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閃光花火【終章】それぞれの夏空

 無我夢中でスライディングしたあの時、何もかもがスローモーションに見えた。大きな歓声が響いているはずなのに、まるで、この広いグラウンドにたった一人でいるみたいに、辺りはものすごく静かで、自分の鼓動だけが大きく鳴り響いていた。
 周囲に舞った砂埃が晴れ、自分の左手に白球がおさまっているのを目にした瞬間、喜びよりも涙よりも先に、声にならない声が漏れた。そしてようやく、時が、音が、わあっと沸いたグラウンドの歓声が、自分の耳まで戻ってきた。

「うぃっす、お疲れ!」
 ぽん、と肩を叩いた関谷の声は、すっかり枯れ果ててガサガサになっていた。
「おっす。すげぇ声だな」
「いやー、自分でも笑っちゃうよなぁ」
 ガサガサ声のまま、関谷は笑顔を浮かべる。声が枯れているのも当然だ。お世辞でもなんでもなく、今日一番大きかった声援は、まさしく彼だった。すべてを物語っているガサガサ声が、その証拠ともいえる。
「…ありがとな」
「何だよ、急に。…しかしまぁ、よく捕ったよなぁ、九回のアレ。よっ、今日の主役!逆転阻止のファインプレー!」
「うっせえ、主役はサヨナラヒットの笹沼だろ」
 素直に感謝を告げたら、余計に照れくさくなったのか、関谷はおどけたように大声を上げた。ガサガサ声が裏返ってしまっていて、さらに可笑しい。
「…そういえば、ものすごい叫びの女子もいたよな。誰だったか分かるか?」
 ふと、スローモーションの中で唯一聞こえた声を思い出し、訊ねる。
「ああ、凄かったよな、あれ。俺のクラスの………」
 すると、話が途切れた。振り返ると、関谷はスマートフォンを見つめたまま、石のように固まっている。
「せきやー?」
「………」
「おーい」
「………」
三回ほど同じことを繰り返し、彼はようやく我に返ったように顔を上げた。
「……あ、ごめん。何の話しだっけ」
 先程とは打って変わって、惚けたような表情を浮かべている。こちらも何を話題にしていたか忘れてしまい、まあいいや、と独り言ちた。
「そういや、今日の花火の話、聞いた?」
「えっ?」
 関谷の声は思いのほか大きく、ゆえに前を歩いていた生徒が何人かこちらを振り返った。
「…そんなに驚く?」
「え、あっ、いやぁ、まあまあ」
 ぎこちない反応と嚙み合わない返答から、彼が挙動不審でいる理由がなんとなく見えてきた。へぇ、なるほどね。そういうことか。
「部の独り身たちで行くって言ってたけど、関谷はどうする?」
 独り身たち、というワードを敢えて強調して話す。すると、関谷はあからさまに動揺したように、
「あー、んーと、わかんね」
と言って誤魔化した。嘘が下手くそだ、まったく。
「伝えておくわ、関谷は先約ありって。…明日、覚悟しておけよ」

関谷くん、試合お疲れさま!そしておめでとう!笹沼くんのサヨナラヒット、ものすごく痺れました。あと一勝だね。甲子園も、本当に夢じゃないね!
野球部みんな、頑張っていてとてもかっこよかったです。もちろん、プレーしている人だけじゃなく、応援している人も、みんなみんなかっこよかった。同じスタンドから応援していたけれど、関谷くんの声が一番大きかったんじゃないかな?高宮くんや阿久津くんにも、関谷くんの声はぜったい届いていたと思う。それに、私には、関谷くんがいちばん眩しく見えました。本当にお疲れさま。次も全力で応援します。
決勝は明後日だから、野球部のみんなも、今日の花火大会には行くのかな?そういえば今年は、二十五年に一度の『閃光花火』という、特別な花火が上がるそうです。知ってた?
もし、誰とも約束がなければ、一緒に見れたらいいなぁ、なんて思うのだけれど、どうでしょう?急な話でごめんなさい。だけど、少しでも考えて貰えたら嬉しいです。お返事、待ってます。

