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「答辞」|短編小説

【1】

2020.2.29

 空が白く広がっているから、午後には雪が降り出すかもしれない。そう思いながら窓の外を眺めていると、国語準備室の扉を遠慮がちにノックする音が聞こえた。振り返り、「どうぞ」と声を掛ける。視線の先には、生徒会長をつとめていた、江本奈智の姿があった。
「おはよう。どしたの?随分早いけど」
 瀬野が問い掛けると、江本はおはようございます、と挨拶をしながらゆっくりと準備室に足を踏み入れた。その胸元には、一目で卒業生だとわかる桜色のリボンがひらめいている。
「瀬野先生、最後にもう一回だけ、答辞の原稿見て貰えませんか?」
 決心したような声が織りなした予想外の依頼に、瀬野は何度か、大きく瞬きをした。原稿なら確か、学年主任かつ生徒会担当である関口がすでに幾度となく確認しているはずだ。担任でも副担任でもなく、ただ当てずっぽうに生徒会の副担当をあてがわれているような自分に、突然なぜ、そんな重要な役目が回ってきたのだろう。疑問を抱きながら、瀬野は再度「どしたの?」とやんわり訊ねた。
「関口先生にいろいろ見て貰ってたんですけど、よくよく考えたら、ただでさえ放送なんだから、もっと自由でも良くない?って思っちゃって、昨日書き直したんです」
 江本は瀬野に向かい合うようにして腰掛けながら話す。これまでの、関口の熱心な指導が水の泡なのでは、と内心思いつつも、彼女の言葉にも納得した。
 症状は至って風邪に似ているのにインフルエンザと同等、あるいはそれ以上の感染力をもつ新型のウイルスが、年明けから今日に至るまで、かなりの影響を及ぼしていた。国内での感染が判明してからあれよあれよという間に広がり、おかげで卒業式は、代表者以外の卒業生及び在校生は教室待機、かつ放送で行われるという何とも趣に欠けるものとなってしまったのだった。そういえば式中は逐一換気をするように、と説明を受けたが、今日のこの天気ではかなり寒いに違いない。頭の片隅でそんな心配をする瀬野に、江本は「長ったらしい祝辞がないのはラッキーなんですけどね」と笑う。その表情にはどこか落胆の色も見てとれた。
「最初から無視してやり遂げちゃえばいいのに」
 教師らしからぬ発言をする瀬野に江本は、
「一応、卒業生代表ですから。確認はしておかないとマズいかなって」
と答えた。後々のことを考えて、矛先をこちらに変えておこうという戦略なのだろう。マジメなようでちゃっかりしている。
「かなり自由な答辞になっちゃいましたけど、瀬野先生ならまだ若いし、わかってくれると思って…」
「まだって言うな、まだって」
「とにかく、お願いします!このとおりっ!」
 答辞の原稿を挟むように両手を合わせ、江本は深く頭を下げた。あまりにも必死な様に、瀬野は思わず吹き出しそうになる。わざわざ早朝に、こんな直談判までされたら無下には出来ない。微かに震えている手から原稿を受け取り、「わかったよ」と答えると、江本はようやく顔を上げた。彼女がいちばん彼女らしいのが、きっと最善だ。卒業式なので、関口も大目に見てくれるだろう…こちらは苦言を呈されるに違いないが。
 やれやれ、と思いながら原稿を開き、驚いた。冒頭と締めこそ、ちゃんと文章になっているものの、中盤にあたる箇所には大きく“歌”とだけ書かれ、周囲にはがらんと余白が広がっていた。
「…この、“歌”ってのは?」
 かなり自由、とは言っていたが、これは流石に自由過ぎる。そう口にはせずとも、訊ねずにはいられなかった。当の本人は「あぁ、それ」とはにかんでいる。
「文字通りです。だらだら文章読まずに、歌おうと思って」
「はー……度胸あるなー」
 思わず呟くと、私合唱部だったんで、とピースが返ってきた。凄いなぁ、と、今度は素直に、気持ちが口からこぼれる。斬新だけれど真っ直ぐで、輝かしい。自分にも同じように学生だった頃があったはずなのに、十年以上遠くまで来てしまうと、その輝かしさにただただ目を見張るばかりだ。
「印象に残りますかね?」
「残らないほうが珍しいと思うよ。で、何を歌うの?」
 何気なく訊ねると、江本は少し気まずそうに目を逸らした。
「……仰げば尊し」
 蚊の鳴くような声に、瀬野は一瞬目を見開き、すぐに小さく笑った。
 刻一刻と近付くセンター試験に向けたラストスパートの最中、瀬野が「仰げば尊し」の歌詞を扱った授業をしたのは、ほんの二ヶ月前のことである。毎日の試験対策に疲弊しきっていた生徒たちからは案外好評だったが、この大事な時期に、と、関口から小言を頂戴したのも記憶に新しい。
「瀬野先生のあの授業が、この三年間の中で、一番楽しかったから…」
 照れながら俯く江本に、瀬野もつられて少し照れた。
「…じゃあその自慢の歌も、特別に聴いてあげようかな」
 瀬野が胸を張ると、なにそれ、とぼやきつつ、江本は立ち上がって姿勢を正した。彼女が控えめに歌い出した時、答辞の冒頭に、懐かしい言葉が並んでいることに瀬野は気がついた。軽やかなソプラノが準備室内に共鳴していく中、十二年前の卒業式の記憶がつらつらと蘇ってくる。


