あの子とピアノ 3(完)|短編小説

▶冬 2

 あの一件以来、あの子と顔を合わせることはなくなってしまった。どうやらレッスンの時間自体を変えてしまったらしい。
 同じ合唱部ゆえに、コンクールの地区大会や県大会で姿こそ見かけたものの、大勢の中の一人にすぎないし、そもそも学校が違う生徒へなど、話しかける隙などは一秒たりともなかった。あの子の弾くピアノは、あい変わらず凛としていて、とてもすてきだった。

 コンクールシーズン、部活一色で染まった夏はあっという間に過ぎ去り、だんだんと日が暮れる時間が早くなり、秋が更けていく気配が一段と感じられるようになってきた。
「そろそろ、発表会の曲を決めないとね」
 あと一週間で衣替え、という頃のことだった。十二月の発表会に向け、曲が決まるのはだいたい十月頃だ。レッスンが終わり、さちえ先生から曲目リストを手渡された。その中から、ふと目に留まった一曲を呟く。
「子犬のワルツ…」
 それは、私がピアノを習い始めた時から憧れていた曲だった。曲のはじめから休むことなく連符が続き、途中ゆったりとした曲調へと変わるも、アップテンポで駆け抜けるように終わる曲だ。すると、さちえ先生は眉を下げながら
「ああ~…」
と小さく唸った。
「私には難しいですか?」
「うーん……あやちゃんなら弾けると思うけど、」
 さちえ先生は気まずそうな表情を浮かべる。
「チカちゃんも弾きたいって言っていたの。その曲」
 ああ、と声をこぼしながらも、心のどこかで納得した。こんなことを言ったらあの子は嫌がるかもしれないけれど、私たちは少し似ているのだ。曲の好みや、難しい曲に挑戦したがるところとか、たくさん練習しても苦に思わないところとかが。
「ただ、発表会に出るかちょっと悩んでいるみたいだから…どうする?」
「…や。私、別の曲にします」
それに、曲を完璧に弾きこなすことを考えると、私は少し自信がなかった。その点、あの子なら絶対、大丈夫だと断言できる。
結局、発表会の曲が決まったのはそれから二週間経ってからだった。ドビュッシーの、「アラベスクより 第一番」。さちえ先生が、冒頭だけさらりと弾いてくれた。流れるようなアルペジオが重なり合う、美しい曲だ。あの子はというと、まだ発表会に出るかを迷っているらしかった。出てほしいな、とは思ったけれど、あの子に会う機会を失った今では、それを伝える術はどこにもなかった。
秋はさらに深まり、日に日に寒さが増していった。夕方五時を回ると、辺りはすっかり薄暗くなっている。発表会を二週間後に控え、練習もいよいよ大詰め、といった時、
「そうだ、あやちゃん。来週のレッスンなんだけど」
と、さちえ先生から話があった。来週金曜日は都合がつかず、時間を変更したい、とのことだった。しかしながら、さちえ先生が指定した時間は生憎、部活の真っ最中だった。
「…そしたら、土曜日の午後でもいい?」
 少し考えたのち、スケジュール帳に視線をおとしながらさちえ先生が訊ねた。
「はい。私も、午前中いっぱいは部活なので、午後の方がいいです」
「じゃあ、二時にしましょう。ありがとうね」
 時間の変更を忘れないように、私も自分のスケジュール帳を開いて予定を書き入れた。

 翌週、土曜日。約束していた通り、午後二時にレッスンが始まった。予想外のことが起きたのは、レッスンが終わる直前だった。
「次の二時半からの子が来たら、待っているように言ってもらっていい?」」
急ぎの電話が入ったらしい。さちえ先生が席を外し、ポーン、ポーンとおもむろに鍵盤を押し鳴らしていると、教室の扉が開いた。そして、思わずぎょっとした。
扉の向こうに、あの子が立っていたのだ。さちえ先生の言う『次の子』はあの子だったのか、と思い至る。あの子は私以上に驚いていて、しばらく目を見開いたまま硬直していた。
「…久しぶり」
「…うん」
 無視を覚悟で声を掛けたら、小さな返事があった。心の片隅で、ほっと安堵する。
「さちえ先生、急な電話で。…すこし待っててって言ってた」
 落ち着かないようすできょろきょろと周囲を見渡していたので、そう告げる。すると、あの子はそう、とまた小さく言ってまた黙り込んでしまった。気まずい沈黙が流れ、部屋の中に満ちていく。
「あの」
 無意識のうちに、声が身体の外に出ていた。何か話すために呼び止めたわけではないから、自分でも驚き、そして動揺した。
「なに」
「…あ、えっと」
 チカちゃんは目線だけをこちらに寄越して、私の言葉を待っている。お互いに緊張しているのが伝わってくる。
「あの、…発表会、何弾くの」
 前に、出ること自体を迷っているとさちえ先生から聞いたのを思い出し、咄嗟に訊く。
「…たぶん出ない」
「え、なんで?」
 今度はこちらが聞き返す番だった。
「なんで、って、なんで?」
 すると、逆にまた聞き返されてしまった。
「え?」
「なんでそんなこと訊くの」
 ガラス玉のように澄んだ瞳が、こちらを見据える。初めて会った時。初めてピアノを聴いた時。酷いことを言って、傷つけてしまった時。この瞳は何度も私の姿をとらえてきた。だけど今この時が、一番まっすぐ、私のことを見ているように感じた。
「…よくわからない」
 独り言のように呟いた声は、沈黙の中にふわりと浮かび、時計の針の音にかき消された。
「自分でも、よくわからないけれど…私は、…あなたのピアノが聴きたい」
 そう告げると、チカちゃんは扉を開けた時よりももっと驚いた表情を浮かべた。
「だから、発表会、出てほしい。…それから、」
 涙がこぼれそうになった。だけど、自分の言葉で傷つけたチカちゃんの前で泣くのはひどくずるい気がして、必死に耐えた。
「…前に言ったこと、本当にごめんなさい」
 返事も聞かず、先生のことも待たずに教室を出る。ようやく会えたのに、謝ることができたのに、私はなぜだか、しばらく涙を止めることができなかった。


