憂鬱な妖精

 プロローグ

今日のお昼は学食にしよう。いつもは母が父の分まで合わせてお弁当を作ってくれるから学食を利用するのは母が寝坊した日と決まっていた。

 愛妻弁当ならぬ愛母弁当を断るのに少し申し訳なさはあった。マザコンではないけど、いつも自分の時間を惜しんで作ってくれる母の気持ちを無下にするのはいかがなものか。そう思いながらキッチンの母に深呼吸を一つして、

「きょ、今日はお弁当はいらないよ」

 らしくもないことを言うもんだから声が上ずってしまった。

 それに対して母は、意外にも驚く素振りすら見せなかった。僕への返答の代わりに鞄まで戻って財布を取り出す。そこから五百円玉を一つつまんで僕のほうに差し出す。

 どういうことだ?戸惑っていると母が、

「あ、もしかしてそういうこと?誰と一緒に食べるの?」

 そういうことがどういうことか分からないが、

「優花を誘おうかなって」

 とりあえず聞かれたことには、答えるのが筋だと思う。なんで誰かと一緒って分かったんだろう?

「優花って保育園からの幼馴染みの猪方 優花ちゃんのこと?」

「そうだよ」

質問の返答を聞いて母は何故かにやけ顔を浮かべながらぶつぶつ呟いている。そして、僕に開き直って

「しゃんとしなさい!」

パシンと母に背中を叩かれた。怒っている訳ではなく笑っているようだ。

パシンと今度は優花に頬を叩かれた。近頃の女性は知らないのかもしれないが、男性も体を鍛えていなければ女性からの打撃は痛いんだ。場面は切り替わって今はもう大学での昼休みになっている。

「それ、私が太郎のためにお弁当作ってるって勘違いしてるからね。ついでに五百円玉はお昼代ってことよ」

 叩いても優花の怒りは静まることなく、むしろ強くなるようだった。髪に手をあてながらも矢継ぎ早に

「陽子さんに訂正してね!約束してくれないなら太郎の用事も聞いてあげない」

陽子とは僕を名前で呼ぶ母の名前だ。

「それは困るよ。分かった、約束する。優花じゃないとダメなんだ」

 スタスタと歩く優花の手を握りながら言った。瞬間、優花はまた怒ったのか耳が赤くなってきた。ただ紡がれた言葉はいつもよりもか細かった。

「えっ、それってこく……。じゃあ、陽子さんのしゃんとしなさいってそういう意味なの?ひょっとしてさっきの話も前振りだとしたら……」

「優花はずっと僕のことを一つ年上だったこともあって実の姉のように見守ってきてくれたよね」

「う、うん」

 優花は少し俯きながら答える。

「家が近所だったこととか親同士が仲良かったのもあって、いつの間にか一緒にいるのが当たり前になってた」

「そうだね」

 優花は少し神妙な面持ちで僕と目を合わせる。少し動揺したが、目を背けることなく話を続ける。

「小学校も中学も高校もずっと一緒だった」

「しつこく追いかけてきたんだよね」

 照れ隠しのように優花は笑みを浮かべながら言った。僕もぎこちない笑みを浮かべながら

「辛い時もいつも支えてくれた」

「それは私も同じだよ!」

 優花が勢いよく言った。少し落ち着いてから

「太郎はいつも私の」

 遮るように、僕はいつもより少し大きな声で言う。

「そんな優花にだから聞きたいことがあるんだ」

「何?」

僕は口を閉じてしばらく言おうか迷ったあと口を開く。

「僕の長所って何だと思う?」

「へっ?」

 優花の血の気が引いていくのが分かる。そして、僕に背を向けて

「呆れた」

 と吐き捨てるように言った。この感じは昔からだけど、相変わらず慣れることはなく全身が震えあがってしまう。

「待ってよ、優花姉。優花姉にしか頼めないんだよ」

 優花は振り向いて

「その呼び方やめてって言ってるでしょ!期待して損した」

「期待ってどんな期待?」

「っ」

優花は面を食らったような顔をする。ひそりと、

「そういうとこだけ勘が鋭いんだね」

 泣きそうな声で言った気がした。僕は、

「ごめん、聞かない方が良かったね。気が回らなくて、本当にごめん」

 優花はため息に似た息を漏らす。事実それはため息かもしれないけど。優花もきまりが悪かったのか、誤魔化すように

「なんで、今になって自分の長所を知りたいの?」

 僕は自分でも呆れてしまうような情けない声音で

「僕はもう大学二年生なんだよ。それなのに就職のためにあげられるような長所は一つもないことが不安で仕方ないんだ」

「まだ、あと二年も有るでしょ!いつも悲観的になりすぎだよ、太郎は」

「二年しかだよ。優花が楽観的過ぎるだけ。いつも心配してるんだよ」

 優花は昔から危なっかしい。純粋だといえば聞こえはいいものの、平気で男子高校生と二人きりになったこともある。いつも無防備だし、あれじゃ男性が誤解するのも理解できる。男泣かせの猪方と呼ばれても仕方ない。

「今からサークルとか部活とか入ればいいんじゃない?」

 それでもちゃんとアドバイスをしてくれるところは僕の姉のようだ。けれど、それに僕はこう返してしまう。

「今からサークルに入っても周囲から浮くだけだよ。僕にはなんの取柄もないし」

「そんなことないって。太郎は誰にでも、いつでも、優しくできるじゃん」

 僕が優しい?そんなことはない。少し意地を張りながら

「僕はワレモノ注意に人を扱うだけの臆病者だよ。いつもこんな僕に構ってくれる優花姉の方が優しいよ」

 今度は明らかに、ため息を一つ優花がついた。感情が昂ってしまったため優花姉と呼んでしまったからだろうか。予想は外れた。

「あの時からずっと太郎は卑屈なまんまなんだね」

 卑屈?そうなのかもしれない。優花は実の姉のような優しい口ぶりで

「あの時の責任が太郎にはないとは絶対に言わないよ。絶対に。でもね、太郎、私はあれは仕方のないことだったと思うんだ」

 何が仕方ないのだろうか。僕は

「ごめん、呼び出したのはこっちなのに。でも少し一人にさせてほしい」

「分かった」

 その優しさに包まれた声が僕にはどこか悪魔のようにも思えた。優花は食堂へ一人でスタスタと向かっていった。

 僕には本当は分かっていた。何もかもではないけれど。優花の好意もあの時どうすれば良かったのかも。でも何もできなかった。だから未だに後悔してる。今だって本当に聞きたいことも聞けないままだ。

 優花にすら見られたくない生理食塩水をハンカチで拭き取った後、気分転換に大学の外に出た。少しでも腫れている目を隠したいからベンチと並木だけがある近くの公園に向かった。もう昼食を食べる気分にはなれなかった。

歩いている最中、太陽の燦々と輝いているのが僕の影を色濃く映す。踏んづけている紅葉にさえ、なぜか嘲笑されているように感じた。蝉はいつの間にか鳴かなくなっていてそれでできた静寂が孤独を煽った。何もかもが今の僕にはネガティブにしか受け取れなかった。

ベンチに腰を掛けてあらかじめ買っておいた缶コーヒーを空ける。買ってそんなにたっていないのに温くなっていた。

秋風が吹いた。

「う、うわぁ」

 と女性の声が並木の一つから聞こえた気がした。声は小さいが悲鳴のようだった。なんだろうと声の方を向く。

 そこには、誰もいなかった。怖い話なら一ヶ月前にしてほしい。

 もう一度秋風が吹く。さっき聞こえたところよりも一つ奥の木から

「また来た。お、重い。助けて」

 今度は日本語をしゃべっていた。確実に人だと思った。

 けれど、やはり誰もいない。それどころか、その声が指した重いものと思しきものすらそこにはなかった。声のする方に近寄ってみた。

 やはり何もない。とうとう僕は気が狂って幻聴が聞こえるようになってしまったのかもしれない。

「痛い、痛い」

 下からそう聞こえた。実は死体が埋まっているとかだったらどうしよう。腐臭はしなかったことに気づいたのは後になってからだった。

「大丈夫ですか?」

と聞いてみた。答えもやはり下から聞こえてきた。

「だ、大丈夫です」

 声は震えていて明らかに大丈夫な感じはしなかった。僕は、下をよく観察する。携帯電話が落ち葉の下に隠れているのではないか。手が汚れるのは嫌だったけど、携帯を落としていたのなら可哀想だ。それに怖いもの見たさもあった。

 途中で少し大きな石の近くにトンボみたいな虫の羽が落ちていることに気付く。羽がパタパタ動いているからまだ生きているんだろう。落ち葉をどかしたらまた飛んでいくんじゃないか?虫は光に集まるとはよく言うものだし、携帯に虫が寄ってきたことがあると友達が前話してた気がする。落ち葉と石を虫の体に触れないように慎重にどかす。

「えっ」

 そこにいたのはバケモノだった。トンボの羽が生えていて黄緑色のワンピースを着ていた。落ち葉に潰されるほど軽く、落ち葉と同じくらいの体長をあいたそれはヒトの形をしていた。

「大丈夫って言ったのに」

 それは喋った。喋れてしまった。人形ではなく、バケモノであることが決まってしまった。

「私は妖精のアオイ。君は?」

ぽかんとしている僕に

「私の声が聞こえてるんでしょ!君の名前は?」

 その場から逃げたい衝動を抑えて

「新井、新井太郎です」

  緊張して、カタコトの日本語になってしまう。下手に刺激したら命が危ない。ここはとりあえず彼女に従うのが最善だと判断した。ドラマの見過ぎと言われてしまうかもしれないけどバケモノが出てくる状況なんてフィクションでしかないし、そこの知識くらいしか頼りようがなかった。

「タメ口で構わないよ」

  妖精だと名乗るバケモノは、何処にでもいそうな日本の女子高生の顔をしている。現代日本では整っている顔だと評価されると思う。とはいっても他の妖精を見たことがないので、比較には到底なりえないのだけど。

「妖精ってファンタジーの生き物でしょ?何でこんなところに。ひょっとしてテレビがモニターで観察してるやつ?」

「私にも分からない」

   と一言でばっさり切られてしまった。その口調は鋭くてこれ以上その話題に触れてほしくないことを暗示をしていた。僕の性格は悪くないので、話題を変える。

「仲間はいないの?」

 平静を保ったままだけどどこか暗さを顔に浮かべている彼女は、一拍空けて

「いないわ。いるかもしれないけど、私は憶えてないの」

「そう……」

  これも一蹴された。しかし、さっきから憶えてないだの分からないだのひょっとして

「記憶喪失なの?」

「実は、そうなの」

   ゆっくりとした言い方が真実味を強調しているようだった。僕はできるだけ落ち着いた口調を心がけて

「そうなんだ、それは大変そうだね。じゃあ僕はこれで」

「待ちなさい」

  上手く逃げられなかった。ファンタジーの世界なら妖精と生活するのは悪くないけど、生憎ここは現実だ。現実で妖精と生活してるような人とは僕は関わりたくない。おそらく大抵の人もそうだろう。

「僕になにかあるの?」

「私を助けてほしい」

「僕にメリットがある?」

  こう聞けば大抵の人は諦めてくれる。僕もただ生きていたわけではなく、面倒な人への対処法も心得ている。アオイは不敵な不安なんてなさそうな目つきで

「あなたにメリットはないよ、でもデメリットならある」

  どうやら人には効果があっても妖精には効果がないみたいだ。

「私が見えるの、あなただけみたいなの」

  そんなことあるのだろうか。僕はひょっとしたら精神に病を患ってしまったのかもしれない。 そうでもなきゃこんな設定にはならないだろう。今日はいつもより多く休養をとろう。それがいい。吐き捨てるような口調で

「だから何?」

「私を助けられるのはあなたしかいない。私を助けなきゃ私はここでわけもわからぬまま死ぬことになる。果たしてその罪悪感にあなたは耐えられるのかしら」

煽るような言い方だった。

「耐えられるって言ったら?」

「無理だよ」

と笑うアオイはどこか子どもをあやすようだった。

「あなたは今でさえ自己嫌悪に苛まれているように見える。おまけに左手首の傷なんてみたら尚更ね。過去になにかあったんでしょ?別に問いつめようなんてつもりはないけど」

 的確な指摘だった。確かに僕はあの時からずっと自分を好きになれないままだ。

「それに私を助けようと探しだしてくれた。あなたはどんなに頑張ってもいい人だよ。妖精の目は節穴じゃないの」

「気まぐれかもしれないだろ」

少し感情的になる。合わせるように秋風が吹く。散っている木の葉がケラケラと笑うように踊る。

「優しいね。私を飛ばないように抑えてくれるなんて」

 いつの間にか僕の手は、アオイを覆っていた。

「助けてくれるよね?」

 僕は意識せずに頷きかけていた。あの時から三年が経つまであと二日となった今日は十月六日だった。そういえば、三年前の十月六日も太陽が、燦々としていて気味の悪い日だったっけ。頷きかけた顔を固定して話す。

「助けるかどうかは後にしてとりあえず僕の家に来なよ」

  アオイは急に警戒し出す。そういう対応は顔の年齢と合っていた。

「別に襲うつもりはないよ。というか性的な意味でも経済的な意味でもアオイを襲ったところで何もメリットがないだろ」

「言われてみればそうね。って私に女の魅力がないって言ってるの」

  アオイは子どものようだった。

「別にそういうわけじゃないけど、アオイは人形を見てカッコいい、かわいいはあっても性的興奮は覚えないだろ。つまり性欲は性交の対象だから刺激されるってこと」

「なるほどね」

  実はこれは個人の主観でしかないけれど、アオイは納得したし、事実僕はアオイに性的興奮は覚えていない。

「まぁ、家に来たくないなら来なくても僕は困らないし」

  留まらないようにとどめを刺す。アオイが反応するより先にサッカーボールサイズのやわらかいボールがこっちに飛んできた。

「お兄さん、ボールこっちに投げて」

 小学生くらいの子が明るく言う。僕も声の調子をあげて

「良いよ、ほら」

「ありがとう!」

 男の子はボールをもって、一回遊んでいたところに戻ろうと歩みを進めてて僕の方を振り返る。

「お兄さんは何と話してるの?」

「別に話してないよ、独り言」

 と男の子に嘘をつく。ヒソヒソと

「早く帰らないと不審者扱いされるだろ、行くよ」

 アオイにはもう反論する気はなさそうだった。

アオイとのこれからの日々を僕はとても厄介だと思った。けれど、アオイを助けると約束したからには助けるしかない。

 ただし、僕は優しい人ではない。

一章 シンデレラ二人

  妖精とは人と神の中間的な存在の総称を指す。コティングリー妖精事件以降非常に小さな人型をしている羽をもった姿で描かれるようになった。

  なるほど、アオイもコティングリー妖精事件以降の形をモデルにしているのか。確かに今を生きる僕らにとって妖精はアオイのような形以外を想定することはできない。

「私のことを調べてくれるなんて本当に優しい人だね、君は」

 アオイを連れて帰って僕は今、自分の部屋の中にいる。

「僕は君を妻として迎える気はないからね」

  様々な逸話がある。

「別に私も命を奪いに来たわけじゃないんだからさ。いたずらはする気はあるけどさ、好意的に人に接するものもあるらしいよ」

  様々な逸話がある。というか

「僕にいたずら仕掛けるつもりなのかよ」

  呆れながら言う。

「当然でしょ」

  勝手に当然にしないでほしい。

「アオイだって元の妖精の世界に戻りたいだろ?」

「当然でしょ」

  軽やかに僕の机の上を舞う妖精はそんなことには興味がなさそうだった。

「アオイには何か身の回りのことで覚えていることはないの?」

「とりあえず、私は女みたいね。視力は良いみたい。妖精みたいな体をしてて人より大分サイズは小さい。それと」

「見た目で分かる情報は求めてない!」

  感嘆符が付くほどに勢いよく言葉を吐き出す。

「あんまり大声ださないで。元々、声は大きく聞こえるんだから。そんな声量で質問し続けるなら答えないからね」

  アオイは頬を膨らませて体ごとへそを曲げてみせる。そこまでの分かりやすさは別に要求してないんだけど。アオイはどうやらふざけているみたいだ。

「僕が死んだらアオイは独りになるんじゃないか?そしたら誰がアオイを元のファンタジーの世界に還せるんだ?残念だけど、現代社会は妖精が生きられるようにできてないよ。だからもう少しちゃんと協力して」

  アオイにできることは限られている。元々はファンタジーの生物が現実に憑依せず干渉できる時点で運が良いと考えるべきかもしれない。アオイはペンを持っても重すぎて安定して字が書けない。パソコンのディスプレイすら開けない。

「そしたら、また別に私が見える人を探すだけだから」

「見つけられなかったから紅葉に埋もれてたんじゃないか」

  僕だって好きで引き取っているわけじゃない。なんならなるべく関わりたくない。

「まぁ、その時はその時になってから考えるわ」

  どうでも良さそうな言いぐさに、僕は苛立ちを覚えた。だから皮肉を込めて

「そうなんだ、ならその時が今だったら?」

  と聞いてみた。アオイは先ほどまでの妖精の踊るような仕草をやめて何かに憑依されたみたいに真顔で

「さっきも言ったけど、傷の数って優しさの指数なの」

  言ってない、というか言ってることがよくわからなかった。ぽかんとしていると

「傷ついた人は傷つく痛みを知ってる。だから、誰にでも優しく接するの」

  どっかで聞いたような言葉だった。アオイは間を少し置いてから

「別にあなたの傷に私から干渉することはない。話したくなったら話せばいいし、話したくないなら話さないままでいい。けれど、あなたは私を離したくても離さない」

  パラドックスみたいだった。やっとの思いで理解したことに少し納得している自分がいた。

  別に僕は優しい人だとかそんなことは思っていない。僕は人にナイフを向ける勇気すら持てないだけだ。

「しばらくの間はお世話になる。これからよろしくね」

  図々しい態度に謝意は感じられなかった。

「君は、僕の試練かもしれないね」

  と思わず呟く。妖精には人間より音が大きく聞こえるなんて話もあるから聞こえているかもしれない。

 様々な逸話がある。けれど、アオイは僕からすれば試練としか思えなかった。

  事実、君はある側面では試練だった。

「何でもいいから自分のことで覚えてることとかないの?どんなに微かな記憶の断片でもいいから」

  声音を高くして話題を変える。僕にはアオイをファンタジーの世界に戻してやることが最優先だ。そもそもファンタジーの世界があることを前提にしているけれど。彼女は人間離れしたシリアスな顔を何処かにひそめて

「ないわ」

  当たり前のような感じで答える。記憶喪失になるともっと不安になるんじゃないか?アオイは実は強がってるだけなのかもしれない。

「じゃあ、お腹はすくの?」

「どうして急にそんな質問するの?」

  と言われてから理由を考える。昼食を抜いていて、僕のお腹が空いているからだとしか思えなかったけれど、恥ずかしくなって

「食事はいつも親が作ってくれるから、僕がキッチンに行って料理するのもおかしいし、コンビニとかで買ってくることになるかなって。そしたら食費とかも考えなきゃいけなさそうだし」

 と早口に誤魔化す。普段からコミュニケーションを他人と取らないことが弊害となり、

「お腹も空かないし、トイレとかもいきたくならない」

 トイレの情報は求めてないけれど、自分から情報を提供してもらえるのはありがたかった。

「君が目覚めてからの状況を簡単に説明してくれる?」

「なんか事情聴取みたい、メモまで取ってるなんて真面目ねぇ」

「じゃあ、君にも僕の真面目さを見習ってほしいかな」

 本当はこういうことは自分で言うことじゃないけどアオイにも冗談はきちんと通じるみたいで、

「真面目じゃないのが取り柄なの」

  と笑う。

「で、どうなの?」

「目が覚めたらさっきの公園にいたの。朝日が昇る頃だったかしら。それでわけもわからず片っ端から助けてくださいって声をかけていったの。でも全然私の言ってることに耳を貸してくれない。私にくしゃみをかけられたときに初めて皆、私のことが見えてないことに気づいた」

  アオイが他の人に見えていないことは帰る途中に確認済みだ。あえて人の多い通りを歩いて駅まで行き、電車に乗っていたときも誰一人アオイの異様さに驚いたりしなかった。アオイは一拍おいて

「それで、できることもないからぼーとしてた。わけもわからず私はどうしてこんな状況になっているんだろうって、ずっと考えてたわ。そしたら秋風が吹き初めて、で君に出会った」

  指を僕に向ける。

「なるほどね」

  ちょっとドキッとしたのを隠すために俯きながら言う。

「他に質問は?」

  アオイの方から質問を促してくるとは嬉しい限りだけど、

「特に今はないかな。随時、聞きたいことがあったら聞くよ」

「じゃあ、次は私が聞く番ね」

「え?」

  交代制にした覚えはないんだけど。というか聞かれるつもりはなかったんだけど。

「なんの質問にしようかな」

  真剣に悩んでいるようだった。

「答えられる質問にしてよ」

「分かってる」

  笑みを浮かべる彼女は、全く分かってなさそうな風だった。

「彼女はいるの?」

「いません、これで満足したでしょ」

  今度はだんまりを決め込んできた。

「気になる人はいないの?」

「女性との関係自体、お母さん除いて一人くらいしかないし」

  ここまでいうと、アオイは猫のように

「つまんないの」

  といって質問をやめた。世の男性が全員女性に興味があると思ったら大間違いだ。別に僕は同性愛者ではないけれど。

「じゃあさ、私が人間だったらタイプ?」

「君が人間だって話はあり得ないから、考える必要もないんじゃないかな」

  思わず強い口調になっていた。

「ごめん、強く言っちゃった。」

「謝ることじゃないから」

  とアオイは吹き出した。笑いすぎで出た涙を手で拭う。そこまでおかしなことだっただろうか。

「反実仮想でも構わないからどうなの?」

「かわいいとは思うけど」

「なら、私の恋人になりなさい」

  それは質問ではなく命令だ

「嫌だよ」

  アオイがバケモノだということを差し引いても僕はアオイと付き合う気にはなれない。

「これは命令よ」

  自分から明言するのはどうなんだろう?

「なんでまた、そんなこと?」

「妖精だって恋がしたいの。それだけ。君は優しいし、そもそも私のことが見えるのは君だけだから条件に合う物件とか言ってる場合じゃないの」

 なんか軽くディスられているような気がしたけど

「そこまで僕の優しさを信用してくれて、ありがとう。でも、僕は人のことを物件とか呼ばないような女の子がいいから」

  もちろん、僕の要望が通るとは思えない。

「まぁ、女の子と話す良いトレーニングになると思うし、君にもメリットがないわけじゃないよ。太郎ってこれからは呼ばせてもらうね」

まぁ、優花からは同じように呼ばれているので別にそれは構わない。

「僕に拒否権はないんだね」

「あると思ってるの?」

  笑いながら言うので、きっと冗談なんだろう。冗談であってほしい。

  少し沈黙が生まれたあと、ピンポーンとインターホンの音がそれを割いた。母親だろうか?壁越しから

「太郎、大丈夫?」

  優花の声だった。

「ちょっと待ってて」

  と声を張る。さっきのこともあって少し気まずいけど、それは優花も同じはずだ。

「ここで待ってて」

  アオイは、くるりとまわりながら

「もちろん」

  信用できないけど、疑ったところで変わらないだろう。多分、アオイのことは優花にも見えないはずだろうから。

  自分の部屋から、小走りに廊下を進み、玄関で息を整える。ガチャッとドアを開けて

「優花、何かあった?」

「今日の午後の授業、太郎が休んだってラインで聞いてさ」

  その情報源は何処なんだろう?女子の情報網は恐ろしい。

「デリカシーなかったよね、ごめん」

「優花が気にすることじゃないよ、こっちこそ心配かけさせてごめん。」

  優花の顔を見ると口を開けてあからさまに驚いていた。

「太郎がそんなことを言えるようになるなんて」

  そんな驚くようなことじゃないと思うんだけど。

「太郎、辛いことがあったら私が必ず助けてあげるから」

  優花は、いつも僕の理解者だ。でも、流石に他の人には見えないバケモノの話はできない。分かった、のわを口に出そうとした時、

「うっ、おっ」

  いきなり優花は僕の頭を胸に押し当てるように抱きしめてきた。今度は僕の方が驚いてしまう。

「心臓の音、聞こえてる?」

  優花は人並みの大きさの乳房だけど、それでも僕は興奮してしまった。男は性交のことしか考えられない猿だとかよく批判する女性がいる。僕はそんなことはないと思うんだけど、これで興奮してしまう辺り実はその批判は的を射ているのかもしれない。

「聞こえてるよ」

「そのくらい、私はドキドキしてるの」

「優花姉、少しだけでもいいから今は甘えさせてもらってもいい?」

「しょうがないなぁ、太郎は。特別だよ」

  僕はしばらく、優花の胸の中で静かに泣いた。優花はそれを嫌がることなく強く優しく手で僕の頭を胸に押し付ける。

「優花姉、ちょっと苦しい」

「あっ、ごめん」

  優花姉は手の圧力を緩める。それでも抱き締め続けてくれる。

「いつもありがとう」

「いいのよ、このくらい。私も太郎に救われたんだから」

「あんな小さな時のこと、もう時効にしてもいいのに」

「やだ、あの時から太郎はずっと私のヒーローだよ」

  優花の言うあの時と僕のあの時は時間も話のベクトルも異なるものだ。僕の指すあの時よりも幼くて、別人みたいに純真無垢な頃の話だ。

 

「あれは、ゆうかねえ?」

  小学一年生の僕が目の当たりにしたのは、人気も人気も遊具もない公園でうずくまっている見慣れた服を着た一人の女の子だった。その服が砂まみれになっている、上半身の背中まで。

「ごめん、ちょっと用事ができたから」

「分かった、じゃあね」

「じゃあね」

  と、一緒に下校していた友達と別れる。登校時は人の多い通りを使うけれど、下校時は近道を親には内緒で友達と帰っている。

  優花がどこかへ行ってしまう気がして、一直線に公園を走る。どこかというのは、物理的な意味でもあり、精神的な意味でもある。

  青に灰色が混じっている少し汚い暗い空だった。カァカァとカラスが五月蝿く鳴くのだけが響いていた。遊具もないただの広場とも言うべきこの公園には、その状況はひどく哀愁を感じさせた。優花の隣で僕もしゃがむ。

「ゆうかねえ、何があったの?」

「今は独りにさせて」

  明らかな怒気が顔に出ている。それとともに涙を流していることが僕には分かった。

「うぇーん」

「なんで、たろうが泣くの!」

  カラスの鳴き声と僕の泣き声が不協和音を織り成す。それでも、公園の回りを行き交う人々は足を止めることなく忙しなく動き続ける。僕は過呼吸になりながら、

「だってぇ、ゆうかねえがかなしんでるのになんにもできない自分がなさけなくて」

「バカ」

  と言ってしばらくした後、優花も静かに泣き始めた。

「わたしね、学校でいじめられてるの」

  そんなの初耳だった。保育園の時からの付き合いだった優花は僕の前ではいつも実の姉のように明るく振る舞ってくれてた。いじめられてる姿なんて想像もつかなかった。

  でも、それとは別にどこか納得している自分もいた。優花の服装が汚れているからという状況を説明できるからだけではない。優花は真っ直ぐすぎるんだ。自分が正しいと思ったら曲げようとしない。それが悪いこととは思わないけど、そんな生き方ができるのはほんの一握りだけだ。

  でもにでもを重ねることになるけど、それでも僕は優花のそんな真っ直ぐさに惹かれているんだと思う。

  だから、納得している自分に憤りを覚えた。納得できるということは予測できたということだ。それなのにいじめられないように工夫するどころか気づくことすらできない自分がふがいなかった。

「ごめんね」

  とただ連呼していた。誰のために謝っているのか僕には分からなかった。

「たろうがあやまることじゃないよ」

 それを言われても僕はしばらく謝り続けた。

「先生とかには話したの?」

  謝っているうちにふと考えた疑問を口に出した。していないからこんなことになっているのは自明だったけど、聞かずにはいられない。

「してない、したらわたしがまちがってるみたいになるから」

  そんなことはないと僕は思うけど、今考えればそれは価値観の違いでしかなかった。

「まちがっていないことは、上手く進んでいく。まちがってるから大人の力が必要になるの」

  それは、僕の常識とは相反することはなかった。その時の僕は太陽が東から昇ってくるのは、地球が東に自転しているからだと知る前だった。だから反論することはできなかった。

「わたしね、今まで辛かったんだ」

  堰を切ったようにいじめの内容を優花は語りだした。

  最初は、ゴミだ、ダメだと暴言を吐かれる程度だったらしい。でも、これは優花に限らず、いじめは徐々にエスカレートしていく。教室の中では当然のように無視をされる。掃除をしていると、上からゴミの雨が降ってくる。想像するだけで目眩がした。

「あいつ、ずっと一人でいるけどさ、自分のことを自分でかわいそうとか考えてそうだよな」

  いじめられていて一番傷ついた言葉でもあって、でもそう考えている自分に気づいたきっかけになる言葉だと優花は話した。八つ当たりに僕は地面を叩いて

「だって、人間だってみんな自分がかわいくて、自分がかわいそうじゃんか。そうでもなきゃいじめなんて起きないんだから。だからゆうかねえがそれを感じたってべつに何のもんだいもないよ」

  こんな下らない言い方だったかどうかは覚えていない。人の記憶はご都合主義的に改竄されてしまうものだから。でも、僕は確かにこういうことを思っていたし、口に出したはずだ。

  気づかないうちに雨が降ってきた。ただの雨よりも強い。けれどゲリラ豪雨というには弱すぎるし、スコールというには遅すぎる。僕の語彙では名前のつけられない雨だった。それが優花の気持ちを表現しているようだった。視界が少し緑色になっていて、それと砂が風にのって舞うので、見捨てられた気分になった。

「この世界全部死んじゃえばいいのに。そしたら少しは楽になるのかな」

  小学二年生とは思えない悲痛な叫びだった。小学一年生にはとても受け止めきれるものではなかった。だから、その発言を僕は取り消してほしかったんだと思う。

「じゃあ、ゆうかねえはぼくにも死んでほしいと思ってるの?」

  こんなのズルいと分かっていた。明らかな論理のすり替えで優花を困らせることでしかなかった。なのに、優花はその問いでも何でもない何かに誠実に答えた。

「そうだよ、たろうもふくめてみんな死んじゃえばいいんだ」

  どこか狂気に溢れた表情をしていた。でも、その狂気の裏に違うものを感じた。

「そしたら、まちがっててもだれもとがめないし。わたしも自分にうそをつかなくてすむんだから」

  僕は知らなかった。優花がいつもどんな思いで僕に接してくれていたのか。

「本当は助けてほしかった。でもこんなキモい私を教えたくなかった。だからうそをつきながら、たろうが気づいてくれるのをまったの。でもわたしがバカだったんだ」

  優花の仮面はかなり厚く大人にも見抜けないほどのものだった。見苦しい言い訳でしかないけれど、小学一年生の僕にわかるはずがなかった。そんな都合のいい王子はストーリーの中だけだ。

  今の王子という比喩であの時の優花を僕はシンデレラだと思った。埃まみれのシンデレラは、魔女によって汚い服から綺麗なドレスに変わる。優花は魔女ではなく、マジョリティに綺麗な服をボロボロにされる。こんな下らない冗談を交えないと話せないくらいひどい話だ。

  それでも僕や大人の前では魔法をかけられたかのように振る舞う。振る舞ってしまう、もっと言えば振る舞うことを強要されているのだ。一夜の出来事ではなく、何回も自分を偽る。王子がガラスの靴とともに窮屈と退屈を壊すのを待っている。

  けれど、王子は現れない。状況は一切好転しない。それどころか悪化の一途を辿っている。助けを求める声は人魚姫の魔女にとられてしまった。

  昨日、僕の家でゲームを一緒にしていたときに見せていた笑顔は何を笑っていたんだろう?僕だったらゲームなんてする気分にはなれない。

「気づけなくてごめんね。すくってあげられなくてごめんね」

  やっと、さっき言ってたごめんの意味が分かってきた。誰のためかは分からないままだけど。

「あやまらなくていいって言ってるでしょ。わたしがかってにワガママしてただけ」

  明らかな怒気にドキドキする。もちろん、悪い意味で。

「じゃあね」

  優花が僕の危惧したようにどこかへ行ってしまう。二度と帰ってこないかもしれない。それがまだ小さな世界を生きる小さな僕には耐えられなかった。何とかして優花を引き留めようと必死だった。

「ゆうかねえはなかないよ」

  自分でもなんでこの言葉が出たのか分からなかった。

「ないてるよ」

  当たり前の返答が来た。

「ないてるんじゃなくて雨にぬれてるだけだよ。だから」

真っ直ぐ優花を見つめる。

「だから、ゆうかねえはぼくと話してるだけ。ぼくはゆうかねえとまだ話してたいな」

  不器用なぼくの精一杯を優花は頷くことで受け取ってくれた。

「テレビで言ってたんだ、雨がふってると頭がいたくなりやすいって。だから顔があつくなるのもそのせいだよ」

  低気圧で頭痛が起きやすくなることはあっても小学生の低学年で起きることなどほとんどない。そんなことは知らなかったけど、知らないから全部雨のせいにできた。

  優花は小学二年生らしく、喚きながら泣いた。その隣で僕も泣いた。

「わたしね、本当はわかってるの」

  僕は返す言葉が思い付かない。

「死にたいのはわたしなの。死ぬべきなのもわたしなの」

  存在を否定されながら、それでも抗い続ける彼女は自分の存在を否定したかった。

「だって、まちがってるのはわたしなんだから。まちがいつづけてるわたしがゆるせないの」

  何が正解かなんて誰に分かるんだろう。でも、その頃の優花にとっては生きやすさだけが正しさの基準だった。仮面をつけて笑う人生が生きやすい訳がないだろう。

「死にたくなって誰も見てないときに、一回だけへいに登ったことがあるの」

  そこまで追い込まれても誰も助けなかった。生きにくさが加速していく。

「あと一歩前に足を出せば死ねたの。みにくいわたしはなかったことにできたの」

  感情的な声だったが、感嘆符をつけるような言い方ではなかった。感傷的な気分になったが、簡単に励ますことはできなかった。

「でも、死ねなかった。死のうとするとね、しんぞうがいたくなるの。まるでしんぞうをつかまれたみたいにゾクッとして、こわくなるの。それで何もできなくなる。その代わりに、なみだが止まらなくなる」

  心臓を掴まれた感覚は僕にはない。優花にもないからその表現は想像でしかないんだろう。だけどどこまでもリアルだった。嘘をついてるようには思えなかった。優花の笑顔に騙され続けた僕が言っても信用ないだろうけど。

「いじめも止まなかった」

  先程から、優花の口からいじめの内容を語らせていないのは文字に起こすには涙が多すぎるし、そもそも文字に起こせるような穏やかな言い方ではなかったからだ。

  だから、今の僕が俯瞰的に見て冷静に要約した内容を代わりに文字に起こしている。

  優花は服をめくる。そこには痣や切り傷が大量にある。だるまさんが転んだをしていた時に、できたものだ。

  最初に優花が鬼になる。普通にやる時よりも、近い距離で始まっただるまさんが転んだは、だるまさんが、の時点で背中から暴行を受ける。

  痛い、やめてと言っても伝わらない。転んだなんて言うこともできず、彼らが飽きるまで暴行は続く。地獄があったなら、きっとこんなところなのだろう。地獄がなくても、きっとこんなの許されないだろう。

  その頃には仲の良かった友達も皆、離れてって本当は独りになっていった。気づけもしなかった僕と、気づいても傷つくのが嫌で、助けようとしなかったその友達ではどちらのほうが罪が重いんだろう。どちらも愚かでどちらも人間らしいのは確かだ。罪の重さを考えて比較しようとしているのもひどく人間らしいけれど。

  今日、服が汚れているのはその遊びが原因だった 。どこが遊びなのか解説がほしいが、生憎これは脱出ゲームではない。脱出ゲームならなんてタイトルをつければいいだろう?いじめからの脱獄だろうか?

