生きる、活きる、逝きる

生きる、活きる、逝きる
みんな繋がっている

 生まれた時から、死ぬことは宿命なのだから、どう逝きたいかって、窮極の目標。

 私は看護師だから、一番の利点は様々な人たちの人生を眺められること。しかも、誕生から終末まで…。沢山の方々の生き様を垣間見て、「死に方は生き方を現す」って、真実だなぁと思う。

 脳外科に居たとき、全く人格が変わってしまった父親に、「それでも、僕のお父さんは、お父さんだ。」と変わらずに愛情を伝える10歳の息子を見た時、「わたし」って何だろう?と、分からなくなった。私から見たら、前頭葉をやられて理性も言葉失くし、本能だけの凶暴性のある父親は、元の「お父さん」とはかけ離れすぎていて、受け入れがたいのだと思っていた。何が「それでも、僕のお父さん」と言わせるのだろう?

 私が「わたし」だと思っている考え方、性格、感情、趣味や好み、今まで学んできた知識も経験も、わたしを形造っている全てが失われた時、私は「わたし」なのだろうか?その時に残るのは、誰かの心の中にある「思い出のわたし」だけなのではなかろうか?でも、誰かの心の中の私は、そもそも「わたし」なのだろうか?訳が分からなくなった。

 人殺しになってしまった私の後輩は、「私は貴女が思っているような人間ではない」と言った時、「人間はミラーボールの様なもので、見る人によって映り方は違います。でも、私は私の見ている貴女が好きなのです」と言った。
 いくら努力して、「こうありたい」と学ぼうが、身体を鍛えようが、ある日、事故であの父親のように、この人格自体が失われるかもしれない。認知症になってしまうかもしれない。
 そうしたら、私の窮極の目標「死ぬ時に「充分に人生を楽しみました。私は幸せでした。ありがとう」と言って死ぬ」事は出来なくなるだろう。それでも、「わたし」はどうあれ、日々私が「こうありたい」と思い描きながら毎日を過ごせば、誰かの心の中に「わたし」が生き続けるかもしれない。きっと、私が思い描く「わたし」そのものでなくても。
 それなら「わたし」が失われる日まで、やはり、「今」を精一杯活きるしかないのだろう。その時が「死」であるかどうか、それは問題ではないのかもしれない。

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