夕焼けに染まる月

教室の扉が開いて、涼しい秋風が部屋を包んだ。引き戸式のそれを開けたのは僕じゃない。アクセサリーの鎖が鎖骨の一部を隠している彼女だ。身に着けている月のネックレスは、窓から差し込んでくる太陽光を反射して月光の原理を目に焼きつける。彼女はなんで? と少しだけ目を丸くしたけれど、すぐにまあどうでもいいかとでも言いたげに直角に体全体を曲げる。別に彼女はしゃべれないわけではない。ただ、声が細いことを気にしてあまり喋らないようにしているのだ。だから彼女にとっても、僕にとってもこのそっけなさはいつものこと。今が放課後なのも、人の横幅一人分とちょっとの、遠すぎず近すぎない物理的距離も、近すぎず遠すぎない心的距離もいつも通り。いつもと違うのはここが部室じゃなくて、彼女の教室であり、高校一年生の僕からしたら一学年上の教室であるということだ。当然ここは僕の教室ではない。彼女にかける言葉を見つけられず、そわそわと体を揺らしていると
「どうしたの? 」
とやっと声をかけてきてくれた。今にも切れそうな糸のように紡がれた声は他の誰かなら聞き逃してしまうかもしれないけれど、僕はいつも通り聞き取る。
「先輩、夕川先輩に用事があって」
 夕川 早紀、それが彼女の名前である。そこはかとなく七夕の乙姫を連想させる彼女は、しかしながら川で彦星と断絶されるほど強欲なわけではなく、自分のことを着飾ったりしようとしない。そもそも恋人はいないらしい。彼女の同級生で、僕の部活の先輩にあたる方々がそう言っていた。あんまり色恋沙汰には興味がないと話していたとも。夕川先輩は僕と太陽を横目で視界に入れながら
「そうなんだ」
 疑問形で僕を急かすことはしない。そんなそっけない彼女なりのさりげない配慮は僕以外ならきっと気づくことはないけれど、気づけてしまう僕はその優しさに甘えすぎてしまう。だから
「そ、そうだ。先輩、最近新しくドーナツ屋が近くにオープンしたんですよ。でも、野郎一人じゃなかなか入りにくくて……。一緒に行ってくれませんか? 」
 用事と聞いて少し体をこわばらせていた彼女は少しだけ緊張していた体をリラックスさせるかのようにため息を一つ吐いた。そのため息には、そんなことか、が込められているような気もする。彼女は首肯とともに
「いいよ」
と呟く。太陽光と月光が共存するこの教室は彼女の名前の頭文字が良く似合う、まるで主役みたいだなんて思いながらその場をあとにした。
 廊下は、放課後ということもあって閑散としている。二人の男女が歓談を交えながら隣同士に歩いている姿を見て後から煽ってくるような人間は部活で青春を送っていることだろう。だから二人の男女は特段騒ぐわけでも、だんまりを決め込むわけでもなく、思うままに会話を交える。しかし、さして会話が上手くない僕らは
「今日、学校どうでした? 」
 と聞いてしまうし、それに
「まあ、普通だったかな」
なんて返してしまう。そうやって途切れた会話は途切れたままにして、次の会話の切り口が思いつくまで校内を進む。そこには他の人なら覚えるだろう気まずさはない。教室のある5階からの下り階段に差し掛かった時、今度は夕川先輩の方から
「最近、勉強の調子どう? ついていけてる? 」
 そう聞いてきたのは、彼女に天才的な学があるからじゃない。たしか成績はこの学校じゃ普通だったと思う。僕の成績もまた中の中だ。
 
そう聞いてきたのは、10月に行われた中間試験前に図書館で会ったからだ。先生の、試験勉強をしろ、なんて小さい頃から散々言われてきた言葉を僕はなんとなく真に受けた。それでなんとなく勉強できそうなイメージのある図書室に向かったけれど、そこには人が多くてとても集中できる環境ではなかった。だから、少し遠いけれど語感も似てて、ここより広い図書館に向かおうと考えた。少し遠いとは言っても、徒歩通学である僕の通学路の途中だったこともあって特に躊躇はなかった。
一人、特に何かを考えるわけでもなく目的地を目指す。自動ドアが僕を感知して開くと、そこには僕と同じ服を着た人から、ご年配まで様々な人がいる。けれど期待通り館内は図書室に比べて広く、人口密度は比べて低かった。机に向かうとそこには見覚えのある顔があった。言うまでもなく、夕川 早紀先輩だ。彼女は元から声が細いからか、それともここが図書館だからか、小さな声で
