あの子とピアノ 1|短編小説

▶夏 1

 あの子と初めて会ったのは、六年生の夏。だけど、その時はまだ、あの子が弾くピアノを聴いたことがなかった。

 小学校に上がると同時に、幼馴染三人で通い始めたピアノ教室だった。私のレッスンは毎週火曜の夕方五時半がお決まりで、その三十分前の五時からはりっちゃんが、私のあとの六時からははぁちゃんがレッスンに入っていた。二人は、ピアノを弾くよりも先生とお喋りする時間の方が長かったけれど、私は違った。ピアノを弾くのが楽しくて、時間があっという間に過ぎてしまう。たしかに練習は大変だけれど、曲が難しくなればなるほど燃える。二人より先の教本に進んでは「すごーい」「あや、うちの学校で一番上手だね」と褒められるのも当然だった。私も私で、自分の実力を自負しているふしがあった。

 その日もまた、同じようにレッスンを受け、三人で一緒に帰るところだった。さちえ先生は、レッスンが終わるといつも、ご褒美のようにおやつをくれる。私たちの場合、たとえば最初にレッスンを終えるりっちゃんが先におやつをもらってしまうと、今回のお楽しみが何か分かってしまい、つまらない。だからいつも、三人のレッスンが終わってから三人分のおやつを渡してもらっていた。ピアノはもちろんのこと、そのご褒美を私たちはうんと楽しみにしていた。
 お菓子持ってくるから待っててね、と、さちえ先生が部屋を出ていく。先週はカントリーマアムだったね、今週もチョコレートのお菓子がいいなぁ。そんな風に予想しながら、私たちはお喋りに花を咲かせていた。だから、背後でそぅっと教室の扉が開いたことに、誰ひとりとして気が付かなかった。「お待たせ」とさちえ先生が戻ってくる。
「あら、チカちゃん。早かったね」
 さちえ先生が笑いかけたので、えっ、と後ろを振り返る。控えめに開いた扉の向こうには、レッスンバッグを肩に下げた同じ歳くらいの子が立っていた。ビー玉のように澄んだ瞳と、ぱちんと視線が合う。入っていいよ、とさちえ先生に促され、チカちゃんと呼ばれたその子は僅かに口角を上げた。いそいそと靴を脱いでいる仕草からなぜだか目を離せずにいると、
「はい。あやちゃんの分」
と、さちえ先生がお菓子を差し出した。今週のおやつは、ホームパイだった。
「…あ、ありがとうございます」
「じゃあ、りっちゃんあやちゃんはぁちゃんは、また来週ね」
「はぁーい」
「ありがとうございましたぁ」
「帰りに気をつけてね」
「はぁーい」
 さちえ先生に見送られながら、三人で教室を後にする。夏の夕暮れ時はまだ明るさが残っている。絵の具を水に溶かしたような薄いオレンジ色が遠くの空に広がっていて、見上げるにつれだんだん白っぽくなり、どこかを境目としてやがて深い青へと変わっていく。こういう色の移り変わりを、たしかグラデーションと言うのだ。図工の時間に絵の具を溶かしていたら、担任の高橋先生がそう教えてくれた。
 空の色に夢中になっていると、りっちゃんが思い出したかのように口を開いた。
「知らない子だったね」
 先ほど、入れ替わるように教室へと入っていったあの子のことだった。そうだね、と頷く。
「あの子、実は、転校生だったりしないかなぁ。先生と一緒に教室に入ってきて、」
「あっ!昨日の!って?」
「そうそう!」
 おどけて話すはぁちゃん声に、わぁー、マンガみたい!と、ひとしきり笑った。そして、「ホームパイよりカントリーマアムのほうが好きだなぁ」と、話題はおやつへとあっさり逸れていった。
 もちろん、翌日高橋先生と一緒にあの子が教室に入ってきた、なんてことはなく、それから、あの子について三人で話すことはなかった。あの日以来、私たちのレッスンの後にあの子が現れることすら一度もなかったので、いつしか彼女の姿かたちも忘れていった。だから三人とも、発表会でその姿を見かけるまでは、「チカちゃん」という名前さえすっかり忘れてしまっていた。

