の身勝手な都合なんて関係ないはず。むしろ、勢力争いに巻き込まれ、踏みつけられ、日本とロシアの政治によって引き裂かれてしまう。かれらが関与もできないところで、それまで暮らしてきたものが破壊されてしまう。かれらを巻き込んで踏みつけにして、正義もあったもんじゃないだろう。そこまで到達するからこそ、北海道の歴史やルーツとして意義があると思えるのです。
 そういうの、屯田兵側からすれば見たくない話ではある。自分たちの正義やルーツに傷がつくようで、アイヌを否定したがる人の言い分も理解できなくない。私は絶対に賛同しませんけどね。
 こういう話は、世界の歴史的な流れにもあっていると思えます。『赤毛のアン』を実写化したドラマ『アンという名の少女』を見ていると、北海道の歴史を思い出す。アンのような入植者は、イギリス本国では差別されるケルト系も多かったのです。けれども、フランス系を差別するし、原住民のことも下に見ている。
 開拓は大変だった。そこにはロマンがある。でも、その過程で踏んづけたものを見なかったことにしていいの? そういうことまで振り返らないと、もうフロンティアの物語は受け入れられないということでしょう。

 思えば、私もいろいろなことを忘れてきた。
 五稜郭は土方歳三の散った地。それを遡れば、ロシアに対して対抗するために作られた城郭だった。
 ジンギスカンはうまい。でも、本州では羊肉料理は根付かなかった。それでも道産子が食べたのは、食生活の貧しさがあってのこと。
 味噌がなかったから、三平汁は塩で味をつける。
 石川啄木にせよ、小林多喜二にせよ。彼らがああした作品を書いた背景はある。
 忘れたふりをしていたのか、思い出さないようにしていたのか。そういうことが脳裏をよぎるから、この作品を読んでよかったと思えます。
 プーチン大統領カレンダーをおもしろがっている場合じゃないんだ。もっともっと、考えるべきことはあったはずなんだ!


 そして一番、ファンブックを読んで強烈にガツンときたのが、自分の祖先も流暢なロシア語を話せたこと。
 自分のルーツなり、先祖のことなり、家族のことなり、自分自身のことなり。はっきり言って語る気も書くつもりも全くないのだけれど(大半の人はそもそも興味がないでしょう、天気の話のほうがマシじゃない?)。でも、自分のことはさておき、先祖の経験や歴史は語るべきなんじゃないか、残すべきなんじゃないかと思えた。
 それが、歴史を扱うフィクションの持つ力なのだと思える。

 『ゴールデンカムイ』をきっかけに、自分のルーツを語ることのできるアイヌの方はいると思う。そのことはもちろん素晴らしい!
 のみならず、北海道に関与している人々、和人自身も自分たちに向き合えるのだとすれば、これはもう大きな波が来ているのでしょう。

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