  因みに優花が人気も人気も遊具もない公園で踞っていたのは、いじめられていても目につきにくいという単純な理由だった。

  一朝一夕でできるはずのない痣や傷を今日も深く心の中にまで刻まれた。では、いじめていた奴らはどこへ消えたのか?いじめに飽きて帰ったと考えるのが普通なのかもしれない。いじめに普通なんてあってたまるかという意見は最もだが。

  しかし、事実は違った。もっと残酷な現実だった。

「今もかくれんぼの最中なの」

と優花は自虐的な笑みを浮かべる。優花はだるまさんが転んだの時と同様に鬼役になった。実際はさせられたの方が正しい。もういいかい、まだだよのやりとりを三回続けるとそれきり返事はなくなってしまった。いないはずの隠れた人を探す鬼は、いじめているやつらにはどれほど滑稽に見えるんだろう?少なくとも僕には滑っているようにしか見えない。

  優花の人生はウォータースライダーの速度で滑り続けている。僕が何とかしなければ、という思いはあるのに涙が止まらなくて悲しみを受けとめてあげることすらできない。死んだほうが楽だ、なんて優花が思ったら心臓は痛まなくなってしまうかもしれない。涙は涸れてしまうかもしれない。

  それなのに、僕は優花に

「死んでもいいと思うよ、こんなのってないよ」

  と言ってしまう。思えば、優花に刺したナイフの中ではこれが最大だった。

  優花は顔を青白くさせていた。それがどことなく骸骨に似ている。

「たろうまで、わたしのことをおにだって言うの?」

  鬼は外、に代表されるように鬼は人にとって忌み嫌われるものの象徴だ。

「ちがう、そういうことじゃない」

  僕は喚くように否定する。喚くことが真実味を否定していた。

  自分勝手さに呆れてしまう。優花はどうして生きてるのか。その一つは自意識過剰を抜いたとしても確実に僕だろう。そうじゃなきゃ僕とかくれんぼなんてしないはずだ。

  ただ自分が可愛かっただけだ。だから優花を見捨てた。

「死んでほしくないよ、ぼくは。でも、ゆうかねえのつらさも分かる。だから、本当に死にたくなったら死んでもいいと思う」

  何もできない自分のことを棚に上げて、優花に最悪な選択肢を与えてしまった。その罪悪感は今も消えない。

  風が強すぎて小さい僕らは前が見えなくなった。本当はほとんど吹いてないけど、でもそれを言い訳に僕らは俯いていた。

「でも、その前にゆうかねえは死ぬべきなんだ。まちがいもゆるしてあげられるような人になるために」

  本当は嫌だった。透き通るほど純真無垢な優花を否定するのは。だって僕は、そんな優花が好きだったから。でもこれもやはり優花に限らず、いじめというのはいじめられる側にも原因がある。原因と言えば、人聞きが悪いがそれは自分を変えるチャンスだとも言い切れるわけで。だけど、どんな言い方をしたとしても純粋な優花を傷つけてしまうことに変わりはない。

でも、僕にはそんな優花の代わりはいない。

  だから、抱き締めた。励ますつもりなんてほとんどなかった。僕の中に自分の正義に真っ直ぐな優花を閉じ込めたかった。

「たまにはまちがってもいいんだよ、ゆうかねえ。だってずっと正しいまんまなんてつまんないよ」

  自分の本心と逆を言った。辛いことがあってもそのまま正しくいて、なんて言えるはずがないし、僕のわがままを押し付けてまで優花に辛い思いをさせたくないというのも僕の本心だった。優花は僕の名前を呼びながら、強く体を引き寄せてくる。少し苦しいけど、ずっと息苦しかったのは優花の方だったから、それを共有できている感覚が嬉しかった。

「まちがってるわたしでもたろうはうけとめてくれるの?」

「もちろんだよ、ほかのひとがうけとめなくてもぼくはずっとみかただよ」

  カラスはとっくのとうにどっかへ飛んでいってしまったけれど、そんなの関係なしに辺りが暗くなってからしばらくするまで僕らは泣いた。

  次の日、一緒に先生の前で泣きながらいじめを告白した。優花は自分の間違いも受け入れられるようになるにはどれほどの涙が必要だったか、優花の家に昨日いなかった僕には計り知れなかった。だけど腫れた目が定性的に多くの涙を流した事実を示していた。

  その日から優花は僕のことをヒーローと言うようになった。だから、喧嘩することはあってもずっと優花の味方という意識は変わらない。

 

  長ったらしくて、憂鬱な回想を終えて舞台は僕の家の玄関に戻る。

「優花姉、気持ちだけ受け取っておくよ。今回のことは僕一人で解決しなきゃいけないことなんだ、ごめんね」

  優花には見えないから手伝えない、なんて直接言えるわけもなく、なるだけ優しい口調で本質だけ伝える。と、同時に呼吸も苦しいのでそれなりの大きさの乳房から顔を出す。優花は少し申し訳なさそうに、

「太郎、無理しないでね」

  優花はちゃんと言いたいことを分かってくれる。普通なら、何があったのと深刻そうに聞かれてもおかしくないのに詮索してほしくない時は詮索してこないでくれる。

「じゃあ、わたし大学に戻るから。きちんと、単位取れるくらいには授業出なさいよ」

「今日はありがとう。相談にも乗ってもらって」

「感謝されるようなことじゃないって、このくらい」

  音をたてずにドアがしまる。ため息をひとつつく。

「何が、女には興味がないよ。思いっきり優花さんにぞっこんじゃない」

  騙されたと手を額に当て呆れているアオイは部屋の扉と玄関の一直線上に立っていた。どうやら様子を見られていたようだ。

「私は略奪愛には興味がないの」

  わざとらしく、スタッカートな、ないの、は僕にとって嫌みったらしかった。

「別に実の姉のように接してくれているだけで、そういう関係じゃないよ」

「ダウト」

  誇らしげにアオイは宣言する。

「あれで、付き合ってないんなら優花さんに失礼よ」

  そんな女子高生くらいの軽いノリで言われても困る。

「はいはい、それなら告白しますよ」

  軽くあしらう。

「記憶喪失で可哀想で可愛い妖精に対してその態度はどうなの?」

「可愛いとか自分で言うなよ」

  今度はこちらが手を額に当てる。少し深い呼吸をひとつしたあと、真剣な眼差しで

「僕は、優花とこのぬるま湯の関係でずっといたいんだよ。熱くなったら、すぐに冷えてしまうのが愛とか恋だと思うし」

  軽く嘘をついた。別にそういう気持ちがないわけじゃない。でも、僕の気持ちの大部分は勇気がないという情けないものだった。

「そっか」

  軽く返された。もうこの話題に興味がないようにも気を使って触れないようにしているようにも取れた。僕もこんな重い思いの話をするのは気持ちよくない。

「というか、わざわざ電車使わなくて良かったじゃない。ここからさっきの公園見えるくらいの距離だし」

  恐らくマンションの五階に位置する僕の部屋の窓から外を覗いてみたいのだろう。文字通りの意味でベンチと並木だけがある公園にはもちろん人もいないし遊具もない。だるまさんが転んだで鬼は木によりかかると相場が決まっている。優花の指す『あの時』の公園は、僕がさっきまでいた公園である。最も、遊びにいくのに電車を使うほど僕と優花はブルジョワではないし、人気も人気も遊具もない公園がそう何個もあってはこの国の未来が心配になる。

「本当に誰にも見えないか確認するためだよ。それで見える人がいたら、その人との共通項を探そうと思ったんだ」

  押しつけようとしていたことは気を使って言わないでおく。

「じゃあ、許す代わりにお願い聞いて」

  わざわざ許されるようなことなんて何もない。彼女のために動いた僕がその要求を飲む理由などないはずだ。

「花を見に行きたい」

「君ってロマンチストだったの?」

  ずけずけと言う割りにロマンチストだったらちょっと引いてしまう気がする。

「乙女は誰でもロマンチストなの」

  言葉の割りに言い方が現実的だった。

「乙女なら図々しい態度はやめておいた方がいいと思うけど」

  未だに礼の一つもしてこないアオイは、まさしく傍若無人の妖精だった。とは言っても他の妖精がいないから比較対象は人でしかないけれど。

「大体乙女を期待させるだけさせといて酷く傷つけたのよ」

  ならせめて傷ついてる感じにしてくれと心の中だけで舌打ちを一つ。

「嫌だって言っても行くんでしょ」

「もちろん」

  時計を見ると、短針が四時を刺していた。

「コートは必要なさそうかな」

  と独り言を一つ。

「行くよ」

「意外と素直なのね」

  手をこっちに来いと振る僕にアオイは羽をパタパタさせながら、向かってくる。ガチャリッと音を立てながら鍵を開ける。そしてドアノブに手をあててから静かに開く。

「うわぁ」

  ほとんど同じタイミングで風が吹く。帰る際にはなかったのですっかり安心しきっていいたが、アオイが飛んでいってしまう程の強い風が吹かない保証は天気予報士もしてくれないのだ。お馴染みのように強風に馴染めない声を出して飛ばされそうになるアオイはいつもより余裕がなくて他のいつよりも可愛げがあった。

「危ない」

  体を軽く掴む。アオイが痛くならないようワレモノ注意で。

「ごめん」

  アオイも自分で恥ずかしくなってしまうらしい。そういえばアオイは最初に僕に大丈夫ですと震えた声で言ったのも恥ずかしくなってしまったからかもしれない。それはジェットコースターで生真面目な人が恐怖のあまり叫んでしまった後の感じに似ている。

「そんなんじゃ外に出ても風で飛ばされて花なんか見に行けないよ。やっぱりやめた方がいいんじゃない?」

  戸を閉めながら少し優しく聞く。人の弱いところを覗いてしまったからそういうニュアンスになってしまった面もある。

「なんかいきなりそういう態度になるの、ちょっと嫌」

  乙女にふさわしい対応を求めたのはどちら様?そして、さっきから上から言ってくるけど、何様?言葉は喉の奥に閉じ込めておく。

「でも確かにそうね」

  家の鍵を閉めて、時刻を確認しようとスマホを出す。ことができず、焦る。

「あれ、あれ?」

  さっきまで手に持って妖精のことを調べていたはずだ。

  右のポケットに手を突っ込み少し探ったあと裏返す。何も出てこない。

  左のポケットにも手を突っ込み、探ったあと裏返す。何も出てこない。

  頭のポケットにログインを試み、探ったあと裏返った声だけが出てくる。

「えっ、え?」

  手を体にあてて、擦るも全く出てくる気配がない。部屋においてきたんだろうか?小走りで部屋に戻ってみる。机の上を確認してもなにもない。

「ふふっ」

  何を笑っているんだろうか?

「胸ポケット」

  あっ。胸ポケットに手を伸ばす。と同時に赤面する。四角くて硬い金属がそこにはあった。

  メガネメガネって実際にやる人はいないけれど、いたらこんな感じではないだろうか?

「ありがと」

  恥ずかしくなって手で顔を隠す。と同時に正面にアオイが移動する。先程は斜め前だった。

  アオイは体を捻りながら声を唸らせて考え事をしていた。恥ずかしいからあんまり顔は見ないでほしかったけど、体の方ばかりを見ている。変に自分だけ意識しているみたいで恥ずかしかった。

「これなら大丈夫そうね」

  何が大丈夫なんだろう。と思ったら僕の体へ飛んできた。ビックリして腰を抜かしそうになる。思わず尻餅をついてしまった。

  終着点はさっきまでスマホが入ってた胸ポケットだった。もさもさ動かれて、少しの不愉快な快感に襲われる。

「いきなり何?」

  努めて冷静に言ったつもりだが、首が緊張して声がどうしても上擦ってしまう。

  ニッと悪魔的な笑いをアオイは浮かべる。正しくは妖精的と言うべきだろうか?

「これなら風に飛ばされないでしょ?」

  ごもっともな意見だった。ただ、僕の状況を考慮しなければの話だが。

「カサカサ動く羽がこそばゆいんだけど」

  アオイの羽は、飛ぶ時でなくても自制があまり効かないのか素早く弱く揺れる揺れないを繰り返す。点滅している信号と同じ様な感じでオンオフするそれはアオイ自体が動いてた時ほどでなはないものの不快だった。アオイは頬を膨らませて

「私だって君の安定しない心拍数に我慢してるの。お互い様じゃない?」

  とても平坦で冷静でとても感嘆符をつけられそうにない声が、膨らんだ顔と相反していた。それでまたふざけているんだと分かる。

  でも、アオイの言ってることが分からなくもなかった。確かに、あの妖精には僕の鼓動は不快に思えるだろう。なら、僕が文句を言えるはずもなく言える言葉もなく沈黙で納得を示す。

「なら早く行きましょ。善は急げってよく言うし」

  僕は急かすような目線が痛いので頷いて歩みを進め始める。対して、アオイは冷やかすような感じで狭いよと上向いて主張し始める。

「文句があるなら外出しなくても良いんだよ」

  別にそれは死活問題でもない。無理矢理外に出ようとしてもアオイの力では、ドアを開けることすら厳しいだろう。

「分かったわ」

  アオイは快く理解を示す。その前に舌打ちが聞こえたきがするけど、ただの空耳だと信じておこう。

  スマホを右ポケットに入れようとして電話がきていたことに気づく。右耳にスマホを当てプルルルという独特な音を聞く。

「もしもし」

『もしもし、私だけど』

  オレオレ詐欺ならぬワタシワタシ詐欺ではない。聞こえてきたのは母の声だ。

『今日はお父さんと旅行で一泊してくるから』

  いきなり何で?と声に出る前に電話を切られてしまった。きっと、優花が気を遣ってくれたんだろう。優花は僕にとってのあの時から辛そうにしている時はいつも決まって親を遠ざけて一人にさせてくれる。今は一人ではなく二人もしくは一人と一匹だけど。どちらにせよ好都合であることには変わらない。こういう時は優花が家に来て料理を作ってくれる。そういう姉らしいところは優花にとってのあの時から変わらない。だから、優花が玄関で待たないように手短にアオイの願いを叶えようと決める。

  帰って来た時、玄関横にあるシューズボックスの上に置いたままの鍵を手に取り左ポケットに多少乱雑に入れる。そして、ドアに手をかけ開ける。無風だった。

  エレベーターを待っていると沈黙が訪れた。それが僕にはとてつもなく怖かった。僕が耐えられる沈黙は優花と家族位だ。

  エレベーターのドアが開く。気が気でなくて、しまって数分も経たないスマホを取り出しながら入る。特にゲームをやる気もない僕は、なるべく平静を装いながらメッセージアプリを何となく開く。そこには優花からのメッセージがあった。

『今日は太郎の家に料理作りに行くからね!』

  向かうのは十八時頃になりそう

  絵文字を使わないあまり女子らしくない優花らしい文章だった。

「本当に過保護ね、優花さんは」

「優しいだけだよ」

「殴られたいの?」

  妖精が殴ってきてもそんなに痛そうじゃない。エレベーターが下降を終える。僕もアプリを終えて、歩き出す。歩きスマホはあまり良い文化とは思えない質だ。

「既読したのに返さなくて良いの?」

「優花は返さなくても心が通じあってるような仲だから」

「すぐ惚気る話をするの、やめてもらっていい?」

  そのくらい僕と優花は付き合いが長いということだ、別に惚気たわけじゃない。なんなら付き合っていないとこの妖精に誰か通訳してほしい。

  僕らはマンションを出てから今度はほとんど何もない公園を横切る。先ほど、ボールを拾ってあげた少年が物珍しそうに僕に視線を注いでいる。寝癖もないし、奇抜なファッションをしている訳でもないんだけど。

  更に道を進む。公園を抜けた先の信号が点滅していることに気づいて、気づかない内に走り出していた。アオイが

「いきなり走らないでよ」

  とぼやく。信号が目の前で赤になったので、二歩で止まる。

「いきなり止まらないでよ」

  と呟く。僕は当然妖精ではないので分からないが、急発進と急ブレーキはアオイにとってはジェットコースターの読めない揺れ動きのように感じられるのかもしれない。

「分かった。次から気をつける」

「次やったら承知しないからね」

  睨みを利かせてくる。弱い立場を擁護するのは大変だが、この国のマナーになりつつある。その擁護している人に咎められるとこうも不快なものなのか。いつも守ってくれている優花にはもっと優しくした方が良いのかもしれない。

  とうとう沈黙が訪れた。何を話題にすればいいのだろう?妖精と会話する経験なんて今日まで生来なかったものだから分からなかった。本になってたら書店に向かいたいし、ネットに転がってたらお気に入りに登録したい。その思いから立ち止まってスマホで検索してみる。当然そんな検索結果は出てこない。ずっと沈黙のままだ。

  沈黙のまま?あのワガママなアオイがスマホを使うために立ち止まる僕に何の文句も言ってこないなんてあり得るだろうか?はっ、としてアオイの方を見てみると、アオイは夢を見ている。

  恥ずかしかった。夕方の太陽の紫外線の視線が痛い。穴があったら入りたかったが、胸元の穴には既に先客がいたので入ることは叶わなかった。

  アオイが眠ってる間も僕は淡々と歩き続ける。アオイが起きたときに全然進んでないと怒られるのが怖かったこともあり歩みはいつもより少し速くなっていた。

  世界はアオイという異端のことを気にすることなく正常かつ平常通りに進んでいく。

  赤子の乗るベビーカーをガタガタと小石状のコンクリートの地面に揺らしながら、女性は俯いて歩く。その女性が抱えているのは赤子ではなく、鬱憤のようだった。僕には見向きもすることなく通りすぎていく。

「何、ビビってんだよ」

  けらけらと笑う不良とどこか不安そうなその連れはチャラチャラとした格好だった。僕に目を向けることなく歩いて通りすぎていく。

  アオイの姿が誰にも見える状態だったとしても誰も気にしないんじゃないか。他人は他人、自分は自分のことだけで精一杯、それは現代社会の繋がりすぎでできた繋がり不足そのものだった。齢二十の僕がこんなことを言ったところでなんの説得力もないけれど。

  空の一部が紫になり始める頃、僕はやっと花畑にたどり着いた。秋桜やツツジ、金木犀等一面に彩りが広がっている。アオイはというと、いつの間にか起きていた。今は花に近づいて注視しているが、その姿は蜜を取る虫そのものだった。酷く冷えた声で唐突に

「花って何で華やかだと思う?」

  アオイから繰り出された質問に僕は答えることができなかった。それは唐突だからではなく、答えの持ち合わせがなかったからだ。

「それは」

  と、心の中でも外でも吐き出す。探しても探しても出ないから水を求めて砂漠を歩き回る放浪者みたいになっている。

  僕は少なくとも一つの答えを知っている。はずなのに、言わないのではなく言えない。代わりの答えを探してる。それでも単純な図形を模したものの本質的な美しさなんて他に心当たりがなかった。

「花は綺麗なものだという教育を受けてきたからじゃない?」

  そんなわけない。当然のようにアオイから反論が返ってくる。

「わざわざそんな教育をする理由は?」

「それは花が好きな人がいたから」

「じゃあ、何で花が好きになるの?」

  この話は鶏が先か卵が先かの議論だし、先なのは花が好きということだ。つまり、僕の回答は明らかな誤りである。

「ごめん」

  誤りを軽く謝って訂正する。

「謝ったところで、それはなんの回答にもならないの」

  その通りだ。

「思いつかないや」

「最近の若者は諦めが早くてなってないわね、嫌になっちゃうわ」

  君もずいぶん若そうに見えるけど。

「私も若そうだって顔してる」

  からかうように笑う。それがどういう顔なのか教えて欲しい。

「まぁ、実際若いんだけどね」

  別に驚くこともなかった。

「君が他の妖精のもとに帰るのに、花を愛でることが関係あるの?」

  話題が逸れたからそのまま転換を図る。けれど、全て見透かしたような目で

「質問に質問で返さないで」

  実は帰すと返さないで、で掛かった返事になっていたが、そんなことを気にして笑えるような状況でもなかった。

「ちゃんと考えて」

  僕は悩みに悩む仕草と、長い沈黙で答えが出ないことを明確に示す。アオイは呆れたように首を傾げてから

「人と違いすぎるからよ」

  それは僕の持ち合わせた酷く冷めきった答えだった。

「整ったシンプルな形、芳しい匂い、ずっと動かないところ、短すぎる寿命、人間にはないものばかりだわ」

  その通りだ。足りないものを補おうとするのは人間にとって至極全うなことだ。

「それなのに、似たような感じで皆を育てるのはおかしいと思わない?」

  中学生の頃、先生から言われたことがある。人は大きな違いには寛大だが、小さな違いには厳しい生き物である。非常に非情な話だったけど、それを否定することはできなかった。

「だから、あなたが私に冷たく接してくるのも私とあなたが似ているとあなたが感じているからなの」

「ち、違う」

  動揺を隠せずに言う。僕はアオイとは全く違う。

「性別も、羽の有無も、何もかも違うじゃないか。そもそも人間とは違うものは畏怖の対象だろ、怖い話とか」

  焦るような言い方で伝わったか不安だった。

「そういう考え方もあるかもしれない。でも畏怖の対象になるのは本質が似ているからかもしれない」

  言い返す言葉は砂漠のオアシスのように近くにあるようで遠い。喉も唇も渇いて何も言葉を吐き出せない。

「本当はあなたもそう思ってるんでしょ?」

  思ってるも何もそれは昔の僕の考え方そのものだった。人間はいつまでもどこまでも過去に縛られ続ける。

  ただし、アオイと僕とは本質も違う。もうこれ以上説得することはできないけど。

「ねえ、アオイ。君は何のために花を見に来たの?」

「花が好きだからよ」

  嘘はなさそうだった。

「もう飽きちゃった。帰りましょ」

  何事もなかったかのように言う。アオイにとっては本当に深い意味を持たないのかもしれない。僕は本当に不快な気分だけれど。

  帰り道は気が気でなく、とぼとぼと来た道をそのまま辿った。家につく頃にはもう太陽は沈んでいて、空の色は僕の心よりも黒かった。僕の住む地域にはほとんど星明かりはなく、生活の灯りが満ちていた。

「遅い」

  エレベーターで五階まで昇った後、僕の家まで歩くと、寒そうにドアの前で待っている優花から言われてしまった。差し出された時計は六時半を指している。思ったより足に空気の枷がついていたらしい。

「ごめん」

「太郎君も素直に謝れるのね」

  あえて君をつけて、嫌味ったらしくアオイが言う。僕だって今年、成人になった身だ。少なくともいきなり半強制的に助けを求めてくる妖精よりかは常識もあるし、礼節を重んじているつもりだ。

  嫌味の一つでも返してやろうかと思ったけど、優花は僕が急にアオイに話しかけでもすればどう思うだろう?いっそこの秘密を共有できて僕の気が楽になるかもしれない。アオイの姿が見えることが前提条件ではあるが。見えないのなら頭がおかしくなったと思われて病院に連行されるだろう。孤独というものは常に集団の中に生まれるのだという誰かの言葉が今になって僕の五臓六腑まで染み渡る。

  だから僕はだんまりを決め込む。アオイはつまらないと言いたげな表情を浮かべる。

「どこ行ってたの?」

「花を見に行ってた」

「ああ、あの公園の近くのところね」

  それでさっきの公園の近くと伝わる程、僕はあの場所と公園によく行く。正しくはよく行っていた。大学に入ってからは一度も行かなくなっていたが、それでもスマホを使うどころかほとんど意識することもなくたどり着けた。きっと体で覚えていたからだろう。ほんの数年では街並みは変わることはない。今日歩いてて違和感を覚えたのは一つの建物が取り壊し工事に入っていて、一つの建設中の看板が外れたことぐらいだ。少しずつしかし着実に変わっていっていつの間にか原型も面影すらなくなってしまう。

 僕は何年経ったら変わったことが自覚できるのだろう。そんなことを考え始めてから何年経っただろう。変わりたい自分と変わりたくない自分と変われない自分と変わってしまう自分とに挟まれて何が僕の中で変わっていて何が僕の中で変わってほしくないのかはもう分らなくなってしまった。

「心配したんだから連絡の一つくらいちょうだい」

「心配してくれたの?」

 少し照れ臭そうに優花は頬を紅潮させて

「心配ぐらいするよ」

 優花の素直な答えに口を開けることはなかったが驚く。

「太郎はあの時から時々すごく遠くへ行ってしまったように感じるの。だから、ひょっとしたらこのまま帰ってこなくなっちゃうんじゃないかって」

「僕は優花に何も言わずに離れていかないよ」

そういって抱き寄せて

「不安にさせてごめんね」

 上から囁くように言う。優花も僕の背中を手で囲む。その手は少し冷えていた。

「約束だよ」

 優花は泣いていない。僕の皮膚に濡れた服の独特な感触がないからだ。でもその声は震えていて泣いているようにしか思えなかった。

「いつまで惚気るの?」

アオイは僕を睨みつけていた。

「人前でイチャイチャするのってどんな気分なの?」

 その言葉に少し背筋が凍る。慌てて優花の背中にあった手を外すが、優花は未だに抱きついたままだ。

「優花、恥ずかしいから」

「私たち以外に誰もいないのに?」

 少し不思議そうな目で問いかけてくる。

「えっと、ほら、外から見えるかもしれないし」 

 少し首を傾げながらも優花は納得したようで、手をどけてくれる。

 鍵を開けて家の中に入る。優花もよく我が家に来るからと合鍵は持っているけど、基本的には使わないようにしている。何のための合鍵なのかそれじゃ分からない。

優花は食材も買ってきてくれていたようで、ビニール袋の中身から考えるとどうやら今日はクリームシチューを作ってくれるみたいだ。僕は料理ができないわけではないけれど優花の方が腕は何段も上だ。優花の料理はただおいしいだけではなく、優しく包み込んでくれる。感じているのは味覚だけのはずなのに聴覚や触覚でも大丈夫だと伝えてくれる。

「僕も何か手伝おうか?」

 優花に料理をさせるだけさせておいて自分は何もしないでだらけるのは違う気がする。

「辛い時くらい私に甘えていいんだから、料理は私に任せて太郎は早く元気になることに専念して」

 付け足すように

「私も辛いことがあったら太郎にちゃんと甘えるから」

 その言葉を聞いて優花には敵わないと思った。自分ばかり甘えてしまって、優花は甘えてくれるのかと思っていたら自分も甘えるというアピール。どこまで僕の気持ちを見透かしているんだろう。いつまで優花に辛い時は訪れないんだろう。