【2】

2008.2.29

 通常なら卒業式は三月一日だけれど、四年に一度の閏年には一日早く執り行われる。それが、創立から約六十年、男女共学になってからちょうど二十年のこの高校の、いわゆる伝統のひとつだ。
 古い木製の扉を開けたら、ギイィ、と重たい音が長い廊下に響き渡った。人気の無い、静寂に包まれた教室に、たん、たん、と、水面に広がる波紋のように共鳴しながら、足音が広がっていく。今朝は、この地域にしては珍しく雪が降っていた。窓の外に広がる白い空を見上げると、時計の針がカチリと動いて七時ちょうどを知らせた。この時刻にここへ来るよう言われたはずだが、呼び出した当の本人はまだ現れない。
 旧校舎の生徒会室。生徒会という組織に入ってから幾度となく足を踏み入れているこの場所は、あの人のいちばんのお気に入りだと聞いた。約六十年分のこの学校にまつわる資料が山ほどあって、古本の匂いがいつも漂っているここには、なぜか昔使われていたらしいオルガンなんかもオブジェのように置かれていて、まるでそのまま時を止めてしまったかのような、いかにも歴史を積み重ねた佇まいをしていた。勿論、自分にとってもここはえらく気に入っている場所で、生徒会の活動があろうがなかろうが、しょっちゅう訪れていた。日向ぼっこをしながらちょっとうたた寝、のつもりがついうっかり、授業開始直前まで寝過ごすなんてこともあった。
 「特別」とも言えるこの場所だけれど、このところ足を運ぶのはご無沙汰だった。最近は、男女共学二十年を機に建てられた、真新しい校舎の生徒会室にばかり用がある。この場所を含む旧校舎は来年の春、つまり自分が卒業する頃までに取り壊されることが決まっている。
 あの人がここへ来るのはきっと、今日が最後だ。自分はあと何回、この場所に来られるだろう。雪のせいか卒業式のせいなのか、柄にもなく感傷的な気持ちになってしまう。
「おはよう。どしたの?物思いに耽って」
 重たい音を立てながら、再び扉が開いた。
「…呼び出しておいて、遅刻ですか?」
 挨拶も先程の言葉もスルーしてぼそりと呟く。すると、
「しょうがないじゃん。ほらだって、この雪よ?」
 悪びれん毅然とした態度で、カスミ先輩は窓の外を指さした。傘をささずに来たのだろう、真っ直ぐで長い黒髪を、溶けた雪が雫となって滑り落ちていく。
「げっ、この制服、濡れたら臭くなりますよ」
「大丈夫だよ、式までは乾くって」
 言ったそばからぽたりと雫が落ち、淡いグレーのブレザーにぼやけた染みを作った。思わず顔をしかめるも、彼女は気にする素振りすら見せない。
今日はこの、自由奔放でマイペースな先輩が、卒業生代表として答辞を読む。
「体育館、寒いだろうなぁ……そうだ!会長っ、提案です!」
「何すか」
「式中もストーブつけっぱなしにしてください」
「無理です」
 そっけなく答えると、カスミ先輩は子どものように唇を尖らせた。幼い子供みたいだ、と、半ば呆れながら窓の外を見る。先程よりも幾分か、雪は小降りになっていた。いちばん雪が降っている時に登校してくるとは、なんとも間の悪い人なのだろう。心の中でこっそり憐れんでいると、
「うわぁ、見て見て」
「え?」
 窓の外を眺めながら、彼女が高揚した声を上げた。旧校舎と新校舎の間には、立派な桜の木が一本、聳え立っている。何年目だったかは忘れてしまったが、これもまた、学校創立の記念に植えられたものらしい。彼女はそれを指さして、
「枝に雪が積もって、花が咲いているみたい」
と笑った。その表情もまた、花が咲いたようであった。
「春の雪が満開……っすね」
 感嘆の声と一緒になって、ふと思ったことが身体の外に出てしまう。思いのほか恥ずかしくなって、言葉尻は萎んでいった。絶対茶化される。その予感は的中し、ちらりとこちらを見た彼女の口角が持ち上がる。いかにも、おもしろいことを聞いた、と言わんばかりの笑顔だ。
「あら、随分とロマンチスト。”春の雪”ねぇ、趣があるねぇ~」
「………そんなに言うなら、使っていいですよ」
 口をへの字に曲げながらつぶやくと、「考えとく」と軽い答えが返ってきた。あい変わらず掴みどころのない人だ、と心の中でひとりごちながら、再び窓の外に目を移す。雪で満開になった木の向こうの空に、淡く紫色の靄がかかっていて美しい。どことなく、枕草子の冒頭を彷彿させる景色だ。
「見て。向こうの空も、綺麗。春はあけぼの、って感じ」
 どきりと心臓が跳ねる。心を見透かされたかと思った。
「…枕草子?」
「そう、それ」
 カスミ先輩の白い息が、窓ガラスを僅かに曇らせる。少しかすれた声は澄んだ空気の中に溶け、共鳴し、やがて消えていった。