「こんにちは、あなたも勉強? 」
と尋ねる。真向かいに座りながらそれに答える。
「はい、なんとなく今回の試験は頑張りたくって」
 この言葉には偽りはない。彼女は口の代わりに目で、ふーん、と伝えてくる。
「先輩も勉強ですか?」
 声量をなるべく抑えて聞く。彼女は小さくうなずくと、ショートボブみたいな髪に少し触れてから下を向いて勉強に戻る。僕も勉強道具を鞄から取り出してとりあえず、と試験のための課題を進める。
しばらく、紙のめくれる音と、シャープペンシルの走る音、それから通行人の足音だけが空間を占める。その独占とでも言えそうな状態を破ったのは、柄にもなく僕だった。
「うーん」
 小声でそう呟きながら髪をいじる。数学の確率について解説を見ても分からない問題が出てきたのだ。見れば見るほど複雑化していく問題に文字通り頭を抱えた。実際はどちらかと言えば首だったけれど。
「どこが分からないの? 」
 目を見開いている夕川先輩はいつの間にか顔を僕のノートに近づけていた。
「こ、この問題です」
 動揺して声が震えてしまう。彼女の髪から良い匂いが少しだけ漂ってきて、身構えてしまう。けれど、彼女はそんなことはお構いなしに問題を解き始める。ああ、と声を漏らしたあと
「これって、ここがこういうことで」
 スポットライトの当たった主役のように淡々と喋る彼女は、僕の間違いを的確に指摘して分かりやすく修正してくれた。
「ありがとうございます」
 本当は、声を大にして伝えたかったけれど、ここは図書館だったから声は小にせざるを得ない。
「昔、私もこの問題分からなかったから」
それだけ告げて、彼女はまた自分の勉強に戻る。僕も少し問題をおさらいしてから次の問題に向かった。その後、時々先輩はこちらを見ていた気がした。けれど、その都度彼女の方を向いても、そこにはひたむきに勉強している姿しかなかった。次第に、その視線も気にならなくなり、課題にのめり込んでいった。
少しだけ違和感を覚えながらも3時間ほど情報のインプットとアウトプットを行うとすっかり窓の外は暗くなっていた。無言の空間に言葉を取り戻したのは、今度は夕川先輩の方だった。
「私、もう帰る」
 文面だけだと不機嫌そうだけれど、彼女の口調はいたってそっけないものだった。せっせと帰宅の準備をする彼女に、なんとなく合わせて僕も帰宅の準備をする。彼女は準備を終えてもすぐに図書館を出ず、僕を待っていてくれた。僕は少し焦りながら帰り支度を済ませると
「お待たせしてすみません。それじゃあ、帰りましょうか」
 と伝える。彼女は言葉の代わりに、歩き始めた。
 図書館の外に出ると、口を開いたのは夕川先輩の方だった。
「別に私に合わせる必要なんてなかったのに」
 理由を答えようとしたけど、なんとなくそうした以外の答えは持ち合わせていなかった。
「なんとなく、ですかね。僕も疲れちゃいましたし」
 返答はなく、僕は言葉を続ける。
「そういえば、さっきはありがとうございました。あの時教えてもらえたから、この3時間をより有意義に過ごすことができました」
 彼女は少し照れくさそうな笑みを浮かべると
「そこまでかしこまる必要ない」
と優しく話す。返答よりも先に彼女は続ける。
「これ、交換しよう。分からないことがあったら気軽に連絡して」
 彼女はメッセージアプリの画面を開いている。
「あの先輩、僕達もうアカウント交換してますよ? 」
 首を傾げる彼女に、空のトーク画面を開いて見せる。
「会話は全然してないので忘れてても仕方ないですけど、部活のグループトークから一応交換させてもらってます」
 夕川先輩は、ふーん、と言葉にする代わりに息を漏らす。
「そっか」
 止まってスマートフォンを見つめる彼女からスタンプが送られてきた。
「これでもう忘れないと思う、あんまりは速くないけどなるべく返信するから」
 彼女の純粋な優しさに僕は純粋に
「ありがとうございます」
 と口にする。あとは、部活のこととか、部の先輩のこととか、テストは受けたくないとか、たわいもないことを話した。月に照らされながら進む二人は途中で小さく手を振りあって、道を違えるのだった。

