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忘れえぬ人

 それは、もう三十年も昔、私が看護婦として働き始めて、五年目の時のことでした。

 肺がん末期だった三十八歳のその女性は、ご家族の宗教上の信念から、鎮痛剤を拒否されていました。その女性自身は無宗教でしたが、ご家族の強い希望に従っていました。しかし、病状が進むにつれ、ご家族への不信感、医療者への不信感を訴えるようになり、優しそうな夫とも、七歳のかわいい息子とさえも、面会を拒否するようになりました。ご家族との関係を取り戻そうとしましたが、それは難しいことでした。それでも、何故か私のことだけは、信頼してくださいました。

 彼女は、辛くなるとナースコールで私を指名で呼び出しました。そして、「お願い、お願いだから殺して。」と訴えるのです。私は何もできず、「お辛いですね、でも、それはできないんです。」と背中をさすることしかできませんでした。病状が進むにつれ、ナースコールの回数は増えていきました。その度に私に「お願い、殺して。」と言うのです。そんな日々が続いて、何もできない自分に、私は段々精神的に追い詰められていきました。

 ある夜のこと、私は夢を見ていました。彼女にナースコールで呼ばれて、部屋に行くと、喉のあたりを抑えてもがき苦しんでいるのです。そして、私に手を差し伸べて、「助けて!」と叫びました。その瞬間、抑えていた喉が裂けて血が飛び散りました。その鮮やかな赤、生あたたかい鮮血が私の顔や首筋に飛び散り、私は叫び声をあげて目を覚ましました。私は泣いていました。その生あたたかい感覚は、目が覚めても消えませんでした。私は泣きながら、着替えもせず寮から駆け出して、病棟に行きました。そして、その時に勤務していた夜勤の係長に、泣きながら夢の話をしました。優しい係長は、彼女の部屋を見に行ってくれ、穏やかに眠っているから大丈夫だと諭してくれました。次の日から、私は二階の結核病室の担当に変わりました。係長が婦長に相談し、私を気遣って対処してくれたのです。その数日後、彼女は息を引き取りました。穏やかな最期だったと、優しい係長が教えてくれました。

 でも、最後まで寄り添うことができなかったことが、不発弾のようにずっと重く、私の心の底に沈んでいました。

 それから十年が経った頃でした。その頃、私は手術室で勤務していました。そこにあの優しい係長が、勤務異動で来られました。ある日、更衣室で一緒になった時のことです。係長が「覚えている?佐々木さんのこと。」とききました。私が「もちろん、忘れたことはありません。あの時、私は何もできなかった。」と言うと、係長は「あなたは彼女を抱きしめてあげていたじゃない。私にはできなかった。」と言いました。涙が溢れました。私は、逃げてしまった自分自身を、許すことができませんでした。何もできなかった思い出しか、残っていませんでした。

 私は彼女を本当に、抱きしめていたのだろうか。少しでも、彼女の支えになれていたのだろうか。答えは出ません。それは、彼女にしか、わからないのです。

 あれから二十年が経った頃、私は緩和ケアにかかわるようになりました。がん末期の方々と対面する時、いつも心にあるのは、彼女のことでした。逃げないで、そこに居続けること、ご家族との関係を大切にすること。言葉を失うことも、幾度もありました。それでも、ただ傍にいること。穏やかな気持ちで、ただ寄り添い続けることができたのも、彼女のおかげだと思っています。

 もう、私はとうに彼女の年齢をはるかに超えてしまいました。いくつもの、苦しい経験をしました。今は思うのです。苦しみの最中にいる時は、気付かないことですが、苦しみは人間を強くし、優しくしてくれます。何よりも、周りの全てに感謝し、日々の何でもない日常に満足する心を育みます。足るを知るということが、これほど、心を穏やかにしてくれるものだということを、私はいくつかの病を経て、初めて知りました。

 いつか、天国で彼女と再開できたら、訊いてみたいと思うのです。「逃げてしまった私を、許していただけるでしょうか?私は、少しはあなたの救いになれたのでしょうか?」

 彼女を含めて、私の中には幾人もの忘れえぬ人がいます。看護師として関わった人も多いのですが、子どものころからの私を支えてくれた人たち、思春期に大切なことを教えてくれた人たち、青春期に私を導いてくれた人たち、精神を病んでいた間も、私を見守ってくれた人たち、そのすべての人たちが、今の私を支えてくれています。その幾人かはすでにこの世を去っていますが、天国で再会した時に、胸を張って、精一杯生きたことを伝えられる私でいたいと思うのです。そして、生きている間に、少しでもみんなにお返しできることがあればよいと、願っているのです。


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