「そういえば、何の用だったんですか。呼び出して」
 しばらくの間、紫色の靄を眺めていた彼女に訊ねる。集合時間からはすでに十五分程経過している。平静を装ってはいたが、先輩にまで聞こえてしまうのでは、と思うくらい鼓動が高鳴っていた。そしてその問い掛けに、カスミ先輩はニィッと口角を上げる。
「何って、決まってるでしょう。練習だよ」
「…練習?」
「そう。送辞と答辞の」
 何だそれは、とずっこけそうになるのを、大きく瞬きすることでなんとか耐えた。メールが来た昨晩から、どこか落ち着かず、ずっとそわそわしていたというのに。これまでの時間を返してくれ、というか、少しでも浮かれ立った自分がひたすら悔しい。
「え、もう嫌ってほど練習したと思うんですけど…」
「送辞は、でしょ。実はね、瀬野君にしかできないお願いがあるんだ」
 そう話しながら彼女は鞄の中をゴソゴソと漁り、
「じゃーん」
と大袈裟な効果音をつけながら、古びたピアノの教本を目の前に突き出した。
「答辞の時、瀬野君にピアノを弾いて欲しいんだよね」
「は?」
「もう曲も決まってるんだー」
「ちょ、ちょっと待ってください。さすがに俺でも初見は…じゃなくて、ピアノ?は?なにそれ?」
 ずんずん進められる話に慌ててストップをかける。カスミ先輩の言っていることを整理すると、彼女が答辞を読む、というタイミングで自分にピアノで弾いて欲しい、ということらしい。
「つまり、答辞のBGMみたいな感じですか?」
「そう!その通り!」
 びしりと人差し指を立てる姿に、深い溜息が腹の底から湧き出た。つくづく、破天荒過ぎる。たしかにピアノは、割と得意だ。姉の影響で習っていたおかげでもあるが、よほど弾ける人がいないのか、校内の合唱コンクールでも伴奏を任されたこともあった。だからといって、このお願いは一体何なのか。
「…答辞にBGM使うとか、聞いたことないんですけど」
「だからやりたいんだよ!ねっ、お願い!このとおり!」
 食ってかかるような声とは裏腹に、彼女は頭を下げながら両手をパチン!と合わせた。そのようすが可笑しくて、思わず吹き出しそうになる。だけど、呼び出しに淡い期待を抱いていた挙句、ここで笑ったらなんだか負けな気がする、そう思って投げやりにはいはい、と返事をした。
「全く……簡単なやつにしてくださいね。何を弾けばいいんですか」
「えーっとね、二十二頁の曲」
 古びた教本は、頁を捲る度にパラリと乾いた音がした。指定された頁を開くと、“仰げば尊し”の伴奏の楽譜が現れる。
「え?仰げば尊し?…で、良いんすか?」
「そう。その曲が良いの」
 頷く横顔に、だいぶベタな選曲だ、と思いながら、軽く楽譜に目を通す。幸いにもそれは、中学の卒業式で弾いたのと同じ構成の伴奏だった。
「どう?弾けそう?」
「まぁ、どうにか…」
「よし、じゃああれで練習しよう」
 彼女は、すっかりオブジェと化しているオルガンを指さす。
「えっ、ここで?」
「うん。寒いけど、本番の体育館よりはマシでしょ」
「っていうか、あれ音鳴るんすか?」
「とぼけちゃって。私知ってるんだからね」
「何を…」
「瀬野君がたまに、あのオルガン弾いてたこと」
 得意げにふふんと笑む彼女に、チッ、と心の中で舌うちをした。よく見ると、いつのまにかオルガンのコンセントまでしっかり繋がれている。何もかも見透かされているようで悔しい。本当に。