 その前から部活で絡みはあったけれど、これを機に僕達の距離は縮まるようになっていた。別に、トーク画面にふきだしが溢れたからじゃない。僕も、それから彼女もメッセージアプリを使うのはあまり得意じゃないのだ。送ったのはせいぜい、図書館から帰宅した僕の感謝の旨と彼女の感謝の安売りなんて定型文的な返信、それから数回のスタンプのやり取りくらいだった。僕達の距離が縮まったのは、テスト後に夕川先輩から話しかけてきてくれたからだった。
「テスト、どんな感じだった? 」
 それまでは僕から話しかけることはあっても、彼女から声をかけることなんてなかった。僕はそれに少しの喜びと驚きを覚えて
「あっ、先輩のおかげでそれなりに上手くいきました。先輩が教えてくれたところも出ました。本当にありがとうございます」
 気にしなくていいよと手を振る彼女に数秒間を空けてから
「因みに先輩は? 」
 彼女は返答に数秒迷うと、ゆっくりと口を開く。
「私も普段よりできたかな、ありがとう」
ありがとう?首を傾げながら
「先輩が感謝することなんてなにもないですよ」
 彼女は少し口角を上げて首を横に振る。
「私、本当は二時間で帰るつもりだったんだ」
 でも先輩は自分から帰ると言い出した。それなら、二時間で帰るのも三時間で帰るのも彼女の自由のはずだ。
「いや、私が帰ると言った時は、諸事情で帰らなきゃいけなかったんだ。でも、本当は一時間位早く切り上げて、だらけるつもりだった」
 でも、と言いながら視線を僕に合わせる。
「あまりに熱心に勉強してるあなたを見て、私も負けてられないなって」
そうだったのか。僕は、でも、と口ではなく心で唱えて
「それは結局、先輩が自分で決めたことです。僕に感謝することなんかじゃないですよ」
彼女は無表情のまま
「私も感謝されるようなことはしてない。お節介と言われてしまえばそれまで。でもあなたは私にしつこいくらい感謝したでしょ? 」
 彼女からいつもの無口さは消えていた。本当は、喋りたいことをいつもは抑えてるのかもしれない。
「しつこいと思ってたんですね」
「言葉の綾ってやつ。あんまり気にしないで、私もそこまで気にしてないから」
 少し落ち込んだ僕の言葉にさらっと返して言葉を続ける。
「私もあなたにありがとうって言いたいと思ったからそう伝えたの。一方的に感謝されてるっていうのもちょっと嫌だし」
 そういうものだろうか。彼女はいつもの人の横幅二つ分の距離感から近づいて
「それに勉強が面倒な時も、毎回あなたの姿を思い浮かべてたの。だから、今回いつもよりテストが上手くいったのは間違いなくあなたのおかげ。本当にありがとう」
 これ以上なにか反論するのは無粋だし、これ以上なにか反論する言葉は思い浮かばなかった。彼女はあっ、と口に出して
「不快な思いをしたらごめん、私にしては喋りすぎだった」
 そういう彼女になるべく優しい口調で
「謝ることじゃないですよ。確かに驚きましたけど、先輩の知らない一面が知れた感じがして良かったです。全然不快じゃないですよ」
「そう? それなら良かったのかな」
 彼女の糸みたいに細くて震える声はいつも以上に震えていた。
「良かったら、また先輩の話を聞かせてください」
「あんまり面白い話は出来ないと思うけど、それでも良ければ」
 夕川先輩は、どういった表情を浮かべればいいか分からなそうな顔をしていた。僕は首を縦に振った。

  こうやって段々と雑談をするようになっていき、先輩からも昨日見たテレビの話だったり、明日の旅行の予定だったりをはなしてくれるようになった。遊び、ではないけれど図書館でまた勉強したり、部活後に手ごろな菓子を買って食べ歩きしたりとプライベートでも関わるようになった。そして、今日は部活はないけれど、ドーナツという手ごろな菓子を食べに向かっている。僕らの間には人の横幅一人分のスペースもなくなっていた。
 長い回想を終えればもう階段は下り終わっていて、校庭が見えてくる。あまり広くない校庭では部活が曜日ごとに小さなスペースで練習するしかない。もっとも、僕らのような文化系の部活には遠い話だけど。今日は陸上部と、テニス部が活動日らしい。汗をかきながら運動する彼らはいかにも青春を謳歌するという言葉がふさわしく、僕らには縁遠い存在だった。統一感のある声達を横目に夕川先輩の足早なペースに合わせて校門を抜けようとしたけれど、実際は少し目を校庭へと移してる間に距離が開いて校門を出たところで待たせてしまった。校門の先で僕に真正面を向いて待つ彼女は、その風景の主役になっているみたいで、とても絵になっていた。
