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溢れた”ありがとう”を伝えた寒い夜

細々と物事を考えることが好きで今日も浴槽に浸かりながら細々と頭の中の整理をしていた。今日あった事、幸せだった事。最近のルールは他者から浴びせられたネガティブな発言は切り離し受け取った自分だけの気持ちを考える事。自分の気持ちを引き出すのが下手くそな性格の僕にとって大切な時間。2021年は僕にとってあまりにも大き過ぎて一言では言い表す事が出来ない、あの日からひたすらモヤモヤと黒い渦に巻かれて視界が悪く居心地が悪かった。2021年8月4日。僕はコロナに感染した。

「ごめん。俺、感染しちゃった。北海道帰れないや」

憧れの職場に内定を頂いた為4月に上京していた。4ヶ月間新しい仕事を覚えるのに必死に働いていた中、1週間夏休みを頂き8月末に地元である北海道へ帰省する予定だった。祖父母と仲が良い僕にとってこの電話は心配をかけてしまう事、不安である事が電話口の声に乗ってしまわないか怖かった。案の定、祖母の声色が変わりすぐに食べ物送るから。とにかく今は生きることを考えなさいと電話が切れた。

遊び回っていた訳では無い。通勤だって自転車でしていたのに何故僕が感染するんだでも今は爆発的にコロナ患者が増えている時だ考えたってしょうがないだけど明日の自分は息をしているのか?39度の高熱は下がらない。猛烈な頭痛と体の痛みで部屋の中を動く事も辛い食事も摂れない排泄だって休み休みじゃないと行えないコロナはただの風邪だって鼻で笑っている奴の気が知れない

「明日きっと死んでいるんだ」

グルグルと最悪な事しか浮かばない精神状態の中、毎日祖母に電話をして生きてる事を伝え、1週間後やっと高熱が下がった。実家、友人から送られて来た暖かな救援物資に命が助けられた日々だった。甘い果物やリンゴジュース、チューペット、ポカリスエット、食べやすい様にと選んでくれた即席の食べ物達。各地から送られて来た救援物資が無ければ熱が下がるのはもっとかかって居ただろう。泣きながら頂いた。

職場とはお盆過ぎには復帰したいです、と連絡をしていた。だけど、自宅の階段を降りた時愕然とした。誰かの体を操っているみたい。そりゃそうだ1週間3食ロクに食事を摂れずにずっと寝ていたのだから。体力だって落ちている。そうに決まってる。これはウォーキングをして体力を少しでも早く取り戻さないと。

そんな思いは久しぶりの外出で折られた。

歩行が出来ない。体力が落ちているだけでは無い。筋力トレーニングの為に両足に10キロの重りをそれぞれ付けていたか?足が上がらない。5m歩いては息切れがする。吐き気もする。これは誰の足を取って付けたんだ?思わず地面に座り込む。夜とは言えまだ暑い東京の夏。にしても異常な量の汗が吹き出す。これは只事じゃない、職場復帰だなんて悠長な話じゃない。やっとの思いで自宅へ戻り、階段で一眠りし目覚めると這いつくばって昇った。次の日職場に連絡して休みを伸ばした。毎日、階段昇降とウォーキングを頑張った。だけど結果はいつも同じ。また這いつくばっている階段の上、絶望しながらネットで見かけた病名が浮かぶ

コロナ後遺症

職場の方からもそれを指摘され、自宅近くのコロナ後遺症外来に受診する事になった。徒歩で通常10分の場所にあるバス停に小一時間かけて向かい受診しその日からBスポット療法と言う治療を受けることになった。※Bスポット療法とは塩化亜鉛を染み込ませた綿棒を鼻から挿れ鼻の奥、喉の上に当たる上咽頭に綿棒を擦り付ける治療だ。後遺症患者には上咽頭の炎症がかなりの頻度で見られる。自分も炎症が酷く出血が有った。