 お言葉に甘えて僕はアオイと自分の部屋に向かう。

「できたてほやほやのカップルなの?」

「そういうんじゃないって」

 少し怒りながらも優花に怪しまれないように感嘆符が付かないような弱めの言い方をする。傍から見ればそれは独り言に見えるだろう。

「そうにしか見えないよ、逆にどう見えると思ってるの?互いに思ってることを全然言わないでいるあたりとかさ、本当に何年も一緒にいたようには見えないよ」

 見えているのか見えていないのかこんがらがりそうなややこしい言い方だった。

「思ってることはちゃんと言ってるよ」

 答える声が小さいのは優花に独り言に聞こえるようになのか、それともその答えに自信がなかったのか、どっちか答えろと言われても僕には選べる自信がなかった。

「そうならなんで私が見えることを黙ってるの?」

「それは心配されたくないから」

「違うでしょ?」

 冷たく鋭いそれは視線ではなく刺線と表記した方が的確だった。

「頭がおかしくなったと思われて離れていくのが怖いんでしょ?」

 何も言い返せなかった。だから肯定する。

「怖いよ」

「そういうところがまさに思ってることを言わない付き合い始めのカップルに見えるって言ってんの」

 ちぐはぐなことを言ってるように見えてきちんと筋は通っている。

「別に私はそういう関係を批判してるわけじゃないの」

 でも、と彼女は続ける。

「そうやって思ったことを言えないままだと誰かに奪われちゃうかもしれないよ。優花さんは優しくて綺麗な顔立ちしてるからモテるだろうし」

 アオイの淡々とした声はどこかその言葉を僕にだけでなく昔のアオイ自身に向けても放っていたようだった。

 アオイにとって誰かとは神様のことを指すんじゃないだろうか?これが小説なのであれば筆者のことだ。自分の知らない得体の知れない何かに自分の仲間のいたところから自分より遥かに大きい知的生命体の地まで引き剥がされて、その仲間との思い出だけでなく自分が何者であるかの情報さえも引き剥がされてしまった。

 アオイは神様にどういう想いを抱いているのだろう?激しい憤りだろうか?絶えることない憎しみだろうか?そもそも神様なんかに興味ないと思っているのかもしれない。どんなに数奇でも自分の人生なんだから不満なんか抱いてないで、受け入れるしかないでしょと割り切るのも彼女らしい気がする。

 彼女らしいかどうかなんて出会って二十四時間すら経ってない男には分るはずなどないけれど。

「優花姉はそんなにすぐに離れていかないよ」

「ずいぶんな自信ね」

 ニヤリと口角を上げても目で笑っていないことを知る。

「信頼してるから」

「それって本当に信頼なのかしら?」

 アオイの言うことは熟練者の射る矢のようで的確に僕の弁慶の泣き所を刺してくる。

「ただの思い込みかもよ」

「思い込みと信頼なんて表裏一体じゃない?」

 それを聞くと今度はわざとらしく眼を見開いた。その表情は化物と呼ぶにふさわしい人間のそれからかけ離れたもののように感じられた。でもそれは一瞬で、瞬きを一つすれば不敵な笑みは消えていた。

「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない」

 絞められていた首が緩まった感じだった。

「僕は、僕は優花姉はこの先ずっと離れないでいてくれると思ってる。たとえ相手ができたっていなくたって、これを信頼と呼べたってただの思い込みと呼ばれたってそこだけは変わらない」

 弱弱しくもはっきりとした意志表示だった。数か月の浅い関係に見えるとアオイは言っていたが、少なくとも僕にとってはかなり深い関係だと思っている。

 アルコールの苦手な人間にとってワインはどんなに高級で深く成熟されたものであってもコンビニやそこらで売られているチープなものとを比べたところで飲みたくないことに変わりはないと比喩すれば分かりやすいだろうか。

 アオイは離れていくのが怖いから隠していると話していたがそれも少し違う。そう見えてしまうのも無理ないが、僕らの関係はそんな希薄なものだと勘違いされてしまったら困る。

 優花にはきっと分かっている。僕が隠し事をしていることだけではない。それが優花と離れることが怖いからだということも。だから聞かないのだ。わざわざ自分が傷つかないように配慮されているのに、その配慮を破ってまで知ろうとするのは好奇心旺盛とは言わずただの愚か者と言う。

 こう言ってしまうとなんだか僕が浮気や裏切りを肯定しているように聞こえるかもしれないがそんなことは決してない。そういうことをしないことは互いの前提条件になっている。それこそ信頼しあっているから咎め合わないのだ。できたてホヤホヤのカップルではなく、長年一緒にいた夫婦のような関係だからこそできることだ。

「ふーん」

 アオイは何か言いたげだったがあえて何も言わない風だった。

「じゃあ、元のところに戻るために何をすればいいのか考えましょ」

「アオイには何かアイデアみたいなものはあるの」

 長い沈黙が答えだった。

「そりゃそうだよな」

何の手がかりもないで解ける推理など存在するはずがなく、存在するとしてもそれは最早推理としての原型を留めていない。

「どうやってここに来たんだろう?」

「発想を逆転させているような振りをしないで」

 確かに、その通りだった。

「アオイは意識が回復した時に周りに何かなかったの?」

「何かって何?」

「ファンタジーとかだと定番でしょ?ワープ装置みたいなの」

アオイは噴き出すようにして笑う。

「そんな物理法則無視したものがあると思ってる?純粋な小学生じゃないんだから」

 そこまで笑われると少し恥ずかしい気持ちになった。

「いや君の存在はそれが許されるくらいにはイレギュラーだと思うんだけど」

「そんなものは少なくとも見なかったよ」

 まだ笑いながら言う。いい加減しつこい。

「何か周りに不自然なものはなかったんだね」

 思い出せることがないのなら、記憶がある一番最初に手がかりが無いか調べる。

「ないって。あったらとっくに言ってるわ」

 それを言われてしまうと弱い。

 結局炊飯器が軽やかに炊けることを知らせる音を発するまで、アオイと僕はネットで情報を得ようとした。

 結果が空振りだったことは言うまでもない。

 淡々と食事の準備は進む。優花は料理を作る際のペース配分が上手い。お米が炊き上がるのと大差なく完成させる。優花の料理は美味い。栄養のバランスまで完成されている。ワガママを言えば毎日作ってほしいとさえ思っている。そんなこと優花に頼んだら無理をしてまでやってくれるだろう。僕は優花に無理をさせたくない。

 優花と僕の間に会話はない。僕が来客用の皿と僕の皿を取り出し、優花がその皿に盛り付けていく。来客用の皿を優花以外の人物が使っているところは見たことがない。僕は盛り付けの終わった皿を食卓まで運んで並べる。僕の親は大皿や鍋をそのまま並べるが、優花はきちんと皿に取り分ける。洗い物は増えるが、僕らが間接キスをするような距離感ではないことを考慮してくれているのだ。

 アオイはというと退屈なのか、リビングの上を蠅のように飛び回っていた。そしてそれも僕がとキッチンを二往復する頃には机を椅子代わりに腰かけていた。その周りには雑貨やら書類やらが散乱している。これはアオイがやったのではなく、もともと我が家は郵便物などを食卓の上に置く癖があるから散らかっているだけだ。そもそもアオイにはそんな簡単に多くの物を短時間で運ぶことなどできない。

「いただきます」

「いただきます」

 二人の声が重なる。僕はクリームシチューを口の中に入れると小さくはあるものの優花に聞こえる音量で、

「おいしい」

 と一言漏らす。僕には食レポの経験などないから上手く表現することはできないけれどこの言葉には一寸の嘘もなかった。

「当たり前でしょ」

 優花はそれこそ花のような優しい笑みを浮かべていた。

 沈黙が訪れる。しかし、それは決して不快なものではない。僕はアオイが元の場所へ帰るにはどうすればいいのかを考えて黙っているし、優花も僕の考え事を邪魔しないように黙っていてくれる。両親よりも僕のことを理解してくれている。

 何のアイデアも浮かぶことなく、白米が最初の半分の量になったときその静けさに違和感を覚える。アオイは先ほどのように眠っているのではなく、いなくなっていた。

 少し不安になり、食べるペースが速くなる。しかしながら、その心配はただの杞憂でしかなく、もう食べ終わろうかという時、アオイは羽を揺らしながら廊下から戻ってきた。

「ごちそうさまでした」

 食器を流しに持っていく。

「食器洗いは僕がやるから流しに置いといてくれればいいよ」

 優花は口に物が入っているからか、首肯だけをする。

 廊下を進んで徒歩何分ならぬ、徒歩十歩足らずで自分の部屋の椅子にたどり着く。アオイはもう自分の居場所としてしまったかのように胸ポケットの中で羽を小刻みに震わせている。ただその震えが羽だけではなかったと僕は気づけなかった。

 

「私ね、嘘を吐いてたの」

 しばらくの沈黙を破ったのはアオイの方だった。彼女はこんな一日足らず間に散々からかった挙句、嘘までついていたのか。なんかもう怒る気もなくなってしまった。諦めの早い僕のことだから、早々に呆れていたのかもしれないけど。どんなジョークが出てくるのかと思ったら

「私、さっき、ここに来る前の記憶がないって言ったじゃない。嘘なんだ、ぼんやりとだけど覚えてた」

 あまりの驚きで立ち上がった。

「流石に笑えないよ、アオイ」

 いったん冷静さを取り戻すために笑いを浮かべてみせる。表情筋が上手く作動していないことは自分でも簡単に認識できた。ハハッと漏れる音も短く切れている。

「私、前は人間だった。妖精じゃなかった。こんな変な羽も生えてなかったし、こんな小さくもなかった」

「なんで?なんでそんな大事なところで嘘ついてたんだよ。君のために善意で動いてた僕のことを馬鹿にしてたのか?」

 自分でも熱くなりすぎてるのが分かる。こんなの僕らしくない。ただ、裏切られた気がして許せなかった。今までのことは全部無駄だった、そう思えてしまった。

「ご、ごめんなさい」

 今までの飄々とした感じの喋り方はどこへやら、彼女の声は紅葉に埋もれていた時のように震えている。羽は明らかに不規則な動きを見せて体勢もなんとか保っている程度、羽ばたくというよりかは震えているみたいだった。これじゃ

「どっちが悪人か、分からなくなるだろ!」

いじめられてる側の全てが正しくて、いじめる側の方が悪。そんな風潮が世の中にはなんとなくはびこっている。でも、本当にそうなのか?正しさって何で、誰が決めたものなんだ?脳は無駄な機能を取りつけ過ぎたようなパソコンのようでずっとグルグルと回り続けたままだ。

 遠い昔の彼女の姿を思い出す。そんなことを言えるほど僕は長く生きていない若者だけど。糸のようにいとも簡単に壊れそうになっていた彼女に悪なんてあったのか? 僕はまた彼女を否定するのか、今度は明確な意図を、悪意をもって。喉の奥から出かけた言葉は飲み込んでしまった。代わりにあからさまに冷えた体から出てきた

「ごめん、熱くなり過ぎた」

 はすぐに消えて行ってしまう。

「私の方こそ、本当にごめんなさい。悪意はなかったの」

じゃあ、なんで黙っていたのか。謝った先から、それをしつこく口にするのは野暮だ。

「私がぼんやりと覚えているのは人間だったってこととアオイって名前だけ。他の何もかもを忘れていたの。ただぼんやりとしてて根拠もなかったから確信を持てなくて黙ってたんだ」

 確かにアオイは何故、妖精なのに人語を発せるのか。何故、ファンタジーの生き物なのに自分には関係のない排泄のことについて、トイレという名称をふくめて知っていることなどあるのだろうか?それは、前提として彼女がこの世界で、人間として生きていたからと考えればつじつまが合うのかもしれない。もちろんそれはこの世界と瓜二つの別の世界から来たとしても成り立つけれど。

 それより僕が引っ掛かったのは

「忘れて『いた』ってことは思い出したってこと?」

 彼女は首を縦に振った。

「私がここに来たのは、ファンタジーの世界からじゃない。あの世からなの」

 彼女の言いたいことはつまり

「もう死んでしまったってこと?妖精であり幽霊だってこと?」

 彼女はその言葉にただ口を閉じて、また首を縦に振る。羽は赤べこのように一定の間隔で動いて落ち着きを取り戻しているようだった。ただ、それでも顔からは血の気が引けていたままで

「私の思い出したこと、ちゃんと聞いてくれる?」

 僕は首を縦に振る。思い出を語るにはあまりに暗い声もまだ震えている。

「私、自殺したの。高校の屋上から飛び降りて」

 どうして?の言葉よりも先にアオイは答える。

「レイプされたの、誰かは、思い出せないけど。いつ、どこで、どういう経緯みたいなのもでそういう欲しい情報は曖昧なのに、思い出したくもなかった犯されてた時の辛さだけは鮮明で。結局誰にも話せなくて。だから腹の中の絶望ごと消えさろうと飛び降りたんだと思う」

 レイプされるなんて、それこそファンタジーの世界の話だと思っていた。なにか声をかけるべきだと思っても、思いつく言葉はすぐに消えていって声になることはなかった。唇が震えてゾンビみたいな無気力な音が漏れ出るだけの自分が情けなかった。

「思い出せたのはそれとあと一つだけ」

「それは?」

 僕はアオイの目を真っすぐに見つめる。こんなの自己満足に過ぎないけど。首を縦に振った約束は果たさなきゃ、彼女を見捨てては駄目だと自分なりの覚悟を示そうと思った。

「親友がいたみたいなの。私が思い出せたのはその情報だけ。誰で、どんな人で今も生きているのかも分からない」

 そうか、アオイが死んだのはいつなのか彼女は覚えていないんだからもうとっくに死んでてもおかしくないのか。

「ただ私にとって重要なことだから思い出したんだと思う。例えば、レイプ犯が親友だったとか」

「それは違う、と思うよ」

 某血しぶきはピンクで表現する白黒つけるミステリゲームの主人公の決め台詞のような否定をしてから言葉に詰まった。

「考えすぎなんじゃない?親友にレイプされるなんてちょっと強引だと思う」

 彼女はか細い声で

「そうよね。流石に根拠が薄いのにネガティブになりすぎてた」

 ただ、と続ける。

「私ね、怖いの」

 彼女はあの日の優花の生き写しだった。いや、死んでいるから死に写しか。そんなところにこだわっても憂鬱しかないか。見た目じゃない、もっと違うところで優花とアオイは重なった。

少しの陰鬱な間のあと、彼女はいきなりパンと両手を合わせて鳴らす。

「私らしくないよね、こんなの。ともかくこれから親友を探してみようと思う。聞いてるの?そんなキノコ生えそうなくらいじめじめした顔いつまでもして」

 そうか。

「アオイって意外と演技下手なんだね」

 小さな生物を決して殺さないような感覚で彼女を優しく握る。こんな例えもファンタジーの中だけの話で僕には関係ないと思っていた。

「太郎?」

 いつもなら見逃すことはないだろう失礼な発言をスルーして僕の名前を呼ぶ。やっぱり君は嘘つきには向いていないらしい。

「君はやっぱりここじゃないと」

 安定しない心拍数だと文句を言っていたけど君は僕の胸ポケットですやすやと眠っていた。百聞は一見に如かず、一聞ならなおさらだ。

「僕の前で嘘なんてつかなくていい。辛かったら泣いていいんだよ」

 彼女は何も言わない。音も出ずに僕の服が少しずつ濡れていく。しばらく経つと、バケモノじみた嗚咽が漏れ出す。その嗚咽が段々と意味を持った言葉に変わっていく。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 彼女の謝罪はきっと彼女自身にあてられてる。拝啓、死ぬ前の私へなんて手紙を装っても過去に届くことはないけれど。もう何もかも後の祭りになってしまったけど。

「謝ることなんて何もないんだよ」

 胸ポケットに手をあてる。彼女は体全体で震えている。たまに見せる怖さなんてそこにはなくて、すぐにでも割れて壊れそうな少女だと知らされる。

「怖いの。このままずっとここに、誰かの、違う、君の鼓動を感じ取って生きていたい。前の私のことなんて思い出さなくていい。消えてなくなるくらいなら成仏なんてしなくていい」

 彼女もシンデレラだった。埃まみれの精神でも誰かの前では平然を装ってしまう魔法にかけられて。強がってもバケモノでも精神は思春期の失意の女子高生だ。死にたいなんて

「このままでも良いんだ。成仏なんてしなくていい。アオイ、君がここにいることを誰かが、世界が、君自身が否定しても僕だけはこの小さな五角形を守るから」

 あの頃の僕では言いたくても言えなかった言葉、あの時の優花に放ったのとは真逆の言葉だ。

「私のこと、離さないで」

 彼女の口は下を向いてるのに耳元で話されているかのように聞こえる。心臓に直接言葉が伝わる感覚、肋骨が耳に生えたような感覚。嫌でも塞ぐことができず、彼女の静かな叫びが伝わってくる。嫌でも、塞ごうとも思いはしないけど。

「離さないよ、約束する」

 彼女が顔を上に向けて目と目が合った。どちらの視界も歪んでて本当に合っているかは確かではないけど。

「今の私のことは話さないで。恥ずかしいし」

 口角が上がる彼女はしばらく見ていなかった気がする。

「話すわけない。話したところで狼青年なんて痛々しい奴になるだけだし」

「それもそうね」

 彼女はその華奢な腕で目を拭う。すると、大きく目を見開いて

「なんで太郎も泣いてるの」

 僕が泣いてることに気づいてなかったのかと、こちらも目を丸くする。なんか笑えてきてしまってしばらく声を上げて笑った。

「たとえアオイが消えても、僕がまたアオイを呼び戻すから。それができなくてもアオイのことを死ぬまで忘れないよ、なんなら忘れないように起こったことから思ったことまで書き留めてやる」

「男に二言はないって本当?」

 一瞬にして言わなきゃよかったと思った。こうやって揚げ足を取るアオイがやっぱりアオイらしい。

「大丈夫、君は私とずっと一緒だから。少なくともすぐにいなくなったりしないから」

 彼女の咲かせる笑顔に嘘偽りなんてなかった。こんな恥ずかしい会話

「太郎?大丈夫?さっきから泣いたり笑ったりしてるみたいだけど」

 優花が心配そうに声をかけてくる。しまった、すっかり優花も家にいることを忘れていた。

「いやちょっと面白い動画見て笑ってたところ。後で優花にもリンク送る?」

 部屋の入り口で立ち止まったままの声はあんまり納得してなさそうで

「そう?元気そうなら良かった。私もう食べ終わったからそろそろ帰るね。洗い物はよろしく」

 恥ずかしくて瞬時に

「うん、今日はありがと。優花のお父さんとお母さんにもよろしく伝えておいて」

「あの人達、また太郎に会いたいって。太郎はまだか?ってずっと言ってるよ」

 そんな孫を待ち焦がれる祖父母じゃないんだから。そもそもそんな老けてないし、一ヶ月くらい前に会ったばかりだし。色々ツッコミどころだらけにしてるのは僕への気遣いだろう。笑って

「分かった。都合がついたら皆で」

 僕の家族も優花の家族も含めての皆である。年に数回はどっちかの家で食事と酒を交わしながら、もちろん僕と優花の未成年組は炭酸入りの甘ったるい黒いジュースだったけれど、一家団らんならぬ二家団らんをしている。未成年組の最年少も青年を過ごして今年で成人になった。

「あのね太郎、その皆でももちろん良いんだけど。良かったら明後日の夜、ごはん行かない?」

 優花の声が不自然に速くなったり遅くなったりを繰り返している。

「全然良いけど」

 優花の言語化不能な音が静かに響いた。

「じゃあ、また明後日」

 ドタドタと足音をさせて廊下を走り抜けていく。ドアが勢いよく閉まる音がする。

「どうかしたの?」

 頭の上にクエスチョンマークが見えるくらい僕には不思議で仕方なかった。

「どうかしたの、じゃないでしょ。あれデートの後に告白までする流れじゃない」

 いや、だから

「優花と僕はそんな関係じゃないって」

 何度言えばわかるのだろう。僕らは互いに何を考えてるのかそこはかとなく分かる。このままの関係でいたい僕の思いも彼女はきっと気づいているはずだ。僕が意気地なしなことも気づいているかもしれない。

「多分優花さんは君のこのままでいたいって思いも知ってるんでしょうね。でもね、そんな深い関係なら優花さんの気持ちにも気づいてるんでしょ?鈍感系主人公なんて現実にいても気持ち悪いだけだよ」

 その通り、優花の気持ちにも気づいている。僕が好きだってことも、僕との関係を変えたいと思っていることも、そのための努力も惜しまないことも知ってる。

「大丈夫、私を救ってくれた優しい君が、優花さんの気持ちだけは蔑ろにするなんてことあるわけないってちゃんと分かってるから」

 僕は優しくなんてないんだけど。それにそんな言い方されたら嫌でも向き合わざるを得ないじゃないか。

「わかったよ、優花とはちゃんと向き合う」

 前の茶化すように言った告白するよ、とは違うことを少しだけ熱のこもった語気で示した。アオイは励ますような笑みに、少しふざけた調子で

「もしもフラれたらヤケ酒くらい付き合うから。あの尻軽みたいな罵倒だって一緒に言ってあげる」

「アオイは未成年だから酒飲んじゃダメじゃん。それに優花に対しての罵倒はたとえフラれても僕が許さないから」

 らしくない言葉を言うのは恥ずかしいけど優花に対しての素直な気持ちを優花がいないところで吐けなきゃ、優花の前で話せるわけがない。少し影のある言葉でアオイは

「本当に優花さんにぞっこんなんだね」

 前も使っていたけど、ぞっこんなんて言葉は最近じゃめっぽう聞かなくなった。現代じゃ洋文学の和訳では見るけど、日本の大衆小説でもギリギリ見るかどうか、台詞として使われてることなんてまずない。ひょっとしたら彼女の前世、バケモノじゃなくて人間だったころの彼女の素性が関係あるのかもしれない。アオイも思い出したくないみたいだし、こんなの考えても意味ないけど。

「どうかした?」

 考え事をしていることが簡単に見抜かれてしまったみたいだ。

「いや、皿洗いしないとなって」

 彼女は分かりやすくポンと手のひらに握りこぶしを乗せて

「あ、そういえば優花さんに皿洗いを任されてたね。家事もできる、というか渋々させられる彼氏路線目指してるの?」

 相変わらずヘラヘラした口調でひらひらと動かす羽と一緒に煽ってくる。

「僕から洗い物するって言ったから」

 家事を渋々させられる彼氏を否定しなかったのは、尻に敷かれてる姿があっさり想像できてしまったからだ。

「じゃあ、洗い物してくるから待ってて」

 彼女の首肯を見てから背を向けた。

 洗い物をしてる時に特にする描写もなければ、指が冷えてひび割れが起きるみたいな季節でもない。ただ一つ思ったのは優花の気遣いの分、増えた小皿を洗う手間も恋人になればなくなってしまうのかもしれない。それが嬉しいような悲しいような気分になった。恋人になるのかどうかも決まってないのにこんなことを言い始めるのは良くないか。いやでもフラれたら気まずくなって料理なんて作ってくれはしないんだろうな。そんなネガティブなことを考え始める方が良くないか。

「ねえ」

 洗剤をつけた皿に水を流しているといきなり声が聞こえた。部屋で待っていてと言ったアオイのものだ。キッチンとリビングを区分けするための暖簾が邪魔で姿は上手く確認できないけれど。確かにアオイのはずの声は酷く無感情で先ほどまで泣いていた彼女からは想像できなかった。

「あなたは優しいね、私のことなんてとっくに見捨てても良いのに。いや見捨てた方が良かったのに」

 声から分かる薄笑いは薄気味悪く、まさしくバケモノであった。動揺からか少し声を荒げてしまう。それなのに、震えてる声の奥の奥は酷く冷たい。

「君の方じゃないか、離さないでって言ったのは」

 彼女はそれでも笑みを崩すことはない。

「そんなこと言ったかしら?」

さっきの感動も所詮お涙頂戴の茶番だったのか。代金代わりの涙を返してくれと喉の奥まできた言葉を押し込む。それは、涙を流したのはこちらのエゴで代金の代わりなどなりはしないからとか、僕が人に対してナイフも突き立てられない人間だからではない。もちろんそういう理由もあるけど、最たるものは彼女の言葉が怪しくもふざけているとは思えなかったからだ。何も言えずに、水を止めることすら忘れていると彼女は続ける。

「あなたは不要な私を見捨てず傷ついてる。たとえ、私がそう言っていたとしても、そんなの不合理極まりない。それが人間らしいってことなのかもしれないけど」

 人間らしさを語るには君はかなりバケモノじみてるけど。いや、むしろ人間らしさなんて欠片もないから人間らしさが何かわかるのかもしれない。

 霞みの中から突如、人型のシルエットが浮かんで、すぐに消えた。

「君はアオイなのか?」

「私がアオイなんてことは良く分かってることでしょうに」

 視界が澄んでいく。それとともに彼女の声も遠くなっていく。何か言おうとしたけど霞みが晴れた先には妖精一匹の姿も確認することはできなかった。

 流しっぱなしの水にようやく気付いて素早く皿の洗剤を汚れと共に落とす。洗い終えると足早に部屋に戻った。そこには何事もなかったかのようにこちらを向いて屈託ない笑顔を浮かべるアオイの姿があった。

「意外と早かったね」

 そんなことはないと思うけど。なんかの皮肉か、そう思って構うことなく質問する。

「アオイ、ずっとここにいた?」

 彼女は少し嫌そうな顔をして

「会話はキャッチボールが基本でしょ。まあいいけど。ずっとここにいたけど何かあったの?」

 やはり先ほどのあれは幻だったんだ。良く考えたら妖精も幻みたいなものか。あっさり明日には何事もなかったかのように消えていってしまうかもしれない。

「いや、なら良いんだ」

 アオイの声が聞こえたと言ったところで混乱を招くか、私のことが恋しかったの、みたいいに茶化されるかのどっちかだ。それに、アオイの言葉が冗談と嘘の判断くらいつく。出会って一日足らずで何が分かるんだと言われればそれまでだけど。

「私、明日行きたい所があるの」

 アオイは目を輝かせている。

「どこ?」

 明日は土曜日で大学も休みだ。家族サービスをしている父親の気持ちはこんな感じかもしれない、なんてアオイに言ったらなんて言われるか分からない。胸ポケットのうちにしまうことにした。

「海」

 名詞一つで答える彼女は邪気一つない、家族サービスを受けていることに感謝どころか違和感一つ覚えていない子どもみたいだった。アオイと出会ってすぐに会ったボールを持つ男の子も確かこんな感じだった。僕にもそんな時代があったのかなんて思うと、どこか現実味がない。妖精が見える人間になったことの方が現実味はないか。

 アオイは体を体操選手のように何度も空中で捻る。もちろん彼女の背中には羽が生えてるから得点がつくことはない。

「海水浴ならもうシーズン終わっちゃってるけど」

 今はもう十月六日。小中高の学生なら一ヶ月前に夏休みは終わっている。

「別に海を見に行きたいってだけで、泳ごうなんてつもりは最初からない」

 そもそも強い風で揺らいでしまうアオイが海水に浸かったら砂に残した文字みたいに波に流されてしまう気がする。羽も水中じゃ使い物にならなくなってしまうだろう。溺死は必至といった感じだ。

「じゃあなんで?」

 僕の問いに彼女は一度下を向いてブツブツと呟く。ヨシとはっきり放つと宙を蹴り上げて体ごとこちらに方向転換した。

「なんとなく」

「なんとなく?花の時みたいに海が好きだからとかじゃないの?」

 彼女が水泳部だったみたいなエピソードが出てくるのかと思った。あくまで例えだから水泳部が泳ぐのは基本的にプールだから海が好きとは限らない、という経験則はしまっておこう。水泳部に入ったのは基本的に部活に入らなきゃならない高校で週二回泳げばいいというのは好条件だったから。その二回が地獄のようで途中で辞めてしまったけど。

「嫌いじゃないけど、好きでもないかな。プールの方がキレイそうだし」

「じゃあ、なんで?」

 間も空けずに聞いてみる。

「何事にも理由があるってわけじゃない」

 ただ、と彼女は続ける。

「果てしなく思えた水平線は妖精になるとどれだけ広く見えるんだろうって。もっと広くなってるのか、それともそのままの果てしない風景が続いているのか」

 それは十分立派な理由だよ、そういうより先に別の言葉が出た。

「アオイってやっぱりロマンチストだよね」

「さっきも言ったじゃない、乙女は皆ロマンチストだって」

 それにさっき返したような言葉を返す。

「乙女みたいには思えないけど」

 特に悪意はなかったけど彼女はあからさまに頬を膨らませて

「どこからどう見ても、頭から足元まで、ゆりかごから墓場まで乙女でしょ」

 君のゆりかごから墓場までのほとんどを君は覚えてない。それに図々しさとか虫のように自由に動き回る様子は

「どちらかというと天真爛漫みたいなイメージが強いってことが言いたかった」

 彼女は、苦虫を嚙み潰したような表情をしながら

「なんか上手く誤魔化された感じで気に食わない」

 アオイはこちらに背を向ける。上手いこと

機嫌を直してもらおうにも人間関係の下手な僕ではどうすればいいか良く分からない。人間関係みたいな授業が大学にあったら良いのに、一番それっぽい心理学の一般教養も脳の構造とかばかりであまりあてにはならなかった。悩みに悩んだ末出した答えは

「海に行くこと、ちゃんと考えておくから許して」

 夏休みにバイトを大量に入れたこともあって資金は潤沢だ。海に行く経験なんて大分昔のことでもう行き方なんて忘れているけれど今はネットの海に潜れば数秒で分かる。童話『シンデレラ』みたいな階級制度社会とは時代が全然違う。

 アオイはスルリと、顔の前三センチメートルくらいまで近寄る。目に入ったら痛そうだから衝突の原因となる急発進は止めてもらいたい。さっき怒ってたとは思えないほど喜々として

「えっ、本当に!」

 本当にも何も、本当は最初から連れていくつもりだったから弁解にも何にもなってないんだけど。あれ、でも僕、どこに何故行きたいか質問しただけだ。やっぱり尻に敷かれるのが優花の影響で無意識に定着しているのかもしれない。

まあでも、アオイを納得させられたならそれだけで良いしこのことは黙っておこう。笑いの混じった小声は三センチの距離なら耳にも届く。

「こんくらい朝飯前」

 演技が下手と言ったことも訂正しよう。僕はドラマの嫌みったらしい敵みたく不敵な笑みを浮かべて

「考えるって言っただけだから、確定事項じゃないよ」

 彼女は僕の顔の向きに一直線上に位置目――トル程度離れていくと

「性格悪い」

 と吐き捨てた。人のこと騙してる妖精も十分性根が腐ってると思う。

「素直に謝った方が良いんじゃない」

 彼女は口を閉じたまま下を向いた。その体はなにか文句を言いたそうにしている。実際には言ってないから咎めたりはしない。人の心の内なんて僕には分からない。メンタリストに聞けばわかるかもしれないけどそんな人間、僕の周りにはいない。

 そんなことよりもさっきから何かを忘れている気がする。何か大事なことを。海、水、浸かる、と頭の中で連想ゲームを展開していたらぼんやりと思い出してきた。

「あっ、お風呂沸かし忘れてた」

 二日に一回のペースで風呂掃除することになっていて、昨日、僕が掃除したから今日は沸かすだけで済む。いつもは親が帰ってきたタイミングで沸かすことにしてるけど、今日はいつまで待っても親が帰ってこないんだった。

「ちょっと席外すから」

 椅子に腰かけて十分も経たず十分な会話もせずに立ち上がる。自分でも挙動不審だなと思ってしまう。

「あっ、そう」

 まだ根に持ってるのか、素っ気ないアオイの返事が耳に届く頃には一歩目の左足が空気を蹴っていた。まだというと短気っぽいか。

 『お風呂に自動でお湯を入れます』

 抑揚の抜けた機械音声が浴室の中から響き渡る。流しの隣にも給湯のボタンはあるけど風呂の栓が抜けていないか確認するためにもこっちを選んだ。浴用タオルが昨日使ってから洗濯し忘れたから、洗濯機に放り込むという用事もちょうどあった。ここに来るまで忘れてたけど。