「すみません、待たせてしまって。行きましょうか」
「あっ、こっちもごめん」
 彼女は体を回転させてまた歩き始めた。今度はペースが落ちていて僕が置いて行かれることはなかった。また話したいときに話して話せなくなったら会話が不自然に切れる、そんな時間が戻ってきた。少し話してから、僕は思い出したように聞く。
「そういえば、先輩は文理選択とかどうやって決めたんですか? 」
 今日、高2の文理選択についての希望調査書をもらった。でも、まだ希望の大学や学部も決まってないどころか、まだ大学受験という言葉が現実的に思えない僕には希望なんてないのだ。せめて得意教科とか苦手教科とかあれば良かったけど、僕にはそういうのも特になかった。先輩はどうして理系にしたのか純粋に気になった。
彼女は少し黙ってその話を不自然に切ろうとした。けれど僕が絵のような彼女の横顔をじっと見つめると、少しの間空を仰いだ。頭を戻して、僕の方に向き直ると
「私の決め方は参考にならない。止めておいた方がいいし、あんまり聞かないでほしい」
「そうですか、分かりました」
 今までで、一番の拒絶に戸惑う。返答に迷った挙句、お世辞にも良い返答にはならなかった。気まずい、重苦しい雰囲気が漂う。砂漠を漂う放浪者のような気分の一歩はいつもより時間がかかってるように感じてしまう。ドーナツ屋はそこまで遠くないはずなのに、近づいても遠くに思えて、オアシスのようだった。
「いらっしゃいませ」
 やっとたどり着いたドーナツ屋の店員が定型文を唱える。オープンしたてのわりに立地があまり良くないことや今日が平日だからだろうか、店内には高校生が数人ほどしかいなかった。顔見知りの顔は一人もいなかった。結局、あの後会話が交わされることはなかった。
「店内で……」
 と夕川先輩は、何気なく注文する。そして、僕の方を向き何気なく
「あなたはどれ頼む? 」
彼女の表情から心情は親しくなってからもあまり読めず、案外気まずく感じていたのは僕だけかもしれない。一呼吸してから
「これと、これと……」
店員に指さしで説明する。店員が注文を確認するけれど、初めての店の横文字の名前は呪文のようでとりあえず頷くことしかできなかった。店員がトレイにドーナツを乗せてレジへと向かう。
「お会計は○○円になります」
 生々しいので隠したけれど、想像してたよりも高い値段だった。高級志向というやつというほど高くもなかったけれど。
「まとめて払っちゃいます」
 と夕川先輩が財布からお金を取り出す。そして僕に視線を合わせて
「後で、私に代金渡して。端数はさっき気まずい思いさせたお詫びとしてこっちが持つから」
 彼女はきちんと繊細だった。僕は、悪いですよとか言葉を紡ごうとしたけど、やっぱりやめてご厚意に甘えることにした。
「それじゃあ、ありがとうございます」
 彼女にそう伝えると、何も言わずに笑みで返してきた。
「お釣りは○○円です。ごゆっくりどうぞ」
 店員は棒読みのような感じで伝えると調理場へと戻っていった。財布にお釣りを戻す彼女の代わりにトレイを持った。
「席はあそこでいいですか? 」
 適当な席を人差し指で指すと、彼女は首を縦に振った。その席は周りから少し離れたところに位置していて、外からも見えにくい位置にあった。席に向かって歩く足は、他人の分のドーナツも持っているからか慎重になる。ところどころ狭く感じられて、そこに人が行かないのもこの店が繁盛してるとは言い難いのもなんとなく納得がいった。
 トレイを机に置くと、安堵からくる脱力感のまま席に腰をかけた。
「ありがとう、さっそくいただきましょうか」
 いつの間にか僕を追い越していた夕川先輩はオーソドックスな形状のプレーンのドーナツを手に取る。
「そうですね、いただきます」
 僕はチョコが一部かかっているオールドファッションに手を伸ばし、口にする。甘さが口内に広がるけれど、生クリームをそのまま使うような甘すぎる感じはせず、オールドファッション特有の触感が新鮮で、美味しかった。コーヒーは普段飲まないし、得意なわけではないけれど、コーヒーを頼んでおくべきだったという後悔をチョコレートの少しだけ苦い後味とともに覚える。食べることに夢中になっていたけれど、食べることは真の目的じゃなかったことを思い出して夕川先輩を見た。
