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【創作文】二人分の散文

(3036字)

「あつい」

 風呂上がりにタオルで髪を拭きながらふと洗面台の鏡を見た。ところどころ赤みがかったミルクティーみたいな色の髪から水滴が見境なく落ちていく。
 ここ半年で三回髪の色を変えた理由と、左手親指の爪の色を髪色に合わせている理由は分からない。好きだったミルクティーは飲みたくなくなった。
 少し乱暴にドライヤーで風をあてたあと、耳にイヤフォンを突っ込んだ。歌い手さんの声が脳のどっかを乗っ取る。イヤフォンは五分ほどしたら耳から抜いた。

  リビングに移動し、風呂に入る前からダイニングテーブルの上にセットしておいたカップのヨーグルトを食べ始めた。テーブルの上のティッシュペーパーが残り少ないことに気づいたけど、それは見なかったことにした。
 ヨーグルトを食べ終えた僕は立ち上がり、壁沿いに置かれた木製の棚の引き出しから便箋を三枚取り出した。

「気持ち悪い」

 さっき口に入れた金属製のスプーンが体に合わなかったらしい。少し溜め息を吐き、ダイニングテーブルの前を通り過ぎてパソコン机の上にバサッと無造作に便箋を置いた。
 誰に何を書くんだよ。椅子に座ったまま、ぐるぐると深海に沈んでいくように意識が暗くなる。

 内部。声の蓄積。

【このまま蓄積させていこうか。多分テトリスみたいに上手く乗っかったらどっかで消える。】
【人が人である理由。そんなもん、いつだって寄る辺ないよ。】

「何かさむいかも」

 金属製スプーンを口に入れたときの不快感が蘇る。ほんの少し前までは平気だったのに。
 スプーンが悪いんじゃない。おそらく急に体質が変わったのだ。誰も悪くないことから生じる不快感なんてこの世にたくさんある。

 薄茶色の便箋、その三枚ともに散らしまくる文章。馬鹿みたいに書き手に不釣り合いな万年筆で、釣り合いの取れた安っぽい言葉を不規則に書く。
 こういうとき、綴る、とか言ってみたい。
 好きなものを好きなだけ書いて、その便箋で紙飛行機を作った。三機もあれば十分。机の上に飾る。明日もヨーグルトを食べよう。スプーンは木製にして。

 ヒューン……。

 柔らかい、だけどどこか冷たさが残る風が、椅子にもたれかかっている僕の後ろから吹いてきて、紙飛行機の横に置かれたティッシュペーパーがさらさらと揺れた。そういえば窓が開いていた。
 机の上に転がされたままの万年筆は微動だにしない。何故この万年筆が手元にあるのか分からない。ついでに何故これで文字を書こうと思ったのかも分からない。
 分からないだらけでもええじゃないか。細かいことはいいんだよ。ティッシュペーパーがまた揺れた。
 後方から子ども達の声が聞こえ、振り返ると、窓の向こうでは柔らかい橙色の光が若葉やらコンクリートやら、それから民家や商店街を染色し始めている。見えないだけで花もそこら中で染まっているだろう。
 さっきのヨーグルトは本当に美味しかった。やっぱり細かいことは気にしなくてもいいんだよ。

 ブーンブーン。
 キッチンの上に置きっぱなしだったスマートフォンが震動し始めたので、僕は再度立ち上がってそれを手に取った。
 数年前、感情的になって飲み屋の前でビジネスバッグを投げつけた相手からの電話。

『なあ、今からそっち行くから《ねぎま》焼いて』

 聞き慣れた元仕事仲間の声が耳に入ってから数秒間、声が出なくなった。何だって? ねぎま? 

