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この手の向こうに永遠を見る

身体は壺か神秘なのか?

先日プラム・ヴィレッジのオンライン・リトリートに参加してみました。プラム・ヴィレッジはベトナム人の禅僧・人権運動家・詩人であるティク・ナット・ハンがフランス南部に設立した瞑想センターです。ティク・ナット・ハンはダライ・ラマ14世と並んで、20世紀から平和活動に従事する代表的な仏教者で、著作も多く、マインドフルネス瞑想を世界的に広めた方でもあります。

お名前は以前から知っておりましたが、インドびいきだったゆえ、今まで著作を読んだことはありませんでした。ただ、ティルバンナーマライで仲良くなったドイツ人のおじさんがプラム・ヴィレッジの話を時々していて、最近はBCCで法話の動画を送ってきたりするので、心の片隅に引っかかっていました。そんな折に、オンライン・リトリートの告知を目にして、とっさに申し込んでいました。リトリート前に「ティク・ナット・ハンの般若心経」という本を読みました。

本を読んでまず感じたのは、自分が親しんできたインド系のスピリチュアルな教えとは随分香りが違うなぁ、ということでした。一言でいうならとても優しく、暖かい。私たちの世界、身体、大地を深く洞察し、親密につながることで固まった「自我」を溶解させていく、という印象を持ちました。

インドのスピリチュアルな教えの多くは、身体に対してあまり肯定的ではありません。ラマナ・マハルシは「身体は壺」、ニサルガダッタ・マハラジは「5大元素でできた食物」「一時的な病気のようなもの」と言っています。私たちは身体という極めて限定されたものではなく、深遠で時間を超えた(純粋な気づき、意識、真我、アートマンなどと呼ばれる)存在なのだという考えです。


もちろんティク・ナット・ハンが言いたいことは「私は身体だ」というのではありません。身体や世界の成り立ちを深く見ていくことでその「空性」を悟ることです。「私の身体」というひとつの独立した実体があるわけではなく、あらゆるものが相互に関わり合いながら、変化のプロセスの中にある現象に過ぎず、全体の機能のひとつであるという「現実」を見抜きなさいというのですから、たどり着く場所は同じなのです。しかしそうであっても、この身体、自然は途方もない神秘であり、真実へ導く大切な寺院だという、身体や自然に対するポジティブなあり方を感じました。

生まれることもなく、死ぬこともない


例えば「ティク・ナット・ハンの般若心経」の中で「不生不滅」、「生まれることもなく、死ぬこともない」という一節についてこう述べられています。

「私の体」はいつ生まれ、いつ死ぬのか?これを深く見ていくと「生まれた」という明確な地点がないことに気づきます。私の体が生まれたのは出産の瞬間でしょうか?受胎の瞬間でしょうか?そもそも「あなたは受胎する前にもうすでに存在していました。あなたを作っている要素のうち、半分は父親もう半分は母親の中にあって、それには遺伝子や染色体だけでなく、思考、信条、資質、才能なども含まれています。もっと遡るなら、あなたの祖父母や、曾祖父母、そのまた両親とその祖父母の中にも、あなたが存在していることがわかるでしょう。」ですから、私の誕生日は「単に私がそのような形になって現れた日にすぎません。」さらに言えば「私は大地、水、空気、火からできています。」

私が今自分の手を見て、深く問いかければ、その手は何百年、何千年もの間存在し続けてきた命の連なりのひとつだと分かります。大きな生命の活動としての現象の中では、ただ変化だけがあり、終わりもなければ始まりもありません。「生まれることも死ぬこともない」のです。私が自分の手を眺めるとき、実はそこに「永遠」があります。


一方「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの/ラメッシ・バルセカール著」の中ではこのように説明されます。