「先輩、何してるんですか? 」
 彼女はドーナツの穴を自身の左目に合わせている。それは、普段の彼女とあまりにギャップがある行動で絵にでもしたくなった。
「覗いたら分かるかなって」
「何がですか? 」
「あなたが隠してること」
 見抜かれてるとは思わなかった。
「私に直接で言わなきゃいけないほどのことだったんでしょう?だから確実に会える教室で待ってた」
 彼女は小説の探偵役のような感じで話を続ける。
「ドーナツ屋に誘うなら別にメッセージアプリで前もって言ってくれれば良かった。本当はあの教室でもっと別のことを伝えるつもりだったんでしょ? 」
 僕は全てバレた犯人のような感じで
「その通りです。言いたかったことは、別にあったんですけど緊張しちゃって……。どうしても対面で伝えたかったはずなのにそれに負けてテキトーなことを言いました。すみません」
 僕は深々と頭を下げた。
「いいよ」
 と言われて頭を上げた。
「それで、結局用事って何? 」
 彼女もうすうす気づいているんだろう。それでもあえて言うことはしない。そういうのはやはり僕が言わなきゃいけないと暗に示している。僕は深呼吸を一つしたあと、声に出す。ひどく震えていて今にも途切れてしまいそうだった。
「好きです。付き合ってください」
 やはり彼女はそこまで勘付いていたようで
「やっぱりそういうことだったんだ」
 と口にする。他の店員や客には多分届いていないのだろう、ここにだけ異様に緊張感が集中している。彼女は、中々口を開かない。
 放課後なのに夕川先輩が戻ってくることを確信して教室で待っていたのも、彼氏がいないのを知っていたのも、僕が彼女に好意を持っているから集めた情報だ。因みに前者は、日直の担当の日をあらかじめ、先輩のクラスメートに聞いておいた。もちろん、直接話すために待ち伏せをしたのも告白をするならメッセージアプリより対面の方が後悔がないと思ったからだった。僕が単にメッセージアプリを使うのが得意じゃないからというのもあるけれど。
 いつからだろう。図書館の一件が、転機だったけれどそこで好きになったかと言われると自信をもって答えられない。ただ、どこかで好きになっていつの間にか想いが溢れるようになっているのは間違いない。振られてしまったなら潔く諦める、いや諦めなきゃならない。そういうリスクを負ってでも、この気持ちを届けたいと思った。
 二人だけの長い沈黙の末、彼女の唇が動き始める。
「ごめんなさい」
 彼女の言葉は意外にもすんなりと僕に受け入れられた。でも、と彼女は続ける。
「それは、このままでいたいから。だって、彼氏と彼女みたいな特別性の高い関係は一時は強固に繋いでも、すぐに消えてしまうから。君を嫌いなわけじゃないし私も大切に思ってる」
「先輩は僕に、振った相手に今まで通りでいろ、なんて残酷なことを言うんですか! 」
 声は大きくないけれど、そこには嘆きと怒気と悲しみが含まれていた。受け入れたはずの結論が受け入れられない。振るなら、そんな中途半端に振らないでほしい。だって、もう言ってしまったんだから。もう今まで通りを装っても、今までの関係には多分、戻れないだろうから。彼女はいつも通り、何気ない感じで
「言うよ」
 あまりに自然に紡ぐから僕は口を開けたまま、発声することができなかった。一呼吸おいてから彼女はまた糸のような声を紡ぎ始める。
「これは、告白への返答で、私の告白なんだ。歪んでるかもしれないけど、あなたのことが好きだから、私は今まで通りの関係でずっといたい、そう告白したんだ」
 僕には二つの選択肢がある。彼女の告白を受けて今まで通りに戻れなくても、今まで通りを演じ合うという選択肢。それか、彼女の告白を拒んで関係を断つという選択肢。どちらを選ぶか、考える必要はなかった。
「先輩、これからもよろしくお願いします」
 後者を選んだら、僕は部活を辞めなきゃいけなくなる。それは嫌だったし、何より僕も彼女と一緒にいたい、そう思った。告白を拒まれても、そう思えるほど愛おしかったんだ。彼女はこくりと首を縦に振った。
 急いでドーナツを食べると、味は良く分からなかった。財布を雑に鞄から取り出して、財布から端数を除いた代金を取り出した。