 十二月の第二日曜日はあっという間にやってきた。結局、あの子に会うことができたのは後にも先にも、あの一回きりだった。今考えると、あれはもしかしたらさちえ先生の采配だったのかもしれない、とも思った。用事があって時間をずらしたのも、急ぎの電話が入ったのもたまたまだったとしたら、奇跡に近い偶然に過ぎないけれど。
 「すずらん」にはすでに、ピアノ教室に通う生徒たちがぞろぞろと集まっていた。今年もやはり順番は年功序列で、中学生は休憩時間のすぐあとに演奏することになっていた。プログラムを開いて、順番を確認する。一年生は三人で、藤木さんと私と、それから、あの子。
 今回は、私の名前の上にチカちゃんの名前があった。その横に曲名が書かれている。ショパンの、ワルツ第六番。「子犬のワルツ」だ。あ、と思った瞬間、とんとん、と肩を軽く叩かれた。振り返ると、あの子が立っていた。
「ちょっといい?」

 ステージでは、すでに演奏が始まっている。けれど私は、チカちゃんと一緒に、人がいなくなったロビーの歓談スペースのソファに座っていた。向かい合うように置いてあるモニターから、会場内の演奏が控えめに聞こえてくる。
「…アラベスク、良い曲だよね」
 ぼそりとチカちゃんが呟き、うん、と頷く。
「…そういえば、昨年も最初は、出ないつもりだったんだ」
 そのままおもむろに話し出したので一瞬戸惑ったけれど、これまで発表会に出ていなかった経緯のことだとすぐに理解した。昨年は百合子先生とさちえ先生の二人から説得され、どうにか重い腰を上げたらしい。その時に、と、チカちゃんは言葉を続ける。
「同じ六年生でとても上手な子がいるんだよ、って言われた。…多分、きみのことだと思う」
 その言葉に、俯いていた顔を上げる。
「もちろん説得に折れたってのもあったけど…でも、発表会に出ようと決めた一番の理由は、きみのピアノが聴いてみたかったからだった」
 息継ぎなく話し終えると、チカちゃんはふぅーっと深く息を吐き、それからぎこちなくはにかんだ。こちらも、つられて小さく微笑む。
「…仲良くなれるかな。私たち」
 独り言のように呟くと、チカちゃんはようやく満面の笑みを浮かべた。
「おんなじこと、思ってたよ」


▶夏 3

 駅に向かっていつもの帰り道を歩いていると、見慣れた背中が視界に映った。
「チカちゃん!」
 大きめの声で呼び掛けると、その肩が一瞬びくっと揺れ、それからゆっくりこちらを振り返った。その表情にはどこか、少しふてぶてしさが滲み出ている。
「あれ?なんか機嫌悪い?」
 小走りで駆けよる。するとチカちゃんは、溜息混じりに怒ってないけど、とごにょごにょ言ってから、「その、それさぁ、」と切り出した。
「チカちゃんって呼び方、もうやめない?」
「へ?何よ、今さら」
 首を傾げると、「からかわれて大変なんだよ」と、チカちゃんこと基睦くんは、今度は深い溜息をついた。高校生になった今でも彼をチカちゃんと呼んでいるのは、どうやら私だけらしい。
「母さんとさちえ先生ですら、もうチカちゃん呼びは卒業したんだから」
「じゃあ何て呼べばいいわけ?基睦くん?」
「げ、何か…気持ち悪い」
「うわぁサイテー、自分から言ってきたくせに」
 大袈裟に顔をしかめてみせると、彼は声を上げて笑った。それを横目に、再度確信する。
「無理だね。初めて会った頃から今まで、ずーっとチカちゃんだもん」
 話しながら歩いていると、駅が見えてきた。ここからさらに二駅行ったところがチカちゃんの住む街。三駅行ったら、私が住む、ピアノ教室がある町だ。金曜日の今日はこの後、二人ともレッスンが入っている。だけどまだ、時間に少し余裕があった。
 高校の最寄りであるこの駅には、改札の横にぽつんとピアノが置いてある。誰でも自由に弾いて良いとはあるが、あまり鳴らされているイメージがない。これまで、お互いに弾いてみようか、と顔を見合わせていたけれど、それは未だ叶っていなかった。
「…ね、今日こそは弾いてみようよ」
 小声で提案すると、チカちゃんは驚いたように目を見開いた。そして、
「…同じこと思ってた」
と、嬉しそうにほほ笑んだ。

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ピアノにまつわる小話、これにて終幕です。テーマは「ピアノ」「男女の友情」でした。
最初は、ピアノをきっかけに仲良くなった二人の話にしようとぼんやり考えていたので「チカちゃん」も女の子だったのですが、なにか一癖ほしいなと思っていた時に「いっそ男の子にしてしまおうか」と思いつき、組み込んでみました。さほどの叙述トリックではないけれど、チカちゃん=女の子と思ってくれた方はいらっしゃっただろうか……笑

1と2はこちらです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。