9月。歩行がまだ上手くいかず時間はかかるものの何とか通院をしている中どんどんと不安が溜まって行った。体力作りのウォーキングもそのまま寝たきりになる患者さんも居るからしないでくれ、と主治医に言われ家と通院、調子が良い時に風を当たりに少し外に出るだけの日々が続いた。

「仕事どころか日常生活もままならないなんて、将来真っ暗だ。」

元々睡眠を取るのが上手じゃなかったのに尚更遠のいて行く眠り。どんどん減っていく貯金。東京に来たことなんて、間違いだったんだ、そもそもこんなにもコロナが流行している中、考えが浅過ぎた。だけどあのチャンスを逃す事なんて出来た?一生引き摺らないと約束出来る?正しい答えが出ないのに繰り返される自問自答。

そんな時、コロナ中に出来た友人の1人がドライブへと連れ出して下さった。まだ生で見た事がなかった首都高、東京タワーの足元、都内をグルグルと見せてくれた。綺麗だと喜ぶ僕を見て笑ってくれていた。自分が東京に居る実感も湧かないまま感染して自分の行動にバツばかり付けていた時、キラキラと輝く都会を見て心が踊った。自宅と病院の行き来ばかりしていたら腐っちゃうよ、帰りにご飯でも食べて行こうよ。と友人の優しさが染みた日だった。自分はここに来たい、と自分の意思で上京したんだ。

末には7月に出会ったばかりの方が遠い家へと遊びに来て下さった。受診の後、外で食事を摂って自宅で大好きなアーティストのDVDを見ながら過ごした。正直、ブレインフォグと言う脳に霧が掛かっている様な症状があり思ったように自分の言葉が出て来なかったが優しく聞いて下さり様々な話をした。職場の事や自分のディープな話。周りにいて下さる方に向けてネガティブ真っ最中だった自分を卑下する僕の言葉に

「周りの方は自分と似てる方が集まるものだから。そんなに卑下しないの。貴方だから素敵な方が周りに居るんだよ」

と、優しく話してくださり「そんな・・・」とまた自分の存在に素直に喜べず手で隠してしまったがずっと暖かに心に残っている。

僕の歩行状態が感染前位に戻ったのは10月に入った頃だった。それでもまだゆっくり治療して行きましょうね、と優しい主治医の元どんなにクラッシュという動作を起こした後に寝込んでしまう症状が出ても病院に向かった。唯一歩行状態の悪かった僕を知る友人2人は歩ける様になった僕を見て喜んでくれた。他者の目から見ても良くなっているんだ、と心の底から嬉しかった。しかしこの頃から職場復帰は諦めた。歩行が安定したとは言え、吐き気が伴う強い倦怠感が常に有り上記の通りクラッシュも日常生活茶飯事だった。

「北海道に帰りたい」

8月からずっと思っていた。心配かけたくないのにと思いながら泣きながら祖母に電話してしまった日もあった。父の全て引き払って帰って来いの一点張りと素晴らしい友人2人が出来た自分のまだ東京に居たいと言う気持ちがぶつかり合い調和が取れていないのも気がかりだった。体力面で不安があったが、11月1日、僕は2週間北海道へ療養に戻った。飛行場で怖々としながら会った父は僕を見ると安堵の表情を浮かべていつも通り「マック食いに行こう」と僕を誘った。実家に帰ると会いたくて堪らなかった祖父母は笑顔で僕を迎え入れ、コロナ中ひたすら励まして下さった叔母も僕が大好きなビーフシチューを作って待っていてくれた。

怒られると思っていた。

お前が浅はかな思いで東京へ行くから、と。

療養中、法事があったがその日僕は何度も眠りに落ちた。親戚中僕が感染し後遺症になった事は知っている。その事実を知った時、何故わざわざ言ってしまったんだ。と心の中で祖母に少し怒った。だけどそのフォローのお陰で法事を手伝わないといけない身なのに動けないでクラッシュが起きる僕を責める親戚は誰もおらず眠りから醒めると「生き返ったか」と目を細めて食べ物を勧めて来た。大好きな叔父さんの話に笑い、親戚の中で1番小さい子を可愛がり、祖母がいつも通り主役の位置に居て僕を弄り僕が突っ込んでまた笑いが起きる。それを目を細めて祖父が喜んでいる。何一つ変わらない関係がそこにあった。

