【麒麟がくる】宿敵秀吉考
空白期間をへて、『麒麟がくる』が再開されました。
駒との出会いを経て、顔出しをしていた彼が本格的に登場します。いよいよ、主役である光秀と顔を合わせます。この秀吉は、“宿敵”と表現されているのです。
英雄三傑のうち、光秀と対立関係にあるとされるのは、秀吉のみです。
光秀が討つことになる織田信長は、互いに特別な感情があることが示されています。信長は浜辺で光秀に会ったことを思い出す。泊まって話してゆけと引き止める。桶狭間の戦いの後では、褒められたい本音を光秀を前にして語ってしまう。
家康と光秀の関係は、幼少期から糸が繋がっています。まだ幼く、脱出しようとする竹千代に、光秀はせめてもの気遣いとして、美濃の干し柿を与える。光秀と縁の深い駒と家康は、何にでも効く丸薬を通した交流がある。
光秀が非業の死、麒麟の到来を見る前に倒れたあとのことを考えてみましょう。
光秀は死んだ、けれど彼の願った麒麟は到来する。徳川家康の天下統一により、いくさのない、麒麟の舞い降りた世が来るのだ――。
こう導くことで、光秀の生涯と願いは無駄にならないのだとすれば、家康は大事なのです。丸薬で光秀と家康を結ぶ駒も大事な役割があります。
英雄三傑のうち、この二人の役目はわかりやすい。では秀吉は?
天下統一が麒麟がくる仁政の訪れだとすれば、秀吉は麒麟を放逐する“宿敵”となることは、歴史からみても明白な話ではあります。
天下統一を成し遂げながら、海を越えて朝鮮半島にまで向かう。比較的安定していた朝鮮の統治は乱れ、政治が混沌としていた明は、ますます混沌の極みに向かってゆきます。むしろ海を越えた土地でまで、麒麟を追い払った! そんなことは光秀からすれば絶対に許せない話!
――と、秀吉が“宿敵”である理由は説明され尽くしてはいると思えますが、もうちょっと踏み込んで考えてみたいと思います。
陽キャ秀吉と陰キャ光秀
『麒麟がくる』休止中、過去の大河ドラマ総集編が流されました。それを振り返り、どうしてこの作品を選んだのか、私なりに考えてきたことはあります。
『国盗り物語』:信長、光秀、秀吉、帰蝶の像を昭和はどうみていたのか?
『独眼竜政宗』:戦国大河黄金期の空気
『利家とまつ』:ヒロインが良妻賢母しか想定されていないジェンダー観の時代
『秀吉』:秀吉VS光秀
『秀吉』は、言うまでもなく豊臣秀吉が主人公です。歴史がどうであったかだけではなく、作品というものは作られた当時の世相が反映されます。それはそうです。当時のニーズに応じられなければ、視聴率が取れません。
この『秀吉』について振り返っていると、どうにも嫌な気分にもなりました。理由はいろいろありますが、ライバルとしての光秀の位置づけです。
陽気で明るい秀吉と、優等生的な光秀――定番といえば、定番です。
何の定番か? 当時のフィクション像。明るく陽気で、細かいことにこだわらず、勢いとカリスマがあるのがカッコいい男。アタマからっぽのほうが夢が詰め込める。そういう造型です。大河だけでなく、少年漫画でもおなじみでした。
秀吉が生きていた当時は、その無教養ぶりや気さくさがどうにも嫌でしかたなかった人もいたことがわかります。明るく押し付けがましく、恫喝まがいのことをしてもいる。そういう厚かましさがホントないわ、嫌なんだわ……そういう反応もあったと伝わってはいます。
女好きだって、洒落になっておりません。大名夫人が秀吉に迫られた話だって、当事者からすればロクでもない話です。「家康が最も恐れた男」キャッチフレーズは冗談で済ませられる気もしますが、「秀吉が美貌に目をつけ無理矢理関係を迫った美女」はまったく笑い話にもならない……。
そんな秀吉が、どうして明るくお茶目で、愛されるキャラクター性を付与されたのか?