「閃光花火って、街のいろんな場所から打ち上がるスターマインのことだろ?」
「えっ、夏生も知ってたの?」
「兄ちゃんから聞いた。だけどいろんな場所ってのがどこなのは、知らない」
「ま、この河原の土手なら間違いないだろ。いちばんの穴場だもん」
「ブッブー。残念ながら、一番の穴場は別の場所です。ここは二番目かな」
「はぁ?どこなんだよ、一番って」
「圭佑は知ってるの?」
「まぁね。ただ、僕たちはそこには入れないと思うよ」
「えっ、なんで?」
「どういうことだよ」
「まぁ聞けって。この街いちばんの穴場スポットは……」

「……あ、もしもし、お父さん?今だいじょうぶ?…そう、ならよかった。あのさ、今日の夜、お母さんのところに寄れない?……え?いや、違うちがう、お母さんに何かあったわけじゃないよ。あのさ、今日の夜って花火大会があるじゃない。………うん、そうそれ。なんでも、病院の屋上が一番の穴場スポットらしいんだよ。それでね、普段は入れない場所なんだけど、今日は特別に開放してくれるんだって聞いて、早速場所取りしてきたんだー。だからお父さんも一緒にどうかなーって。……………うん、良かった。じゃあ真っ直ぐ病院に来てね。………あー、なんかね、羽未は約束があるんだって。…え?彼氏?いや、知らないよ。聞いたけど教えてくれなかったし。でも浴衣着てけば?って言ったら、そうするって言って出掛けたから、やっぱりデートなんじゃないかなぁ………アハハハ、落ち込まないでよ、もう。今日はお母さんと私で勘弁してください。………うん。じゃあ病院に着く頃、電話ちょうだい。エントランスで待ち合わせしよう。……うん。はーい、またあとでね」

「娘さんからですか?」
 亜美との通話を終えて振り返ると、副顧問の土屋先生が笑っていた。会話の断片を聞かれていたのか、と若干羞恥を覚える。
「ええ、まあ、そんなところです」
「仲良しですね。あ、廊下で片岡くんが待ってますよ」
「え?」
 土屋先生の口から出た生徒の名に、思わず首を捻る。部員たちとともに自転車で校門を出ていった姿を見かけたから、とっくに帰ったと認識していた。
 職員室の扉を開け廊下に出ると、生ぬるい風が頬を掠めた。つい先程、一瞬振った通り雨のせいか、もわりとした空気が廊下に満ちている。
「片岡、どうした?忘れ物か?」
 声を掛けると、片岡は顔を上げた。ある程度は拭いたのだろうが、短い髪はしっとりと濡れており、その目元は心なしか、少し赤く腫れている。
「もしかして、雨に降られたか?」
 へへ、と笑いながら片岡は頷く。
「着替えとタオルを取りに来てて、それで、鍵を借りてました」
「ああ、返すのは土屋先生でもよかったのに。…何かあったか?」
 風邪ひくなよ、という言葉が出かかったけれど、彼を纏う空気から、自分に話があるのだろうな、と察した。緩んだ口元が一の字に結ばれ、表情が固くなる。すると彼は、
「先生、おれ、なぎ…高宮と話しました。転校のこと」
と言った。
「ちゃんと話せ、って言ったんですけど、アイツも頑固だから、全然聞いてくれなくて」
 なんだったら俺にまで隠し通そうとしているみたいで、と、片岡は力なく笑う。もしかしたら、雨に降られてでも、涙を隠したかったのかもしれない。ぎゅっと、握り締めた手に力が入るのがわかった。今回の二人の衝突は、普段から飄々としている高宮らしくもあるし、人一倍真っ直ぐな片岡らしくもある。真っ直ぐで、純粋で、みずみずしく伸びていく彼らが立っているのは、大人と子供の狭間の瞬間だ。
「そうか。あい変わらずだなぁ、高宮も」
「むかつくんで、絶対陸上続けろって、それだけ言いました」
 ゆっくり顔を上げた片岡と視線が交わる。彼らしい言葉だ。
「次会う時は全国大会だ、って、言ってやりました」
「その前に東北大会があるだろう」
 思わず指摘すると、アイツにも言われました、と、片岡はようやく心からの笑顔を見せた。

