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閃光花火【1】Summer of Task

「あーもう、わからないーッ!」
 大きく嘆きの声を上げながら、倉持紗恵は勢いよく机に突っ伏した。模範の答えに辿り着かないのか、ノートの上には様々な数式と、おさえるべきポイントが記された付箋がひしめき合っている。突っ伏した体制のまましばらくジタバタしてみたものの、誰もおらず静まり返った家からは、当然何の返答があるわけもない。おまけに、ジタバタしたせいで近くに積み上げていた参考書の山が、ずるりと鈍い音を立てて頭の上になだれ込んできた。踏んだり蹴ったりだ、と、参考書の下敷きになった頭を起こしながら、紗恵は深く溜息をつく。

 七月も下旬に差し掛かり、季節はまさに夏真っ盛り。中学生活最後でもある夏休みに突入したのは、つい三日ほど前のことだ。とはいえ、紗恵はこの三日間のあいだも勉強に明け暮れているし、勉強漬けになっているのはおそらく自分だけではない、と思う。部活を引退した世の中学三年生は皆、自宅なり塾なりで同じような夏休みを過ごしていることだろう。
 もちろん、多少の息抜きは必要だと紗恵自身も思ってはいるし、現に、窓の外には雲一つない青空と陽炎のゆらめきが広がっているわけで、これで気持ちが少しも浮かれ立たないわけもない。しかしながら、そこへ飛び込もうとするのを阻んでいるのは、終業式のあとに津通知表と一緒に手渡された、CよりのB判定という模試の結果であった。例年倍率が高いと言われるほど人気のある高校を志望していることもあり、担任からは「B判定でも全然油断できないぞ」「この夏休み、いかに過ごすかが合否を左右するからね」と、脅しとも呪いともとれる言葉をかけられた。それも相まって、息抜きの加減もわからず、日課であった夕刻時のランニングにさえも行く気にすらなれない。一日中数式や英文との睨めっこを繰り返し、夏休みの一コマが過ぎていく。
 そんな紗恵とは対照的なのが、四歳下の弟・瑛斗だ。同時に夏休みがスタートしたはずにも関わらず、紗恵は部屋に籠りっぱなし、瑛斗は毎日のように市民プールへと足を運んでいる。今日も朝早くから出かけて行ったので、おそらく夕方五時のチャイムが鳴る頃まで帰ってこないだろう。今年だけは仕方ない、我慢の夏だ。そう自分に言い聞かせながらも、何も気にすることなく夏休みを謳歌している弟の姿を見るたび、紗恵は羨望と虚無が入り混じった複雑な気持ちで、また深いため息をつくのだった。

「ちょっと休憩しようかなぁ…」
 あえて声に出した独り言は、静かな家の中にふわりと浮かび、そして消えていく。ぺたぺたと階段を降り、冷蔵庫から麦茶を取り出す。足音も冷蔵庫の開閉もそれをグラスに注ぐ音も、やけに大きく聞こえる。
 二杯目の麦茶を片手に、おもむろにテレビのチャンネルを回す。健康食品の通信販売やワイドショーといった番組を何度か行き来したところで、画面は甲子園を目指す地方大会の中へと切り替わった。タイミングが良いのか悪いのかはわからないが、奇しくも、戦っていたのは紗恵の志望する高校の野球部であった。五回表、両者共に得点なし。県内屈指の強豪校を相手に、なかなかいい試合をしているようだ。
 そういえば、と思い当たり、紗恵はリビングのソファに投げ出していたスマートフォンに手を伸ばした。数日前、後輩とのメールで、彼女の兄がこの高校に通っており、かつ、野球部に所属している、と話していたのを思い出したのだ。そのやりとりを遡ろうとして、ふと手が止まる。

 ―――紗恵先輩、私、…夏休みのあいだに、引っ越すことになりました。
 話したいことがある、と彼女に呼び出されたのは、終業式の前日だった。よく一緒に走っていたランニングコースを、その日はゆったりと歩いていた。そして意を決したように、彼女は紗恵へ、そう告げたのだった。
「そう…なの。……ずいぶん急だね」
「なかなか言い出せなくて、すみません」
 渚は力なく笑う。
「それ、部の皆には言ってあるの?」
 紗恵が問いかけると、彼女は黙って首を振った。
「…自分勝手だけど、言いたくないし、知られたくないんです。…だから」
 俯いた彼女は、泣いてはいなかったけれど、それよりも、ひどく痛々しい表情を浮かべていた。
「だから、言わないままでいようと思います。…紗恵先輩も、訊かれても、何も答えないでください」
 お願いします、と懇願する姿が、瞼に焼き付いて離れない。あまりにも必死なさまに、わかった、とは答えたものの、心境は複雑だ。本当にそれでいいとは思えないし、何より、彼女のことをずっと見てきた現部長の彼は、もうすでに何かを勘づいているような気もする。

 ぼんやり思いを巡らせていると、テレビ画面の中でカキン、と良い音が鳴り、わぁっと歓声が上がった。
「え?…あっ!」
 すぐに状況を把握し、紗恵は思わず声を上げる。どうやら甘く入った球を打たれ、さらに送球がもつれたらしい。その間に、三塁にいた相手選手がホームベースを踏みしめ、スコアに大きな先制点が刻まれた。尚も追加点のチャンス、と実況のアナウンサーが興奮気味に伝えている。すると次の瞬間、再びカキン、と、良い音が鳴った。
 大きな放物線を描きながら伸びていく球を、ライトの選手が追いかける。滑走しながら、何とかキャッチ。紗恵がほっと胸を撫で下ろしたと同時に、応援席から大きな歓声が上がった。そのファインプレーのおかげで、無事スリーアウト。今後は志望校が攻撃の回に移る。これ以上の失点は許されないが、まだまだ逆転のチャンスはある。追いかける展開のゲームと、自分が今置かれている状況が、重なる。
「…よしっ!」
 残っていた麦茶を一気に喉に流し込み、紗恵は自室の机へ向かった。相変わらず、ノートの上は数式と付箋でぐちゃぐちゃのままだ。ノートだけではない。後輩から打ち明けられた秘密と、自分がすべきことの板挟みで、心の中もぐちゃぐちゃだ。なんて、課題にまみれた夏なのだろう。
 だけど今は、この一問に集中する。…これを解くことができたら、きっとゲームも逆転できる。そしたら、走って、渚に会いに行こう。なんでもいいから、彼女と話をしよう。
 そんな風に考えながら、バッターボックスに立った気持ちでシャーペンを握る。テレビを消さなかったのは、単に忘れてしまったのか、はたまたわざとなのか。遠くから聞こえてくるブラスバンドと声援は、まるで紗恵のことも応援しているようだ。
 グラスに残っていた不揃いな氷が、試合開始の合図のように、カランと音を鳴らした。

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付箋だらけにしたノートにらむあの子:倉持紗恵(くらもち・さえ)