 浴室を抜けるとそこには洗濯機のある部屋がある。この部屋にも水道があって手洗いうがい、歯みがきなどはここでこなすことになっている。もちろんここで書く必要もないと省略したけど家に帰ってからきちんと手洗いうがいはしてる。そういうところから衛生的にしないと細身で見るからに病弱な僕ではすぐに鼻炎や風邪になってしまう。

 その部屋のドアを開ければ、玄関横の廊下へと繋がる。そこから数歩直線を進み右折すれば自分の部屋へと繋がる。こんなカーナビみたいな書き方をしても仕方ないか。

 そこには何事もなかったかのようにこちらを向いて屈託ない笑顔を浮かべるアオイの姿があった。まるで、皿洗いから足早に帰ってきたときのように。

「明日海行くんだから、ちゃんとしてくれないと。これで寝る時間遅くなって寝坊したらどうするの」

 まだ夜も浅いし、そんなに嫁姑の姑みたいに気にすることじゃないと思うけど。というかさっきのアオイが謝る流れも何事もなかったことにされてるのか?それに僕は海に行くなんて一言も言ってないけど。ツッコミどころはたくさんあるが面倒になって何事もなかったことにした。そもそも海に行くのに反対するつもりは毛頭なかったし。

「うん」

 謝るのは癪だった。

「分かればいいのよ」

 胸を張るアオイも少し癪だった。

「寝坊って言ったけど明日何時くらいに家出るの?」

 アオイは煽るためだけに言ったからか、しばらく悩んで

「八時とか?」

 クエスチョンマークをつけるくらいならもっと遅い時間にしてほしい。高校生にとっての八時は部活や学校で起きてなきゃいけない時間かもしれない。けれど大学生は履修の調整で八時に起きる必要がない。

「もうちょっと遅くていいんじゃない?」

 彼女は首を傾げて

「海のある街はシーズン終わっても観光地として活動してるところが多いでしょ?人が集まる前に行くのが吉だと思うんだけど」

海なんて疎遠なだからそこら辺の事情には詳しくない。どちらにせよ土曜日は平日よりも人が集まるから朝に行くのが得策だと思った。アオイの姿は僕にしか見えない。周囲から見れば誰かと話してる風に独り言を呟く頭のおかしくなった人間だ。大量の人から白い目で見られて平気でいられるほど僕の精神は主人公をしていない。

「そっか」

 数秒の間の後、名残惜しく答える。大学は人生の夏休みと良く言うけど、人生の夜遊びの方が良いと思えるくらいに僕は夜更かしする。夜更かしして何かしているわけでもなくただただ動画を漁ったりダラダラと堕落した時間を過ごす。その時間だけは自分が自分だけでいられる気がして好きだったんだけど、今日はそういうわけにもいかないみたいだ。そもそも妖精に睡眠なんて必要ないからこれから僕のそういう時間はもうしばらくの間なくなってしまうのかもしれない。

 ふと、それでもいいかと思った。そう思うくらいに彼女は僕にとって素を曝け出せる存在になっていたということだ。こんな短い時間なのに、彼女はバケモノなのに。

 僕の周りを一周してアオイは

「何、ボーっとしてるの」

 と脇腹を一蹴した。そこらへんの病人や女性よりもか細いそれでは形原痛くなることもない、なんてフラグをたてるような言い方をしたけど実際彼女がどれだけ僕を攻撃したとしても無意味だろう。

「ごめん」

 そう腰を曲げても未だに頭の中は彼女と僕の関係性について考えるばかりだ。僕はアオイと体のサイズが違う。ひょっとしたらレイプで襲われることがないようにそのサイズになっているのかもしれない。どちらにせよこれで性欲が湧くなんておかしい。物欲なのか、でも彼女は物は物でも生き物で化物だ。

「言葉だけの謝罪ならいらないけど」

 鋭い目はナイフのようで僕の体の内側に突き刺さってくる。数ページもかからぬ間に伏線を回収してしまう。いや伏線回収かと言われれば微妙なところだけど。

「ごめん」

 同じ言葉を繰り返す。今度はちゃんとアオイに意識と視線を向けて。

「分かったら良い」

 胸を張るアオイの言葉は癪だと思わなかった。

 そのままアオイとの関係を定義づけることはできないままだった。

「私、君の話が聞きたいって言ってたの。私の生い立ちだけ聞かされてフェアじゃないじゃない」

 僕が呆けてる少しの間にどうしたらそんな話になるのか。それに、君の生い立ちは今日一日と思い出した分だけなんだから知ってるのは当然のことだと思うけど。そんなことよりも別の言葉が零れた。

「僕の過去なんて聞いても暗くて辛くてつまらないよ」

 俯く僕の視界を、上を向きながら彼女は覗いてきた。

「そんなこと言わないで、話してみてよ」

 口角は上がっているが笑っているようには思えなかった。

「ごめん、あんまり話したくないんだ」

 彼女は少し間を置いてから

「そっか、なんかごめん」

 と肩を落とす。

「謝ることなんてないよ。話したくないのはこっちの都合だし」

 何分かの気まずい沈黙の後、口を開いたのはアオイだった。

「じゃ、じゃあ優花さんとの馴れ初めはどんな感じなの?」

 結婚会見じゃないんだし、そもそも付き合ってすらいないんだからそんな言葉使わなくても。まあさっきの質問より随分と答えやすい。

 優花にとってのあの時のことを話すべきか否か。あれで僕らの関係は深くなったんだけど。でも、優花の暗い過去について話してしまうのはどうなんだろう。彼女は他の誰にも見えることはないから話したとしても問題ない気もする。漫画だったら悪魔の姿をした小さな僕が天使の姿をした小さな僕と言い争ってるに違いない。その喧嘩の結果、僕が出した答えは

「優花とは昔から近所に住んでることとか親同士仲が良いから、良く遊んだんだ。それで色々あってああいう仲に」

 友達以上恋人未満なんて自分から言うのは少し恥ずかしくて濁す。僕は優花に対して誠実でいたいと思った。誰にもバレることはなくても。

「ふーん」

 何か言いたげだ。でも彼女は別に詮索するようなことはせずに

「幼馴染の恋って現実にあるんだね」

 僕は幼馴染以外に恋をしたことがないからそれ以外の恋の存在の方がフィクションだった。

 その後も談笑を続けて数十分が経過した。唐突に聞きなれたメロディーが鳴り出す。

『お風呂が沸きました』

 数十分と言ったけれど、光陰矢の如し、体感ではその半分くらいの時間しか経過してないように思えた。

「ごめん、ちょっと風呂行ってくる」

 アオイに告げると、二回ほど瞬きをして

「そうだ、私もお風呂入りたい」

 トイレも食事もいらないのにと疑う僕にアオイは続ける。

「私だってレディーなのよ、必要かどうかなんて関係なくお風呂くらい入って綺麗でいたいし、あとできれば化粧水で保湿して……」

 化粧水以降の話は長くて、聞き慣れない単語でファンタジーの世界に入ったみたいだった。美人でい続けるためにはそれ相応の努力が必要なのかもしれない。彼女の整った顔に努力の影なんて見えはしないけど。一つせき込みを入れて話を遮る。

「ごめん、うちにあっても化粧水くらいだと思う、お母さんの使ってるやつだし」

 母の使ってるやつだから何か問題があるわけではないしこんな言い方は失礼かもしれない。

「どちらにせよお風呂には入らせてほしい。あっ、私がいくら可愛い妖精だからといって裸覗くのは禁止だから」

 そもそも君が服を着てるようには思えないよ。それに

「毎日、お風呂に入れてあげられるかは分からないよ、今日はたまたま親がいないからなんとかしてあげられるけど」

 バケツの中にお湯を入れて適当な場所に持っていけば、それだけでアオイのお風呂ができる。でも親にバレずに毎日その作業をするのは実現可能性に乏しい。浴室でアオイの風呂をと思ったけどそれじゃ僕の裸が見られてしまう。僕にだって羞恥心くらいある。僕が上がって服を着てからアオイを入れようかと思ったけどバケツの水を彼女が捨てられるわけもない。順序を逆にすると何度も入浴することなく風呂に行ってることになる。

「まあ明日は明日の風が吹くから。そういうのは後で考えればいいでしょ」

 君はその風に吹かれてどこかに飛んで行ってしまうんじゃないか。まあでも、風呂が冷める前に入ってしまった方が良い。考えるのはその後でいい。

「それもそうか」

 一つ呼吸を置いて

「良い?僕が先に入るから、その間に覗いたりしないで」

 鶴の恩返しみたいな言葉を吐いて部屋を立ち去る。

「わざわざそんなことするわけないって」

 それもそうか。忘れもの、と棚から替えの服を取り出す。その時にすれ違う彼女はどこか笑っているようだった。

 浴室前の部屋に向かうと乱雑に自分の服を脱いでは洗濯機に入れた。パンツを脱ごうと指を布に引っ掛けると、ふとドアが開いてることに気づく。閉めようとすると、そこにはアオイの姿があった。彼女は目を丸くして何も言わずに立ち去ってしまった。

「あれは幻なのか?」

 と呟く。疑問形だけど、その内情は願いに近かった。

 不安に駆られて、いつもより雑に体を洗い、いつもより短い時間の入浴で済ませてしまった。服を着て足早に部屋へと向かう。部屋に入るとほとんど同時に声が響いた。

「ごめんなさい。私驚かせるつもりだっただけで。悪気はなかったの」

 僕を驚かせようとしてる時点でそれはもう悪意だよ、なんて揚げ足を取ることはしない。代わりに彼女の頬に人差し指で触れる。冷たく白い肌は死に化粧のようだ。

「こっちこそ驚かせてしまって、ごめん」

 彼女は必死に首を振って

「違う、私がちゃんと言いつけを守らなかったから。太郎が謝ることなんて何にもない、私がいけなかったの」

 化物を見るような目をしていた。

「僕のこの傷はいつまで経っても消えないけど、それでも僕はこの傷を背負って生きていくんだ」

 アオイが覗いたのは僕の上裸、そこに刻まれた痣や傷だった。長い間を置いて悩んだけれど、もう言い逃れはできないと口を開ける。

「僕の昔の話をしようか、あれは僕が高校生の頃の話だ」

 そして僕にとってのあの時の少し前までの話だ。

 

 高校に入ってから今でも思い出してしまうと吐いてしまいたくなるような思い出だった。小学校も中学校も公立の僕にとっては初めての受験で志望理由は優花がいたからなんて情けないものだったけど、努力が実った高揚感があった。それがそのまま新しい生活への期待へと変わって果実のように膨れ上がっていた。果実はすぐに枯れてしまうことを知らなかった。

 部活を水泳部にしようと思ったのは活動日数が少ないからだった。別に青春なんて眩しすぎて僕には疎遠なものだったから興味なんて最初からなかった。少しだけ強がった言い方をした。でも、少なくとも青春よりも勉強についていけるかとかの不安の方が勝っていた。

 僕が高校に入って初めての秋、僕にとってのあの時のおよそ一年前に事件は起こる。いじめが起きたのだ。被害者は僕、加害者は二人組で動機は特に話してくれなかった。僕の何がいけ好かないのか聞いても答えず、わけも分からずに殴られ蹴られ、罵詈雑言を浴びせられた。途中で考えても仕方のないことだ、とそう考えるようになるころには刃物を自慢するように掲げた。流石にまずいと思ったのか、僕に刃物を向ける時はかするような形が多かったけど、たまに僕の体に傷が残るようなこともあった。その時はその時で邪気のない笑みを浮かべていて僕がまるで間違っている人間にすら思えた。これが小学生の優花の感じていた感情なのかもしれない。あの言葉がどれだけ自分勝手で傷つける言葉だったかをきちんと理解した初めての瞬間だった。身をもって体験しないと人に向けたナイフの正しさも分からない。あの時以降僕は疑念を向けることはあっても、ナイフを向ける機会はなかった。この時に僕は再びナイフを向けることの怖さを知って拒むようになった。

 いじめは止まることなんてなかった。僕が水泳部を辞めたのは三月のこと。建前では他の部活に興味が出たから。でも本当の理由は上半身にできた傷を水泳では見られてしまうからだった。

夏の間だけしか屋外プールは使わせてもらえなかったけれど、それはむしろ好都合だった。傷が誰の目にも触れなくて済むから。でもそれは延命措置のようなものだ。次の夏には傷と痣を晒しながら傷にしみる海水の中泳がなきゃいけない。

それに、正直プールに入らなくても部活で運動するだけで汗が傷口に染みて地獄のようだった。先輩にも同級生にも良くしてもらえていたけど、最近調子悪いという何気ない優しい気遣いが一番怖かった。バラしたら殺す、なんて今考えたらそんなことするわけないのに、その言葉に怯えて素っ気ない態度で接してしまうようになった。

彼らは何も悪くないのに。悪いのはいじめられても抵抗の一つもできない僕なのに。そういった心がいつの間にか右手にカッターを持たせるほどまでに膨れあがっていった。実際に切ることはなかったけど。反比例して気分は萎む。いつの間にか誰かと話すことすらも拒絶するようになって、クラスからも孤立した。

そんな中、優花は僕の味方でいてくれた。察しが良いからか、高一の三月中旬

「何かあったんでしょ」

 優花は僕の自宅に上がってくると俯く僕の顔を下から覗き込んできた。

「何もないよ」

 顔が見られるのすら嫌になって視界から優花を外した。すると今度は肩に触れて僕を正面に向かえる。

「私と太郎の仲でしょ。何でも頼ってよ」

「しつこい」

 彼女の言葉もノイズにしか聞こえない。僕は彼女の体を軽く押して、触れていた手を自分の肩から強引に外した。優花はそれに対処しきれず尻餅をつく。反射的に僕は手を差し伸べた。その手をぐっと引っ張られ僕の倒れる体を彼女は抱えて

「大丈夫だから」

 何が大丈夫なのか、分からないけれどその言葉だけで安心している自分がいた。彼女はそのまま話を続ける。

「大丈夫だから、何かあったんだったら私に話して。私は太郎の味方だから」

 自然と吐露していた。いじめられてることだけは黙って。優花がそれを知ったら苗字の通り、猪のように彼らのところまで殴り込みに行くかもしれないと思ったからだ。

間違うことを肯定してから彼女は自分の価値観に沿った判断をして間違えたらその都度修正するようになった。正義よりも正しいものができたんだ。この大丈夫も間違った言葉かもしれない、僕を見離さずに抱えるのも見当違いの行為かもしれない。それでも、真っ先に彼女は僕を肯定することを選んだ。

僕は優花に傷ついて欲しくない一心だった。だからクラスでの軋轢を部活の歪をいじめではなく自分が原因で起きたことにした。

「部活辞めてもいいんじゃない?」

 その提案に肯定しようとして縦に振りだした首を途中で横に方向転換した。

「この学校、部活基本的に強制じゃん。辞められないよ」

 優花は優しい声音で

「私の部活に転部すればいいよ。そしたら強制的な部活動なんて悪習に反ることもないでしょ」

 転部を考えたことがなかったわけじゃなかった。ただ、どこの馬の骨かもわからない男がいきなり転部をしてきたところで歓迎されるわけもない。わけもなくそこはかとなくその思考に支配されていた僕にとってそんな選択肢はなかった。

いや、優花の部活に転部するという選択肢は考えていたような気もする。自分で自分のことが分からないなんて妖精が見える前から僕はおかしかったのかもしれない。どちらにせよ、優花が声をかけるまで段ボールに捨てられた猫みたく何もできずにいたことだけは確かだ。

「私は味方だから、皆との関係もなんとかなるようにするから」

 なんで優花が辛そうなんだ。横目で見た優花の顔にはそう思わせるほど潤う目と僕の体へと零れるガラス玉。辛いのは僕だけでいいのに。

「太郎、私にまだ隠し事してるでしょ」

 叱責のニュアンスなんてそこにはほとんどなかった。

「悔しくて。長い付き合いだったのに私、太郎に隠し事させてしまうくらい頼りないのかなって」

 思わず違うよと出そうになった言葉を喉元で止める。その余韻で開いた口は塞がずにしばらく開いていた。

 ここで、言ってしまったら。優花の透き通った肌に痣ができた想像をしてしまった。なにを言えばいいのか分からなくなった。何を言っても間違いな気がして、彼女の華奢な体を強く抱き返すことくらいしかできなかった。

「優花姉、僕は大丈夫だから」

 何も大丈夫じゃないのに。この言葉だけで自分が物語の主人公になったみたいな錯覚に陥る。右肩を二回叩くと、お互いの引力が弱まる。互いの表情を見つめ合っているのに歪んで福笑いのようにしか思えなかった。

「僕、優花姉の部活に転部するよ」

 直近の痣を見られてしまう問題を解決するためには水泳部を抜けるしかない。優花の力を借りる他なかった。一拍置いて

「どうしても言えないことなんだ。ごめん。でも必ず自分で解決するから」

 何も笑えるようなことなんてないのに彼女は笑い出した。いや、むしろ笑えるようなことじゃないからこそ笑って誤魔化すことくらいしかできないのかもしれない。

「役に立てなくて悔しいけど、頑張って。あと無茶しそうになったらその時は呼んで」

 一歳差の親と離れていくようだった。

 そして先述の通り、水泳部を辞めて別の部活へと籍を置くことになった。何故かはよくわからないけど、それを機にいじめは徐々に減っていき、夏休みに入る頃にはすっかり消えてしまった。元々、いじめてきた彼らは違う高校の人間で、素性も良く分からない。まるで全部嘘だったようになくなっていく中で体についた傷だけが確かに僕がいじめられていたことを示していた。

 

隠し事をしてしまったことは申し訳なく思っている。

 アオイは茶化すわけでも寝てしまうわけでもなく、ただ黙々と僕の言葉に耳を傾けていた。

「やっぱりごめんなさい。太郎にとってはあんまり触れられたくないことだったはずなのに」

 アオイはきっとレイプされた話を抱え込みたかったのだろう。だから秘密を打ち明ける怖さを知り、だからそれを自分本位に知ってしまうことへの罪悪感がある。僕は彼女の目を見て

「アオイじゃなかったら多分許さなかったと思う。確かにこの傷は見世物なんかじゃないし」

 でも、と続ける。

「僕はアオイの話したくない過去を聞いた。アオイも僕の悲しみを知った。これでおあいこでしょ」

 それに対してアオイがでも、と反論してくる。

「私は自分から話した。太郎は、私が覗かなければ話さないでいれた。全然違う」

 首を振る彼女に首を振って見せた。

「この秘密を共有しても苦じゃないくらい君は僕にとっての特別になったんだ。だから謝ることなんてない」

 なんか恥ずかしくなってこれ以上先の言葉は思いつかなかった。優花と家族以外では許せない沈黙が安らぎのようだった。

「それってプロポーズ?」

 どもるような言い方をする彼女に

「恋愛体質が過ぎるでしょ。僕は優花一筋だから」

 そう笑いを浮かべて少しだけ揺れている心を誤魔化した。

「それもそうね」

 そう笑いを浮かべる彼女は花のように美しかった。

 しばらく、何でもないようなことを駄弁って時計の針は十一を指していた。

「もうそろそろ寝ないと八時に間に合わないか」

 そう言って部屋の電球をオレンジ色に変える。

「えー、まだ話したりない」

 なんてわざとらしく茶化すアオイに

「明日も明後日もどうせ僕と離れないなら話せるでしょ」

「それもそうね」

 ベッドへと飛び込むと

「おやすみ」

「おやすみ」

 横を向くとアオイの姿が文字通り目と鼻の先にあった。

「どうしたの?」

 と自然に聞いてくる彼女に

「近いって、寝相で踏みつぶしちゃうかもしれないだろ」

 動揺を隠せず、語気が強くなる。

「そうだよね、抱き枕くらいの感覚に思ってた」

 抱き枕にしてはサイズが違いすぎるし、心拍なんて気味の悪いものまでついている。

「まあそういうことなら」

 と羽を広げて僕の学習机へと飛んでいく。

「じゃあ、今度こそおやすみ」

 

三十分ほど目を閉じていると視界が白くなる。いつの間にか眠りについてしまったみたいだ。声が聞こえる。懐かしい声が。

「久しぶり」

「う、うん」

 夢だと分かっているのに恐れで上手く喋れない。

「なんで急に現れてきたんだ」

 夢だと分かっているのに出てくる彼女に理不尽に怒ってしまう。不敵な笑みを浮かべながら彼女は答える。

「さあ、私も好きでここに来たわけじゃないから」

 続けざまに

「あなたが面白い人間のままでよかったよ」

 僕が面白い人間なら、大学で浮いてることもないだろうに。吐き捨てるように

「何も面白いことなんてなかったよ」

「そっか」

 僕の言葉に興味なんて一ミリもなさそうだった。

「あなたがこれからどうなっていくのか楽しみだわ」

 化物らしい声とともに、段々と地面に花が咲いていく。地面がどちらかなんてそんなことぐらいでしか判断がつかない。そこに見覚えのある、忘れられるわけもない人体が足から生成された。

「夢って意外とすぐに覚めちゃうものよね。だから儚いには夢が詰まってるのかもしれない」

 そんな御託を並べられるくらい君は儚さなんて感じていないんじゃないか。

「もう行くわ」

「待って、僕は君に言いたいことが」

 ここで目が覚めた。いつもと変わらない朝の風景の中で、アラームの音がうるさく響いた。二度とこのアラームは使いたくない。そう思って眠たい眼をこするとあることに気づく。

アオイの姿がなくなっていたのだ。


 

第:流れ星、キラリ

 とりあえず食事をとるためにリビングにやってくると、何気なくテレビの電源をオンにする。朝のニュース番組なんてほとんどネットニュースで代替できるようになったけど、ルーチンワークとして見ていた。ルーチンワークには落ち着きを取り戻させる効果があるらしくニュースキャスターの声でその効果を実感した。

『今夜はりゅう座流星群が午前三時に見られる地域もあります。体調や生活リズムを崩さない範囲で観測してみてはいかがでしょうか。では天気予報にうつります』

 そんな時間に起きてたら少なくとも生活リズムは崩れてしまうに違いない。

 テーブルの上に置いてある六枚切りの食パンに手を伸ばしトースターで焼くことなくかじる。いつもに比べて湿ったそれは自分の唾液を吸収しているようで、とてもおいしいとは思えなかった。

 ともかく一食分のエネルギーは確保できた。天気予報によれば今日行く予定だった海もここもくもりらしい。ただ、海に行ってる保証なんてない。あるのは

「この手紙だけか」

 机の上に置かれたこの手紙だけが彼女の存在を証明してくれている。

『ひとばんかんがえなおしてやっぱりじょうぶつすることにしたの。別れがおしくなるからだまって出ていってしまったのはごめんなさい。でもそれくらいきみのことが大切だったの。これはいしょのはずなのにこれじゃあこい文だね』

 アオイはもののコントロールが上手くできないからか、この文は判読はできるものの酷く歪んでいた。きっと中途半端に漢字で書かれているのは文字が潰れてしまわないようにするための配慮だろう。

「アオイ、どうして」

 何かしら拭いきれない違和感を覚えながらも、それを上回る焦燥感で頭がいっぱいだった。アオイの思考の転換があまりに速いことに違和感をもったのだろう、でもそんなことよりアオイがきえてしまったことの事実が勝る。

 とりあえず彼女の行きたがっていた海に向かうことにした。胸ポケットに妖精代わりのスマートフォンを入れてドアを開ける。エレベーターの前で小走りをするとズボンのポケットに触れる感触がある。それをいつもの感覚と照らし合わせて財布も鍵も持ったことを確認した。

 エレベーターの動きがこんなにゆっくりに感じられるのは初めてのことだった。速く、そう願って閉と書かれたボタンを連打し続けるが速度が変わることはない。下降し終えたエレベーターの扉が開く途中で走り出した。引っかからなかったから良かったものの、次からはちゃんと開いてから走るようにしよう。そんな状況、早々来るものじゃないけど。

 大学生になってから、選択科目で体育系の授業も取っていなかったから、すぐに息が上がるようになっていた。それでも歩みを止めることはなく、走るペースを緩めないように気を張った。

 高架駅下には酔っ払いの吐瀉物が未だに液体のまま残っていた。それを飛び越えて勢いを保ったまま走り続けていると、

「あれ、太郎。どうしたの?」

 優花が心配そうにこちらを見ている。

「別に」

 と切り抜けて改札に入ろうとすると腕を掴まれてしまった。

「別にじゃないでしょ」

 ただでさえ僕は華奢な体なのに、今はもうほとんど体力なんて残されてない。優花の腕を振り払うことはできなかった。

「どうしたの、血相変えて」

 過呼吸でしばらく喋れずにいると、近くの自販機で冷たいお茶を買って

「これ飲んで」

 と渡してきた。選ばれるのはやはり優花だろう。いきなりどこかに行ってしまうファンタジーよりも寄り添ってくれるリアルの方が良いに決まってる。

「ありがとう、それとごめん優花。いつか必ず事情は説明するから。今だけは何も言わずにその手を離してくれない?」

 妖精が見えるなんて、ましてやその妖精が行方不明になったから探してるなんて言っても信じてくれはしないだろう。ちゃんと後で理由を考えなくちゃ。優花は僕の目をじっと見つめてそれから腕をさらに強く握る。

「嫌」

 どうして?と聞く前に彼女は答える。

「だって太郎、昨日からずっとおかしいじゃない。いつもみたくあの時のことがフラッシュバックしたのかと思って太郎のご両親に私の家に来るよう上手く伝えて。でも、なんかいつもと違うの、上手く言えないけど」

 勘付かれてしまったのか。確かに部屋で一人、泣いたり笑ったり誰かと会話してる風にしてるのは変に思われても仕方ない。

「ねえ、太郎。私と一緒に過ごそう。そうじゃなきゃ、ちゃんと説明して」

 去ってしまった妖精のことなんて忘れてしまって優花ときちんと向き合うべきかもしれない。

それでも僕にはアオイを探さなきゃいけない理由があった。

「ごめん、理由は言えないんだ。それでも行かせてくれない?」

 彼女の目を真剣に見つめ返すくらいしかできない。

「私よりも大事なことなの?」

 答えに迷ってしばらく黙った末に

「うん。どっちも大事なのは変わりないけど今を逃しちゃいけない気がするんだ」

 この場面でどっちも同じくらいなんてことを言っても優花は許してくれないだろう。だからこれは誰かにナイフを向けたんじゃなくて試練に覚悟を示したようなものだ。

「無理したら許さないから」

 そうやって手を離す。走る僕の背中めがけて

「ちゃんと説明してよ、それと何かあったら私を頼って」

首を縦に振って答えの代わりとした。ICカードの残金はほとんど残っていない。まあ、乗り越し精算でチャージすればいい話だ。ホームまでの階段を駆け上る。次の電車が来るまであと一分を切っていた。

 駆け込み乗車はお止めください。そう言われてしまいそうだけど、電車の扉はしっかり開いていた。それに階段を登り切った先で一時停止して、歩いていたわけだから駆けてすらいない。

 車内では一人だけ息が上がっていて、周囲からの視線が痛かった。適当に空いてる席に座って、とりあえずメッセージアプリを開いた。

『今日はごめん。明日にはちゃんと説明するから』

 珍しく、ひょっとしたら初めて僕から連絡を取ったのかもしれない。既読はすぐについて

『約束だから』

 の五文字だけが返ってきた。僕がここで下手なことを言ってもかえって優花を刺激しかねない。怒られるのは自分の質じゃない。怒るのはもっと質じゃないけど。

 次に地図アプリを起動しては行き先を調べた。昨日、時計が十一を示す前に何でもないような話をしていた。それと平行して僕が調べていたのをアオイは確か覗き込んでいたはずだ。それで

「人のスマホを覗き込むのはマナーがなってない」

「別にいいじゃない」

 みたいな何でもないような会話をしたのを覚えてる。

 土曜日の朝の車内はアオイが言う通りガラガラだった。平日もこれくらい混んでないなら息苦しい思いはしないで済むだろうに、なんて反実仮想に思いを馳せたところで生き苦しくなるだけだ。

「あら」

 いきなり僕のすぐ近くから声をかけられてアオイと叫びそうになる。車内ではお静かに、くらいのマナーを守ることはできる。うろちょろと首ごと視線を右往左往させると、その声は隣の席の女性のもののようだった。

「久しぶりね、新井くん」

「相変わらず苗字呼びなんですね」

 優花の母は、歳をとったことを感じさせなくて、SFのロボットみたいなミステリアスさを纏っている。

「じゃあ名前で呼んだ方が良い?」

 なんて煽るような投げかけをしてくるけど当の本人は別に悪気なんてこれっぽっちもないらしい。

「それで呼ばれるのに慣れちゃったから、今まで通りで大丈夫です」

 僕は正直この人が苦手だ。上手く距離感が掴めないでいるから他人行儀に冷たく話す他なくなってしまう。

「私もそう思ってた」

 なんて意味ありげな微笑を浮かべる。意味なんてこの人に求めちゃいけないんだろうけど。

「私はね、新井君」

 新井君なんて呼び方にもきっと意味なんてありはしない。

「優花が、君とおうちデートをしたって聞いてたんだけど。昨日は、どんなことしていちゃついてたの?」

 微笑は崩さない。まるで仮面でも被ってるみたいに。

「それは」

 優花はいつもそうやって、僕と親を隔離してくれてたのか。どおりで、母は僕に

『優花ちゃんと進展あった?』

 なんて喜々として聞いてくるのか。まあ、そもそも家で年頃の男女が二人きりの状況を説明するのにそれ以上うってつけの言葉はないか。

「聞くのは野暮だったね。楽しそうで何よりだわ」

 と口角を更に上げる。

「あの子、中々性格が歪んでるけどそれでも一緒にいてあげてね。彼女の目には、君しかいないの」

 彼女の目は表情と裏腹に哀愁を漂わせていた。こういう自分の子どもを卑下するようなところもあまり好きになれない。

「優花は素敵な女の子ですよ。あんまり悪く言わないでください」

 彼女は少しだけ驚きを見せた後、また翳りのある明るい笑顔を浮かべた。

「そっか。恋は盲目って言うし」

 僕は盲目なんかじゃない。ちゃんと優花のことを知ってる。ただそれを声に出すことはできず

「はあ」

 と腑抜けた声だけが零れる。

「まあ君がそう思ってるならそれでいいよ」

 そう言って彼女はまた笑うばかりだ。

「そう言えば昨日、そのデート後の、優花はどうでした?」

 彼女はしばらく間を置いて

「そう言えばやけにテンションが高かったような」

 明日のことを相当楽しみにしていたのか。それなのに、彼女を気まずい雰囲気にしてしまった。

「そう言えば」

 やっと場に慣れて首を絞めていた糸が少しだけ緩まった気がする。

「なんで僕の両親は、デートの日には家に帰ってこないんですか」

 おうちデート。お泊りしたわけではない。彼女は家に帰っている。つまり、僕の親はデートが終わるタイミングを知れるのだ。それなのに、帰ってこないのはなぜか。一回きりではなく、何度も使える手段じゃなきゃいけない。デート、デートと馬鹿の一つ覚えみたく連呼したけど、言うまでもなくそれは建前で、僕が気持ちを落ち着かせる時間だ。