私たちの本当のアイデンティティとは非現象状態の中では「自分自身に気づいていない純粋な気づき」であり、「それが顕現されたとき、二元性の中で機能する意識となります。」「時間がなく、変化がない私たちの原初の状態、絶対的非現象の上に肉体付きの意識が何の原因も理由もなく、プラジュニャー(純粋な気づき)としての役割の中で、非個人的意識の「機能」の一部として、一時的病気のように現れた。」のです。
 「それぞれの現象的形態はその割り当てられた時間を勤め上げ、その寿命の終わりに自然に消えていきます。そして意識はその肉体的限界から解放されて、気づきの中に融合します。人は決して生まれたことがなく、また死ぬこともありません。」


この表現の違いが非常に興味深いですが、ひとつの真理を、別の次元から語ったものなのだろうと思います。マハラジの教えは、インドらしく高度に抽象的ですが、この世界に顕現しているものは全て、独立した個体ではなく「現象、現れ」といしている点は両者一致しています。

いずれにせよ、身体のレベルから見ても、意識のレベルから見ても、私たちは「生まれることもなく、死ぬこともない」というのは確かだということです。

ふたつの幸せ

3日間の短いリトリートでしたが、自分の身体や世界、その自然に深く繋がれる法話や瞑想は、つい見失いがちになっている「足元」を思い出させ、閉じていたチャンネルを開いてくれたように感じました。

プラム・ヴィレッジはフランスにあるので、夜の瞑想は日本時間の夜中3時になります。(でも、実は日本語のサイトがあって、ちゃんと日本時間で運営されていたことを後で知りました。)

夜、仮眠を取って、3時に起きてズームにログインして瞑想します。初日は「母なる地球と繋がる」というガイド瞑想で45分ほどの長さだったのですが、不思議なほどに深い静けさがやってきて、終了後もしばらく座っていました。気が付いたら空が明るくなっていました。

とてもとても美しい時間でした。夜が明ける前の深く青い空を見ていると、心の深くが開かれるようで、その深い青に自分の静かな心が溶け広がり、澄んだ喜びがやってきます。満ち足りた思いで寝直すことにして、その時ふと、幸せには2種類あるのかもしれないと思いました。

「私」が望むことを手に入れた時の幸せ、そして「私」が消え去った時にやってくる幸せです。前者はあれやこれやの望みを達成した時に手にする、トロフィーみたいな幸せ。それは他の人にも、見せて自慢することができて、飾って並べておけるようなものです。「仕事での成果」「高価で美しい所有物」「素敵なパートナー」とか。それを得ることで「私」の肯定感や自信を高めてくれるものたちです。

一方「私」が消え去った幸せは、とても儚いものです。それはふらりとやってきて後には何も残りません。人に自慢できるようなものでもありません。それは雨の音を一人聴いている時や、海に体を浸した時の心地よい水の感触、月明かりを浴びて空を眺めていたり、好きな音楽で踊ったり、夏の美しい夜明けの鳥たちのさえずりの隙間にふっと現れます。その瞬間「私」はいません。空を覆っていた雲が流れ去って、その間から月の輝きがきらりと放たれるように。

でも大抵「私」が消え去るのは、ほんのまばたきほどの瞬間です。油断するとすぐに「私」が戻ってきて囁き始めるのです。どうやったらこの幸せを増幅させられるか、長く続くにはどうしたらいいか、いつもそばに置いておくには何が必要か。
あるいはこう言うかもしれません、「いやいや、もっとすごい何かがあるはずだ。」「こんな風にぼーっとしていちゃいけない、このままではいけない。」

そして、その幸せはすっかり消え去っていきます。ほんの少しの間ハートの奥を開け放って、爽やかな風が通り抜けた微かな余韻だけを残して。その幸せは標本にできず、並べておくこともできませんが、ただハートの目を深く見開けば、お金も手間もかからずふらりとやってきます。どこか遠くへ行く必要もないのです。

トロフィーのような立派な幸せよりも、こうした小さな儚い幸せの奥にこそ、私たちの「存在」の秘密に触れるキーが隠されているのだと思います。

いえ、本当ところは私たちが幸せになるには一輪の花すら必要ないのかもしれません。豊かさは私自身の中心に、この呼吸の瞬間にいつも広がっているのですから。


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