あの子とピアノ 2|短編小説

▶夏 2

 小学校を卒業すると同時に、りっちゃんとはぁちゃんは習っていたピアノを辞めた。ピアノよりも体を動かすことの方が好きな二人は、バレーボールやテニスといった部活に所属することになり、もともとおろそかだったピアノの練習がさらにできなくなってしまったらしい。
 辞めるつもりなどこれっぽっちもなかった私はというと、一人でピアノ教室に通うことになっても、それを苦に思わなかったし、いずれは伴奏がしたい、という邪な理由で合唱部に入部した。もちろん、一年生のうちから伴奏を任されることなどなく、アルトパートの音取りに一苦労する毎日だ。けれど、同じ音楽の力というのだろうか、歌うこともじゅうぶんに楽しい。文化部とはいえ、それなりに大きなコンクールはあるわけで、そうなると自ずと帰宅時間が遅くなる。お決まりだったレッスンも毎週火曜の夕方五時半から毎週金曜の夜七時に変えてもらい、試験が近づけば単語帳やテキストを片手に教室へ向かう、そんな日々が続くようになった。

 すると、これまで夏と冬の二度しか会ったことのなかったあの子に、すんなり会えるようになった。

 「チカちゃん」はいつも、私のあとの夜七時半に、隣町にある学校の制服を着たまま教室へとやってくる。同じ歳なのに、今までほとんど会う機会がなかった理由が、ようやくわかった。そして、予想通り、百合子先生とは親子だった。
 さちえ先生によると、どうやらあの子も合唱部に所属しているようだった。そして、顔を合わせる機会が増えていくとともに、いつしか挨拶だけでなく、他愛のない会話を交わすほどの間柄にまでなった。

 どうしてわざわざ、さちえ先生の教室に通っているのだろう。

 いくら話せるようになったからといって、それを軽々しく訊けるわけもなく、その疑問は、心の中でどんどん大きく膨らんでいった。家族ならなおさら、十分に練習もレッスンもできるはずだ。もしかしたら、家では百合子先生に習いながら、さちえ先生にも教えてもらっているのかもしれない。だとしたら、あんなに上手なのも頷ける。実際、私と同じ一年生にもかかわらず、他のピアノが上手な先輩を差し置いて伴奏に選ばれたらしいのだから。何も知らない私は、チカちゃんのピアノに自分が到底及ばないことを認めるのが嫌で、そんなことばかり考えていた。自分以上に、たくさん練習した跡が音に滲み出ていることを知っていたのに。それを隠して、毎週金曜日の夜七時半に、アルトパートではない伴奏用の楽譜がカバンからちらりと覗くたび、こっそり憂鬱な気持ちになっていた。


 夏休みが近づいた七月のある日、翌日の小テストに備えて単語帳を見ながらピアノ教室に向かっていると、かすかに、聞き覚えのあるピアノが聴こえてきた。思わず足を止める。聞き覚えのある、なんてものじゃない。毎日のように部活で歌っている、コンクール課題曲の伴奏だった。せっかく覚えた単語も例文も、すっかり頭から消えている。先生の家、つまりピアノ教室が近づくにつれ、その演奏がはっきり聞こえるようになった。

…まさか。

恐る恐る教室の扉を開けると、予想通り、チカちゃんがピアノを弾いていた。
「うん、上出来ね!」
 さちえ先生の、満面の笑みが向けられる。私には、弾くことすら許されていない伴奏を、難なく弾きこなして、その上、さちえ先生からも褒められて。これまでに感じたことのない憤りが、心の中で渦巻いた。嫉妬という名の、憤り。
 そもそもどうして、今日は私より先に弾いているのだろう。レッスン時間はいつも、私の後だったのに。今にも口から飛び出してしまいそうな醜い感情を押し殺していると、さちえ先生はようやく私がいることに気が付いた。
「あら、あやちゃん。いらっしゃい」
「…こんばんは」
 どうにか挨拶を返し、教室へと足を踏み入れる。すると、チカちゃんが微笑み、小さく手を振った。余裕があって、わざわざ実力を見せびらかしに来ているように思えてならない。何もかもが、劣っている。そう思った途端、それを返すことはできなかった。
「体調悪いの?」
 さちえ先生が席を外したタイミングで、チカちゃんが私に問いかけた。気を遣わせているらしい。ますます自分がみじめに思えてくる。
「…べつに。今日、何で早いの」
 冷たく返すと、チカちゃんは一瞬目を見開いた。けれどすぐに表情を戻して、
「部活なかったから」
と言った。その素っ気ない返答すらも、どこか気に食わない。心の中で、妬みと憤りが、轟々と音を立てている。
「ねぇ。何で、わざわざこっちの教室通ってるの」
 とうとう抑えがきかなくなった。チカちゃんがびくりと肩を震わせる。
「お母さん、百合子先生でしょ。何で、百合子先生に習わないの?」
 訊ねているのに、チカちゃんはまるで鉛でも飲み込んだかのように黙りこくっている。反対に、私はかなり冷静だった。醜い感情は、心の中で次々に渦を巻き、そのたびに私の口からは酷く恐ろしい言葉が出ていく。
「もしかして、さちえ先生にも百合子先生にも教えて貰っているの?」
「…ちがう」
「だから、伴奏にもなれたわけ?一年なのに」
「ちがう」
 小さいけれど、はっきりと否定の言葉が聞こえた。その目を見た瞬間だった。突然、チカちゃんが立ち上がり、こちらをキッと睨み返す。
「…伴奏に学年なんて、関係ない」
 冷たく言い放たれた言葉が、心にぐさりと突き刺さる。呆然としているうちに、チカちゃんは素早く荷物をまとめて教室を飛び出した。どうしたの、と、戻ってきたさちえ先生の驚いた声がする。
「…仲良くなれると思ったのに」
 吐き捨てるように、そんな言葉を置いていった。