 彼女はもう顔を変えることなく

「話してなかったんだ」

 と淡々と。

「まあそれもそっか。あんまり話すことじゃないもんね」

 彼女の言葉は最初から冷えているけど、より一層冷えたような気がした。

「このことは優花には内緒にしておいてほしいの」

 と人差し指をたてて、彼女自身の唇にあてる。そんなことをされるほど僕は子どもっぽいだろうか。

「分かりました」

 声はまた首を絞められたかのように不安定で歪になってしまう。

「いやそんな大した話でもないんだけど。優花はきっと変に心配をかけたくなかったから黙ってただけだろうし」

 化けの皮でも剥がれたかのように、ロボットじみた表情が笑みから表出した。ため息を一つ零してから

「私たちね、別居してるの」

 あまりの驚きに言葉を出せなかった。いや車内ではお静かにするものだからそれがただしいには正しいのだろうけど。淡々と何事もないように続ける。

「新井君、私のことどう思ってる?」

 言葉は餅みたく喉で詰まる。

「えっと、そのいくつになってもお綺麗だなと」

 彼女は一つため息をつく。気にしていなかったけど、乗車した駅から三駅離れたところで停車していた。

「そんな建前なんていらないよ」

 体が冷える。それが、ドアが開いたからなのか、彼女の雰囲気によるものなのかは分からなかった。

「私のことあんまり得意じゃないでしょ?」

 黙ることで肯定を示す。

「別に、分かるよ、そんなことくらい。別に悪いことじゃないよ、人の好き嫌いなんて」

 どこか分かる気がする。嫌いなことを隠して接してくれるなら、別に他人がどう思おうがあまり関係のないことだ。どう思うかなんて誰にも縛れないところだ。

「ずっと気づいてたんですか?」

 会えば何気なく接してくる、そのことだけが疑問だった。嫌われてると感じた人間とは関わらなければいい。

「気づいてたけど、優花の好きな相手なら私が原因で気まずくなったりしたら悪いと思って」

 そこまで気を遣ってくれていたのか。恐怖の対象としてしか見えていなかった彼女という人間がもっと分からなくなっていく。

「別居したのは別にどっちかが浮気したとかじゃないの。それなら多分、離婚してるだろうし、下手に会うこともないでしょう」

 確かに、優花の家に行った時見たのは理想の家族の姿だった。今思えば、理想的な家族なんて現実的ではないということだ。

「私ね、特に男の人から怖がられてしまうことが多いみたいなの。まるで、化物と接してるみたいって」

 掴みどころがない彼女に苦手意識を持っていたけど、それは僕に限った話ではなかったみたいだ。

「だから結婚なんて疎遠なものだと思ってた。それでもずっと憧れてたんだから意外と乙女だったのかもね、私」

 乙女が乙女のままでいられることなんてほとんどない。少年が仮面ライダーの夢を捨てるように、いつかは汚れてしまう。正しく言えば大人になってしまう。そんな中でずっと叶わない幻想に、ファンタジーに理想を抱くことは、それだけで誇れるものなのかもしれない。

「自分から告白して結婚した時はその分、とっても嬉しかったな。それこそ、もうこれ以上の幸せなんてないと思うくらい。優花が生まれた時はとっても嬉しかったな。それこそ幸せのパラダイムシフトが起きたみたいに」

 彼女の言葉に初めて温かさを感じた。

「そんなこと言うようには見えないみたいな顔してる」

 どんな顔か教えて欲しい。

「でもじゃあなんで?」

 答えを急く僕に人差し指をたてては、メトロノームのように振る。だからそんなことをされるほど子どもじゃないと思う。

「私ね、このまま幸せでいれると思ってたの。結構本気で」

 抑揚は平坦なのに思っていたに焦点が集まる。

「あの日のことは忘れもしない。正確な数字なんて使っちゃうと生々しくなっちゃうからやめるけど。優花が五歳の頃かしら」

 そんな前から別居していたのか。優花も、その家族も、僕の親もずっと隠し続けていたのか。

「きっと、君が知らなかったってことは陽子もずっと黙ってたのね。私はもうてっきり喋ってると思ってた」

 こちらの心まで読まれてるみたいだ。

「きっとそれくらい優花と君の関係を大事にしておきたかったんだと思うよ。陽子、結構軽くなんでも喋っちゃうから」

 そんなこと良く知ってる。そういうところが嫌いで、そういうことをできる根本の明るさが羨ましかった。

「君を騙す悪意なんてそこにはなかった。だから優花も、君のご両親も責めないで上げて欲しい」

 僕は口角を上げる。上手く笑うことなんて母のように中々できない。

「もちろん。僕が優花を責めるわけないじゃないですか」

 正直、ずっと一人取り残されてた寂しさと今ここで急に吐露された混乱で答えなんて持ち合わせてはいなかった。持ち合わせているのは優花を傷つけたくない心くらいだった。

「そうね、確かに君なら大丈夫そう」

 明らかな作り笑いを無視して微笑を浮かべた。やっぱり僕はこの人のことが良く理解できない。

「大分話が脱線しちゃったね」

 なんて言って彼女は頭に手を当てる。

「私、幸せだと思ってたのに、彼はそうじゃなかったみたいなの」

 彼女の言葉はよそよそしくもあり重々しくもあった。

「私が怖かったんだって。他の人達と何にも変わらなかった。ずっと私のことに傷ついてそれでも何もなかったみたいに接してくれてた」

 彼女は怖いなんて言われるのが一番怖かったのかもしれない。人を傷つけるために人は生きてはない。歪んでいても、結果として傷つけたとしてもその根本は変わらない。

「ごめんね」

 この言葉は、多分僕に向けられたものではないんだろう。

「それで、別居して過ごそうって。会いたくなったら会うようにしようってそう私から提案したの」

 優花の父親の心情は、ことの真相は彼女の話だけでは不十分だ。でも、彼もまた責められるべきはないのだろう。優花がいることを差し引いてもそうじゃなきゃこういう提案にはならなかっただろうし。

「私はね、新井君」

 その前から合わせていたはずなのに急に目と目が合った気がする。

「私たちみたくなってほしくないの。ずっと幸せであってほしいの」

 彼女の言葉に答えるのは勇気がいることだったけれど、それでも僕は答えから逃げるようなことはできなかった。

「絶対に幸せにします」

 なんて、優花とはまだ付き合えてすらいないのだけど。ずっと秘密を話してもらえないほど優花の信用に足る人物にはなれていないけど。

「君も幸せになってね」

 その言葉が初めて、僕の苦手意識を打ち消したような気がした。

「そうですね、二人で幸せになります」

 そういえば

「なんでお泊りデートしてるって僕の両親の誤解を解かないんですか?」

 そう聞くと、やはりロボットのような微笑を浮かべて

「優花に内緒にしてほしいってお願いされてるの」

 ああ、やはり優花はぬかりない。

 しばらく車内にはガタンゴトンという音だけが響いた。実際、聞き取れないおしゃべりや、聞き取れるほど漏れてくるイヤホンの音も溢れてるけど。

「あっ、乗り過ごしちゃった」

 なんて言うと彼女はペットボトルを渡してきた。

「これ、私が口付けちゃったやつだけど。さっき息切らしてたし、きっと喉も乾いちゃってるでしょ」

 渡されたものを一瞬もらうか躊躇って、受け取ることにした。

「これからは私とも、その仲、良、くなっ、て欲しいな」

 プログラムに深刻なエラーが起きたみたく言葉に詰まっているようだった。ひょっとしたらこのペットボトルも一つのエラーなのかもしれない。

「私から、その、人と仲良くしたことなんて、あんまりなくて」

 赤面する彼女はまさしく乙女だった。誰にでも、どこかに乙女はあるのかもしれない。誰にでも悪魔は住んでいるように。僕は自然な笑顔を浮かべて

「正直、あんまり知らないのに勝手に苦手意識を抱いてました、ごめんなさい。こんな僕で良いなら、こちらこそよろしくお願いします」

 なんて言ってみたものの、声の抑揚が変になってしまう。僕もそんなに人間関係が良好じゃないことを思い出した。

「君は、あの時の私の夫そっくりだわ」

 あの時がどの時か、そんなことは分からない。ただ、彼女の顔があまりに人間味を帯びていたから、とてもそれは至福の時だったんだろう。僕や優花のあの時とは違うのだ。

「そろそろ着きますよ」

 と声をかけると恍惚とした表情をやめて

「ありがとう」

 と返した。その怪しげな言葉に信憑性を感じられるようになるくらいには僕は彼女を理解できたのかもしれない。

「ちなみに、どちらへ向かわれていたんですか?」

 彼女はこちらを向いて一言、

「○○よ」

 と僕の最寄り駅から一つ隣の駅にあるスーパーの名前をあげて、扉から出て行った。やっぱり僕には彼女がまだまだ理解できてないみたいだ。

 

 優花の母との会話で、冷静さを少し取り戻せた気がする。速く海へ、海へ。その思いは電車のスピードを越していたから存外、まだ冷静になれているとは言い難いのかもしれない。

 その後、何駅か経つと乗り換える。ここまで三十分程度が経過していた。やはり海とは疎遠なんだと、今度は心理的側面だけでなく時間的側面でも思った。

 久々に吸った外の空気は冬の訪れを感じさせるほど、冷えている。雲は夏がまだ去ってないかのように黒く、ゴロゴロと怪しげな音を奏でる。

「今日の天気予報は曇りだったのに」

 今にも、雨が降り出しそうな空に呟く。上を向いて歩いていると、涙は零れない代わりに文句やら愚痴やらが零れてしまう。スマートフォンに視線を落とした。

「次はあの電車か」

 なんて、普段なら言わない独り言を呟いてしまう。まるで誰かが、何かが、そこにいるみたいに。この独り言がまたすぐに消えて行ってしまうのは酷く嫌だった。頭がおかしくなった人間みたく思われてしまうのは嫌で嫌で仕方なかったはずなのに。

 歩みは自然と速くなる。乗り換えるはずだった一本前の電車に今でも乗り込めそうな勢いだ。

 結局目の前で扉の閉まる電車を見送る。次の電車が来るまでの約五分、特に何をするわけでも何を言うわけでもなく、立って次の列車を待っている。もう少し厚手の服を選べば良かったのにという後悔があった。

 大学の課題が終わってないことを扉が独特な音を鳴らしながら開く。水のように流れ出てくる、人の群れ。そう言えば、いつの間にか後ろにも何人も人がいた。平日だろうが、土日祝日だろうが、大きな駅ではあまり関係のないことかもしれない。

 アオイは、ひょっとしたらこの波に流されてどこか違う場所に行ってしまったのかもしれない。流石にそれはないかと過大妄想を打ち消すと同時、今度は逆方向の波に押されていく。車内には蒸し暑さと、過密な人間の群れが形成される。冷房の効きも良く感じることができない。アオイが人と人とに押しつぶされてしまう光景を想像しただけで、血の気が引ける。電車の冷房なんて感じなくても体の冷房で十分だった。

 スマートフォンも取り出すことのできない車内ではただただ揺られるしかない。流されては押し戻されてを繰り返すうちに体力なんてほとんどなくなってしまった。

 車窓から海が見えてきたから、いつの間にか駅に着いたという感覚はなかった。外に出て車内を覗き込むと、さっきの人混みが嘘のようにがら空きになっていた。これが観光地のマジックか、なんて思う。そんな言葉を聞いたことは一度もない。

 少しだけ汚れた駅の改札を抜ける。一軒挟んでコンビニがあった。飲み物を買い忘れていたと思って入るが、すぐに未だに口のつけていない口のつけられた飲み物の存在を思い出した。あの人は本当に自分を表現するのが下手なんだなと、笑えてきてしまう。何もしないで外に出るのは恥ずかしかった。それを言い訳にして、口づけされた飲み物のことでは特に動じてないことにした。

 潮風の良く吹く街は、意外にもビル群で構成されている。あんなに異次元の、ファンタジーのように思えていた場所は、僕の住んでいる場所とも指して代わりのない画一的な空間だった。

 潮風と逆行して歩く。地図アプリなんて野暮なものに頼らなくてもそれだけで海に辿り着ける気がして。駅まで地図アプリを使って来た人間がそんなことを言う方が野暮ってものか。

 不規則に吹く潮風のようにフラフラと漂うと、海が見えてきた。アオイは見えないままだ。砂浜が、道路のすぐ隣に広がっている。そこからは水平線が広がってとめどなく見える。

 黒く染まった空に青色なんて見えないように、その場所には汚れたガラクタばかりで、人も妖精もいない。

「アオイ」

 なんて普段は絶対に出さない大声を出してみる。周りの視線が痛い。それでも

「アオイ、アオイ」

 とスパルタ部活で言うところの腹から声を出す、を何度も繰り返す。こんな苦しいことをして辛い思いをして、何の意味があるんだろう。僕のこの行為に、ちゃんと意味はあるのだろうか?

 端から端まで歩いても彼女の姿は見えなかった。折り返して、またアオイをガラクタの下まで探し渡る。

結局二往復しても、アオイは見つからないままだ。不意に

「新井君じゃない」

 なんて声が聞こえてくる。アオイは僕を太郎と呼ぶから、アオイじゃないことは分かっていた。それでも一縷の望みでアオイと声が出そうになる。そこにいたのはアオイでも、はたまた優花の母でもなく、見知った女性だった。

「何をしてるの?」

 彼女の言葉に返す言葉が思いつかない。口を開いたままの僕に

「まあ良いわ」

 吐き捨てるような言い方で。彼女は変わってしまった。他人なんて変わらないんだから自分が変わるしかないなんて良くある言葉は嘘なのかもしれない。なんて、思ったけれど

そもそもこの状況を指す言葉ではないか。

「なんでここに?」

 僕の言疑問に記憶よりも大分やつれてしまった女性は即答する。

「私達、ここに家を移したの」

 その言葉に、昔の面影を感じてしまう。その言葉に過去の彼女らしさなんてありはしないのに。

「お昼はもう食べた?」

 僕が首を横に振ると、彼女は少しだけ頬の緊張を緩めて

「おいしいお店知ってるの」

 さっきまでの態度が嘘のようだ。彼女も昔の僕を重ねているのかもしれない、なんて僕は人の心が読めるわけでもないのに思ってしまう。

「本当ですか」

 彼女の側に、少し速足で向かった。彼女は足を止めることはない。最初からそんな関係だった。

 別に僕と彼女について、何かしらのエピソードがあるわけじゃない。ここはフィクションでもドラマでもなく、リアルの話だ。そんなドラマチックがどこもかしこも溢れてるはずもないのだ。

 着いた先は、少し看板の汚れが目立つ中華料理屋だった。彼女がこの店を選ぶことは少し意外だった。

「まだ忘れられてないの?」

 彼女が何と言わなくても分かる。僕にとってのあの時のことだ。

「忘れられるわけないです」

 年齢よりも何倍を老いたように見える彼女は喜びを一瞬浮かべて、すぐに憂鬱な表情へと変わった。女性に、いや人に対してこんなことを言うのは失礼かもしれないけど、思うだけなら自由だ。

「あのね、新井君。忘れてもいいのよ、過去は辛さを引きずるためにあるものじゃないんだから」

 デジャヴを覚えながらもうろたえることなく答える。

「そんなことできるわけありませんよ」

 彼女はその言葉に驚きを見せてはすぐに無表情へと戻る。顔がコロコロ変わるというより、気持ちを隠してるという感じ、戸惑う感じに近い気がする。僕はこの人ではないからこの人の心の内なんて分かることはないんだけど。

「そっか」

 そこに三文字では到底言い表せない何かが込められている。

「お待たせしました」

 言葉に詰まっている間に彼女の前に料理が並ぶ。

「もう少々お待ちください」

 僕の方に目線を向けると男の店員は一瞥して戻っていった。チラチラと僕を見る真向かいの彼女に

「あっ、僕の料理が来るの、待たなくて大丈夫ですよ。麺が伸びる前に食べた方が良いですし」

「じゃあお先に失礼して」

なんて少し気まずそうに言う。そう言えば彼女と食卓を囲むことなんてこれが初めてかもしれない。

「お待たせしました」

 と同じ店員が、僕の前に料理を持ってくる頃には真向かいの彼女はもう食事を終えていた。よっぽど料理が遅く届いたわけでも、よっぽど彼女が早食いなわけでもない。料理が届く数分前に

「もう食べられないわ」

 と言って箸を置いてしまったのだ。彼女はいつからまともに食事をとれなくなってしまったんだろう。

「もう良いんですか?」

 彼女に聞くと髪を掻きながら

「良いって言ってるでしょ」

 なんて語気を荒げては

「あっ、ごめんなさい」

 とすぐに我に返って謝る。その光景があまりに彼女と遠いものになっていたからその後喋ることができずに、料理が来るのをただただ待っていた。

「いただきます」

 彼女が言わなかった言葉を僕は吐いた。こんなところで対比構造を取ってもしょうがないか。

 しばらく無音の中、チャーハンを食べ進めてほとんど

「僕は過去を背負っていくつもりはあっても過去の悪いところばかりに注目することはしません」

「えっ」

 驚きを隠せずにいる彼女に

「さっきの話ですよ。辛くなったこととか残念に思うこととかそういうのももちろんありますけど。でも過去には良いこともあったわけで。だから全部ひっくるめて生きていきた

いです」

 彼女が今日会ってから初めて笑った。あの頃とはもう大分変ってしまったその笑顔はあのころと変わらず美しかった。

「そう」

 その二文字には、言葉を使っても表せないような神妙な心情が込められていた。

「これ、残ってるなら僕が食べてもいいですか?」

そういって皿を手に取ると

「やめて」

 と拒まれてしまった。そうか、僕と彼女はそういう関係ではないか。優花の家族でも彼女はないんだから。

「もう少し頂くわ」

 彼女はゆっくりと箸を持ち出して伸びきった麺を啜りだす。それが、僕に影響されたからなのかは分からない。でも、柄にもなく僕の言葉で誰かが救えた気がして嬉しい。彼女は急に多くを胃に詰め込んだせいでせき込んだ。それでも、僕が近寄るのを右手で止めて

「大丈夫ですから。ずっと周囲に迷惑をかけるばかりではいけないから」

 結局、彼女が完食することはなかった。お金は、折半するつもりだったんだけど、

「ここは私が」

 と彼女が言って聞かなかった。先に一人、外に出てみると雨がザーザーと降り出していた。

「天気予報も嘘を吐くものね」

 なんて出てきた彼女も強く地面を蹴った。一応鞄は調べてみたけど、折り畳み傘はないみたいだ。

「ここにいても邪魔になるしもう行きましょうか」

 そうやって彼女は雨を気にすることなく、歩き始めた。

「雨なんて、本当に嫌だわ」

 気にしてはいるみたいだ。

「家、こっちの方なんですか?」

「そう、あなたはこっちに何かあるの?」

 あれ、僕も一緒にどこかに行くわけではないのか。同じ言葉でも、受け取り手の印象やバイアス次第で意味性が変わってくることがあると、どっかの講義で習ったばかりだ。

「いや、特にもう行く宛もなくて」

 顔色一つ変えることなく

「私の家に来る?」

 彼女の言葉に思わず立ち止まって

「えっ」

「なんて冗談ですよ」

 舌を出しながらこちらに顔を向けてくる。その姿は、無邪気で僕より何歳も年上なはずなのに、何歳も年下のようだった。

「本当は家にあげてあげたいくらいですけどまだまだ気持ちの整理がついていなくて。部屋の整理もできていなくて」

目を一度下に向けてまた僕に焦点を合わせてきた。

「だから、今度は連絡してから来てくれる?」

 スマートフォンを僕に差し出す。画面に表示されてるのは彼女の電話番号みたいだ。

「良いんですか」

 彼女には拒まれていたと思っていた。拒まれていたからこそ今まで引っ越し先も、引っ越すことすら知らせなかったのだと思っていた。

「確かに、あなたを避けていたけど。もう三年も経ったんだし、君が何も悪くないことくらい分かっています。君に責任転嫁して、私は逃げるばかり、なんて悪いことをしたわ」

 僕の責任がないわけない、そんなことを言ったって多分信用してくれなんかしないだろう。だからあえてその事実に目を背けて、彼女に目を合わせて

「ありがとうございます」

 人形に心が宿るような感じで生気を得た笑いをこちらに向けてきた。

「感謝することなんかじゃないでしょう。こっちが意地を張っていたわけですし。むしろ謝らなきゃいけないのは私の方です。すみませんでした」

 心が痛い。口を開いて出てきそうになる全てを飲み込む。真実なんかに意味はないんだってそうやって胸の内にしまい込む。過去のように下手に僕の責任を説明したら、今度こそ縁は切れてしまう。

「謝ることじゃないですからもう気にしないでください」

 そう今度はこちらから突き放すような言い方をしてしまう。彼女はいつの間にか下げていた頭を上げた。

「もうそろそろで駅ね」

 そう言ってまた歩みを進め始める彼女にスマートフォンを返す。電話帳への登録はもう済んでいてずっと左手に持っていた。右ポケットに自分のは入っている。

「ああ、そうね」

 と手に取って、また進んでいく。雨足は強まるばかりで、明日には風邪を引いてしまいそうだ。

 彼女の言う通り駅に着くまでそれから五分もかからずに到着した。

「じゃあ、私はここで」

 と手を振って、立ち去ろうとする彼女に

「待ってください」

 と声をかけて引き留める。

「まだ何かあるのかしら?」

 首を傾げる彼女に、僕がずっと首を傾げていたことを聞く。

「僕の不審な行動について、何も聞かないんですか?」

 彼女は待ってましたとでも言わんばかりに答える。

「あなたにも何かしらの事情があったんでしょう。あなたの頭がそこまで弱くないことを私は承知しているから」

 僕を買いかぶりすぎじゃないか。僕は至って普通の人間だし、僕のやってること全てに意味があるわけじゃない。

「私よりも、あなたの方が多くを知っていることくらい理解しているから」

 彼女は一体どこまでを理解しているんだろうか。

それから会話を少しだけ挟むと

「それじゃ今度こそこれで」

 と、手を小振りに運動させる。雨は小降りになっていない。そのまま濡れてしまって大丈夫かと思っていたら突如花彼女の手元から傘が花開いた。

「ごめんなさいね」

 やはり彼女と僕との、いや信用に置けない人との距離を置いている。一定のラインに見えなくても強大な壁を隔てている。それを乗り越えたと思えていたけれど。ことはそう簡単なものではないみたいだ。まるで、フィクションのように潔白な彼女は

「でも、その電話番号に嘘はないから」

 と言って颯爽と去っていく。あれだけやつれていたのがまるで嘘みたいだ。

「ありがとうございます」

 聞こえているかは分からないけど、頭を下げてみる。

 駅から一分もかからないで先ほどのコンビニに着いた。

「いらっしゃいませ」

 先ほどの店員よりもあからさまにハキハキとした態度、ロボットじみた動きをするその店員は初めてのバイトみたいだ。先ほどは気にも留まらなかったのに、今回は彼の声から顔まで覚えてしまった。

 需要があるからか、折り畳み傘がいつの間にか入口に並んでいた。その隣には、ただの黒い傘、そしてスポーツタオルがあった。タオルと折り畳み傘を手に取ると、レジの数人の列に並ぶ。

「つ、次の、か、方どうぞ」

 なんて声を震わせる彼に商品を渡すと慌てながらレジに打ち込む。それ以降は特に何のトラブルもなく特に書くようなこともなかった。

 外に出ると雨はポツリ、ポツリと弱くなっていって傘はもうほとんどいらなくなってしまった。五百円を無駄にしてしまったことが少しだけ悔しい。

 結局傘もささずに駅まで歩いてしばらく待つ。五分もかからずに雨はやんでしまった。タオルで体と服を一通り拭いてまた海を目指す。

 海で

「アオイ」

 と声を出しても、やはり姿は見えない。結局、海辺では見つからないままで、呑気にエモーショナルを演出してくる沈む夕日に舌打ちを一つ投げてやった。そんな乱暴なことをするのも、そもそも何か一つのことに打ち込むのも、僕らしくないことだった。

「もうそろそろ帰らなきゃ」

 息を切らしながら、喉を嗄らしながらそう呟いて岐路に帰る。ペットボトルは一時間ほど前に空にしてしまった。

 コンビニにたどり着く前に、砂漠の廃人のような飢えを凌ぐために自動販売機で飲み物を探した。低い音を出す年季の入った自販機と僕と、どっちが汚らしくて、どっちが醜くて、どっちが賛美されるべきか、判断がつかなかった。出てきたつめた~いはずのペットボトルは温くてまずかった。結局その場で半分を飲んでから進んでいく。

 帰りの車内は、あまり混雑はしていなかった。ただ、ほとんど纏まらない思考の中でアオイはもう見つからないままになってしまうのではないかという不安ばかりが募っていった。海に行ったなんてどこにも書いてないじゃないか。そもそも電車に乗ったら混雑で押しつぶされるのは目に見えてる。そうやって誤魔化そうとしても根底からの不安を増長する材料でしかない。こんなことなら最初から遺書なんて、存在を証明するものなんて残さなければ良かったのに。

 

 マンションの玄関前には優花がいた。あたりはすっかり暗くなっていて女の子が一人でいたら危なそうな時間だった。遠目で見た時は少し怒っていたようだけど、近くまで行くと、僕の疲れ果てた姿を心配そうに見つめている。

「太郎!」

 駆け寄ってくる彼女を手で止める。次の瞬間には重力で勝手に下がっていく。

「無理はしないって約束したよね」

 そのジェスチャーに理解を示す事なく、彼女は背の裾を掴んだ。その手に力が入っていて怒りを示している。

「もう全部良いんだ。もう全部なかったことにしよう」

 本当に倒れることはなかったけど、心はもう折れていた。

「優花姉、ごめんね。上手く説明はできないけど、もう大丈夫だから」

 彼女に、甘えよう。過去に目を背けるつもりはないなんて言ったけど、幻には目を背ける。少なくとも批判する人間なんてここにはいないんだし、それで良いんだ。この都合のいい温度感に全てを委ねてしまおう。それで手紙さえ燃やしてしまえばいつかはアオイのことを忘れられる。優花の無理はしないという言葉も守っている。きっと彼女も分かってくれる。

 だから、彼女が裾を離すことも、僕の頬にビンタをすることも予想外だった。

「馬鹿」

 彼女の声はその手の力に反してとても弱弱しかった。

「それなら最初から私を選んでよ。私よりも大事なことだったんでしょ。それなのに上手くいかなかったらなにもなかったことにするなんて。それで私を選んでも何にも嬉しくない、都合のいい女じゃないの」

 先に離したのは僕の方だった。ひょっとして彼女は自身を選んでほしかったのか。

「ごめん、太郎。今はちょっと許せそうにない」

 そう言って僕の前から消えてしまいそうな彼女に

「待って」

 振り向いてくれることはなかった。

 僕の憂鬱な気分とは対照的に窓から入り込んでくる月明りは雲一つなく街を照らしている。僕はアオイをどうしたいんだろう。忘れてしまいたいんだろうか。それでも良い気もする。優花にどうやってお詫びを入れるか、それだけを考えれば良くなるから。それを考えるのがとても難しいことは分かっていたけど。

両親は未だに帰ってこない。仕方ないのでパスタを簡単に茹でては、レトルトソースで味付けした。それがあまりにも味気なかったのは、言うまでもなく優花のあの背中が味蕾にまで染みついてしまっているからだ。昨日の夕食のことを思い出しては自然に右腕に力が入り、机を叩く。

風呂を掃除する気力すら起きずシャワーだけで済ませてしまった。両親には帰ってきたら謝っておこう。

シャワーで洗い流せずにいる僕の誤りは時間経過と共に重くなっていく。皿を雑に洗うと、横になって速く寝ようと試みた。心の底から体まで冷え切ってしまって寝れない、どころか零れる涙が止まらない。何故自分が泣いているかも分からぬまま、掛布団が濡れていく。

結局、寝ることは叶わず、起き上がると椅子に座った。スマートフォンを取り出して優花に送るメッセージを考える。答えが出ない代わりにただ彼女のメッセージに答えない不誠実な自分が映し出されていた。いつもよりもゆっくりとそれでいて時間が過ぎていく。机の上に置いた手紙が気がかりでずっと眺めてしまう。アオイ、優花と向き合えって言った君が僕だったら何をしていたんだ、君は今どこで何をしているんだ。君は今どこかにいるのか?