「いや、待って。ウチは焼き鳥屋じゃないんだけど」

 談笑しながらキッチン向かいにある冷蔵庫の中身を確認する。鶏モモ肉が目に入った。廊下には新聞紙に包まれたネギが置いてある。そしてキッチンの引き出しには串が入っているんだ。何であいつはそれらを把握しているんだよ。今すぐ《ねぎま》作れるじゃねえか。

「今冷蔵庫見てるけど、材料から何から、全部揃ってるわ。何で知って……え? あ、そっか。僕が話したんだった。精肉屋の店主さんに顔覚えられて安くしてもらって……そうそう、ウチの近くの『アイアム肉塊』ってとこ。あそこいいよ」

 電話の向こうから嬉しそうな声が聞こえてきた。きっと彼は過去に聞いた僕の言葉と、ここに来たときに視覚から得た情報によって、今日のこの部屋は《ねぎま》が食べられる条件が揃っていると判断したのだろう。細かいことはどうのこうの、と大らかを気取った矢先に一瞬訝しんでしまったことを後悔した。仮にどんなドアの合鍵を持っていたとしても彼は勝手に内部には入らない。だから今こうやって笑って話せているのだ。

 冷蔵庫の扉を閉める。僕は笑いながら《ねぎま》を作ることを了承し、電話を切った。子ども達の声はもう聞こえない。
 スマートフォンを何故かまたキッチンに置き、壁沿いの棚の引き出しから便箋をさらに三枚出す。それらを丁寧にスッスッスッと机の上に横に並べて置いた。椅子に座り、インクで文字が滲まないようにと、今度はペン立てに刺さっていた鉛筆を持ってするすると文字を書く。

【お元気ですよね。僕は急に金属が駄目になりました。あのときは鞄を投げつけてごめんなさい。あなたの次の誕生日には鉛筆と便箋を送りつけます。僕を見倣って大事な人にさっむい手紙を書けばいい( ・∇・)】

 一度手を止めると、まだ白紙の状態である残り二枚の便箋と、右手親指の深緑の爪がふと目に入り、何となく噴き出した。

「もう言葉が続かないから、あとは焼き鳥の絵を描こう。深緑で」

 頭が上手く回らない。そこから言葉はもう出ない。便箋に絵を描いたって別にいいよなあ? 実体のない文章よりも焼き鳥をつくりたい。食べたい。食したい。栄養を摂取……

 つまり腹を満たしたい。

 手に持ったままでいた鉛筆を指でクルクルと回そうとしたけど、上手く出来ずに机の上に落とした。カランという音がした。何故ヤツは《ねぎま》を欲しているのか、何故今からなのか、そんな細かいことは分からないけど、あと三十分から百二十分後くらいにウチに来る。そして、僕のその大事な友人は朝になる前にどこかの女性のところに行くのだろう。

 この部屋ではあらゆるキャスト、ゲスト、物体、空気が拠点を持たない。確実に身を寄せられる場所など最初から存在しないのかもしれない。

 ヒュルンッ。

 また風だ。便箋が一枚、パタパタと音を立てたあとにひらひらと舞い、静かに床に落ちた。風がより冷たくなってきたけど窓は閉めない。
 僕は椅子に座ったまま落ちた便箋を拾い上げ、机の引き出しから色鉛筆セットを出した。焼き鳥の絵を描く前にもう少しだけ言葉を書くことにする。

【今は夕日が沈みそうで、明日の朝はどんな天気か知らないけど取り敢えず太陽は昇ります。】
【出来ればまた、仕事上でも関わりを持ちたいです。】
【今すごく嬉しい。】

 森のような色をした色鉛筆を持ち、頭を使わず体から出してきた三文と焼き鳥の絵を、三枚の便箋の上にそれぞれバランス良く映し、三度みたび立ち上がって、ケース買いしたスーパーのプライベートブランドの缶酎ハイ(シークワーサー)を一本冷蔵庫から取り出した。《ねぎま》の準備をする前に先行してマイナス一次回を一人で始めることにしよう。

 ブーンブーン。
 鞄投げつけられ男からまた電話がかかってきた。キッチンに缶酎ハイを一旦置いて電話に出る。

「もしもし。……え? お茶? いや、お茶はうっすい麦茶があるからいらない。その代わり便箋買ってきてほしいんだけど。あとで清算する。うん、そう、便箋。僕用のね。あははっ。ありがとう。待ってる」

とても嬉しいです。ありがとうございます!!