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青い空と入水死

  この曖昧で輪郭のない感情に名前をつけられなくて、じんわりと痛む心もそのままに、椅子に座って空を見ていた。ああ、もうダメだなあ、もうダメなんだ。ダメだったんだ。ダメになるんだ。ああ。ああ。と内心思いながら、午後の空を見上げていた。アルミサッシ越しに午後の空がみえて、ゆるやかに雲が流れていた。あんまり穏やかで泣きそうだった。抉られるように心が痛い。器が壊れているから、何もかも上手に受け取れない。それこそ白い雲のように、私の前から色々なものが流れていく。最初に失ったのは、色だった。次に、音。   すべてが少しずつ足先から溶けだして、段々透明になる。このままいなくなってしまえたら、と思う。   溶けだした色や音はその場に留まって、きれいな虹色の水溜まりになるのだ。きっと。水溜まりは綯い交ぜになって、じんわりと見境がなくなって、最後は醜い色になる。それでもよかった。有終の美、なんて言うけれど、最後だけ美しい人生なんて悲劇が過ぎる。最後まで鈍色がいい。今読んでいる重松清の『十字架』のような美しい色は不釣り合いだと思う。廃ホテルの厨房に落ちていた、汚れがこびりついた食器のくすんだ灰色くらいがちょうどいい。
  閑話休題。
 溺死を目の前で見てから、溺死の動画ばかり見るようになった。  その動画は最初、周囲にたくさんの楽観的な野次馬がいた。溺れている人以外の全員が非日常を甘受している。ある1人の男性が救助に行き、溺れている男を背負い上げる。そうして2人でもがき始める。
  野次馬たちは楽観視をやめない。段々もがきが大きくなる。悲鳴が上がる。服を脱いで、ロープを作る人が現れる。人々が水面に手を差し伸べる。
  最後、2人はすうっと美しく、しずかに水底へと沈んで行った。本当にしずかだった。音もなく、たおやかに、無抵抗で、諦めた色もなく、すうっと沈んで行った。あの映像が忘れられない。腑に落ちる、のような印象だった。あれが入水。溺死と言うより、入水だった。青い青い水の世界へと入っていく。そんな印象だった。死も、あんな感じなのだろうか。浮かぶというより沈む感覚に近いのかもしれない。土に帰るという言葉の通り、地球に身を沈める。 案外悪くないと思う。   いつまで経っても、あの映像は、その印象は忘れられない。

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