不意に秋風が吹いた。料理の際に換気のために空けた窓から。学習された犬のようにアオイの風に飛ばされる姿を想起してしまう。優花は無理をするな、なんて言ったけど、僕にとっては彼女を忘れるなんてことの方が無理をしていた。まだ、心当たりがあるのに探してもいないところの方が多い。いてもたってもいられなくなって優花にメッセージを送る。

『ごめん、僕の親に帰ってこないように伝えてくれない。もう一回ちゃんと向き合ってみたいから』

 さっき怒らせてしまった相手へ送るメッセージは自分でも笑えてしまうくらい最低だった。

『それで何とかなるの?』

 彼女の問いに正直に

『何とかなるかは分からない。それでもやっぱり何もなかったことにするなんて間違ってるんだ』

 自分の言葉に、その重みに自分で震えてしまう。数秒で返信がきた。

『馬鹿』

 優花のその馬鹿は表面的な文字情報だけだが先ほどの馬鹿とは別のニュアンスのように思えた。事実、彼女は

『もうとっくに連絡してるよ』

 道理で両親は帰ってこないのか。優花は僕の考えの一歩先を行ってるかもしれない。なんて流石にそんなわけもないか。きっと、僕が独りになるための時間を作ってくれようとしただけなんだろう。

『ちゃんと明日の食事には間に合うようにしてね。ここに十八時だから』

 添付されたリンクを押すとドレスコードが必要な店のウェブサイトがあった。入学式のスーツでも着れば良いのか、そんなことも分からない。彼女は僕より大人として生きているのだと実感する。

 ドタバタと着替えて、廊下を抜ける。もちろん深夜なので、そんな音を立てるようなことはしなかった。鍵を閉めると、エレベーターのボタンを押した。それを待つ間に

『分かった、絶対約束は守るから』

 普段なら既読無視していたメッセージに、メッセージを送った。

 夜の街を歩く。半都会的なこの街は灯りが点いてたり、消えていたりとまちまちだ。歩いた先々を探す僕は不審者のように思われてしまっても仕方ないかもしれない。そんな他人のことなんて正直どうでも良くなってしまった。

「アオイ」

 けれど、現実はファンタジーみたいに甘くない。そんな誰かの言葉にあやかりたくなるほど、反応がない状態で言葉を発するのは苦行だった。

「そこの君、こんな遅くに何をしているんだ。少し止まって話を聞かせてもらえる?」

 警察官がこちらに近寄ってくる。他人にどう思われるかはどうでも良くなんてなかったことに気づく。こんな時間に外に出ることなんて今までも、多分これからもないだろうから見落としていた。職質に対して

「すいません、急いでるんで」

 警官の男は僕の少し早い歩きに並行して質問を続ける。

「何か事情でも」

 事情なんて言っても伝わらないだろうが、じゃあ他に使える上手い言い訳なんて持ってない。

「彼女とはぐれてしまって、探してるんですよ」

 彼女が付き合ってる女性なんて誰も言っていない。警官はそれでも納得はしてないみたいだ。

「こんな遅い時間に?」

 言葉に詰まるのを速く探したい焦燥感に見せて答えを探す。何とか、信号が赤になって歩みを止める前に見つけた答えは

「これから流星群が見れることくらい知ってますよね」

 流星群が来るのは本当のことだ。朝のニュースで報じられていた。

「はあ、そうですか」

「あと一時間で流星群は来てしまうので」

 短い針はローマ数字の二を指している。僕はスマートフォンで確認したからそんな風情表現は適切ではないけど。

「ああそうですか、これは失礼しました」

 彼は今までのことが嘘のようにぱったりと質問をやめて、頭を下げた。

「じゃあ、これで」

 僕は彼を視線から外すと、走り出した。

「人と上手くやりたかったらちゃんと知ってあげなきゃダメですよ」

 余計なお世話だとまた少し歩みを速める。もうほとんどジョギングと変わらない。運動は得意じゃないからすぐに息が切れてしまいそうだ。そもそも僕は砂浜やら街やらを歩き回って疲れがとれていない。

 案の定疲れて足は棒になってしまった。とりあえず休めるところを一旦探して、それでも駄目そうなら家に帰ろう。目と鼻の先にある公園を見つけてはベンチと自動販売機の存在を思い出す。肩で呼吸しながら入口を過ぎる。

 そこにいたのは一昨日、ボールを拾った少年だった。彼はボールを一人蹴りながら過ごしている。

「ん?」

 ペットボトルが取り出し口から出てきた時に異常さに気づく。何故、少年がこんな時間に外に出てるんだ?そう思っていると、そこに小さな浮遊物が現れた。アオイだった。

「アオイ」

 彼女は、冷えた化物のような目で

「何度も連呼して、そんなのはあなたらしくないじゃない」

 彼女の口調は皿洗いの時の彼女そっくりだった。今思えば、普段二人称が君のアオイが今はあなた呼びになっている。

「アオイなのか?」

 彼女は少し目の睨みを利かせて

「そうだって言ってるでしょ」

 語気を荒げた時の姿は彼女の母親によく似ている。

「私ね、二重人格なの」

 彼女の正体が記憶喪失ではなく、多重人格ならつじつまが合う点も多い。例えば

『私を離したくても離さない』

『私のこと、離さないで』

『私のことなんてとっくに見捨てても良いのに。いや見捨てた方が良かったのに』

 この三つについて、アオイの人格という観点で二つに分割すると恐らく

『私を離したくても離さない』

『私のことなんてとっくに……』

 と

『私のこと、離さないで』

 に分れる。雰囲気もこのアオイは化物じみていてもう一人のアオイは思春期女性のようだった。離さないでほしいと言ったのは多分記憶喪失のアオイだ。そして僕は、もう一人の、今の彼女に心当たりがある。

 アオイは化物ではなく、バケモノ、漢字をあてるなら化け者なのである。彼女は僕にとってとても身近な存在で、彼女は僕の前から消えてしまった存在だ。それが顔はそのまま妖精に姿大きさを変えて化けて出てきたのである。

「納得してもらえた?」

 ずっと変わららない化物じみた笑い方、やはりそれは僕の知るアオイ、本名で言うなら秋野葵のものだった。最も彼女は生前から名字で呼ばれることに嫌悪感を覚えていて

「私は名家のお嬢様ではなく、私でありたいの。だから苗字なんて足枷に過ぎないものはいらないわ」

お嬢様の口調で話す彼女はどこか矛盾しているような気がした。何故僕がここまで彼女のことを知っているか、その答えは彼女の口からすらすらと出てきた。

「シンユウ、いえ久々の再会なのだからちゃんと名前で呼びましょう、新井優太郎君」

 いつも煽るような言い方も彼女のアイデンティティだった。

『陽子とは僕を名前で呼ぶ母の名前だ。』と、アオイが僕に対して言っていた

『太郎ってこれからは呼ばせてもらうね』

に対して

『まぁ、優花からは同じように呼ばれているので別にそれは構わない。』という文章。

 母は僕のことを名前で呼ぶのに、優花からしか太郎と呼ばれない、それは僕が太郎ではないからだ。新井優太郎、猪方優花、ともに同じ漢字の優が入っている。良く周りからゆうゆうコンビなんて言っていじられることが多かった。猪方家と新井家の仲が良くなったのはその偶然の一致によるところも大きかったらしい。

そう呼ばれるのを嫌がるようになったのは優花が小学生に入ってからだ。その名称で一緒にいじられている僕までいじられてしまわないようにという配慮だったんだろう。彼女が僕を太郎と呼ぶことにしたと半ば強引に決めた理由を分かったのはもっと後になってからだった。

葵ではないアオイの

『君の名前は?』

 と言われていた時には彼女が記憶喪失であることはなんとなく分かっていた。それは、知ってるはずの僕の名前を聞くことや、純粋無垢な雰囲気を纏っていたから。なんて自分の推理は正しかったみたいに言ったけれど、実際は記憶喪失ではなかった。だから、彼女の刺激にならないように優の字を抜かした名前にした。それだけ告げてその場から逃げられれば良かったのに。葵というトラウマから離れられたのに。

 さて、では僕のあの時の話をしよう。

『隠し事をしてしまったことは申し訳なく思っている。』

 そう、話の中の優花にも、話を聞いていたアオイにもあの時の少し前の話で隠し事をしていた。

 

 あの時の少し前のところにまずは補足をしなければならない。入学当初、高校生活に期待という果実を持っていた頃の僕は、結局人間関係には臆病だったけれど、色々な場所に探索しに行った。

 ある日の昼食、試しに屋上に行ってみようと思った。今ではどうしてそんなことを考えたのか、きちんと思い出せない。確か、屋上なら日向に当たりながら涼しい風を受けられると思ったからだ。そうしてそんな風に思ったのか、今の自分では理解に苦しむ。

 怪しい音をたてながら少し錆びたドアを開けるとそこには先客がいた。制服のネクタイを見るに一年生らしい。彼女は僕の方を表情一つ変えずに見ると、表情はそのまま元の位置に視線を戻す。

「何してるんですか?」

「見れば分かるでしょ、食事」

 それだけで彼女の人となりが一通り分かった気がした。

「まだ何か?」

 つまらないものを見るような目をしている。彼女には現実すらも見ていないような気がした。

「別に」

 感じが悪いと感じたから、こちらの態度も素っ気ないものとなってしまう。だから、昼休みにこの屋上に来ることも、もうないと思っていた。彼女と会うこともないと、思っていた。

 

夏、彼女と再会したのは塾でのことだった。僕は無駄に金もかかるし、夏期講習なんて要らないと言ったんだけど、母は僕の意見を聞こうとはしなかった。結局、優花もそこに行くなんて話をきっかけに僕が折れることになった。その時の僕に、優花への深い執着があったわけではなく、何かきかっかけさえあれば折れようと思っていた。

「優花がいない」

 普段ならいるはずなのに、そう思って思わず呟いてしまう。知らない人だらけの場所に一人とり残されてしまった。だから自然と挙動が不審になっていない優花をいつまでも探してしまう。

「あなたの探してる人なら帰ったよ」

 ケラケラと動物のような笑いの入った声が聞こえた。

「忘れたのかしら?私のこと」

 彼女は僕を笑っているみたいだ。

「どなたですか?」

 そこはかとなく見覚えのある彼女を、僕は思い出すことができなかった。彼女は、流石に失礼が過ぎるかと言わんばかりに深呼吸を一つして口角を下げた。

「屋上で会ったことあるでしょ」

 そこで彼女の姿を思い出す。

「ああ、あの失礼な」

「失礼なとは失礼ね」

 今も焦ってる人のことをあれほど笑っていた人間が失礼じゃないと思ってるのか?

「まあ良いわ」

 なんて鮮やかに軽やかなステップを踏んでこちらの至近距離まで近寄ってくる。

「君の名前は?」

 なんて初めて会った人向けの質問をして後ろに下がる。

「人に名前を尋ねる時はまず自分からって教わらなかったの?太郎君」

 彼女も僕から離れる。そういうところはしっかりしているのか。

「太郎じゃないよ、新井優太郎。名乗ったから教えて」

 彼女は露骨に驚いた顔を浮かべていたが、僕が瞬きを一つすると不敵な笑みに変わっていた。

「あなたってやっぱり面白い人ね」

「それって褒めてるの?」

 その質問には答えず

「秋野葵」

 と質問に答えた。

「私、ここの塾生なの」

 皆が皆、夏期講習に通いに来てるとは限らない。彼女のような元から通ってる人もいるにはいるのだろう。僕の家庭はそれができるほどの財力はないけど。

「だから私、優花さんの隣で授業受けてたんだけど」

だから、に一瞬引っ掛かったけど、塾生用と非塾生用では授業のクラスが違うことを思い出した。優花の左隣のクラスのドアには高一塾生用と記されている。でもじゃあ、

「私がなんで優花さんのことを知ってるんだろうって?」

 見透かされたようで怖かった。

「あなた達、本当に面白いんですもん。目で追いたくなっちゃうくらい」

「僕の日常は見世物じゃないんだけど」

 何が面白いのか、良く分からないけど、彼女は笑っていた。心の底で何か別のことを考えてるように笑っていた。

「そうね、失礼したわ」

 彼女の謝る基準が僕には良く分からない。ひょっとしたら彼女は基準すら持っていないのかもしれないけど、どこか異星人と交信をするような奇妙さを覚える。

「私、あなたに大変興味があるの。だから付いてきなさい」

 僕にはもう今日の授業がないことを把握してるような、僕が肯定するのが前提のような喋り方だった。

「僕は付いていくつもりなんてないんだけど」

 彼女は無視して歩いていく7.

 着いたのは全国チェーンのコンビニ。彼女の笑みは消えていた。

「このコンビニになんかあるの?」

「何かあるというより、ここにはこれくらいしかない」

 ここには海も、観光スポットすらない。

「私の地元なんだけどね」

 自嘲的な笑みを含めながら自身の頬に手を当てる。

「退屈してたんだよね、この街に。おべっかと下らない話ばかりの同級生にも」

 彼女は、外の世界を渇望していた。面白いことばかりのファンタジーに憧れを持っていた。

「だからあなたという面白さに気づかなかった。バイアスばかりかけすぎるのも良くないものね」

 彼女はきっとどんなところにいても、この世のどんなものにも惹かれ続けることはなかったのだろう。ファンタジーの中ぐらいしか彼女の憂鬱をなくすことはできなかったのだろう。そう気づくのはもう少し後のことで、でも彼女はそれを隠すつもりなんて最初からなかったみたいだ。

「つまらない中で一番面白そうだったのがあなた達」

 僕の胸に人差し指を突き刺す。刺さってはいないけど、そのくらい血の気が引けた。

「あなた達って下手な人のタイピングみたいにズレていて、理解不能で、それでいてお互いに分かりあった気がしてる」

 君の方が一般には理解不能だと思う。異常だなんて言われたことないし。

「君は僕らの何を知ってるのさ」

彼女は不思議そうにこちらを見つめて

「知らないもの、自分とかけ離れたものに興味を持つんでしょ」

 わざとらしく首を傾げる彼女は、憎たらしいけど傾いたその目で本当を見ていた。

「それじゃ、自分と本質が似てるならそれは畏怖の対象ってこと?」

 僕が彼女に恐怖を覚えるのは彼女と僕が似てるから。そんなわけないと否定したくて、そんなわけないと否定してほしくて、問う。彼女は至って冷静に、血の気などそもそもないみたいに

「さあ、知らない」

 彼女からそれから有益な話が聞き出せたことはなかった。この価値観を僕は本当にしか思えなくてずっと引きずってしまった。

 コンビニで買ったモンブランを食べ終わると、公園のゴミ箱に乱雑に捨てる。彼女は何を食べていたか忘れてしまった。

「私は戻るからここで」

 結局、僕らの何が面白いのか具体的には分からなかった。彼女はここからおよそ十五分の校舎へと戻っていく。その背中に纏う影が時折化物のように思えた。

 

「新井君、こっち来て」

 秋に入って彼女が僕の教室の後ろドアから声をかけてきた。僕は気味が悪くて無視を続けていると

「親友でしょ、無視しないでよ」

 その言葉にクラスがざわつく。ため息を漏らしてから立ち上がり、直線的に彼女の元までたどり着く。

「あの、僕は君の親友じゃないんだけど」

 彼女はピエロのマスクみたいな笑みを浮かべて

「あら、私は嘘なんて一つもついてないけど」

 わけが分からないよ。

「新井優太郎の、新と優を合わせて読み方を少し変えてあげればシンユウの完成」

 彼女のその屁理屈じゃ、文脈上おかしいことになるけどそれよりもその新鮮なあだ名に驚いていた。

「まあ、そんなのはどうでも良いんだけど」

 彼女は本題を出すのかと思ったら、何も喋らずにただただ進んでいく。屋上に着くと前居たところに座って

「なに扉のところでボーっとしてるの?早くこっちに来なさい」

「いや、なんでこんなところに、何か用があったんじゃないの?」

 彼女は面倒そうに頭を掻いて

「これから面白いものを見るための準備だから特段用があるわけじゃない。むしろ、あなたがここにいることが用というか」

 彼女の言葉の本質を掴めずにいる。

「ちゃんと説明してくれないなら教室に戻らせてもらうよ」

 彼女は一つ手を叩いて僕を威圧する。

「こっちに来なさい」

 情けなく、そっちへと吸い寄せられる。

「良くできました」

 子どもをあやすような口調がうざったらしくて顔をしかめる。その姿は今、鑑みてみるとまるで子どもだった。未成年なんだから一種子どもと言っても差し支えない側面はあるけど、その意味ではもちろんなくて。

「まあ、見ておきなよ。今に面白いことになるから」

 この怪しい笑みに付き合うんじゃなかったと、そう思っても牛乳は零れて今はもう腐ってしまう。

 先述の通り、僕はいじめに遭うのだ。郊外の人間からのいじめなんてレアケースで面白いことなのかもしれない。でも、被害を受けてる僕からしたら何も笑えるようなことではなかった。いじめてきた相手に向けられない怒りをどこかで晴らしたかったんだろう。少し、冷たさの混じる秋風を受けながら

「これは君の仕打ちなのか?」

 と語気を荒げる。

「これって?」

 彼女は何も知らなさそうだったようにもただただとぼけてるようにも見えた。

「校外の生徒に暴力を受けた。君が言ってた面白いことってこれのことなんだろ?趣味が悪いな」

 腕まくりをして傷を見せると彼女はやっと状況を飲み込んだように手のひらに拳を乗せる。それから他人事のように笑みを浮かべて

「へえ」

 なんて笑ってきた。その笑みさえも苛立ちの要素になって

「君がやってるんだろ、こんなのもうやめてくれ」

「止まったら良いね、シンユウが死ぬことはないからそこだけは安心して良いよ」

 冷たい彼女に嫌気がさしてドアを勢いよく開けた。

「あなたは必ずここに戻ってくる。それだけは断言できる」

 そんなわけがあるか、そう思っていじめの日々を耐え抜いた。

 だから、彼女の言う通り彼女の元にたどり着くとは思わなかった。クラスでも、部活でも浮いてしまった僕は、いじめられてることを知られたくない優花を除いてもう一人しか居場所がなかった。それが、秋野葵であることは周知の事実である。

 彼女の憎たらしい笑みを殴って赤く染めてやりたかったけど、それをしたらいじめてるやつと同じだ。

「言った通りだったでしょ」

「もう助けてくれ。僕が何をしたっていうんだ。君に僕への怒りが、恨みがあるなら直接言ってくれ」

「私にはあなたに怒りも恨みもないし、いじめを止める力もないよ」

 淡々と平然に喋る彼女と、焦燥ばかりで勢い任せの僕のコントラストを夕陽が映す。

「私は予言しただけ、何もしてない」

 そんなことを言われても納得できるはずもない。

「何もできない、まあ話くらいなら聞いてあげてもいいけど」

 随分な上から目線だった、身長的には下からの視線だったけど。

「また来るでしょ、下らない話から恨み言まで大歓迎よ」

 横に振りたい首を実際は縦に振っていた。僕はいじめられてることよりも誰かと話すことのできない苦しさの方が辛かった。

「じゃあ、またね」

 その笑みは含みも陰もあるけど、純粋で無垢だった。きっと文字の羅列じゃ表現しきれないファンタジーが平然とそこにあった。僕らしくもなく、舌打ちを一つ、屋上の扉が閉まってからしてしまう。

 これからいじめが終わるまでにドラマはなくとも彼女との会話はあった。

『私は名家のお嬢様ではなく、私でありたいの。だから苗字なんて足枷に過ぎないものはいらないわ』

 なんて言葉もこの期間の一シーンだった。結局、三月にいじめが終わるまで彼女との歪んだ関係は続いた、どころか惰性的にその後にも関係は続いていた。もっともいじめが終わってからは

「ファンタジーくらいしか私を満足させられるものなんてないのかもしれない」

 とか

「読むだけじゃなくてフィクションの中で生きられたら良かったのに」

 小説を読みながら呟いて僕の方を見てくれなくなったけど。この化物に見離されるのが嬉しいはずなのに、どこか寂しくて相手を去れずともそこへ自然と向かっていく。彼女も僕と話す気はなくとも、ここに来ることを拒むことはなかった。

「つまらないことばかり。理解できてしまうことばかり」

 彼女の独り言にどんどんと影が差していくのを無批判的に、片隅に置かれた人形のまま言葉を聞くことしかできなかった。

 自殺を、彼女を止める最後の機会は九月の初めのことだった。もう秋なのに未だに暑苦しくて仕方ない一日だった。

「私、明日から学校休むから」

 彼女は事務報告みたいに告げて立ち上がる。だから、僕も大したことではないのだろうと軽く事態を見てた。

「明日からって言ったけどいつまで休むつもり?」

 彼女は笑いながら

「さあ、いつまでかしら?」

 なんて答えるのを渋った。すぐに答えを言ったらつまらなくなるからみたいなニュアンスに不安を覚えて

「ちゃんとまた学校に来るよね?」

「もちろん」

 三日経っても、一週間経っても、一月経っても彼女が屋上に、学校に姿を現すことはなかった。そして三年前の十月八日、三時ごろに彼女は久々に『来た』学校の屋上から飛び降りたらしい。推定だから正しい答えなんて彼女しか知らない。遺書には

『レイプされたのが原因で死にました。私はこの世を許すことはないでしょう』

 それで金持ち令嬢がレイプされて自殺なんてドラマみたいだと、一時期異様な盛り上がりを見せた。彼女の母親が一家の保身に走りレイプされたことを隠蔽したのではないかとメディアは追及した。最終的には彼らの強い追及に母親が気を病んでしまいうやむやになったままだ。

 僕はといえば彼女の近くにいたのに自殺を止められずにいたことを後悔して無意味に手首に傷をつけた。いつまでももういない彼女を近くに感じて生きていた。

 

長い回想を終えて

「この子のこと覚えてる?」

 彼女はニヤリと怪しげな笑みを浮かべた。

「覚えてるよ、昨日会った」

「そうじゃなくて」

 こめかみに手を当て顔を傾ける。

「良く私がお世話してた子よ」

 なんとなくその面影を思い出していく。長い回想を終えて、またすぐに回想へと浸っていく。

 

高二の五月のことだっただろうか。彼女が放課後、初めて僕を呼び出した。場所はあの人気も人気もない公園近くの花畑だった。

「この子、親戚の子なの。保育園の抽選が通らなくて彼の母が面倒見てたんだけど。もう十分大きくなったから今年から共働きすることにしたみたい」

「それで何で君が面倒を見てるの?」

 と聞くとまあ待てと示すように左手をパーにして

「幼い子どもを一人にしておくのって教育上よろしくないじゃない。だから暇なときは私が良くお世話してるの」

葵が子どもを育てるなんてとても失礼な言い方だけど、似合わなかった。彼女は孤独を愛し、自分が面白いと思ったことばかりに目を向けるのだと思っていた。

「本当はそんなに乗り気じゃないんだけど親に言われちゃしょうがないよね」

 親の保護下で生きるということは、親の言いなりみたいな側面も当然あるんだろう。それが良いかどうかは置いておいて。

「なんで僕が呼ばれたの?」

 僕と彼女は学校での関係はあっても、今まで外で会うことなんてなかった。これからもないものだと勝手に思っていた。

「だって、この子の遊び相手、私だけじゃ退屈でつまらないかなと思って」

 君はまるでその子に君を重ねていたみたいだった。

「それって僕じゃなきゃダメかな?君って友達普通にいるし、僕より適任の人なんていくらでも知ってそう」

 彼女は普段は人間社会に平然と溶け込んでいる。それが僕には余計化物感を強調しているようにも思えたけど。

「意外と私のこと知ってるのね」

 なんか恥ずかしくなって顔を逸らす僕を気にせず

「この子、ここの近く、君の家の近くに住んでるの。それに君っていやな顔一つせずこういうのに付き合ってくれそうな顔してるじゃない?」

 どういう顔なのか教えて欲しかったけど子どもはそこまで嫌いじゃないし

「分かった。あんまり頻繁だと困るけど」

 

そうやって何度か彼とアオイと、遊ぶ機会があった。

『お兄さんは何と話してるの?』

 なんて彼は言ってたけどそれは独り言を呟いているように見えていたからじゃないのかもしれない。嘘みたいな妖精が本当に見えていたのかもしれない。

「ねえどうしていなくなっちゃったの?」

彼は自分の何倍も小さい幻に話しかける。その姿は親を目の前にして甘える子どものようだった。

「ねえどうしてティンカーベルになっちゃったの?」

 葵は彼の頭をただただ撫でる。その手が昔の彼女のそれと同じ大きさになったと錯覚する。

「あなたに私が要らなくなったからいなくなったのよ。いつまでも誰かを頼らなきゃいけないなんて駄目なのよ」

 彼は純粋な目で

「どうして?」

 仮面だらけの彼女が少しだけ苦しそうな表情を浮かべるほど、彼のことを愛くるしく思っていたんだろう。

「迷惑なの。私があなたをお世話してあげたのだって本当は面倒だったの」

 彼は泣きそうな目をこらえて

「お姉ちゃんはそう思ってたんだ」

 保育園にも通わせてもらえなかった彼にとって彼女は親と何ら変わらなかった、

「めいわくかけてごめんなさい」

 違う、そうじゃない。彼女は別れを惜しくさせないために。そう口を開こうとしてすぐに閉じた。僕が彼らに口を挟むのはもっと違うからだ。

「ありがとう、お姉ちゃん。あおいお姉ちゃんがどう思ってもぼくはお姉ちゃんが大すきだよ」

 彼の心は汚れていない。どこかで汚れていたとしても、今この瞬間だけは純粋だった。

「だから、お姉ちゃんがティンカーベルでもぼくを外によんでくれて、いっぱい色んな話をしてくれてうれしかったんだ」

 彼はきっと葵の言葉が本当じゃないことを知ってる。本当じゃないことが全てうそではないのだ。

「もう帰りなさい。きっと親御さんも心配してるわ。そしてもう私のことは忘れなさい。あなたにとっても私はもう邪魔な損じでしかないから」

 ひどく冷たくあしらう彼女から美しい雫が垂れている気がした。彼は下を向いて葵の言う通り何処かへと向かいだした。けれどすぐに振り返り精一杯笑って

「お姉ちゃんのこと大すきだけど、ごめんね、わすれたくないんだ。お姉ちゃんのこと大すきだからずっとわすれないよ」

 彼女が死んでしまっていることを、もう遠い存在であることを、彼はきっと分かっている。その上で狂っているんじゃなく、彼女の優しさを見出して笑っているんだろう。国語が苦手な僕でも分かる。

「そう。もう勝手にしなさい」

 冷たくあしらっているのに妙に温かさのある声音だ。

「お姉ちゃん、またね」

 そのまたね、に影が見えた気がした。背中を見送る彼女の唇が動く。声にはならないけど、どこかごめんねと優しく言ってる気がした。その後

「私が連れだしたんだけど、こんな夜道に一人なんて彼、大丈夫かしら?」

 と声に出した。闇夜に溶けた彼を未だに目で追う姿は旅に出した可愛い子どもを心配する親そのものだった。

「こんなんじゃ駄目よね。彼は彼で私から解放されるべきなのに。彼に冷たいままでいられなかった。彼を突き放すことができなかった」

 と肩を落とす。僕は彼女らしくない彼女に、あの頃の青い空を眺めていた屋上のように人形のように無言で寄り添う。

 少しの時間の後、彼女はパンと音を出して手を合わせる。そして下を向いていた彼女の視線がこちらを向いた。

「場所を少し移しましょうか」

 お互い無言で進んでいく。『僕が耐えられる沈黙は優花と家族位だ。』なんて言ったけど死者はそこにカウントしていない。あっという間に花畑にたどり着いた。高校は今の時間は閉まってるし、法律的にも問題だ。彼女と意図的に初めて会った場所、この花畑が一番二人にとって、因縁の深い場所だろう。

「私のことなんて、見捨ててくれて良かったのに」

「忘れられるわけないだろ、それくらいに君は僕の一部だったんだ」

 かなり感情的に答えてしまった。一拍置いてから

「なんで自殺なんて」

 なんて少し感情的に問うと

「あら、理解してるものだと思っていたけどあなたにも分からなかったのね」

 皮肉めいた言葉を吐いた。彼女は大きな吐息を一つ挟んで

「私はファンタジーにしか、フィクションにしか興味がないの。現実なんてもうとっくに見離してるの」

 近くで何を見ていたんだと言わんばかりに強い語気。こんな生気がある声は、生前あまり見られなかった。

「だから私が死ぬことに何の不思議もないでしょう?」

その問いに首を横に振って

「だったらもっと前から君は死んでないとおかしい」

 今まで死ななかった彼女があっさりと死んだ。その理由なんてなんとなくで済んでしまうものかもしれないけど、なんとなくで彼女は済まさないことを僕は良く分かっていた。

「ちゃんと分かってるのね」

 彼女の仮面の一つが剥がれ落ちたようだった。一つが剥がれ落ちてもまだまだ何層も仮面は残っている。自分のことを知られるのが怖いのかもしれない。そう思って、そんな人間では、そんなバケモノではないことをすぐに思い出した。

「その通り」

 彼女は軽い体で軽やかに一回転、ずっと体を操っていたアオイよりも随分体の扱いが上手だった。

「そこまで分かっているのなら、言わなくても死んだ理由くらい察しがついているのでしょう?」

 そう、なんとなく分かっていた。唾を飲む音をさせて

「君が死んだのにレイプは関係してる。でもそれで君が絶望したわけじゃない。最初から期待してないものに裏切られても死ぬほど靡くことはない。ただ無意味に隣に居たわけじゃないんだ。そのくらいは知ってる」

 機嫌が良さそうに首を縦に振っている彼女を見てから続ける。

「君の遺書、無駄な嘘を吐かない君が嘘を吐いた」

 彼女は親友と周りに誤認させたけど、シンユウとして僕を呼び止めたとちゃんと嘘にはならないような配慮がされていた。遺書の『レイプされたのが原因で死にました。』も嘘ではない。この一件が彼女の自殺に関与してるのは最早客観的事実だ。そんなところまで必要ない嘘を吐かないようにしていた彼女が何故嘘を吐いたのか。

「君にとって、あの嘘は必要なものだったんだろ?」

「へえ」

 彼女が久しぶりに口を開いたと思ったらそれだけ吐いてまた口を閉じてしまった。

「じゃあ、この嘘を吐いて何が起こるか、いや起こったかに注目すれば話が早い」

 そう、その後起こったことは

「世間は大騒ぎしてたよ、ワイドショーに取り上げられるくらい。フィクションの話が現実に起きたなんて言って」

 秋野葵は物語に憧れたのだ。きっとそれはただ小説を読むに飽き足らず、物語の人物になりたいと思ってしまうほどに。

「君が死んだことによって、世の中がどう変わっていくか、それを死んだ人間は観測することができない。分からないもの、かけ離れたものに興味があるって言ったのは君だ」

 そう、葵は物語の人物になることと、自分には分からないものがあることの二つを現実という基盤で達成したのだ。

「レイプも自分から望んでされたんじゃないか?」

 僕の推理を終えると、拍手を彼女はする。その音すら怪しく聞こえる。

「流石ね、ほとんど正解」

 ほとんどということはどこか間違いということである。

「まず、レイプは私から仕掛けたわけじゃない」

「それだけでもう君はドラマの人物じゃないか?」

 わざわざ死ぬ必要なんてなかったんじゃないか。

「きっと私が死ななかったら、誰も信じてくれないし、聞く耳も持たないでしょ。ドラマは誰かが観なきゃ成り立たないの」

 彼女は至って冷静で狂っている。

「ひょっとして君はレイプされた当初、死のうとは思ってなかった?」

何故学校を休んだのか?彼女の母親が隠蔽したのだとすればつじつまが合う。隠蔽さえなければレイプされて心を塞いだから休んでいると、それはそれで一つのドラマになる。彼女がいない世間で、学校で彼女がどう扱われているのか。認識がないから理解しようもないことを想像しては楽しんでいた彼女がこの世に存在していた可能性もある。

「その通り、でも誰にも届かないなら話は別。私がこれ以上生きててもこれ以上のドラマになれる可能性なんてほとんどないもの」

 そう言って、もう一つと言わんばかりに人差し指を立てる。

「私は嘘なんて吐いてない」

 彼女は僕の鼻をなぞっては二メートルの間隔を空けた。

「遺書に書いた通り、私がこの世を許した覚えはない。この世を許す必要も今までなかったわけだし」

 誰かが許す必要なんてなく、世界は回っていく。

「まあ、でも許すってわけじゃないけど、こんな感じで妖精として蘇らせてくれたのは感謝してるわ。本当にファンタジーの一員にしてくれるなんて」

今まで言語化できなかったことをここで初めて伝える。

「君と僕はやっぱり違う生き物だ」

『畏怖の対象になるのは本質が似ているからかもしれない』

 この価値観を今も昔も君は否定も肯定もしなかった。かもしれないというのは過去の僕の価値観を持ち出したんだろう。今の僕と、過去の僕。そこにある差をこの世に来た彼女は測ろうとしていた。はぐらかしてしまったけど、それが理由で彼女は僕が変わらずにいると思っている。

「畏怖の対象になるのは離れた存在だからだよ。興味の裏返しが畏怖なんだよ。そうじゃなきゃ僕らは共通点を、似ているところを探して人と触れ合うことなんてない。そういう教育が施されることもない」

 叫ぶように一気に言葉を羅列したから息が切れる。深夜なのだから、本当に叫ぶことはなかったけど、喉に力がこもっていた。

 花だってそうだ。何もかも違う存在は今でこそ違いが明瞭だから純粋な興味になり得ている。けれど、それがファンタジーの世界のものなら、得体が知れなくて恐怖を覚えるかもしれない。

 いじめだってそうだ。自分と全く違うものにも人間は冷徹でいられる。そうしないようにとする教育の成果が出やすいのは当然違いが目立つ方からだけど。

 夜風を受けても動じない葵に向かって

「僕と君は違う生き物だし、本質が似てるなんてことはない。君が何を考えてるのかなんて全く分からないし、フィクションの登場人物になんてなりたくはない。だけど、いや、だから僕は君が怖いんだ」