「あ、紗恵先輩!こっちです!」
 すれ違い様に、すっかり見慣れた、それでいて懐かしい後ろ姿に声を掛ける。ひとつに束ねた髪を揺らしながら、紗恵が振り返った。
「ごめんね。呼び出しておきながら、遅れちゃって」
「いえいえ。それより先輩、何かいいことありました?すっごく嬉しそう」
 訊ねると、紗恵は少し照れくさそうに
「ずっと躓いていた応用問題が解けて、同じパターンのも解けるようになったの。志望校も野球、勝ったみたいだし、楽しくなって走ってたら、ついつい遅れちゃった」
と、再び笑顔の花を咲かせた。表情豊かでいつも明るく振る舞う紗恵は、渚の憧れの先輩であり、心を開ける数少ない一人でもあった。
「この後、皆で花火に行くんだよね」
「はい、紗恵先輩も来れたら良かったのに…」
 油断して遊びに行くのも怖いから、と、紗恵は渚の誘いを断っていた。しゅんと肩を落とす渚に、ごめんね、と再び謝る。
「先輩は悪くないですっ、すべて受験のせいだー!」
 代わりに怒ってくれる後輩の姿があって、紗恵は心から誇らしく思う。
「そういえば、渚のお兄さんかな?今日の試合すごく活躍してたよ」
お兄さんは転校しないんだ、と付け加えるように訊ねる。すると彼女は険しい表情を浮かべながら
「卒業まであと半年だから、らしいです」
と答えた。ひとつ愚痴を溢したら、止まらなくなったようだった。関係ないのに、と小さく呟く。
「…渚、本当に言わなくていいの?」
 紗恵が訊ねると、しばし沈黙が流れた。ややあって、渚が首を縦に振る。
「だけど、秋良は知ってるみたい」
 驚きと、やっぱり、という気持ちで紗恵は顔を上げた。
「秋良に言われました。絶対、陸上続けろって」
遠くに広がり始めた夕焼けを見ながら、渚がぽつりと呟く。紗恵は黙って話を聞いている。
「次会うのは全国だ、って。…その前に東北大会があるだろって、思わずつっこんじゃいました」
「ふふ、片岡君らしいね」
目の前にいる筈の、紗恵の表情がぼやける。気付いた時には、大粒の涙が渚の頬を伝っていた。
「私も、渚には陸上を続けて欲しいな。次の学校も、高校に進学しても」
ぼやけた視界の向こうで、紗恵が微笑むのがわかる。夕焼けのオレンジ色が、目に染みるように眩しい。
「渚と競えるように、私も頑張る。頑張ってあの高校に行くから」
 立ち止まる二人を避けるように、水色の浴衣を着た女性がすれ違う。そうだ、この後、秋良達と花火大会に行く約束をしているのに。頭の片隅でそうは考えながらも、渚は暫く、涙を止めることが出来なかった。

