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命の値段2

【 生命の価値や人権は等価ではない・2 】

2015年11月13日パリの同時多発テロで、
130人の方が亡くなりました。(負傷者300名以上)

世界はいま深い悲しみに包まれています。

一方でシリアでは、毎日のように、
数百人の方(子供を含む)が死亡しています。

なんでパリだけ悲しむんだ?
不公平じゃないか?
生命の価値は同じではないのか?
まあ、そんなふうに左巻きは主張します。
そしてそこから体制批判に持って行きます(笑)。

彼らは大いなる勘違いをしているんですよ。
国民に生命の価値や人権を付与できるのは国家だけです。
国家を離れて人権も生命の価値もへちまもありません。

失敗国家の国民は、自分たちの国家が、
自分たちに生存権や人権を与えてくれないので、
虫けらのように殺されても文句がいえない、
いや実際にそうやって殺されているんです。

間違いの元はどこにあるのか?
それは「人権」という言葉の間違った解釈です。

人権というものが、すべての人類が、
天然自然に生まれながらに与えられるものだ。
そんなふうな現実離れした解釈です。

ああ、それが事実ならどんなに素晴らしいでしょう。
でも現実はまったく違うのです。

もしもそれが現実なら、海の向こうで、
虫けらのように殺される民はいないことになります。
しかし実際に、そういう民はいます。
だから現実は違うのです。

だいたい生まれながらに与えられるなら、
誰が与えてくれるというのですか?
神様とかですか?それはどこにもいない。
国民に人権を与えてくれるものは、
その国家以外にはいないのです。

国連は1948年に「世界人権宣言」を採択しました。
そして法的拘束力を持たせるために、
「国際人権規約」という国際規約を作りました。

なぜそんなものが必要だったのか?
人権が天然に与えられるものなら、
国際規約など不要です。

天然に与えられるものでないからこそ、
国際規約の縛りが必要だったんですよ。

「国際人権規約」を批准している国家において、
おおむね人権は守られることになっています。

しかし世界には、そんなもの関係なし、
批准するどころか、人権を保証するどころか、
国民の生存権さえ保証できない国家があるんです。

そういう国の国民と、
日本や欧米先進国の国民とでは、
生命の価値に歴然とした差があります。

生物学的には同じ生命です。
しかし社会的価値がまったく違うのです。
私の言っていることはシビアですか?冷たいですか?

シリアという国を作り出しているのはシリアの民です。
誰が強制したわけでもありません。
彼らが彼らの生命の価値を決めたのです。

日本という国は、国民が虫けらのように殺される、
その事態を避けるために必死に近代化をしたのです。
古い不合理な蛮習を捨て、富国強兵をはかったのです。
「坂の上の雲」をめざして頑張ったのです。

その結果として今の日本があります。
私は日本国民に生まれたことを感謝しています。
そして日本国といえども、外部の侵略を許せば、
日本人の生命の価値も紙くずになることを知っています。

いつまでも近代化ができず、
国民の生命さえ保証できない失敗国家の、
その民に同情している場合ではないんですよ。

私たちが間違いを犯せば、日本人の子供だって、
虫けらのように殺される時がやってくるのです。

安全で便利な日本に住み、シリアの子供に同情する、
左巻きの偽善は度し難いものです。
それはシリアの人たちからも憎まれるものでしょう。

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