それは放送されていた時代に、大いに関係があるのでしょう。
秀吉の朝鮮出兵は、結果的に豊臣政権の寿命を縮め、無益な合戦で人命を損耗させた愚行として、江戸期は評価されておりません。それが再評価されるようになったのは、明治以降徳川政権が否定され、その一方でアジアへの進出が国家規模で進められるようになったからのことです。秀吉は、アジア主義の先例として讃えられたのです(失敗しているという点はあるのですが)。
明治政府首脳部が掲げた徳川への反発と、それを裏返す形での豊臣評価なんて、もう流石にないと言いたいのですが、そう言い切れないところもややこしいものがあります。
阪神圏の「東京もんには負けへんで!」感情とか。大阪には徳川家康の墓までありますし。
そんな大阪の誇る国民的作家・司馬遼太郎の影響等。
戦後となると、大アジア主義だの反徳川を大っぴらに持ちあげるのも苦しい。となると、秀吉の【陽キャ】ぶりがクローズアップされたように思えるのです。
【陽キャ・今大閤】の時代
庶民の生まれであるとされる秀吉は、その真偽はさておき、庶民的でともかく明るいキャラクター性にはマッチしていたと言えます。
教養や知性をひけらかす連中と違って、明るく陽気で親しみやすい。頭からっぽのほうが夢詰め込める! そんな少年漫画ぽさともマッチする。
女好きということだって、昭和の時代ともなればプラスにはなれど、マイナスにもならない。男性の貞操観念も時代によって異なるものですが、昭和は「英雄色を好む」が大っぴらに言われたものです。政治家のセンセイなら美人の芸者とムフフ。愛人に生ませた子がいても当然。むしろそうしないセンセイなんて真面目で親しみが持てないよな! 社員旅行に芸者を呼び、あの旅館にはいい女がいたと話しあう。それが大人の男の世界なのですから、秀吉のセクシャルハラスメントエピソードはむしろ親近感アピールにぴったりではあるのです。
美男子ではないあたりもいい。ブ男だろうが金と権力さえあれば美人も権力も好き放題にできるという、そんなロールモデルにも一致すると。
実像からは乖離しているひょうきんな秀吉像はどうしてなのか? それは時代の要請であったのでしょう。
教養にあふれている。愛妻家。美男。そんな光秀は、いけすかない学級委員長。そういう学園ドラマのような構図が、どうにも見えてくるようで、『秀吉』について考えている暗い気持ちになりました。
そういう幼稚な人物の理想像で、歴史を解釈する。そのことそのものが幼稚に思えて、どんよりとしてしまいました。暗い秀吉像は他の大河で描いたという言い訳はいりません。あの当時、どうしてああいう秀吉像になったのか。そこを考えないといけないのでしょう。「今大閤」という言葉は、プラスのイメージで使われていたものです。
昭和の時代、サラリーマンの花形であり戦力は、営業マンとされたものでした。
明るい笑顔で名刺を差し出し、飲みニケーションをこなし、喫茶店でスポーツ新聞のピンク小説を読む。そういうイメージ。
昭和のサラリーマンって一体何なのか? そう突っ込みたい話は出てきます。当時、そんな職場でついていけず、しばしば呆れ果てて憂鬱な気分になった方を知っています。
社員旅行での話題が、女とハゲのことばかり。芸者を呼ぶのも不愉快だ。営業職のご褒美にキーセン観光? 信じられない。そうぼやいてしまう人。
経理部で外回りがない。領収書提出を求めただけでからかわれる。直接売り上げに貢献できない地味な奴とバカにされる。そんな立場の人。
要するに、空気を読めない【隠キャ】とされるタイプということですね。
戦国時代を描いたフィクションでも、兵糧管理に細かい石田三成がバカにされ、加藤清正や福島正則がオラついている。前線をバリバリに突撃する猛将と、補給や兵站を管理する智将タイプでは、対立が描かれるものです。
ああした対立は史実に基づいているのか? 対立はあったにせよ、動機付けや演出面では当時の視聴者にあわせたことは、考えなくてはなりません。
なんで明るくユーモアたっぷりの秀吉像が定着したの? それは当時のニーズに応じたことはやはり考えていかねばなりません。
体育会系ジョックス・秀吉
昭和営業職のよくある特徴として、体育会系自慢もあります。
学生時代、スポーツをやっていた。県大会ベスト4出場! そういうことを自慢げに語ってくると。そんなもんだからなんなんだ、文化部所属としてはむしろトラウマをえぐるだけだから近寄ってこないでくれ。そう言いたい人も結構いると思いますが。
