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自分の知らない自分

私の記憶にある反抗期は多分高校生くらいだったと思う。
今思えば小言をかましたくなるくらい小憎らしい奴だったみたい。
恥ずかしいけれど、まだその頃に書いていた日記を持っていて読み返してみたから。
その文面には自我同一性の確立に悩んでいる当時の自分が爆発していた。
今思えば、よくこんな事を手書きで書けたよな…と何者かでありたい自分の必死さに苦笑いしてしまう。
本当に馬鹿だったんだな。

最近またそれを読むことがあり、ちょっと面白かったのでメモしておくことにした。

常に色んな事があり、怒りを何処にぶつけて良いのか分からない日々。
いつも自分の部屋に篭り音楽を聴いていて、好きなアーティストが書く歌詞に自分を重ねる。
やっと親に反抗できるようになったと確認しながら毎日を過ごしていたような気がする。
こう言われたらああ言おう。
最近は理不尽な事で殴られることも無くなった。身体が大きくなったからだ。
子供の頃から褒められようと頑張っていた家の手伝いも興味が無くなった。
みんな勝手にすればいい。
やたらと競争心を剥き出しにし嫉妬心をぶつけてくる妹、父方の祖父母に散々甘やかされ母にも1番可愛いがられていた弟。
母親が父親に逆上して家出したら、こいつらのご飯を作るのは私。
どーして?!
学校へ行っても上辺だけの人間関係。
禁止されている靴下を履き、制服の上の上着禁止なのに、自分に唯一優しかった母方の祖父に買ってもらったモッズ風のハーフコートを着て、黒のマフラーを巻いて学校に行くと、職員室に連行された。

今だにこの服装の何がいけなかったのか理解できない。
決してその頃に「ヤンキー」と呼ばれていた見てくれではないし
むしろ対岸のファッションなのに。

他人と違う事をする。それが私の快感だった。(反抗だったのか?)

しかし、私の両親だった人間はどんなに先生がそれを「お宅のお子さんは校則をやぶりましたぁぁ!」と伝えてこようとも、自分達の事で頭がいっぱいでそれどころでは無かった。

「自分の事ばかり!ロクな事してなくて子供もまともに育てられないで何が親だ!!」
と書き殴られていた。
それ私が書くか?激しいなと苦笑い。

そして私は毎日日記にその日あったどうでもいい事を書き、最後にいつも「死にたい」と判子を押すように書いていた。

明日食べる米が無い状態でもないし、
ノートも買え、靴に穴が空くと買えていた。
一体何がそんなに当時の私を混乱させていたのだろうか。
ただの思春期の反抗ではない事は確かだった。

ある日の夕食時の事が記されていた。

父親が浮気をしている女の所へ行かないようにと、母親が作った夕食を囲む。
久しぶりに父親と摂る食事。家族全員に染み渡るよそよそしさ。
言葉一つ交わす事も無い。

「やっぱり家族で食べる飯は美味いね」

女の家で夕食を食べるのが日課になっていた父親が、黙ってりゃいいものを一言かましたのだった。

その瞬間、私の中の蓋が弾け飛んだ。そして火山の如く噴火した。



ふと我に返ると
目の前にはおかずごとひっくり返されたテーブルがあった。
私が怪力でひっくり返したのだった。


全員のおかずやらご飯やらお茶やらがぐっちゃぐちゃになっているその光景だけは少し覚えている。

箸を持ったままポカンとしている家族をそのままに、私は飼い犬を連れて散歩に出た。
そして公園で飼い犬相手に「もうあんな家!出て行ってやる!」と話しかけていた。

気がつくと息を切らしながら母親が走ってくる。
殴られる。
そう思った私は、さあ殴れとばかりにキッと睨む。
お前達のせいだ。いつものように殴れ。
何かあると私をいつもサンドバッグにしてきたようにここでさあ殴れ!

