本日の被害者(ショートショート)
(1659字)
よく知らないホテルで、よく知らない人間とともに目覚める朝が好きだ。夜じゃない。朝。
それを求めて、今日も仕事帰りの夕方にコーヒーチェーン店で甘ったるいラテを飲みながら適当に“本日の被害者”候補にメッセージを送る。
【ねえ、今から明日の朝まで暇? 悪いけど被害者になってくれない?】
流石に相手も仕事中か……。十五分ほど待っても既読にはならない。それよりこの男、名前なんだっけ?
私は過剰に摂取した砂糖で溶かされつつある頭ん中を何とか働かせ、記憶を辿る。
「レノン……」
そうだ、確か零の音と書いてレノン君、二十五歳。私の一つ下。顔はどんな感じだったかな……
スマホの通知音が鳴る。
私の人生を細切れに奪っていくこの音がもしホストになったら、間違いなくすぐに確固たる地位を築くだろう。どんなに甘いラブソングよりも、“もっと欲しい音”だ。
【アキ、久しぶりだね。了解。その代わり、被害者はお互い様でいい?】
無事“本日の被害者”が決まったところで、私はわざと五分ほど時間をおいてからレノン君に返信する。
【レノン君、ありがとう。じゃあ、適当にその辺のホテル探しておく】
***
いつもそうだ。甘すぎるラテで脳が溶かされて、不明瞭な時間のなかに私を浮遊させながら、気づいたらベッドの上にいる。こんなことは日常茶飯事。だから、レノン君がシャワーを浴び、髪を乾かし終わった姿を見て一瞬、“この男、誰だっけ?”という感覚に陥った。
「ねえ今、僕のことを忘れていたでしょ? 誰だっけって」
レノン君は私の心を見透かしたようで、「ふふっ」と笑い、私が寝そべるベッドに腰掛けてきた。うん、忘れていたよ。ついでに、予約したのは私のほうなのに、このビジネスホテルの名前が何だったかも思い出せない。
だって覚えなくても、いいもの。
「忘れていたら、何か問題があるのかしら?」
「……。別に? 無いよ」
レノン君は簡易冷蔵庫で冷やしていたペットボトルのミネラルウオーターを取り出し、それを静かに飲む。私はいつまでも起き上がれない。
彼は本当に静かに、水を体内に入れる。入れ続ける。この人、そのうち溺れるかしら?
「私は、私以外の人間に溺れるなんて出来ない。他人のことを心に留めておけるほど清廉になれない」
「アキ、僕は――」
レノン君は水を体内に入れるのを中断し、ペットボトルの蓋を閉めて、優しく微笑む。
「僕はわりと他人に溺れるよ。“明日も貴方の隣は私がいい”っていう人以外は、大抵」
「……。真似しないでよ」
「真似じゃない。僕たちは元々、似ていたんだと思う」
「ん? ん……うーん……」
レノン君は一切の衣服を身に着けていない私の両手首を持ち、ベッドから引きずり出して床に落とした。もう少しで眠りそうになっていた私は、体感温度の急速な変化についていけず、心臓の動きを少しだけ加速させる。
「アキ、まだ微睡まないでよ」
「――寒い。布団に入りたい」
「先に一人で眠る気? お互いに被害者になるっていうのが今日の契約でしょ?」
「……」
「ねえ、アキ、どうして泣かないの?」
レノン君が床にペタンッと座り込む私の顔に、唇を近づけてくる。
「レノン君、どうして泣けないんだろうね、私達は……」
「さあね。急に誰かを巻き込んででも、自分の家に帰らないからじゃない?」
「なるほど。さすが、レノン君。その通り!」
「笑えばいいよ、アキ。晴れて明日は非日常からの出勤だ。お互いにね」
唇が、触れる。
「ねえ、レノン君。次に会ったとき、君の名前を覚えていなかったらごめんね」
「いいよ、別に。ねえ、そしたら僕の連絡先の名前は何て登録してあるの?」
もう一度、唇が触れる。
「ん? “安心する人”って登録してる。それ以外の情報は必要ないもの」
「ふふっ」
また、彼が優しく微笑む。
「アキ、ありがとう。それを聞いて安心した」
なんてタイミングがいいのだろう。
この、名前を忘れてしまったホテルの外で、激しく雨が降り出した。
きっと明日の朝まで、あらゆる雑音を消してくれるでしょう。
とても嬉しいです。ありがとうございます!!