見出し画像

No.16 「やるせない報せ」

エッセイ ΠΡΟΔΟΣΙΑ
No.16
「やるせない報せ」

 高校の卒業式が終わり、一見暇だけど忙しい日々を送っている。昨年亡くなった敬愛する坂本龍一さん、高橋幸宏さんの曲をよく聞きながら引っ越しの作業をしている。お二人をはじめ細野さんの曲もYMOの音楽も聴く。彼らの音楽はものすごくポップに感じたりしんみりしたりロックを感じたりと、一つアルバムを聴くだけでも忙しくて耳が心地よく、受験勉強の憂さ晴らしに夕方の公園へやってきた時のような感覚に包まれる。しかしふとした瞬間に、細野さんは生きているけど坂本さんも高橋さんも亡くなってしまったんだなと思うと、急に胸がつんと痛くなる。作業の息抜きにスマホを開くと、そこで鳥山明さんの訃報を目にした。

 その次の日、久々に遠くから従妹がやってきた。コロナ渦以前に会ったきりなので4年ぶりか。その日の朝、目が覚めた時にTARAKOさんの訃報を目にした。

 地元の星である小澤征爾さんの訃報、亡くなるなんて考えてもいなかった八代亜紀さんの訃報。身近な近所の人の家で火事が起きたことをサイレンが知らせる。仲の良かった中学時代の友人が知らぬ間に高校を中退していたことを知る。楽しそうに振舞っていた一年生の後輩が退部していたことを聞く。日々色んな娯楽や作業にのめり込んでいるときに、ふとそういうかなしい報せに胸を締め付けられる瞬間がある。

 誰々の命を奪ったホニャララ病はやれうんたらかんたらで…というどこぞのワイドショーの解説で一斉に放送して事が済んだら別のニュース。そういう風に簡単に気持ちに折り合いをつけて、ハイ、スイッチと切り替えられたならどれだけ心は楽になるだろうか。

 ちょっと前までは「僕なんて実際は誰からも必要とされていないからいざ死んでもそんなに悲しく思う人などいないんだろうな」とか考えていたはずなのに、ここ数日で色々な人たちにとって自分の存在が「在ってほしい」と思ってもらえていることを知ってからというもの、今は死にたくないなという感覚が強くなったように思う。と同時に、誰かの訃報を耳にするときにものすごく悲しい気分になる感覚がより一層増したなとも感じる。

 高2の文化祭初日、安倍元首相が亡くなった時も、その年末にあき竹城さんが亡くなった時も、湯船の中でかなり心が虚しくなったのを覚えている。もう4年経つと思うと驚くが、新型コロナで志村けんさんが亡くなった日はどれだけ涙を流しただろうか。

 高校一年生の時に一番仲の良かった子が学校に来なくなったときも、お小遣いのために大切なCDを売らなければならず、挙句原価の7割の値段にしかならなかったときも、亡くなった祖父母の買ってくれたぬいぐるみが解れてしまった時も、その悲しみがより一層ヒリヒリと身に染みている気がする。

 誰かが「無くなって欲しくないな」と思うものが日々消えていくのが、たぶん僕にとってものすごく堪え難い事象なんだろうなと思う。

 だからといってどうしようもないが。今は極力、苦しい情報を食べたくない。晴れやかな報せに出会いたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?