▶冬 1

 夏が過ぎ、秋が過ぎ、あっという間に季節は冬まで進んだ。小学校最後の一年だから余計にそう思うのかもしれないけれど、昨年の、五年生の時の一年間と六年生の一年間とでは、圧倒的に今年の方が過ぎるのがはやいと思う。白い息で指先を温めながら、発表会への会場へと向かうべく、お父さんの車に乗り込んだ。
 ピアノ教室の発表会は、毎年十二月の第二日曜日に、町でいちばん大きなコンサートホール「すずらん」で開催される。私たちの通うさちえ先生のピアノ教室と、隣町にあるピアノ教室との合同での発表会だ。隣町でピアノを教えている先生は百合子先生といって、さちえ先生のお友達だという。当然、初めて見かける子も少なくなかった。発表順は、お母さん曰く「ねんこうじょれつ」で、幼稚園の年少さんから順に演奏していく。そうすると、六年生の私たちはおそらく、休憩時間の直前に演奏することになるだろう。「すずらん」に着くと、先に到着していたりっちゃんがプログラムを眺めていた。受付を済ませ、りっちゃんの元へと駆け寄る。
「やっぱり休憩の前だよ。トイレ混むだろうなぁ」
 同じようにプログラムを開き、自分の名前を確認する。順番はやっぱり休憩時間の直前で間違いなかったけれど、別のところで、あれっ、と思った。昨年まで、その学年のいちばん最後——つまり五年生の最後に演奏していたはずなのに、今年は「宮本綾乃」の名前の下に、知らない名前が並んでいた。見たことは確実にない名前のはずだけれど、どこかで見覚えもあるような気がする。
「あら、今年は最後じゃないのね」
 呑気にそうこぼしたお母さんに、心がすこしモヤリとする。私は知っていた、技術力が高ければ高いほど、発表の順番が後になることを。私よりも、上手ということだろうか。
「あ、はぁちゃんも来たよ。行こ」
 りっちゃんの声に、ざらついた気持ちを隠すように大きく頷いた。


 さちえ先生から、発表の三人前になったら来てね、と言われていたので、はぁちゃんの演奏が始まると同時に客席を出た。ステージ袖に到着すると、演奏を終えて晴れやかな表情をしたはぁちゃんと、今まさにステージに向かおうとしているりっちゃんの姿があった。「緊張するー」と言いながら、りっちゃんは手のひらに人という字を三回書いて飲み込むおまじないをしてから、ステージへと歩いていった。その後には百合子先生の教室に通う藤木さんという子が控えていたけれど、私の次に演奏する子はまだ来ていなかった。どんな子なのかが気になった私は、りっちゃんの演奏はおろか、自分がこれから演奏する曲よりも、ステージ袖につながる扉ばかりをちらちら気にしていた。しかし結局、藤木さんの演奏が終わっても、その子は現れなかった。百合子先生が私の名前を読み上げる。
「あやちゃん、出番だよ。リラックスして、いつも通りにね」
 さちえ先生の手が背中にそっと触れたのを合図に、いくつものライトに照らされたステージへと向かう。光が反射して、白い鍵盤さえもまぶしい。

 名前を呼び上げられ礼をすると、大きな拍手が会場を包み込んだ。椅子に腰かけ、深呼吸。今年の発表曲は、これまでに弾いてきた曲のなかでも、とびきり難しかった。前半は、ピアニッシモよりもか細い音量で、ずらりと並んだ八分音符を弾かなければならず指がつりそうになるし、同じ旋律でも後半は、激しく心が揺さぶられるようなダイナミックな動きが合わさり、とても難しかった。だけど、「あやちゃんなら弾けるよ」と、さちえ先生が太鼓判を押してくれたので、今日まで一生懸命練習してきたのだ。
 よし、と、鍵盤に指を走らせる。「すずらん」のピアノはとっても高価なものらしいけれど、家でいつも弾いているピアノよりも、さちえ先生のピアノよりも鍵盤が恐ろしく軽い。弾き慣れなさに加え、黒鍵のコントラストがよりはっきりしていて、不安にもなる。それでもやっぱり——楽しくて、胸が高鳴る。耳に届く音、会場に響き渡る音、すべてが心地よい。今この時間だけは、世界中の音が、私の鳴らすこのピアノしかない。