と小さなナイフを突き刺した。何か言いたげな彼女はそれでも

「変わったね」

 とだけ伝える。やはり彼女は正しいかどうかを教えてくれない。

「これでも君という不可解に、いなくなってからもずっと向き合ってきあたからね」

 彼女は

「訂正するわ。私のことを見捨てないでいてくれなくて良かった。そうじゃなきゃこんな理解不能な心の変化を見ることはできなかっただろうから」

 彼女はどこまでも理解不能にこだわる。二枚舌ではない人間の三年前にできた思考が反対に行くなんて珍しくて理解できない事なのかもしれない。

「こっちも死んだ甲斐があった」

 彼女の言葉は悪魔的で、その笑みは小悪魔的だった。僕は、ずっと言えなかった一番の思いを放つ。

「僕は謝らなきゃいけない。一番近くにいたのに君を、死なせてしまってごめん」

「謝ることなんかじゃないよ、それは私が勝手に選んだことだから」

 それでも。

「ごめん」

 とだけ繰り返してしまう。僕が新井太郎と名乗った理由は偽名を使いたいから、というわけじゃない。彼女の記憶を刺激しないようにするにはもっと無関係な言葉を選んだ方が良い。

 僕は、彼女の前で自分が優しいなんて口が裂けても言えなかった。自分が優れてるなんて言えるはずもなかった。たとえそれが名前だったとしても。

「やめてよ、目的達成のために死にたいと思ってる人間が死んだ。それだけの話でしょ。それが認められないのはおかしな話」

 彼女の笑みが少しだけ崩れる。

「君は本当に死にたかったの?」

「目的達成のためにはそうするしかなかったんだから、この死に私は意味があったと思ってる」

 僕は首を横に振って

「君はそんなこと、思ってないはずだ。だってそれじゃ、死んでしまったら物語の続きを知れない。予測できないこと、理解できない事を望む君は、それでも観測できない事を望んだわけじゃない」

「私が妖精になることが分かっていたら?」

 理解不能な君のことだから、本当にそういう儀式に手を染めていても違和感がない。でも

「そんな非科学的不確定要素に手を染めるなんて君らしくもない。それに君が世話していた少年だって見捨てたくはなかったんだろう?」

 もう口を開かない彼女を視認して唐津図蹴る。

「それほどまでに追い込まれていたんだろう。物語になれない自分に。大体のことが理解できてしまう退屈な世界に」

 僕は君を外に、もっと理解できないどこかを教えてあげればよかった。現実は小説より奇なりを体現した何かを探してやれば良かった。きっとそんなことじゃ彼女は止まらなかっただろう。ただ人形でいる僕よりはマシだっただろうけど。

「だからごめん」

 君を追い込ませてしまって。

「ごめん」

 目の前の君を遠くのものにしてしまって。

「ごめん」

 君を殺してしまって。

「ごめんなさい」

 君の期待に沿えるような面白さが僕にはなくて

「もう良い」

 感情のない抑揚のない言葉を放つ彼女は仮面が剥がれ落ちていた。

「私の方こそごめんなさい。あなたに何も言わずにいなくなってしまって。でもそうする他なかったの」

 そのあなたはきっと僕以外にも向けられている。どこかませた彼女もまだ高校生。どこか狂っていても彼女はまだ子ども。素直に謝ることも上手くできなくて、ところどころ不自然な緩急がついている。いやそこに子どもも大人も関係ないか。不必要に子ども扱いする僕の方が子どもなのかもしれない。

「もう良い、変わる」

 彼女が、目を瞑ってまた開くとそこには化物じみた感覚なんてどこにもない彼女がそこにはいた。

「君、私のこと騙してたんだね」

 今までと違って記憶がきちんと共有されているみたいだ。

アオイ、この話の一番の被害者。彼女は幻に生まれた人格なのだから、一番化物に近い存在だ。その実、彼女は化物らしくない、どこにでもいる女性の人格だったんだけど。

「馬鹿」

 アオイには何と言われようと、僕が返せる言葉はない。僕が最低だった、最初から、そうじゃなくてもどこかで君を知っていると言えばよかっただけだった。結局、僕は記憶喪失で不安な彼女をそのままにした。

「もう一人の私も中々最低だけど、あなたも十分最低だよ」

 後ろを向いた彼女から聞こえるのは泣き声だった。

「私、馬鹿みたいに信じてたの。君と一緒に生きていけるって。なのに、全部茶番だったんだ。私を助けたのは私のためじゃなかった。あれ。なんで私、別に」

 彼女は自分でも自分が分からなかったみたいだ。

「ねえ太郎」

 といつものような振りをして呼ぶ。泣いて冷静になんてなれてない彼女のそれはいつもとかけ離れていたけど。

「私のことどう思ってた?」

 性欲ではない。物欲でもない。答えはきっと

「特別に思ってるよ。たとえ君がアオイの姿じゃなくても、最終的に僕は君を助けただろうし、良い関係を築いたと思う」

 思うではなく、思いたいの方が正しい。この歪んだ関係が良いのか、悪いのか僕には判断がつかなかった。

「ねえ、太郎」

 さっきよりも温かいのに、どこか悲愴感を帯びている。

「私、君の事まだ全然知らない。騙されたことも怒ってる。でも、いやもう一人の私になぞるなら、だからかもしれない。君のことが好きなの」

 彼女の声は羽のようにふあんていで、その癖彼女の存在のように確かに僕に届いた。

「私のこと、フッて」

彼女の涙に動じて動けずにいると、近寄ってきた。僕の唇と彼女の唇が合わさった。声を漏らして笑う彼女は花というよりガラス細工だ。どちらも、繊細で脆いという点では似ているけど確かに違う存在だ。

「私、ズルいかな、ズルいよね、ズルくて悪い乙女なんだ」

 乙女を体現したアオイなんて想像の範囲外だ。僕がパソコンなら、エラーでも起こしているところだ。いやもうエラーなら起きてしまっているか。こんなに彼女が、化物が、幻が、フィクションが愛おしく見えているんだから。きっとこの心は間違っても間違ってるなんてことはない。

「僕も君のことが」

 その続きが漏れそうになる唇に小さな人差し指。

「駄目だよ、あなたには優花さんがいるじゃない。私なんて、ズルい妖精なんて、相手にしちゃ駄目だよ」

 どうしての四文字を飲み込んだ。そんなことも分からないほど子どもじゃない。でも何もしないでいられるほど大人でもなかった。だから、彼女の雨を優しく指で拭いた。

「馬鹿」

 心地良くて、いや変な意味ではなく、ずっとこの温度感で浸っていたくなる。こんな風に茶化すなんて無粋だけど、こんな風に茶化さなきゃ話すことなんてできない。

「私、君が好きなんだ。だから今すぐ答えてよ。気が変わらないうちに」

 もうとっくにずっと心は揺れる。

「ねえ、私。どうせもうすぐ私は消えちゃうんでしょ?」

「流星群が燃え尽きたら、きっと終わり」

「そうなんだよね」

 アオイと葵が瞬時に切り替わる。

「どういうこと?」

 飲み込めない状況に僕の心はもうめちゃくちゃになっていた。

「私が死んだのは三年前の今日。私が飛び降りたのは、流星群が来る予測の時刻とほとんど同じ。これが完璧な偶然で片付けられるかしら?」

 偶然で片付けられる範疇だろう。りゅう座流星群は、見える時刻や、日にちに差はあれど、毎年のように観測できる。

「本当のことを言えば、なんとなく死期なんて分かるものでしょ」

 フィクションに焦がれた彼女は何かと神秘をすぐに繋げたがるきらいがある。彼女がまた目を瞑ると、彼女がどこかの姫みたいなキスなんてなしで目覚めた。いや、キスならもっと前からしていたか。

「だから、私のことなんて選んでも仕方がないの。私のことなんて忘れてよ」

 正解なんて分からない。どれを選択しても間違っている。

「ねえ無回答なんてそんなの認められるわけないからさ」

 彼女の目は、僕に駄目だよといった答えを望んでいるみたいに、流星みたいに輝いていた。この輝きを失わせたくない。流星なんて屑が燃えてるだけだなんてよく言われるけどその屑があんなに輝けているならそれほど素敵なことはない。あれ、人にロマンチストと言ってた僕が一番ロマンチストなのかもしれない。

「ごめん」

 その三文字が答えだった。瞳の輝きはみるみるうちになくなって、そこに映えるのは黒だけになってしまう。

「そっか」

 これで良かったんだ。屑が燃え続けるならそんなところに美しさはない。彼女の目も暗くなったけど、そうじゃなきゃ僕はきっとあの瞳を美しく思うことはないだろう。

「あれ」

 彼女の体が光りだす。まだ流星群は見えていないのに。

「やっぱり消えちゃうんだ私。あんまり実感湧かないな」

 彼女の笑い声は酷く無表情だ。

「あなたがこんな答えを選ぶなんてね。あなたってほら人を傷つけるのにあんなに抵抗があったのに。まあ私は妖精なんだけど」

 葵が茶々を入れてくる。

「君のお母さんに会ったよ」

 あの海が見える街にいた僕の知り合いの女性のことだ。

「へえ、元気にしてた?」

「すごいやつれてたよ」

「そっか」

 ほとんどの人なら冷徹と断じてしまうほど淡々とした口調に、少しだけ後悔がにじみ出ていた。

「君のことについて話してくれたよ。生きていたらせめてちゃんと何が悪かったのか言ってほしかったって」

 『それから会話を少しだけ挟む』と前述したけれど、この会話の内容は葵についてのものだ。葵とよく一緒にいた僕は、彼女に悪影響を与えるんじゃないかと疑われていた。そして自殺も僕が原因なんじゃないかと、いきなり頬を叩かれたのが葵の母との初対面だった。

「やっぱりあの人は何にも分かってないんだろうな」

 君の感覚は近くにいた僕でさえも良く分からないものだった。その理解者みたいなものも彼女は探していたのかもしれない。けれど

「もう一つ言ってたよ。死の中にドラマがあるなんて言ってた時のポアロは気が狂っていたと」

 

アオイと呼んでいた僕を見て、彼女は葵の幻がいることを勘付いていたんじゃないか。だから

『あなたにも何かしらの事情があったんでしょう』

 なんて不審者まがいの僕を許した。そう思い僕は駅で彼女の母親に

「もし、ありえないことですけど、もし葵が蘇っていたら、なんて言いますか?」

 なんて言ってみた。良く考えれば、彼女を刺激してしまうだけかもしれない。死の数日後、彼女に出会って、葵が死んだのは僕のせいだ、なんて言ってしまった。彼女の反感を買って、僕は彼女の家に線香をあげることもできなかった。どこにあるかも分からない彼女の墓に行くこともできなかった。もう夏は終わっているというのに自然と体から汗が噴き出す。

「やっぱりそういうことだったんですね」

裏の質問の答えはどうやら肯定らしい。

「そうね……」

 以降は先述の通りである。

 

「そうだったんだ」

 君の母親は君をきちんと見ていたんだ。彼女はしばらく黙り込んでから笑う。彼女らしくない人間らしい笑顔だった。

「ありがとう、シンユウ。また会う日が来たら良いね」

 そんなこと、あり得ないと言っているように聞こえた。いつの間にか目が人間味を帯びて

「私って本当に勝手だよね。君もそう思わない?」

 彼女は飼ってるペットの愚痴を言う飼い主みたいだった。どちらかと言えば君は飼われている人格なんだけど。

「確かに勝手だ」

「あら心外ね、あなた達のドラマチックな演出に付き合ってあげてるんだから、とかあの子なら言いそう」

 アオイが葵の物真似をしたら、見分けなんてつくはずもなかった。

「なんか流星群来るのかな、実感湧かないよね。そんなの来る前に私達だけ消えちゃいそう」

 それもそのはず、葵がそうだと言っただけで根拠も薄い話だ。本当に隆盛とともに消えていくかなんて分からない。

彼女を覆う光は、天の川のようにいくつもの粒子で構成されている。時間経過で消えていくみたいで、発行のもともどうやら存在が透けてきたみたいだ。

「ありがと、私のことフッてくれて」

 彼女のその一文字一文字が、輝きを帯びている。彼女の存在がかけ離れていくのが分かる。

言葉が上手く出ずにただ首を振ることしかできなかった。齢二十の僕じゃまだ全部が全部どう反応すればいいかを心得てるわけじゃない。

「私、その」

 これ以上歯切れが悪くなることなんてないと思っていたアオイの口が無音で開閉を繰り返す。目と目が合って心臓の鼓動までもあってしまうようなそんな感覚に陥る。妖精に、幻に心臓があるのかは議論の余地がありそうだけど。そんな議論をしている時間もなさそうだ。

「あっ」

 彼女の唇が動いていた気がしたけど、そんなことより動く光に目が行く。

「私そろそろ消えちゃうのか、どうせだったらもうちょっと、あと一日でも長く生きられたら良かったのに。もっと君といられたら良かったのに」

「僕も君ともっといたかったよ」

 なんて照れ臭いことを言ってみる。言ってみた後から、アオイに纏う光のように、自分らしくない言葉だったと後悔の影が差した。

「そしたら、ひょっとしたら、私が君の特別になれたのかもね」

 君のことを僕は特別と言ったのに、信用されていないのかもしれない。そういうことにして彼女の真意から目を背ける。

「君ももう一人の君も、家族や優花と同じくらい特別だよ」

 彼女はただ笑った。光で脚色された大衆受けの良い花じゃなく、一筋の光が偶然差した場所にあるひまわりのような笑顔で。

「そう言えば、あんな手紙だけ残して。どこに行ってたんだ。僕が探すのにどれだけかかったと」

話が変わる。いくつもの流星が、燃えた屑がロマンチックに僕らを見下している。

「手紙?」

 彼女は意味が分からなさそうだった。きっと葵が書き残したんだろう。

「それ以上の話はしないでって言われちゃった。本当にワガママ」

 葵が何を考えているのかはよく分からない。体の概形は今にも消えてしまいそうなほど、ぼやけてきている。

「じゃあね」

 彼女の声も内容は理解できるけれどぼやけている。

「幸せになってね」

 彼女は僕の顔に近づくともう一度キスをした。

「やっぱり私ってズルいな」

 瞬きをしたら次の瞬間にはアオイはどこにもいなくなっていた。ただ涼しい秋風が吹いている。

「ごめん」

 と口に出しながら体が崩れていく。

「君のことを好きになってしまって。君のことが好きなままで」

 彼女には違うように解釈されてしまったけど、僕はあの時君をフルなんてできそうにもないとそう告げるつもりだった。そんなことができない僕は彼女よりも何倍もズルい人間だ。

 地面を叩く僕の上に、もう一度流が輝くことはなかった。

「さよなら」

 と言い残し、僕も重い足を動かして家へと向かう。秋風が少し冷たく僕を包んでくるのさえ温かく感じてしまった。消えてしまった流星の跡を目でなぞり続ける。


 

エピローグ:魔女

 寝て起きたら、いつの間にか時計は十四時を指している。少し怠い体を起こすと、顔でも洗おうかと家の鏡に足を運ぶ。

「あっ」

 今日はこれから優花と食事の予定だった。服は入学式の時に少し背伸びをして買ったスーツで良いだろうか。なんでドレスコードなんてなんて口から出そうになった言葉を飲みこむ。普段そこまで服装にこだわりがないなんて言ってる優花が、きれいな服を身に纏っているところが見てみたくなった。自然と顔と水流とがぶつかってできる水しぶきも普段より激しい。

「あっ」

 せっかくの食事の日なのに泣き疲れて目にクマができてしまった。少なくとも彼女が存在していて消えていった証明がいずれ消えてしまうこのクマだ。

「アオイ」

 となんとなく声を出せば、彼女が何でもないようなをして存外こちらに切ってくれそうだ。そんなご都合主義に期待したところで余計辛くなるだけだ。

 防災用に備蓄してあるカップラーメンで食事を済ました。特段なにかドラマ的な何かが起こったわけでもなく、ダラダラと二時間ほどが過ぎた時、携帯電話が鳴った。

「もしもし」

『こちら、秋野です』

「はい、新井です」

 すぐに自動的に声が上擦る。

『特にこれって用事があったわけではないんだけれど」

「はあ」

 彼女は行間を読ませたがるきらいがある。

「あっ」

 なんとなく言いたいことが分かって、でもどうすれば員に示すことができるか分からない。

「きっと葵なら、驚くと思います。それから少し、珍しい優しい笑顔を浮かべるんじゃないかなと」

 まさに見たままを描写したみたいな言い方になってしまう。

『そうですか』

 言葉は無表情なのに温かさがあり、今日、花畑で受けた夜風のようだった。

『こちらに来たくなったら連絡して頂戴。あと今日、葵の墓参りにでも行きますか?少し急ですけれど、あなたの家からもそう遠くはないですし』

「どのくらいかかりますか?」

 彼女は少し悩んで

『場所の名前を伝えますから、メモを取っていただけますか?』

 焦りながら紙を探す。右手の届く範囲にメモ用紙があった。

「はい、お願いします」

 彼女の言葉の羅列の途中でメモを取るのをやめた。僕はその場所がどこかを知っているからだ。

「それって花に囲まれた道の先にある、墓地ですか」

 その墓地は、花の中に個々人の故人の魂が入っているとしているということだったが、花が好きな住職が公私混同の末に思いついた言い訳だと言われている。そんなことはどうでもいいことだ。一昨日も今日の未明もぼくはそこにいた。公園の近くにある花畑、あれはただの花畑ではない。本当に花の斜め下には死体が埋まっているのだ。

『来られるかしら、私はもうすぐにでも着きそうなくらいだけれど』

「すぐ着替えて向かいます」

 喪服なんて持ってはいなかったから、入学式のスーツで葵には我慢してもらおう。

『そう』

 電話が切れる。急いで着替えを済ませて、髪を水で濡らして整え、玄関を飛び出す。鍵を閉めたかどうかも分からないくらいの勢いだった。流石に閉めていたけど。

 息も絶え絶えに着くと、そこでは冷静な葵の母親がいた。

「お母さん、こんにちは」

「こんにちは」

 と挨拶を交わすも、すぐに後ろを振り向いて容赦なく歩みを進める。と思っていたら、次の瞬間にはまたこちらを向いていた。

「茜です」

「えっ」

「私の名前ですよ、あなたのお母さんではありませんから」

 小学校の先生のような口ぶりに気を取られて本質を理解するのに時間がかかった。背中を向けて歩き出す彼女に

「これからは茜さんと呼ばせていただきますね」

「それじゃ私は優太郎君とお呼びします。その方が公平なので」

 そう言った彼女の頬が茜色に染まっていたことについては言及しなかった。

「行きましょう優太郎君、この後にまだ予定も控えているの」

 彼女の職業をきちんと把握しているわけではないけど、彼女が多忙なことくらい知ってる。彼女が本来休日である日曜日にも予定が入ってしまうのも納得がいく。

「はい」

 花畑の先には確かに秋野葵と書かれた墓があった。ずっと身近にいたのに気付かなかった。

「葵が死んでしまってるなんて墓を見ても実感が湧かないです。どこか、それこそファンタジーの世界で悠々自適に生きてるような気がして」

「私もそう」

 彼女はなんて変かしらと言いたげな大人びた子どもを見た大人みたいな優しい視線をこちらへ向ける。

「私もあの子がいない生活が全く身につかなくてね。どこまでも影に追われている気がして正直忘れたくて仕方なかったの」

 一つ呼吸を挟んで

「過去を背負うことばかりに囚われて、悪いところばかり視界に入っていたの。あの子からも私からも目を背けてたの」

 彼女の言葉に圧倒されているわけでもないのに、言葉を返すことができない。まる妖精に今は黙っててと不思議な力で示されているようだ。

「私、これからちゃんとあの事とあの子と、それから私と、きちんと向き合ってみるわ。あまりにも遅すぎるかもしれないけど」

 葵が自殺したのはこの世が退屈だから。その原因の一つに彼女の存在があることは間違いない。体裁だけ整った夫婦と毒づいていたあの日のことを思い出す。彼女は物心ついた時からずっと一人ぼっちだった。お嬢様という身分で周囲の子どもと遊びに行くことすら許されなかった。

「いつも退屈そうにしてた葵はそれでも、茜さんのことを悪く言うことはありませんでしたよ」

 体裁だけの夫婦なんて別れてしまえば良いのに、と言ったことがある。そしたら、形だけの夫婦が駄目なんて酷い押し付けだわ、と葵が余裕を少しだけなくして話していた。彼女は彼女なりに、両親に尊敬の念は抱いていたんだろう。

「そうなのかしら。私はあの子をきちんと愛せていたのかしら?」

 きっとお互い不器用だったんだろう。きっとお互い愛していたことに変わりはないんだろう。

「もう少し、葵の話でもしましょうか。彼女の存在にただ縛られるのではなくて、彼女と向き合っていくため」

「予定は良いんですか」

 彼女は葵らしい人間から離れた笑顔を浮かべて

「私も歳ね、次の予定のことなんて忘れてしまったわ」

 その言葉を使うにはまだお若いみたいですけど。心の中でだけ唱えて

「はい」

 と声を届けた。それからしばらく、墓の前では珍しく会話に花が咲いた。

「そろそろ僕は約束があるので」

「ちょっと待って」

 彼女は慌てながら袋の中の物を取り出す。線香とライター、それと仏花みたいだ。

「ここまで来てお参りしないのは頷けないわ。掃除は私がしておくから」

 墓に水はかけられているみたいだ。

「そうですね、ありがとうございます」

「こちらがあなたを招いたのだから用意しておくのは当然のことよ」

 どこか突き放す言い方も彼女らしさなんだろう。線香にライターで火をつけた。あの古臭くてどこか嫌いになれない匂いが鼻孔をついた。茜さんも線香をあげる。僕らは隣に座る。ほとんど同じタイミングで手を合わせて礼をした。

 葵、今も僕は元気にしてるよ。妖精の形をした君を見たんだ。君が望んだフィクションみたいな展開を見せて流星と一緒に消えてった。あれが君じゃなくて、単なる幻だったら困るから伝えておくね。単なる幻なら正気じゃないから伝えるべきではないかもしれないけど。でも、君なら笑い話くらいに思ってくれるだろう?

それからごめん、今まで君の元に来ることができなくて。どこにいるのか全然分からなくて。まさか君がこんな近くにいるなんて思いもしなかった。遠くから僕を見てるのかもしれないけど。そんなことを言ってもキリがなくなってしまうだろ?これからは来るようにするからさ。

後は、そうだな。妖精の君に言い忘れていたことがあったんだった。だから、君とは関係ないかもしれないけどここで伝えておくね。

「ありがとう」

 と口から漏れ出していたことに気づいて目を開く。まるで寝起きのような少し憂鬱な感じがした。それがどこか、僕の裾を葵が引っ張っているように感じた。流石に気のせいだろう、と視線を横にずらす。そこにはまだ、ずっと祈り続ける母親の真剣な眼差しがあった。目は瞑っているけれど、それは確かに葵を正面から見ていた。

「待たせてしまったわね」

「いえ」

 花立てに僕から一本の花を挿して、それから茜さんがもう一本花を挿した。

「今日は本当にありがとう。葵もきっと喜んでるわ」

 葵が喜んでる姿なんて中々に想像がつかない。もっと幼かった時は、良く茜さんが休みというだけで良く喜んでいたそうだ。

「これは蛇足かもしれないですが、なんでこんなところを葵の墓に選んだんですか?」

 正直、死を冒涜してるとすら思えるちぐはぐな墓地だ。そのせいか、需要が無くて値段は安いらしいけど、特段金に困っている訳じゃないだろう。茜さんは

「それはね、葵は花が好きだからよ」

 その言葉に葵の面影が重なる。

「そうですか」

 僕も葵のように言葉を連ねる。立ち去ろうとすると、風も吹いていないのに不思議と二本の花が動いた気がした。きっと妖精が手でも振っているのだろう。

 

ここまででこの話は終わってよかったのかもしれない。エピローグなんて余談なのだから気にせずに連ねることを気にする必要があるけど。確かにこの話は余談だ。この話を書くのは

『それができなくてもアオイのことを死ぬまで忘れないよ、なんなら忘れないように起こったことから思ったことまで書き留めてやる』

 と言ったからだ。妖精がいなくなった今、そして彼女への感謝を伝えた今もうこれ以上続ける必要はないのだ。

ただ、僕がこの物語を紡ぐのはこれだけが理由ではない。むしろこれから書くことが本質とも言える。そしてこんなことのために言葉を綴る僕は最低だ。気分のいい話ではないから、それが嫌ならここで話は完結しても良い。こんなこと書かなくても本当は、読むか読まないかは読み手の自由だけど、そうやって責任を押し付け過ぎるのは良くない。別にこれは親切じゃない。最近の風潮に合わせてみようと思っただけ。彼女を止められなかった僕は、自分が優しいとも優れてるとも言えないのだ。

 

 長い前置きをしてから話は戻る。場面は優花との待ち合わせ場所に切り替わる。記述はしなかったけれど

『公園に十七時半集合』

 とだけメッセージアプリに連絡が来ていた。家に帰る途中だったから良かったけど、もっと早く気づいていれば良かった。来た道をそのまま戻る。

 集合時刻の三十分以上前に着いた僕はそれから持ってきた櫛で髪を整えたり、服装を整えたり落ち着きがなかった。優花と一緒にいることにここまで緊張したのは初めてだったように思う。段々と日が沈んで、街の灯りもまばらに点くようになった。こんな人気も人気もないような場所にも待っている間に三人くらいは利用者がいた。その度に優花かと期待しては違うと肩を下げてしまう。

「太郎!」

 無気力が学習されて人影が近づいてきても反応しなくなっていた。声に反応して顔を上げると姫のように綺優花は麗な服装をしていた。流石に現代社会ではそんな格好でいられるわけもないから誇張表現だけど。僕には実際そう思えたんだから、実は誇張ではないのかもしれない。

「まだ十五分前だよ、流石に早いって。ひょっとして楽しみで仕方なかったの?」

 と聞いてくる優花に

「でも優花も十五分前に着いてるけど」

 と返す。

「やっぱりそういう時だけ勘が良いのね、太郎は」

 と手を一度叩いて何もなかったことにした。ベンチに座っている僕に手を伸ばすと

「行くよ」

「まだ予約の時間には早いんじゃないの?」

 彼女はこの発言すら計画通りと言わんばかりに視線を合わせて

「着いてからそういう細かいことは考える」

 と背を向けた。そういうのはもっとちゃんとしたこと考えてからにしてよ。

 着いたレストランの前で結局十五分待たされることになった。店員さんとやり取りする時に背伸びをして、大人な対応をしきれず慌てる彼女が可愛く思えた。

「あのさ、優花」

 少し落ち込んでる優花に言葉をかけると

「何?」

 と姿勢を正す。

「僕が昨日、何してたかをちゃんと話そうと思って」

 この言葉に少し優花の表情が堅くなった気がした。

「僕、実は」

 事の顛末を話そうとしたら彼女は開いた手をこちらに向けて

「今日は私達だけの時間なの、そういう話はやめて」

 そっか、僕はあの時、彼女を選ばなかったんだ。それでも優花は優しく接してくれているんだ。

「ごめん、そういう話は今日はやめよう」

「謝ることじゃないわ。分かってくれればそれで良いの。それにこんな滅多にないこと、せっかくなんだから楽しまなきゃ」

 彼女は雑談を始めた。本当に他愛もなくて下らない記憶にも残らないそんな話が僕は好きで仕方がない。

「猪方様、準備が整いましたのでお席にご案内します」

 予定より五分前に扉は開く。高級と書いているのと何ら変わりのないシャンデリア、赤い絨毯、純白の机に、僕のスーツの何倍もしそうな服を身に纏った客。フィクションの中だけの世界だと思っていたものがそこには広がっていた。隣で目を丸くしている優花に

「優花、ここ来たことあるの?」

 彼女は首を横に振って、震えながら歩く。関節は全然曲がっていなくてさながらロボットみたいだった。なんて現代のロボットは着実に進歩しているから、そんな挙動をするはずはないけど。

「良い、太郎?私の真似をしてれば基本的には大丈夫だから」

 カタコトになっている優花が失礼だけど面白くて緊張がほぐれる。

「うん」

 彼女は席に着いても未だに緊張している様子だ。待つことなく前菜が運ばれてくる。どうやらコース料理らしい。

「えーと前菜のマナーは」

 頭を悩ませる彼女に

「優花、そんなに悩んでても仕方ないよ。せっかくの料理の味が分かんなくなっちゃマナーなんて意味ないよ」

 彼女はしばらく黙り込んで

「それもそうね」

 といつも通りの食べ方に直った。その食べ方でも十分美しい。着々と料理が運ばれてはそれを食べて

「美味しいね」

 なんて言い合って次の料理を期待した。アイスクリームが運ばれてきて

「本日のコースはここまでです」

 と告げられる。まだまだ足りないくらいだけど、高級料理店の出す料理は庶民には物足りないなんて有名な話だ。

「当店は机でのお会計となっておりますのでお客様のタイミングでこのベルを鳴らしてください」

 実際の数字は生々しくて言えないが、その伝票には普段外食で食べてるものの値段よりも桁が一つから二つほど多かった。実際このくらいの値段だとネットの情報で理解はしていたがやはり紙だと重みが違う。なんて前時代的な価値観の人間みたいだ。

「なんか紙だとリアルだよね」

 現代人かどうかによらず、古い価値観の人間はいる。

「お腹いっぱい」

「そうだね」

 ベルを鳴らして、会計は当然一人ずつ。

「美味しかったです」

 なんて律義に優花は店員に頭を下げた。僕もそれに合わせて無言で頭を下げる。

「行こっか」

 無言で頷いて彼女の隣に寄り添う。彼女からいつもよりもいい香りがして、香水をかけていることに気づく。そのくらいこの食事を楽しみにしていたのかと思うと

「嬉しいな」

 なんて呟いてしまう。

「なんか言った?」

「美味しかったねって」

 きちんと言葉にするのは恥ずかしくて嘘を吐いた。これが嘘なことくらい彼女は分かっているんだろう。

 外に出ると彼女は元気いっぱいのおてんば娘に戻って

「緊張した!」

 声を張らないでほしい。まだ店から離れてないここじゃ、聞こえていることだろう。

「そうだね。おいしかったけど、あんなに敷居が高いならしばらくは良いかな」

「敷居が高い、の使い方、間違えてるし。太郎はやっぱり私が居なきゃ駄目ね」

 酔っぱらっているのだろうか。僕は彼女とお酒を嗜むことがなかったから酔いやすいなんて知らなかった。彼女のことを僕は氷山の一角くらいで知ったつもりになっているのかもしれない。

「そんなことくらい分かってるよ」

 少しムキになってしまう僕も案外酔いが回っている。

「ねえ太郎」

 猫を、いや僕を撫でるような声だ。

「何かあった?」

「私もっとこの服着てたいからさ、どこか別の場所行かない?」

 その声に照れが混ざっている。きっと全部が全部酔ってるわけじゃないんだろう。

「公園にしよ。その恰好の優花をあんまり見られたくないからさ」

 この嫉妬まみれの言葉も酔いのせいにしてしまおう。頬の赤さも含めて酔いのせいにしてしまおう。

「分かった。行くなら速く行こ」

 彼女が差し伸べてきた手を握る。心臓が高鳴るのが良く分かる。体の挙動もおかしい。これも全部酔いのせいだ。

 公園に着くと、ベンチに座る。お互いの間に隙間はない。

「あのさ、今までいろんな思い出があったよね」

 その口調と目と、それから秋風がひどく冷えている。

「お互いいじめられるなんて、これは何かの奇跡なのかもしれないし」

「優花姉、そんな暗い話はやめようよ」

「太郎、暗くなんかないよ。確かにあの過去は笑顔で語れるものじゃないけど、私のヒーローが生まれた瞬間だよ」

 僕のことを指しているのだろうか。

「間違っても良い、なんて当たり前のことにも気づけなかったなんて我ながら浅はかだよね」

「ヒーローって僕のこと?」

 真剣な眼差しで見つめると、彼女は首を傾けて

「そうだよ、太郎以外にヒーローなんているわけない」

 彼女の瞳は揺れることはなかった。

「僕にとっても、優花はヒーローだよ」

「私はどっちかって言うとヒロインだよ」

 なんて僕の胸に軽く手を当てる。僕の瞳はというと、揺らいでいた。

「なんか照れ臭いね」

「うん」

 夏とまではいかないけれど、春のような温かさが周囲を覆った。実際の温度なんて知ったことではない。

「他の思い出に変えよっか」

 言葉が出ずに、言葉が出せずにただ首を縦に振った。

 しばらくの話の後優花が切り出す。

「太郎は覚えてるかな。初めて会った時に私の裾を良く掴んでは離れたくないなんて駄々こねてたの。それが私達の家と太郎の家があんなに強固な理由。今も甘えん坊なところは残ってるかもしれないね」