東京に戻る2日前。軽めのクラッシュから目覚めた後、僕は祖父母に初めて心の内を吐露した。夢を追いかけて上京したのにこの様な形になってしまった事、あの時夢を諦めてここに残り続けて未来の自分が家族のせいで諦めただなんて絶対に言いたくなかった、この先どう生きていいのか正直分からない、だけど東京からは離れたく無い。自分は泣きながら話していた。一緒に居た叔母も泣いていた。僕の思いを全て聞いた後に

「お前はきっとどこに居ても感染した。それ位、この感染は意味が有る。確かに今は夢も失って体も思うように動かず辛い状況だけど未来のお前にとって絶対無駄にならないぞ。それにお前の事だから夢は絶対これから沢山見つけられる。何よりまずは体調を戻すことだけ考えよう。大丈夫だから。」

「大きな気持ちで居なさい。治るもんも治らないでしょ。生きていれば、それで良いんだから。」

と祖父に続き祖母、2人が真っ直ぐに僕を見つめて強く話した。

弱りきっている自分を底意地悪く叱責し続けていたのは、自分だけだった。

また来月帰っておいで。と、こんなにも危険を孕んでいる往来に対して罪悪感が有った僕の気持ちを払拭して祖父母は受け入れてくれた。うん、と声を絞り出すのがやっとだった。大きな感情の揺さぶりがあった僕は疲れてしまいまた、その場で横になった。

帰りの飛行機の中で僕は会って下さった変わらずの友人、親戚、前の職場の方々の事を考えながら時を過ごしていた。歩みが遅い僕に合わせて歩いてくれたな、病状を面白おかしく吹っ飛ばしてくれたな、と。合わせて祖父母、父母の変わりない優しさを噛みしめながら。

東京に戻っても変わらず接して下さる友人2人と、遠方から車を運転して泊まりに来て下さった友人。それと趣味の文章を書いては読んで下さる方々。頭に蔓延って居た霧が少しずつ晴れて言葉も出やすくなり1ヶ月間僕は大好きな方々と大好きな事だけをして過ごした。歩ける距離も伸びて体力もほんの少し戻りだした。そんな時、自分の中でどうしても許せなかった過去達との糸がプツリと切れた音がした。幼少期から苛まれていた事柄から最新の上京した自分の事。こんなにも大切な方々に囲まれて、何故自分はわざわざ過去の事を引っ張り出して苦しくなっているのだろう。そろそろ自分の事を許して今に集中しないと余りにも失礼じゃないか?こんな自分なんて・・・って思っている中傍に居て下さる方々はどんな思いで向かい合っている?そんな方々にどうして頑なに背を向けている?

「きちんと表情を見て会話して生きたい」

いつも気にかけてLINEを下さる友人、こんな病状の中変わらず会って下さる友人、会ったことも無い自分にメッセージを送り見守り続けて下さっている方々、言葉が出にくくて拙い会話を噛み砕いて治療方針を固めて下さる主治医といつも優しいスタッフの方々。きちんと今に集中してきちんと感謝を返したい。

そして、そんな素晴らしい方々に囲まれている自分にも実は良い所あるんじゃないか?

眠れない事、クラッシュが起きてしまう事、味覚と嗅覚障害がある事、出会った事の無い症状を受け止めながら日々、最善の自分をきちんと生きてるじゃないか。相手に対して優しく生きていたいと思うのであれば自分にも優しく生きないと。自分自身が優しさに枯渇していては相手に渡せる優しさなんて持ち合わせてない。そんな口だけの奴から余裕の無い優しさなんて受け取れるか?