「これでいいですか? 」
 気まずくて、ばつが悪くてすぐにここを抜け出したかった。彼女は
「うん」
とだけ口にする。それ以上僕は何も言わずに店外へと出た。日はオレンジ色に空を染めるようになっている。吐き捨てるように
「眩し過ぎだよ、馬鹿」
 誰にも届かない声は空へと消えていく。走ってその場を去った。

 ドーナツ屋に一人、私は取り残されてしまった。もう少し、個性的なものを頼めば良かったな。単調な味じゃ、舌の肥えてない私じゃコンビニで売ってるドーナツと区別がつかない。
「嘘ついちゃったな」
とドーナツと一緒に飲み込めない後悔を吐き出す。その嘘は、彼とこの関係のままでいたいという言葉とか、彼を好きだって感情じゃない。私の嘘はもっと、小さくて、嘘とも言い切れないようなものだけど、やっぱりそこには特有の罪悪感のあるものだった。
 その嘘は、私が彼と付き合えないと言ったのが特別性の高い関係はすぐに消えてしまうから、というところだ。確かにそういう側面があるのは事実だし、私が彼と付き合えないと言った理由にはこういうところもある。でも、そこは本質と、本当とズレてる。私は、嫌われたくないから、付き合えなかったんだ。
 私にはちょうど一年前、一つ年上のテニス部の彼氏がいた。推薦受験で進路を決めたからか、その人は今日もテニス部の活動に参加していた。だから、私を一人にした彼を置いて、私は足早に校庭を抜けたのだ。一年の夏頃までの私はテニス部で、何回かその人とは交流があったけれど、そこまで話したりする仲ではなかった。親しくなったのは理由を思い出せないけれど、勉強しようと思って図書館に向かった時だ。そこにはあの人が先にいて
「君も勉強? 」
「はい、先輩もですか? 」
 そうやって始まった二人での試験勉強で、答えを見ても考えても分からない問題をその人は優しく教えてくれた。ちょうど、もうドーナツ屋から出て行ってしまった彼の、分からないと言ってた問題と同じだった。そこで、ラインを交換してよく話すようになった。
 いつの間にかその人のことを好きになった私は、すぐに理系に進もうと決めた。そうすれば、あの人と話す機会も話題も増やすことができるようになると思ったからだ。そしてあの日、
「好きです。付き合ってください」
「いいよ」
 その三文字が私には嬉しくて仕方なかった。そうやって付き合い始めてしばらくは全てが鮮やかに見えた。今でも身に付けてる月のネックレスをあの人からもらった時は、それだけで泣きそうになってしまった。そのくらい幸せで、この時間がずっと続いてほしいと願っていた。
 でも、時間が経つにつれて互いの知りたくもなかった側面を知ってしまった。隠していたものが段々隠しきれなくなって恋は冷めていってしまった。恋の終盤にはよく些細なことで喧嘩をするようになっていった。
「ごめん、もう別れよう」
 三月に彼が告白したその言葉はすんなりと受け入れられて、私は首を縦に振った。涙は止まらなかったけど、それでも私の中で受け入れられたと今でも思ってる。私はテニス部を辞めて、別の部活に転部した。
 付き合ってしまったら、また同じように知りたくない面を知って、好きから嫌いに変わってしまう。それが嫌だったのに、彼の好意を逸らせずに告白までさせてしまった。私のあの頃の好きまで否定してしまうことになる気がして。彼はどこまでもあの頃の私だった。彼の目的がドーナツ屋に誘うことじゃないことだって気づいたのも、あの時の私と彼がかさなって見えたからだ。
 鞄から眼鏡を取り出してかける。配慮に欠けるあの人が、似合わないねって言ったそれは私にも到底似合ってるとは思えなくて、彼の前ではかけないようにしていた。私は彼によく見られたくて、好意を持たれ続けたかった。
「馬鹿だな、私」
 と呟いたけれど、あの時のように涙は流れなかった。

 このハッピーエンドともバッドエンドとも言い難い物語の主役は、しばらくすると外に出て夕焼けに染められる。そこには、もう月が少しだけ浮かんでいて彼女の胸元の月と同様に照らされている。眼鏡は彼女のために作られているかのようで、とても絵になっていた。

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