とはいえ、これは日本だけの話でもない。むしろ日本は、あの国の影響を受けているのかもしれません。
アメリカです。アメリカには、悪名高い“スクールカースト”が存在します。『進撃の巨人』おまけ漫画のネタにされているものです。
要するに、アメリカンフットボールはじめ、体育会系の選手(=ジョックス)。女子ならばチアリーダー(=クィーンビー、女王蜂の意味)が学校のヒエラルキー最上位にあり、文系や優等生はその下にあるという構造です。
この構造が、コロンバインはじめ銃乱射事件の背景にあるのではないかと分析されることもあります。“ジョックス”による性的暴行の揉み消しも、大きな問題となっています。
ノリで生きていて、その場を盛り上げられ、空気を読み、一致団結できる。そういうタイプが優れた人間とされる。そんな構造だということです。
ここで一点、日頃考えていることでも。
体育会系になれないからこそオタクになった。だからオタクは被害者であり、弱者であり、群れない存在だという誤解もありますが。そろそろそんな思い込みは捨てましょう。
オタクなりファンダムの団結力なり、熱気なり、統率力があるじゃないですか。
SNSのハッシュタグで盛り上がり、ファンアートを一斉に投稿し、『バトルシップ』放映時にはチキンブリトーを作る。オタクにはオタクの読むべき空気があり、空気が許す言動でRTやいいねを稼ぎ、仲間内で盛り上がる。そういう団結力は発揮する。それを誤った方向に使い、俳優や声優のSNSを休止に追い込んだりすることもある。
そこは自覚しましょう。空気を読まないし、本ばかり読んでいるし、ずーっと考察をしてブツブツ言っているオタクも存在する。宮崎駿氏あたりは典型的なそういうオタクかもしれない。
でも、漫画やアニメが好きだからといって、誰もが宮崎氏並の創造力や教養を身につけられるわけでもありませんよね。そこは切り分けて考えないといけないでしょう。
【陽キャ】がなんで偉いのか?
どうして運動ができる奴らが学校でいばり散らすのか?
営業マンが経理をバカにするのは一体何なのか?
休み時間に読書しているだけで、教師に「あの子が心配です」と言われねばならないのは何なのか?
現代を生きる私たちからすれば、馬鹿げているようで世の中そういうものだと言いたくもなりますが、こういう規範はごく近年のものであることは考えねばならないことです。
「晴耕雨読」という言葉があります。晴れた日は畑を耕し、雨の日は読書をする。そんな生活を一種の理想とする者です。この言葉のように、静かに自分の生活を楽しむ人にも彼らなりの生き方や美点があるという見方があったものです。
営業マンタイプは、むしろ農耕の時代には向いていない。狩猟に向いているとも思えない。書道家にせよ、陶芸家にせよ、それは【陽キャ】だからもっと明るくワクワク生きろと言われて、どういう反応をしろというのか?
営業マンのように、口がうまく、見知らぬ人の家にもあがりこむ才能は、かつては商人のようなものの才能とされていました。全人類が求められたものでもないのです。
産業革命や歴史転換結果、第一次よりも第二次よりも第三次産業の割合が高まると、【陽キャ】需要が高まったということです。
日本では、広告代理店が数字を動かしました。人の心を動かし、これがトレンディだと民衆を煽り、皆で一体化することが最高に盛り上がる! それが昭和の日本人でした。
「オリンピックの思い出は何ですか?」
昭和日本人がいかにもノッてきそうな問いかけです。ここでそもそも興味がないし、見ないし、記憶に残っていないと言おうものなら、どれだけ変人扱いされることでしょう。
しかし、21世紀を迎えてそれも変化しつつあります。昭和どころか平成も終わりました。
営業マンが名刺を配りまくるよりも、ITを使ったほうがいい。
お茶の間に集まってテレビを見るのではない。VODをタブレットでそれぞれが見る。
このコロナにおいて、個々人が一人で楽しむ時間を作り、気分転換しながら生きていくスタイルが根付く兆しが確定してきました。
時代はやっと【陰キャ】でもよくなった。以前に戻ったのでしょう。飲みニケーションが必須で、『気まぐれコンセプト』のようなノリがトレンディだった世界は終わるということです。
コロナの時代にこそ、麒麟と光秀、家康が到来する
『麒麟がくる』のレビューなり感想を読んでいると、光秀本人や演じる方をからかうような意見があり、こちらは思わず拳を握り締めてしまうことがあります。
そのひとつが「鈍兵衛」だ!