頑張りたくても頑張れない心身がバラバラになっている自分をそろそろ許して、理解して、寄り添わないと。友人が自分と同じ様に生きていたらいい加減にしてよ、って自分は相手に怒るだろう。それが自分になるだけで何故息も絶え絶えの中、寧ろもっと頑張れ!だなんて室内の酸素を減らしていってしまうんだろう。

周りの素晴らしい方々と過ごし、細やかな音楽や綺麗な景色を見て感動する正直な心が在れば十二分で僕は生きていける。

2ヶ月間お世話になる病院に緊張しながらも頭の中がクリアになった僕はまた北海道に帰って来た。幸いすんなりと受け入れて頂き20回を越えたBスポット療法も受け続けている。やっと週2から週1へと回数が減った。大好きな友人達とも会い笑い合う事も出来た。だけど、たった一つ。5歳から僕を育ててくれた祖母に謝りたい事があった。焦ってはいない。タイミングが有ったら話そうと時を見ていた。それは突然やって来た。バライティーを見ながら何となく幼い時の記憶を僕が話し祖母が笑った後だった。少し静まった居間で過去の話をした。

「俺さ、誕生日にばあさんの家の前に突然置いてかれたじゃん?あの時どう思った?」

祖母は少し目線を上に逸らした後、片方の口角を上げて話した。

「今日はyuitoの誕生日なのに会えなかったねーって言ってた所だったよ。お前が突然居間に走って現れたから私は慌てて外に出て直ぐにあんたの母親追いかけたよ。だけど、睨み付けられてそのまま車で走って行っちゃった。」

「・・・あのさ、俺が実家を出るまで何度も母親に辛く当たられて泣いて、そんな辛い姿見せ続けてしまったじゃん。自分をずっと育ててくれてたじいさんばあさんに申し訳なかったな、って思って。」

風呂上がりの祖母は汗を拭きながら僕の言葉を聞き終えると優しく言った。

「あんたのひいばあちゃんはね、あの子はお前が産むはずだったんだよって何度も言ってたんだよ。遠回りしてしまったけど、必ずお前はここの家の子になるはずだった。それにね、確かに可哀想な姿を沢山見たけど見る度に自分に何かの業が有って向き合わさられているんだな、って思ってた。だからお前の母親に対して思うことは色々有ったけど、恨むことなんて一切無かった。この子を家に運んで来てくれてありがとう、産んでくれてありがとうっていつも思った。お前には色んな思いをさせてしまったけど、私たちは日々感謝だったよ。腹を痛めた訳では無いのにする事が出来たお前の育児、楽しかったよ。」

「最近やっと母親に対して許せたんだ。自分もここの家の子供で良かったって心底思ってるし、じいさんばあさんに育てられて本当に幸せだったよ。」

「そっか。そう思って貰えるなら何よりだ。」

祖母はニコリと笑うと”そろそろ寝るね”と寝室へ向かって行った。パタリと閉まるドアを聞いて僕は1人賑やかなテレビを見ながら涙を拭いた。

時が許してくれるのならば、僕は2人に一つ一つ心を返していきたい。なんて、育てるのは当たり前だったんだからって付け加える様に呟いた祖母の気持ちを無下にするようでその言葉は飲み込んだけど溢れ出した気持ちはどうも収集がつかないまま、朝を迎えた。

祖父が話してくれた”この感染には意味が有る”この感染はいつまでも過去に固執して現在を見つめる事が出来なかった僕の顔を無理やりにでも前に向かせてくれた。もし輝かしい未来があるなら過去や感染を含めて同じ思いをしてしまった方に「1人で寒くないかい?」と掛けて寄り添うことが出来る衣を僕は手に入れた。破れたら、また縫い合わせれば良い。

2021年に起きた事柄は爪痕が大きかったかもしれないけど、その爪痕を隠す各方面から贈られてくる衣があまりにも多すぎて抱えきれない。だから、長い拙い文章ではありますが今の自分を纏めたくて、自己満足ではありますがお伝えしたくて作り上げました。皆さんに読んで頂きたかったのです。ここまで読んで下さり本当にありがとうございました。

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