 先約がある、と言ったら、母と姉に「デート?」とさんざん詮索された挙句、「それなら、浴衣着てけば?」と囃し立てる口車に、羽未はまんまと乗せられてしまっていた。
 久しぶりに袖を通した浴衣は、絵の具を水に溶かしたような淡い水色。こういう時じゃないと着れないもんね、決して間に受けたわけじゃないからね、と自分に言い聞かせながら歩いていたら、待ち合わせ場所に到着した。
 約束の十分前。流石に早いかな、と辺りを見回したその時、視界の隅に創が現れた。手を振ると、創は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑って手を振り返す。
「浴衣だ。いいねぇ」
 そう言って笑う創の首にはカメラが下げられていて、やっぱり写真撮影がメインだったよねぇ、と、心の中で少しだけしょげる。
「…カメラも持ってきたんですけど、写真を撮るには、動きにくい格好ですね」
 あい変わらず、自分だけが浮かれているようだ。恥ずかしくなって、思わず俯く。
「ん?ああ、これは建前だし大丈夫だよ。気にしないで」
 首に下げたカメラを指さしながら創が言う。あれ?今、思わぬ返答が耳まで届いた気がする。驚いて顔を上げると、創と、ばっちり目が合った。
「浴衣、似合ってる。いつもより大人っぽく見えるね」
「…あ、りがとうございます…」
 お礼を言うと、照れ臭くなったのか、創は羽未から視線を逸らした。歩きにくいし、どう考えても浮かれているようにしか思えなかったけれど、今の言葉でそのすべてが報われた。そんな思いから羽未が微笑むと、創もつられたように笑った。すると、屋台と屋台の間の方へ目を向け、「あ、響」と呟いた。
「ヒビキ?」
 首を傾げる。視線を辿ると、如何にも野球部だと主張しているような、日に焼けた小麦色の肌と大きなエナメルバッグを肩に下げた高校生が立っていた。創は彼を指差しながら、「おとーと」と答える。そして、おもむろにカメラを構えた。その隣に、同級生らしき女の子がいるのに気付いたようだ。こっそりと、二人の後ろ姿を写真におさめる。そんな創に、思わずくすくすと笑みをこぼす。
「なんだよ、やるなあ。高校生」
「デートですかね?」
 羽未が囁く。創はいたずらっぽく笑いながら
「…ま、こっちもデートだけどね。バレたら怖いから行こう」
と答えた。数秒経ってから、言葉の意味を理解し、あんぐりと口を開ける。そんな羽未に笑いかけ、創は二人から遠ざかるように歩き始めた。その背中を追いかけるようにゆっくりとついて行くも、顔の熱はなかなか退いてくれない。

「……どうしたの?」
 兄に写真を撮られていたともつゆ知らず。響が笑みを浮かべているのに気付き、伍香は振り向いて首を傾げた。
「いや、……塚原さんのあの叫び、凄かったなぁーって。思い出し笑いしてた」
 答えると、伍香は顔を真っ赤にさせて「いや、あれは、その」とあたふたし出した。まるで小動物のような仕種に、響はまた笑いがこみ上げる。
「わ、忘れて!」
「無理。あれが無かったら、高宮もキャッチ出来なかったと思うよ」
 そんな風に言って貰えるのは有り難い。しかしながら、無意識とはいえ、あのせいで愛梨をはじめ、クラスメイトにも部活仲間にもからかわれる始末だ。恥ずかしい、なんであんなことをしてしまったんだろう、と、思わず項垂れる。
「……冗談じゃなく、一生忘れないと思う」
 その言葉に顔を上げると、響が真剣なまなざしを向けていた。真っ直ぐな瞳が、伍香を映す。
「塚原さんの叫びも、あんなに嬉しくて涙が出たのも、喜びながら校歌をうたうことがあるのかーって思ったのも、忘れられないよ、きっと。…一生、忘れない」
 そこまで言うと、響は視線を逸らしながら「今、一緒にいるのも」と付け加えるように呟いた。その横顔は、薄暗い中でもはっきりとわかるくらい、真っ赤だ。つられて顔を赤らめながら、伍香は笑みを溢した。
「…関谷くん、『閃光花火』のこと、知ってたの?」
「ん?ああ、噂みたいなのはちょろっと。でも、詳しいことは全然知らなかったよ」
「…そっか。よかった」
 噂程度なら、ジンクスのことは知らないだろう。伍香はほっと胸を撫で下ろした。
「ん?」
「ううん、なんでもない。……この次は二十五年後かぁ」
「うわ、その頃には俺たち、四十超えてるよ」
 眉を下げながら話す響が可笑しくて、伍香は声を上げて笑った。きっと無意識ではあるけれど、「俺たち」と、自然に話すのが嬉しくて、胸がいっぱいになる。伍香につられて響が笑顔になった時、夕闇の広がった空に、ドォンと大きな音が鳴り響いた。

 特別な花火が、はじまる。

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「閃光花火」、これにて終幕です。BaseBallBearの「senkou_banabi」という曲のMVをつくるなら、というイメージで物語を考えていました。


もともとは二年くらい前からぼんやり妄想していた話なのですが、昨年、甲子園や花火大会が中止になってしまったこともあり、このまま夏が終わるのもなぁ〜と思って書きはじめました。
昨年書いていたものをうっかり保存せずに消してしまったので、今回改めて書き直してみた、というところです…ちょこちょこ繋がる人々の縁、みたいなのもテーマでした。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。