 仕方なく、古びた蓋を持ち上げ、スイッチをオンにする。ジジジッと音を立てながら起動したオルガンは、鍵盤を軽く押すだけで脆く壊れてしまいそうだった。まるでパイプオルガンのように、鳴らした和音にすら、年季が入っているように聴こえる。物自体は、まったく比較対象にはならないのだけれど。
「わー、さらっと弾けちゃうんだね。凄い…」
「中学の卒業式でも弾いたんですよ」
「…うんうん、良い感じ」
 前奏を軽くなぞったところで、ふと疑問に思って指を止める。
「仰げば尊しって、何で歌われなくなったんですかね?」
 一学年下の代から、卒業式でこの曲を歌わなくなった、と耳にした。今日だって、卒業生が歌うといった予定はない。元々たいして思い入れも無い曲ではあるが、歌われなくなった、となると、それはそれで寂しい。カスミ先輩は、「さあねぇ」と大袈裟に首を横に振る。
「なんか寂しいよね。結構好きだったんだけどなぁ」
「え、…仰げば尊し、が?」
「あら、とっても美しい詞なのよ?…よし、じゃあ練習しましょうか」
 そう言って、彼女は答辞の原稿を開いた。
「私が、答辞、って言ったら、前奏から弾いてね」
「わかりました」
 返事をし、呼吸を整えてから鍵盤に指を置く。凛とした声が「答辞」と紡ぎ、それを合図に弾き始めた。ボロボロのオルガンの音が、静まり返っていた旧校舎中に鳴り響く。儚くて脆くて、少しでも強く押したらあっという間に壊れてしまいそうなのに、それは、彼女の澄み渡るような声に、なぜかよく合っていた。
 最後の和音を弾き終えると同時に、「卒業生代表、大澤香澄」と名前が読み上げられる。
「あぁよかった、ぴったりだ」
「ホント、計算したかのようにピッタリ…」
 思わずつぶやくと、彼女はピースサインと共に満面の笑みを浮かべた。その表情に、急に寂しさがぐんと胸に込み上げてくる。どんなに時を止めてしまいそうな佇まいでも、本当に時が止まることは無い。
 しばらく、沈黙が続いた。気まずいような感じは一切なく、ただそこに流れている時間が心地良いような、そんな沈黙であった。
「…じゃあ、俺は送辞が終わったら、元いた列じゃなくてピアノに向かえばいいんですね?」
 沈黙を破ったのは自分の方だった。このままだと、永遠にこの時間の中に取り残されてしまいそうな、そんな気がした。するとカスミ先輩は、決まり悪そうな笑みを浮かべてこちらを向いた。
「うーん…やっぱりいいや、伴奏」
「はっ?」
 拍子抜けした声は、予想以上に大きくなってしまった。
「えっ?ここまで練習しておいて?」
「うん、なんか今ので満足しちゃった」
 にっこり笑む彼女を前に、肩の力がふっと抜ける。そのままがっくりと項垂れた。自分が副会長になった時からこの人には散々振り回されてきたけれど、最後の最後までこの調子だ。怒る気力も起きず、ただただ呆れてしまう。
「…それに、」
 オルガンに背を預けるようにしてもたれていると、カスミ先輩が囁くように言った。
「たぶん瀬野君、泣いちゃうもん」
「はぁ?」
 顔を上げると、思いのほか辺りが眩しくて、思わず目を細めた。紫色の靄はいつのまにか消え、うっすら薄日さえもが差している。彼女の表情は、逆光でよく見えない。
「何言ってんすか……俺は泣かないですよ」
 本気でそう思ったはずなのに、なんとも情けない声になってしまった。慌てて、「絶対泣かない」と強く言い切る。
「いーや、泣くね。絶対」
 なぜか自信たっぷりな先輩は、さてと、と言いながら立ち上がった。
「瀬野君、ありがとう」
 頭一つ背の低い先輩が、向かい合うようにしてまっすぐに見つめてくる。