光秀は、駒や帰蝶に恋心を見せられようと、割とそっけない。そういうところが「鈍感だなあ、鈍兵衛だね」なんて言われますが。
これ、思い切り余計なお世話かつ、セクハラめいているということが認識できます?
他人の感想なんていちいち怒っていたらキリがありませんが。でも、こういう恋愛への反応が乙女ゲーか少女漫画みたいな、イケボでにやりじゃないとおかしいというような。そういう反応は余計なお世話だと言いたい。
光秀のあの鈍感さ。自分が好きではない相手には、エロを見せないこと。模範的な像ではありませんか。なんでもかんでもラブコメにする必要って、あります?
そういう感想をNHKが信じた結果が、2015年の壁ドンめいた描写までぶちこんできた、「幕末男子の作り方。」だということはこの先何度でも主張します。そういうもんが見たいなら、少女漫画でも乙女ゲーでも楽しめばいいでしょう。
作中の光秀までならともかく、演じる方がホストみたいにその場を盛り上げないとかなんとか、そういう記事もありました。彼の言動は、本人の知らぬところで勝手に水増しされ、ご本人も困惑かつ苦労しているので、そういうただでさえ大変な彼を苦しめるような報道は絶対許さんと言いたい。こんなに苦労しているんですよ、あんなに誠実で真面目に演技しているんですよ? 負担は軽減すべきであって、重くするべきじゃないんです。
そういうニーズは少女漫画と乙女ゲーで満たしましょう! 男性が対象ならばハラスメント的なことをネタにできるということを、私は光秀役の方が準主演であった朝ドラレビューをしていて気づきました。彼が拷問を受ける場面がセクシーだと盛り上がるネットニュースがありました。いたたまれない気分になりました。こんなのセクハラじゃないですか。彼はあざといエロだの萌えだのではなくて、知的で誠実な佇まい、追い詰められて鬼気迫る顔が似合うと思います。這いずり回って拷問セクシーを見せる彼なんて、私はむしろ、気の毒でむしろまともに見ていられませんでした……。
話がずれて申し訳ない。脱線癖は直したいんですよ。
ともあれ、『麒麟がくる』の光秀は、まだ誤解や偏見があると思える人物です。光秀は言うまでもなく美形ではあっても、キザな態度はそこまで取らない。暗い顔で読書をして、大丈夫かと思われる。気を落ち着けために蔵書整理をする。綺麗事ばかりを言っている真面目でつまんない奴と感想でまで言われる。
要するに、昭和の学級院長。
真面目でつまんないアイツ。
接待がわかってないアイツ。
領収書をきっちり保管して、経理に提出するアイツ。
飲み会に誘ってもなかなか来ない、来ても二次会には来ないアイツ。
きれいなお姉さんがいる店に行かないアイツ。
女子社員の見た目ランキングを嗜めてくるアイツ。
女をババアとかブスとか言わないアイツ。
母の日や結婚記念日にカードを贈るアイツ。
家の台所で食事も作るアイツ。
JKがかわいいだのエロいだの盛り上がっていると、咳払いして睨んでくるアイツ。
正論ばっかり言っているつまんねー奴。ノリが悪い陰キャ。そういう奴なんじゃないですか、光秀って。
でも、どうやらそういう陰キャにやさしい時代が来そうではあります。コロナが決定打になりそうですが、予兆はありました。
飲みにケーションを断る人が増えた。ハラスメントへの意識が変わりつつある。根性論、ナアナアの内輪ノリ。そういうものに頼って社会を回す世界は、変わりつつあります。
光秀の像が今の時代に一致することは、幸か不幸か、わかりません。けれども、人類のあるべき姿への回帰といえます。
人脈、コミニケーション能力が過剰に重視されるのは、第三次産業全盛期となった、ごく近年のこと。それ以前は晴耕雨読、隠居して生きる。そんな生き方も敬意を集めていたものです。
陽キャや体育会系、ジョックスやクィーンビーがドヤ顔をできた時代は、通り過ぎつつあります。そこにどう適応するのか、『麒麟がくる』にはヒントがあると思えてならないのです。
これから先も見ていくことで、はっきりするでしょう。
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