 そうだ、僕は甘え続けている。周囲を囲う雰囲気のように温いまま生きている。

「えっ、でも優の字が同じだから意気投合したんじゃないの?」

「やっぱり覚えてないか。順序の問題だよ。最初は皆で遊んでる中で私の裾を掴んだの。それから名前の下りがあって」

 その時を懐かしむように空を見上げる彼女は落ち葉と相まって絵になっていた。いっそのこと絵として彼女を留めておきたいくらいだった。

「記憶なんて都合よく改ざんされちゃうからね。名前の方ばかり皆覚えて、その前を忘れちゃうなんて」

 彼女の瞳に闇ばかり映る。この街に星明りなんてほとんどない。あんなに流星群が視界を覆ったのはそれこそファンタジーなのかもしれない。

「そしたら思い出をまた作っていけばいいんだよ、今日みたいに」

 今宵も月は変わらずに輝いてる。それが僕を照らしてるみたいだった。今宵は酔いが回ってる。普段照れてしまうような言葉を吐いても良いんだ。夜風に当たって、酔いなんて覚めてるけど、そんなことは気にしなくて良いんだ。

「そっか、そうだよね」

 一度下を見てから、彼女は呟くように

「太郎あのね、今まで言ってなかったけど、私の父親、もう別居してるんだ」

 その後、しばらくの間、優花の心の中が声音とともに漏れ出た。内容はほとんど彼女の母親のそれと変わらないけど、

「私ね、なんで別れちゃったんだろうって。理由を聞いても全然分からなくて。でもお父さんもお母さんもきっと悪くないことは知っててさ。もう頭の中がパンクしちゃいそうだったの。でも太郎には話せなくて」

「そんなに頼りないかな、僕?」

「そうじゃなくて、なんで言葉ってこういう時ばかり浮かんでくれないんだろう。なんでこんなこと、今、話したくなったんだろう」

 彼女の頭の中はパンクしているみたいだ。

「でもね、そうだ太郎。多分、私は許して欲しいんだ。次からはちゃんと太郎のこと、頼るから。これ以外隠し事はしないから」

 その時、公園にオルゴールのような音が鳴る。どうやら午前零時を知らせてくれたらしい。綺麗事ばかりで着飾ったシンデレラの魔法も解けてしまう。

「優花、僕の隠しごとについても話して良いかな?」

 彼女の顔が強張っているような、どこか僕を怖がっているような感じがした。

「良いよ、もう今日は昨日じゃないから」

 しばらく無音が流れ込む。僕も甘えから、ワレモノ注意で人を扱う臆病者から卒業しなくちゃいけない。もう試練を乗り越えてしまったのだから。

「優花姉、葵のこと覚えてる?」

「もちろん。葵って太郎の友達でしょ?」

 こくりと頷く。彼女ならぼくをきちんと友達と認めてくれるかも怪しいところだけど、幸か不幸か、彼女は星と共にどこかへ飛んでいった。

「あのね太郎、確かに葵さんの自殺を止められなかったのは太郎の責任でもあるかもしれない。けど、いつまでも過去ばっかりに縛られちゃ何もできなくなっちゃう」

 そうかもしれない。でも問題から目を背けるのは話が別だ。

「僕ね、金曜日に、葵の妖精に会ったんだ。なんて言って信じてくれる?」

「何言ってるの、大丈夫?」

 彼女の不安そうな顔がこちらを見ている。僕は優しくて花のような彼女にもう一度、ナイフを向ける。

「あのさ、優花。もう良いよ、そういうの。妖精の葵のことを知ってるよね?」

「そんな、太郎。妖精なんて現実にいるわけないじゃない」

 彼女は帰ろうと立ち上がって手を差し伸べてきた。それを振り払う。

「アオイが言ってたんだ」

 流星が輝き始めた時のことだ。『彼女の唇が動いていた気がしたけど、そんなことより動く光に目が行く。』この時に本当は彼女が言った言葉は耳に届いていた。

「玄関で優花さんが君を抱きしめてた時、優花さんは私を睨んでた気がした」

 それが妄言や、被害妄想のたぐいだとだと思いたかった。

「そんなのただの妄言でしょ、葵さんも妖精もこの世にはいないんだから」

 彼女はあくまで妖精の存在を、葵の存在を認めないつもりだ。ポケットに手を突っ込むと

「じゃあ、これ」

 と手紙を取り出した。

「この文章、非常に震えてるし、文字は小さい。妖精が書いてるとしか思えない」

 優花は少し語気を荒げて

「その文章が妖精が居た証拠ってこと?」

「いいや違う。これを書いたのは優花なんでしょ?」

 そう、この手紙はおかしい。

「だって、なんでこんな長い文章を震えた字で書けるの?何日もあればともかく、一日でこれを書いたのは無茶がある、震えるほど重いものをもって書いたんだから。本当に遺書を残すならサヨナラとかもっと短い単語を選ぶはず」

 そう、だからこの奇妙に震えている文章は、おかしい。アオイの書いたものでは絶対にない。ではまだ力をきちんと制御できて夜風にも耐えられていた葵ならどうか?これに関しても答えはノーだ。手紙の中であなたではなくきみと記されている。話し言葉がフランクな人間が、書き言葉になると堅苦しい言葉を使うことはあるかもしれない。しかし、書き言葉になって急にフランクな呼び方になるとは考えにくい。あくまで現代日本の価値観だけどあなたよりきみのほうがフランクだ。文字数削減かもしれないが、それならこんな長く書くのがやはりおかしい。葵ならこんな内容にしているのもおかしい。

「これは人間が震えるように書いたとしか思えないんだよ。そして、僕の両親が優花の家に仕向けたのは、優花のはずだ。じゃあ、この手紙を持ち込めるのは誰か。優花は合鍵を持ってたよね?」

「違う、そんなの知らない」

 感情的に否定する彼女から絵のような美しさは影を潜めて、人間らしさだけが露呈していた。それでも僕は追及をやめない。

「じゃあ、優花。話を変えようか」

 こんなこと話したくなかった。優花のことは無批判的に信じていたかった。

「三年前の九月。なんで僕をいじめてきた人間と一緒にいたの?」

 無抵抗の相手に過去というナイフを突きつける。

 『純粋だといえば聞こえはいいものの、平気で男子高校生と二人きりになったこともある。』そう優花のことを説明した。この男子高校生は過去の僕のことではなく、僕をいじめてきた人間のことだ。

 

 夜も遅くなっていた。たまたま、その日の夕食に必要な玉ねぎが足りないことに気づいた母が僕に買い出しを頼んだ。辺りはすっかり暗くなっていた。人通りの少ない道を進んでいると

「うん?あれは優花?何してるんだろう、こんな所で」

 彼女は路上に一人で立っていた。声をかけようか迷っていたらそこに一人のいかにも悪そうな男が現れる。それが僕のことをいじめてきた人間と気づくまでそんなに時間はかからなかった。

「どうして?」

 けれど、優花があの男とかかわりを持っていることを知りたくはなかった。優花がお金を渡している現場なんて見えていても、見ていなかったことにしたかった。

 

 金曜日の昼食に、本当に優花に聞きたかったことは就活の話なんかではない。他もそうだ。今まで聞きたかったのは下らない話なんかじゃなく、彼のことだった。でも、就活の話に、下らないことばかりに逃げてしまった。優花との関係性を保ちたいからと甘えてしまった。そこに優しさなんてある筈もなかった。

「優花は僕のことを許してないんだろう?僕が死んじゃえって言ったことを、傷つけたことを未だに根に持ってる」

 彼女はただ黙って話を聞いている。まるで魂が抜かれたみたいに。

「僕は優花を間違っても良いって言った。優花は、存在を否定した僕に復讐しようと間違ったんだ」

 彼女はまだ黙って話を聞いている。まるで死んでしまったみたいに。

「僕のことをいじめるように仕組んだのも優花だよね」

 彼らは何故、僕という関係のほとんど持たない人間を襲ったんだろうか?聞いても、彼らが理由を言わなかったのはそういう理由などなしに、無差別にいじめを行うような人間なんだと思っていた。でも、言わないのではなく機密を守るために言えなかったのかもしれない。

優花に話してから徐々にいじめは収まっていった。優花は、僕が虐げられて苦しんでる姿を見ることで十分満足したんだろう。

「僕がいじめられて居場所をなくした時に、葵と僕が関係性を持っていることを知った。だから、優花は葵を狙ったんだよね」

 僕という存在のせいで、周囲の人間にまで迷惑がかかる状況をつくって、僕をより一層絶望させたくなったんだろう。彼女にとって僕はそれほど憎かったんだろう。

 葵の存在をきちんと目で確認できていた人間は恐らく僕を入れて四人だ。優花、葵を親のように慕う少年、そしてやけに怯えていた不良。髪型こそ変わっていたけれど、きっとあの不良達は僕をいじめてきたやつらだった。

「葵と街を歩いたときに、僕をいじめてきたやつらに会ったんだ。でも、僕をいじめてきた二人のうち、一人しか怯えていなかった。九月に優花が会っていたのも一人だった。多分その一人にしか、レイプの話を持ちかけたんでしょ?」

 自分のレイプが原因で死んだはずの被害者が妖精となって蘇っていたら、恐ろしく感じるのも無理はない。ひょっとしたら自分を殺しに来たみたいなドラマさながらの緊張感を覚えていたのかもしれない。

「きっと、妖精は、葵の姿は彼女という存在に固執した人間にだけ見えるんだよ」

 少年という存在から考えるように決して僕だけが特別に認識していたわけじゃない。

「優花もアオイがまさか死ぬなんて思ってはなかったんだろう?だから、葵の存在を確認できた」

 彼女がやっと口を開く。魔法にかけられた姫がキスで蘇るみたいに。

「そう、まさか死ぬなんて、妖精になるなんて思いもしなかった」

 彼女のそれは自白でしかなかったけれど、僕はまだ話を続ける。

「優花は、葵を拉致することで僕が絶望する姿が見たかったんでしょ?だから、咄嗟の思いつきで偽の遺書を残して。だけど、咄嗟の音過ぎて文字数のことまでは考えられなかったみたいだけど」

彼女は首を縦に振る。

「そしてもう一つ誤算が生じてしまった。それは妖精が知らないうちに逃げてしまったということ。いつのタイミングかは分からないけどそれによって、僕らは奇跡的に再会し、そして別れた」

 アオイの笑顔が思い浮かぶ。僕が言える立場なのかは分からないけど、彼女の行為が許せそうになかった。

「これが僕の推理だよ、優花姉。全部僕のせいだったんだ。僕のことをずっと恨んでいたのに関わり続けて、君のことを愛してしまってごめん」

 僕が、優花と真剣に向き合うというのはこういうことだ。きっとこれで関係は切れてしまうだろう。最初から歪んでいた関係なのだからいつかこうなることは当然のように分かっていた。僕に友達が異様にできなかったのも、なんとなく優花が理由と察しがついていた。葵が前に

『あなた達、本当に面白いんですもん。目で追いたくなっちゃうくらい』

 といっていたのを思い出す。きっと、薄々両者が悪意と好意の二つの相反する感情を持ちながら関係を形成したのを彼女は面白いと感じたんだろう。

「ねえ太郎」

 独り善がりになって喋り続けた僕の顔を彼女の左手が撫でる。

「私達、熟練したカップルで何でも分かりあうような仲なのにどうしてこんなに離れちゃったんだろうね」

 それはこっちの言葉だよ、優花。僕を恨んでいるはずなのになんで何でも分かり合えるような仲になったの?今までの優しさも全部演技だったの?そんな言葉を飲み込むばかりだ。

夜風が吹いて、彼女は昨日までいた妖精のように軽やかなステップを踏んだ。僕との距離が離れていく。

「サヨナラ」

 そう冷笑したあと、彼女はナイフを鞄から取り出した。今までのように比喩としてではなく、実物として。

 僕を嫌っているはずの彼女を、酷いことを大量にしてきた彼女を、僕は止めにいっていた。

「どうして?」

 彼女の体を押し倒す。ナイフは明後日の方向へ飛んで行った。その後、彼女の腕を掴みながら対面で地面に座った。

「どうしてなの?太郎」

 理由を聞かれてもすぐに答えることができなかった。ただ、先ほどの僕のように、今度は彼女が独り善がりに話を続ける。

「あのね、太郎。私、三年前からずっと死にたかったの。でも死ねなかったの。きっと太郎が私を突き放してくれるタイミングがあれば死ねると思ったの。でも駄目だった」

「優花姉は止めて欲しかったんでしょ?そうじゃなきゃ僕の前でわざわざ死のうなんて思わない。それとも、自分が死んでまで僕にトラウマを植え付けるつもりだったの?」

 君を肯定できなかった僕のことをそこまで君は憎んでいたの?二人の心音が重なっているような錯覚に陥る。

「太郎の推理は間違ってるよ。確かに私は彼女を、葵さんをレイプするように誘導した。太郎をいじめるように仕向けたのも私。でも確かに太郎の推理は間違ってる」

 もったいぶって説明しない彼女にどうして?と答えを求めようとした。ど、と発音しかけた時にまた彼女の口が動く。

「事実と真実は違うものなの、太郎。事実はいつも一つだけど、真実なんて人それぞれあるんだよ。だから、間違いではないのかもしれないけど」

 客観的事実と、主観の混じった状況とでは話が違うということだろうか。

「もったいぶるのはもう良いか」

 今まで全体を照らしていた月が彼女に照準を合わせたみたいだ。実際そんなことは事実として間違いだけど、僕にとってはそう見えてしまったんだから、これはこれで一つの真実である。

「太郎のこと、私は恨んでないよ。私も愛してるの」

その文字列は酷く僕の推理から外れていて、ひどく僕の知っている彼女らしい。その声音はいつものっ彼女からは外れていて、僕を慰めてくれた時の彼女によく似ていた。

「すごい太郎のことが好きで、好きで嫌われたくなかった。だからよく観察とかもしてたんだ」

 なんで、僕という影が薄く友達もいない人間が授業にいないことを察知できたのか?情報網がたんに恐ろしいだけだと思っていたけれど、これだと意味が大きく変わる。

「なのにどうして、僕をいじめたの?」

「私の両親、別居したじゃない」

 彼女は僕の質問を遮るように、少し大きく言葉を吐いた。

「その理由も話したよね。お父さんがお母さんのことが無性に怖くなって。それで別居したの」

 受け入れていることを示すためか、彼女の口調は冬のように冷たい。

「ショックだったんだ。お母さんが怖いなんて私、一回も感じたことなくて」

 確かに、人を、もっと言えば愛し合っている関係の人間を、無性に怖くなるなんてことは現実的ではないかもしれない。最も、その事象が起きている時点でそれは一つの現実なんだろうけれど。

「それで話は変わるけど、私、いじめられたじゃない?まるで私のことが怖いみたいに集団で私を攻撃した」

 彼女の言いたいことが分かった気がする。けれど、それを確認する前にそれを口にする前に彼女は答えを告げてしまう。

「私、お母さんと一緒なんじゃないかと思ったの。遺伝してるんだって」

 彼女は少なくとも僕にとっては善性の塊なのに、いじめられてしまった。

「太郎、私のこと死ぬべきだって言ったじゃない。あの言葉が、最初は太郎の言う通り傷ついたけど、でも私のことを思っていてくれる気もして嬉しくもあったの。でもね、時間が経つに連れて認識が変わっていった。お父さんみたいに太郎がどこかへ行ってしまうんじゃないかって」

 そんなわけない、死ぬべきなんて人格を否定した僕がそんなことを言ってもきっと説得力なんてないんだろう。

「だから観察したの。嫌われたくなくて、ずっと私が視界に入るようにしてた」

 するりするりと彼女の言葉は僕の耳へ届く。

「だから、あの女の存在を知った時は驚いた。私以外の女の子と二人きりなんて、私は捨てられるんじゃないかと思った」

 彼女の頬に涙が伝う。傍から見れば僕が悪いことをしているようにしか見えない。

「太郎をいじめるように仕向けたのはね、そしたらもっと私に依存してくれると思って。私が私にとっての太郎みたいな存在になれると思って。でも結局太郎はいじめをエスカレートさせても私を頼ってはくれなかった。私が誘うまで話してくれなかった」

「違う、僕は優花が頼れなかったんじゃない。ぼくはただ優花に迷惑かけたくなくて」

「私もそうだと思いたかったの、でも、どうしても私は太郎を信用できなかった。信用してないんじゃないかって思った私が一番太郎を信用できなかった」

 今もまだ僕の言葉に不安そうな目をしている。大丈夫、そんなわけないなんて気の利いた言葉もきっと彼女の不安を薙ぎ払うことはできないんだろう。

「太郎にいじめの話を聞く少し前に、太郎のいじめの内容をあいつらから聞いたの。それで想像以上に辛い思いをさせた罪悪感で心も頭もいっぱいになった。だから、いじめをやめるように感情的に言い放ったの」

 元々、金銭の授受で成り立っていた関係だ。言えば止まったことだろう。彼らもその真意は伝えられていなかった。伝えたところで彼らに余計な混乱を招くだけだろう。

「私はどうやったらあの女から太郎をとり返せるか考えたの。必死だった。このままだと私は一人になってしまうって」

 あいつらとかあの女とか、彼女の語気はいつもより強い。きっと、こっちが本来の彼女の姿なんだと察した。

「遠いものほど人間は惹かれる。近いものほどそれは恐怖の対象になっていく。このままだと私が見捨てられてしまうのは当然のことだった。いくら太郎をいじめから助けた立場を騙れたとしても」

 惰性であの関係を続けなければ、僕が優花の元へ帰っていれば、葵が土に還る必要はなかったのかもしれない。

「それであの女を観察することにしたの。そしたらあの子、フィクションにしか興味がないって言ってた」

 きっと彼女は僕や葵に限らず色々なものを観察してきたんだろう。人の見えないところで。猪突猛進のように見えるのは見かけ上の話だった。

「だから、ドラマみたいなありがちな展開を用意してあげるから、太郎から手を引くように言ったの。それがレイプだった」

『レイプは私から仕掛けたわけじゃない』

 そう言っていたけど、それを彼女が認識していなかったとは言ってない。でも、そんなことより僕が気になったのは

「葵は何の躊躇いもなくその話を受け入れたの?僕より彼女はドラマを選んだの?」

 自ら被害者になるなんて僕に理解できないものを選んで、僕を選んではくれなかった。それが僕の胸を締め付けた。

「太郎だって私じゃなくて、あんな理解できない女を選んだでしょ?」

 彼女を突き放したのは僕だった。彼女をここまで突き落としたのは僕だった。優花はこんな気持ちだったのか。『彼女を止められなかった僕は、自分が優しいとも優れてるとも言えないのだ。』金銭授受の目撃現場に限らずあの死を止めるタイミングはあったはずだ。優花の行動を止められなかった僕に優しさも優秀さもないのだ。

「ごめん」

「謝ることじゃないよ、私が選んでもらえるように努力できなかったのが悪かったの」

 優花はやり方こそ狂っていたけれど、僕のことを純粋に愛してくれているんだろう。それが嬉しい反面、悲しかった。その気持ちを持っているのは間違いじゃないはずだったのにどこでズレてしまったんだろう。

「まさか死ぬなんて思ってなかった。あの女は予想以上にドラマに狂っていた」

 この話の主要人物は、アオイ以外狂っている。アオイだけが人間味に溢れていた。僕は人に言葉を突き刺すのを狂ったように恐れていた。葵はドラマチックに狂ったように関心を示した。優花は僕のことを狂ったように愛していた。僕らは狂っているけれど、互いの狂ってるところは良く理解できなかった。きっとそれだけ他は普通の人間だったんだろうなんて思う。葵の奇妙さもドラマを強調する延長線上の行動だったのかもしれない。彼女の存在がなくなってしまった今、それを確認することは不可能に近いけど。

「だから、死んだって知った時は感情がぐちゃぐちゃになった。私の脅威はなくなったけどその分人を殺してしまった罪悪感が脳の髄まで汚染してきた。常日頃からあの奇妙な女の視線が感じられて仕方なかった」

 彼女はそれでも何も問題がないみたいに僕に接していた。それがどれほど辛いことだったか、僕に想像できる範疇を超えていた。

「それでも脅威がいなくなったのが救いだった。それなのに今更になってあの女はまた姿を現した。妖精になって太郎と接してた。私は太郎をまた取られてしまう前に攫うしかなかった」

 彼女の心をどれだけの恐怖が襲ったのか、想像したくもなかった。

「あおいを逃がしたのは逃げられたの?それとも……」

 アオイと葵、どちらか判別がつかないからひらがな表記にした。発音上は特に気にする必要はないけど。

一番の疑問だった。確かに葵は頭が切れるけど、優花だってそこまで愚かじゃないと思う。彼女はどんな理由が、経緯があれ、葵を殺すトリガーとなる現象を起こした時点で愚かだけど。

「逃がしたよ。寿命が流星までってことはあの女から聞いてたし縛っておいても太郎と関わり続ける危険はない」

 ということはその時の妖精は葵だ。アオイは自分がそんなすぐに、二日で死んでしまうなんて思ってもいなかった。だから

『私のこと、離さないで』

なんて言葉が言えた。

「それに、太郎が駅で私のことを選んでくれなかったから会ってもらうしかなかったの。だってそうしないと、もうこの世にいない妖精の存在を太郎は追い続けて、私のことなんて向き合ってくれないと思って」

「でもじゃあ、僕が家に帰って来た時にどうして優花は僕を突き放したの?僕はもう忘れてしまうつもりだったのに。それに何で遺書なんて書いたの?書かなければ一日の幻として処理できたのに」

 彼女は顔を歪ませた。

「質問の答えが逆転しちゃうけど、私が遺書を書いたのは私のことを選んでほしかったから。順序が逆転してるの。今度こそ私を選んでほしくてあえて彼女の存在を示した。あの女と私との比較がきちんと行われなきゃいけないから」

 負けっぱなしが嫌だったなんてどこまでも優花らしい。

「あの時突き放したのは非合理かもしれない。でもね、太郎、私はロボットじゃないの。人間なんだよ。私を選ばないなんて言っておいて私のところに甘えてきた太郎があの時は本当に許せなかった」

 人にナイフを突きつける時、その人間もまた追い込まれているのだ。化けの皮なんて剥がれてしまうのだ。

「それに、そんなことで忘れられないことくらい知ってる。忘れようと思って忘れられるなら良かったのに人間はそんな風にできてない。どうせ、太郎も引きずり続けてしまう」

 言葉の端から苦しさが見える。縋った蜘蛛の糸が切れることもなく先も見えず続いてるような絶望が。

「私の存在を知られずに、太郎が会えるように計画してた。だけど、あの女、どうしても行かないといけないところがあるって言ってきたの。そうしないと私のことも話すって言われちゃって。だから仕方なく解放してあげたの。あの女が太郎と必ず会うって条件付きで」

「でも、裏切るとか考えなかったの?」

「あの女が裏切ってもドラマが失われて面白くなくなるでしょ。それに」

 一瞬言葉を止めたけど、またすぐに言葉は続いて出てきた。

「あんなに懇願されたら、私も断れないよ。それくらい死にきれない思いだったら、死んでくれないかもしれないし」

 きっと葵は、あの少年のことをそれくらい大切にしていた。僕よりも大切なものなんて彼女にはいくらでもあったのだ。

「それできっと全部。まさか私の存在を仄めかすとは思わなかったけど」

 約束は守られえている。アオイが勝手に喋ってしまっただけだ。むしろ葵は手紙の話に触れようと思った時に止めたりと、そこの配慮は心掛けていた。

「ねえ、太郎。こんな私、人殺しの私なんてもうただの化物にしか見えないでしょ?私なんて側にいる資格なんてないでしょ?」

 静かに雨を降らす優花への答えを僕は見つけられない。

「私本当はなんとなく気づいてたんだ。太郎が私の罪に気づいてること」

 これだけ長く続ければ、大体のお互いのことは察しがついてしまう。それが、知らせたくないことでも分かってしまう。

「でもね、気づいてないわずかな可能性に賭けて私は普通を装い続けたの。太郎はきっと私を知らないでいてくれてるって。本当に何回も言葉に出してたの、それが何も起きないおまじないだった」

 葵が妖精にどうやってなったかは知らないけど過去を変える魔法を教えて貰えれば良かった。そんなのありえっこないなんて意味のない呪文を心の中で唱えた。

「今日だって、私、太郎に告白するつもりだったの。もちろん罪じゃなくて、愛を伝えるってこと。だから背伸びしてあんな高級な料理店選んで、こんな似合ってない服を着て綺麗を演じたかったの。私の罪が見えないようにしたかったの」

 きっと僕が彼女に話さなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。でもアオイと約束してしまった。

『優花とはちゃんと向き合う』

 と宣言してしまった。案外アオイも性格が悪いのかもしれない。純粋な善意なだけより質が悪い。

「もう死なせて。太郎、私の存在なんて肯定しちゃダメなの。私は人を殺して、それなのに裁きも受けずのうのうと生きていた罪を償わなきゃいけないの」

「だから、止めて欲しいから僕の前で」

「違うよ、太郎。私は太郎にも迷惑をかけたの。いじめられて辛かったでしょ。だからあの女はいないけど、被害者の憂さ晴らしになると思って。悪はこうやって分かりやすく死を迎えなきゃなんてドラマ狂いなら言いそうじゃない?」

 笑わせようとしているんだろうか、そんなの全く笑えないけど。笑おうとしているんだろうか、顔が歪んでいるだけだけど。

「ほら、その手を離して。そうしないと終われないの」

 僕は手を離す。彼女は後ろを向いてナイフを取りに行く。

 その背中に抱きついた。彼女は咄嗟のことに立ち止まる。

「何の冗談?」

「優花を死なせられるわけない。たとえどんなに悪だったとしても、僕にとっての優花はあんなに優しかった。だから死んじゃ駄目だよ、誰もそんなこと望んでない」

 きっと葵も、なんて都合が良すぎるだろうか。でも存在しないものが望むことなどできないのだから言葉に嘘はない。

「でも」

「優花の罪も丸ごと愛していくから。これじゃ駄目かな」

 優花は魔女だ。葵がファンタジーの存在になった原因は死に、もっと言えば彼女のレイプにある。自分の手を使わず対象を別物に変換するというのはさながらシンデレラに出てくる魔女だ。

 でも、魔女は理不尽に罪を押し付けられ手は迫害を受ける。それは魔女狩りという歴史が実証済みだ。実際、彼女が何をしたというのだ。彼女は一人の望みを叶えるために尽力して、その分の見返りを得ようとしただけ。それに彼女の行動に、合意はなされている。その内容自体はあまりに一般からは狂っているかもしれないけど。葵が死んだのは結局優花の知る所ではなかった。それでも断罪する必要はあるのか。

 僕は彼女の魔法のせいでいじめられたのかもしれない。でも、それよりも多くの恩恵を受けてきた。彼女の手段の不器用さくらい平気で受け入れられるくらいに。少なくとも僕は彼女を責めない。それでも断罪する必要はあるのか。

「だから死ななくていい。一緒に生きよう、優花姉」

 少なくとも僕にとっては必要なかった。今まで必死に死体に怯えながらそれでも生き続ける彼女に死を許容できるほど僕は大人じゃなかった。それがどんなに世間から外れた考えであっても。

 ただただ肉体が邪魔だった。肉体の存在よりももっと近くで彼女に触れたかった。妖精ではなく、天使になることをお互いに望んでいたように思う。根拠はないけど、心臓の音が重なり合えばそれだけで十分だった。

「ごめんね、太郎。ごめんね」

 彼女の泣き声が汚く、そして美しく公園に響き渡る。それを咎めるものは誰もいない。

 

 さて、ではこの小説を書いた真意を書き留めようと思う。これは僕の約束である。そして、僕の罪の告白である。葵は死というプロセスを得て許す、許されないという次元を超えてしまった。自殺という行為自体許されることではないかもしれないけど、それでも不在故に彼女を責めることはできない。そして優花の罪については僕が受理し、許した。けれどこの物語に一人罪を告白していない、償いもしていない人間がいる。それが僕だ。

 僕は彼女を見殺しにした。僕は彼女を止められなかった。僕は彼女たちと深くかかわっておきながら、その一件に傍観者であり続けてしまった。幻には謝ったけれど、それが葵である保証などどこにもない。現実に罪を告白し、判決を下されてはいないのだ。

 だからこの書物が誰かの目に届いたのであれば僕の罪を受け入れて、それからどうか罰を決めて頂きたい。そのために僕は妖精が死んでもここまでを書き記した。

 他の登場人物での視点が描かれていないのは、もちろんこれを書いているのが僕だからだ。他の視点の人間の過去や思考など表現されなければ僕には分かる筈もない。できて行動から感情を推測する程度だろう。

 何故わざわざ紛らわしい表現を多用したのか?何故叙述トリックのような見せ方をしたのか?その答えは簡単だ。こんな笑えない話じゃ、下らない書き方をしないととても書き記すことができないからだ。

 叙述トリックと言ったけれどこれはミステリーではなくファンタジーだ。だって、ミステリーには不可解が明確に示され、それが解決する必要がある。ここにあったのは間違いや勘違いばかりだ。葵がどうして妖精になったのか、その不可解は存在こそすれど、結局その謎は解明していない。やはりファンタジーという言葉が相応しい。

 別に罪を受け取りたくないなら、受け取らずにありがちな話と受け取ってもらっても構わない。自身の罪を告白する話も、誰かの陰謀で物事が動いていたなんてことも、レイプで死んだなんて原因もありがちな話だ。ちょうど妖精なんてありえない存在もいるわけだ。こんな話、後味が悪いだけのフィクションだと思ってもらって良い。

 もし、あなたが罪を僕の受け取ってもらえるのであれば僕を心の中で裁いて欲しい。裁いてもらえるかどうかも僕には認識できないけれど、それでもその存在があると思うだけでどれだけ救われることか。

 もしこの物語を書いているのが別の人間なら。いや、この物語を書いているのは僕だ。けれど、もしも僕がフィクションの存在に過ぎず、何者かにこの世界が構築されていたのなら僕はその存在を許さないだろう。僕の周囲の人間をこんな悲惨な目に合わせた存在を許せるわけがないだろう。そんなの、考えたところで仕方ないし確認もできないけど、その存在があると信じるだけで僕の心は多少なりとも救われる。

 脱線してしまった話を戻そう。しかし、これ以上語る言葉も特に残されていない。これで終わりにしよう。でもやはりエピローグとしてほとんどなくても差し支えない描写くらいはしておこう。

 

 公園で泣く優花を優しく抱きしめた。そんな僕らを秋風が包む。空の上にあるはずの星は暗く、僕らを照らしてはくれなかった。

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