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重度知的障害の方との暮らし【14日目】 「たけし」をなかなか受け入れられない

前回の記事では、たけしが他の人に与えていることが見えるようになってきたことでモヤモヤが少なくなったと書いた。

ただ、まだモヤモヤは残っている。今回は、このモヤモヤを構成していることのうちの1つを伝えられたらと思う。正しいたけしの「見立て方」について。

たけしのご機嫌がわからない

たけしと心地の良い関わり方がまだわかっていない。前回伝えた新聞紙シャワー(たけしがバラバラにした新聞紙を集めて高いところから落とす)は、楽しんでくれるはずだと期待して何度か試したが、やっぱりあんまり反応がない。スキンシップを何度か取っていると、いずれ僕に興味を持ってくれるはずだと思っていたが、これといった確かな好意的な反応はまだ見られていない。試行錯誤の進捗が見えず悔しくて、たけしと関わる回数が増えていく。なかなかたけしとの距離が縮まらないと、ふてくされて「たけしは一人遊びが好きなのかも」と考え始めた。そんなことを考えている時、スタッフさんの一人がたけしの人間関係にたいしての気持ちについて「他人と関わるのは嫌だけど、見ていては欲しい」みたいな見立て方をシェアしてくれた。
興味深く聞いたが、頑固な僕はたった1日しかそれを受け入れることができなかった。「『見ていてほしい』は、本当の想いじゃないのではないか。傷つくのが怖くて本当の想いに蓋をしているかもしれない。本人がコミュニケーションに自信を持つことができれば、人と関わりたい気持ちに正直になれるんじゃないか」と考え始めたのだ。そして、また、たけしにアプローチを始めた。自分の関わり方に不安を感じながら。

お皿を投げた様子

たけしの不機嫌がわからない

どうしても慣れないたけしの言動がある。たけしの「自分叩き」だ。自分の頭や体を力いっぱい叩く時がある。プラスチックの箱の角で叩く時すらある。音がとても大きいので、僕はそれを見て痛々しさを感じている。僕は、最初たけしが何かに無性に苛々しているのだと受け取った。
しかし、何度か様子を見ていると、たけしの好きな曲を流している時に、頻繁にそれが起こることがわかってきた。これは、言うなれば「ボディーパーカッション」の一種ではないかと考えるようになってきた。スタッフさんたちも止めようとはしていない。どうも話を聞く限り、たけしは痛みに対して強いとのこと。だとしたら、本人は楽しんでいるのだろうし、気にかけなくていいじゃないか。そんな風に考えて、たけしの様子を見守るようにしてみた。
しかし、一週間経ってもやっぱり慣れない。自分にはたけしの「自分叩き」が受け入れられないようだ。あまりにも気になって、僕もたけしの真似をしてみることにした。スタッフさんの一人が、真似をしてみることで当人の気持ちを察していると言っていた。僕もたけしの楽しさが分かるかもしれない。そう考えて、たけしと同じくらいの音がなるように自分の頭や体を叩いてみた。当然だけど、めちゃくちゃ痛い。何にも楽しくない。こんなことやっていていいわけがない。そんな風に思って、またたけしの「自分叩き」を見て、葛藤をする日々が始まっている。


素直にたけしを受け入れられない

僕はたけしの言葉を正確に受け取ることができない。だから、経験豊富なスタッフさんたちの見立て方を参考にたけしの気持ちを想像する。当たり前なことだが、試行錯誤を重ねてきたスタッフさんたちの見立ての方が”真実”に近いはずだと。しかし、僕は、スタッフさんたちの見立てを「そんなはずはない」と拒否をするような反応をしてしまっている。つい自分の信じたいことを証明するかのように、自分にとって都合の悪い可能性をなるべく見ないようにして、たけしと接してしまっている。
昨今では、「多様性」という言葉がよく使われているが、つい「共通性」を見出したくなってしまう僕にとっては、なんて難しい実践なんだろうと最近よく感じる。僕が今まで関わってきた人たちとたけしの違いをすんなり受け入れらない。「そんなはずはない」と考えてしまう。みんな根っこのニーズや感覚は同じですぐに分かり合えると思いたくなる。そうして、簡単に分かり合えないと、もどかしさに耐えられなくなって、気が付けば多様性の仮面を被った無関心に過剰に傾いていることもある。「わたしとあなたは違う人間だ」とラベルを張り、たけしの内面の探求が終了する。相手の深い部分への関心を持ちながらも、違いを受容し続けることはなかなか難しい。
まだ一か月以上もたけしと関わる時間がある。ゆっくりとたけしに、自分に向き合っていきたい。

次回「【21日目】慣れ始めて変化するたけし像」

今回の劇場

文章・写真/中原誠大

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