 無事に演奏を終え、ステージ袖へ戻る。思わず「あっ」と声が漏れ、慌てて手で口を押さえた。いつかのレッスン後に顔を合わせたあの子が、待機用の椅子にちょこんと座っていた。
「チカちゃん、楽譜はいらない?」
「はい。大丈夫です」
「うん。じゃあ出番だよ。いつも通りにね」
「はい」
 さちえ先生とあの子の会話はひそひそ声で、まるで内緒話をしているようだった。ようやく、あの子の名前と「チカちゃん」が、頭で結びつく。すれ違いざまにちらりと、その表情を見やる。あの子の横顔は、緊張しているともリラックスしているともとれない、凛とすました表情を浮かべていた。
「あやちゃん、お疲れ様。…あれ、戻らないの?」
「…うん。もう、休憩になるし」
 答えになっているのか、なっていないのかわからない私の言葉に、さちえ先生が怪訝な顔を向ける。それでも視線は、ステージ上のあの子から逸らすことができなかった。
 美しく儚げなアルペジオが響く。それはどこかで耳にしたことのある音楽だった。記憶をたどる。友達にもらった花束を握りしめながら、車の後部座席に横になっている主人公。これから住み始めるという街を背景にタイトルが浮かび上がる、あの映画の冒頭——。ひとつ音が引っかかり、絶妙な美しさを奏でる不協和音はまさに、あのワンシーンを彩っているものだった。
 儚げな雰囲気が一変し、後半は激しい連打が続く。先ほどまで、いたわるように鍵盤にやさしく触れていた右手が、怒り狂ったように強く鍵盤をたたきつけて音を鳴らしている。激しい不協和音のトレモロとともに、あの子がそっと指を離した。
「えっ、終わり?」
 拍子抜けした声は、どうやら隣にいたさちえ先生までは届かなかったらしい。会場が拍手の波に包まれる。振り返ったあの子と、ぱちんと目が合った。初めてあった日の、あの時と同じように。
その瞬間、くるりと踵を返し、逃げ出していた。

 人の少ない裏手口を通ってロビーまで出ると、休憩時間に入ったせいか、思いのほか人がごった返していた。ふいに「あや!」と呼び掛けられ、その声のする方を向く。ちょっとした歓談スペースのソファに、りっちゃんとはぁちゃんが座って手を振っていた。人混みを避けながら二人の元へ向かい、
「終わったね。緊張したねぇ」
と笑う。
「ずっとここにいたの?」
「うん。あやの発表も、ここで観てたよ」
 はぁちゃんが指さす先には、ステージ上のピアノがぽつんと映し出されているモニターがあった。時折、前の方の客席に座っている人の頭が黒く影となって動く。なるほど、ロビーでも演奏を聴くことができるのか。そう感心していると、
「あやの次に弾いた子、すごく上手かったね!」
「ねー!同じ六年生とは思えないくらい上手」
と、二人が話し始めた。なんとなく居心地が悪くなって、何も言わずに笑う。
「あたしさ、この名前なんか見たことあるなぁって思ってたんだけど、たぶん、百合子先生の子どもだよね。苗字が一緒だし」
りっちゃんの言葉に、「私もそう思ってた」と、はぁちゃんが頷いた。手元にあったプログラムをのぞき込む。講師紹介のページにはさちえ先生の名前の横に百合子先生の名前が並んでいて、確かに「佐浦」という苗字が同じだった。

「先生の子どもなら、ピアノ上手くて当然だよね」

 その言葉に、思わず心がざらついた。私には分かった、あの子のピアノが、とても練習を重ねた演奏だったと。同じくらい一生懸命練習してきた、私と同じ音だった、と。先生の子どもだから、とか、関係ないのに。もやもやした気持ちが胸の中に入り込んできたけれど、何も言えないまま、黙って二人の話を聞いているしかなかった。

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先月からごねごねしていた創作です。
発表会の曲は、「Merry Christmas Mr. Lawrence」(坂本龍一)及び「One Summer's Day」(久石譲)をイメージしています。

読んでいただきありがとうございました。2ないし3まで続く予定なので、また目にしていただけたら嬉しいです。