 チカちゃんが教室を出ていってしまい、取り残された私はいつの間にか泣いていた。さちえ先生はしばらく経ってから、「だいじょうぶ?落ち着いた?」と優しく問いかけた。何が起こったのかも、きっと分かっているのだろう。その声色に安心のか、また涙があふれそうになったけれど、これ以上困らせてはならないと、必死で耐えた。
「ごめんなさい…」
やっとのことで振り絞った声は、蚊の鳴くよりも小さかった。今日は弾くの、やめておこうか?やんわり訊かれるも、かぶりを振って白鍵に指を這わす。ポーン、と鳴らした音が、再び涙腺を刺激して、あっという間に視界がぼやけた。ごめんなさいと、再びつぶやく。
「チカちゃんと、何があったの?」
さちえ先生の穏やかな笑みが、固くなった心をあたたかくほどいていく。
「…ひどい、こと、を、言ってし、まって。佐浦さ、ん、に」
耳を傾け、さちえ先生はうん、うん、と頷きながら、途中何度も途切れた私の話を聞いてくれた。あたたかくて優しい教室に、時計の針の音と、私の洟をすする音だけが響く。
「…チカちゃんが、どうして先生の所に通っているのか、わかる?」
 さちえ先生の言葉に、ぶんぶんと大きく首を横に振る。本当は、ずっと知りたかった。親が先生なのに、わざわざ違う教室に通っていることも、あんなに上手なのに、今まで発表会に出ていなかったことも。
 だからといって、醜い嫉妬があったとはいえ、あんな風にあの子にぶつける必要はなかったのだ。チカちゃんが身を固くした、あの一瞬を思い返す。戸惑いと傷ついたのが、瞳に滲んでいた。
「チカちゃんね、あやちゃんがピアノを始める前に、一度だけ発表会に出たことがあるの」
 私がピアノを始める前、すなわち、幼稚園の頃ということになる。そんなに前に、と小さく驚いていると、さちえ先生は言葉を続けた。
「だけど、チカちゃんとしてはお母さんの真似をしてちょこちょこ弾いているだけだったのね。だから、突然ステージでピアノを弾くことに戸惑ってしまって…結局、一音も鳴らせなかったの、その時は。それが、本人はとても悔しかったのね。本格的に習いたいからって、私のところにわざわざ頼みに来たのよ」
 お母さんだと、お互いレッスンをしているように思えないからなんだって、と、さちえ先生は笑う。
「今回の伴奏はね、…本当は、先輩が弾く予定だったのだけれど。その子も百合子先生に習っていてから、チカちゃんのことも知っていて」
 ピアノの先生の子どもより上手に弾ける自信がない、と、伴奏をおりてしまったらしい。結果的に、チカちゃんは伴奏を引き受けざるを得なかったという。
「チカちゃん、すごくプレッシャーを感じるって言っていたわ。誤解されることが多いのよ。ピアノの先生の子どもだから、何でも上手に弾ける、とか…」
 その言葉に、昨年の発表会を思い出した。先生の子どもなら、ピアノ上手くて当然だよね。そう言って笑った、りっちゃんとはぁちゃん。あの時の、心のざらつき。
「だけど、あやちゃんは、そう思わなかったでしょう?」
 大きく頷いた。きっとたくさんの練習を重ねてきたのだろう、と、すぐにわかる音だった。だからこそ、二人の言葉に同意することができなかった。それなのに———さっき、私がチカちゃんに投げつけた言葉は、あの時の二人と、何ら変わらなかった。
「わたし……佐浦さんに、あやまりたい」
 そう呟いた私を見るさちえ先生の瞳は、優しく揺れていた。謝りたい。謝らなくちゃ。そして、今さらであっても、伝えなければならないと思った。私も、あなたと仲良くなりたい、と。
———だけど、それは長らく叶わなかったのだった。