「…いつかこの場所がなくなっても、今日、瀬野君が弾いてくれたオルガンは、絶対に忘れません」

 まるで先生みたいな言葉だ。頭ではそう思いながらも、うっかり気を緩めたら涙が溢れ出しそうだった。泣くのは悔しい。「絶対泣く」と豪語された手前、この人に涙を見せたくはない。
 友達でも恋人でもない、ただの後輩である自分には、「またいつか」さえも、言うことが憚られる。何か言わなければならない、と考えながら、その事実が胸を痛めた。
「…ご卒業、おめでとうございます」
 どうにか絞り出した声は結局、情けなく震えてしまった。それでも彼女は、満足そうに笑ってくれた。
「答辞、最初からちゃんと聞いててね」
 催促するように言って、カスミ先輩は教室を後にした。彼女がこの扉を開けることは、きっともう無い。



 卒業式は滞りなく行われた。校長先生の話も、よくわからない偉い人からの祝辞もとにかく長かった。多少噛んだけれど、送辞も無事に読み終えた。

「答辞  卒業生代表 大澤香澄」
「はいっ!」

 凛とした返事に顔を上げると、真っ直ぐに前を見据える横顔が目に入った。
————泣くね、絶対。
 つい先程の声を反芻しつつ、絶対に泣いてやるもんか、と意気込んだのも束の間。その言葉の意味を知った瞬間、あっという間に視界がぼやけていった。隣にいた先生が、ぎょっとしながらこちらを見ている。生徒会のメンバーも、戸惑った表情を浮かべていた。けれども、溢れ落ちる涙を止めることは、どうしたって出来なかった。