「ごめん、本当にごめん。お前が怒るのも分かる。でも今だけ我慢してほしい。今日は機嫌が良いからお父さんの言う通りにして。」

謝るのか。
殴られたほうがマシだった。
殴られたら家に帰って父親を殴ろうと思っていたと書かれていた。
(どんだけ怪力なのか)
私は、あんなクソ親父なんか女のとこに行って一生帰って来なければいいと言い返し、それでも謝る母親を尻目に帰宅し部屋に閉じこもった。

今となればこの時何が何でもこのクソ親父を追い出しておけば良かったと思っている。
そしてしばらく修羅場は続いた。

ここまで私が爆発したのも後にも先にもこの時だけ。
自分自身の進路に不安を持ち、親が自分達の事ばかりに気を取られているのが気に入らなかったのかもしれない。
ただの我儘だったのかもしれない。

そこには自分の知らない自分がいた。
家にいてもつまらなかったから〇〇ちゃんの家に遊びに行った。
帰りに本屋に行って立ち読みをした。
カセットテープのインデックスを買いに行かないと「S」の文字が無くなった。
欲しいレコードの発売日をメモしていた。
でも買える小遣いが無い。
あのクソ親は今日もいない。
母親が夜泣きながら私の布団に入って女の悪口をブツブツ唱え始める夜がまた来る。
私にどうしろというのだ!
近所のババアがこっちを見てコソコソ何か言ってた。
早くこの町を出たい。

死にたい。

ああもう何なんだこの灰色の世界。
日記のページをめくりながらため息が出る…。

下のきょうだいがまだ学校に通っているという理由で離婚はできないと毎日のように聞かされた。
私もまだ高校生だったんだが。
その日記は私が卒業するまで、老眼鏡をかけてやっと読める程の小さな文字でひっそりと書かれていた。
ノートも薄いグレーだったが、何もかもが灰色の世界がそこにあった。
よくもまあこんな思いまでして「ここ」に留まったなと感心した。

そこで

ちょっと待てよと。
当時の親の歳を計算する。

両親共まだ30代後半だった。

へっ?!

今の自分より20近くも年下?!
そりゃ後先考えずに無茶したい年頃だわね。

あーアホらしアホらし
この馬鹿2人に私の人生の殆どを塗り潰されたのか。
ムカつきを通り越し呆れた。

「親」っていうだけで。

こうやって自分が歳をとってみて、当時の親の年齢を比べロクなもんじゃなかったんだなと改めて確信する事で、自分が一瞬のうちに癒された。
もし、今の自分がタイムスリップする事が出来たら、2人を正座させて何日でも説教かましてやるからな。
そんな事を思っていたら、どうでもよくなったのだ。

今の自分が未熟だと思うならこの時を思い出せ。
今なら自分の人生を何色にも塗り潰せる。

日記は大事。
日々人間の考えなんてコロコロ変わるものなのだから。


私は離れる勇気が無かったからこんな思いをしてしまった。
地元にいてくれと母親に土下座されると出られないだろう。
親やきょうだいがアホだと思ったら、その直感は大体正しい。
縁を切ったら、空いたその場所に自分の事を本当に思ってくれる人がどんどん近寄ってきてくれる。
血の繋がりなど何の意味も無いのに。

「私など居ても居なくても世界は変わることはない」

こう書いていた17歳の私の知らない私が、もがき苦しんでいたのは
「家族」という鎖に繋がれていたから。
私の場合はその鎖に気付くのが遅かっただけなのかもしれない。
鎖を解くとこんな素晴らしい血の繋がっていない人間がたくさんいるのに。

様々な選択の結果
現在の目の前は灰色ではないことは確かだ。
側で助けてくれたり自分を必要としてくれているのは、皆血の繋がらない他人だ。

今ではこんな私にしてくれてどうもありがとう
絶縁したあとは、ご勝手に。と言いたい。

そんな考えにやっと…
やっと辿り着いた…。


あともう一息だ。












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