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【3】

2020.2.29

 きっちり三番まで歌い終え、江本は顔をこちらに向けてはにかむように笑った。それを合図に、瀬野は一通り目を通した原稿を丁寧に折り畳んだ。
「歌も文も、問題無し。堂々と行ってらっしゃい」
「…!ありがとうございますっ」
 表情を明るくした江本に原稿を手渡しながら、瀬野は
「それにしてもこれは…随分と独特な冒頭だね」
と、知らないフリをしてさりげなく問い掛けた。すると、
「この冒頭は、歴代生徒会長の伝統なんですよ」
 江本はふふんと得意げに胸を張った。聞けば、十年近く前に会長をつとめたオオサワという生徒の答辞が———正確にはその、美しい冒頭が話題になり、次の代、また次の代と受け継がれることになったらしい。春先に赴任してきたばかりの瀬野は、今日の日までそれを知らなかった。
 まさかこんな形でこの言葉に再会するとは、と、その謂れを誰よりも知っているがゆえに思わず苦笑をこぼす。
「っていうか瀬野先生、この高校出身ですよね?年齢的にも聞いてたんじゃないですか?オオサワさんの答辞」
「…いやー、流石に覚えてないよ」
「ですよねぇ……あーあ、結局本当の意味はわからないままだったなぁ」
 口を尖らせた江本の言葉に、瀬野は首を傾げた。
「本当の意味?」
 江本は深く頷く。
「この、“春の雪”の意味です。その年の卒業式は雪が降ったからだとか、書き直す前は桜の蕾だったとか、いろいろ噂は聞くんですけど…」
 予想以上に大がかりな事態になっていた、と、瀬野は動揺する。それを顔に出さないようにしながら、
「江本さんは何だと思った?」
と問いかけた。暫しの沈黙ののち、
「……希望?とか」
 独り言のような答えが返ってくる。
「……おお、負けず劣らずロマンチスト、だね……ふふっ、あははっ!」
 可笑しさをこらえきれなくなって、瀬野はとうとう笑い出した。猫のように伸びをしていた江本は、怪訝な表情で瀬野を見る。
「…え、どうしたんですか?」
「はー、可笑しい。ホント可笑しい……」
 うっすら涙すら浮かべながら笑い続ける瀬野を見ながら、江本はきょとんと首を傾げる。
「仕方ないなぁ、特別に教えてあげるとしよう」
「…え、何を?」
「“春の雪”の、本当の意味」
 その一言が耳まで届いた途端、江本の、元々大きな目がさらに見開かれた。真っ直ぐな瞳に吸い込まれてしまいそうだ、と瀬野は微笑む。
「えっ!?し、知ってるんですか!?」
「まあ、さっきは覚えてないって、はぐらかしたけどね。本当はちゃんと覚えてるし、意味も知ってるよ」
「えーっ、何それずるい!何ではぐらかしたんですか!」
「だって、こんな伝統みたいなことになってるとは思ってもみなかったし」
 江本の声が大きくなる。まあまあ、と宥めつつ、瀬野は未だに笑いが引かない。
「…でも、どうして瀬野先生が知ってるんですか?あっ、オオサワさんとお友達だったとか?」
 不服と困惑が入り混じった顔で、江本が小さく尋ねた。それはねぇ、と、瀬野は勿体ぶるようにゆっくりと話す。
「言い出しっぺだから、だよ」
「……え?どういうこと?」
 ますます困惑の表情を浮かべる江本に、瀬野は口角を上げ、にっこり笑った。

「私の旧姓、大澤だもん」