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きりしま読書会⁉

アナログ作家の創作・読書ノート      おおくぼ系

  
 NOTEの記事からヒントを得られることが多い。マーケテイングの話のなかで、〈宣伝には痛みを伴う、痛みがなければ宣伝にはならない〉というフレーズに出会った。なるほどと、納得させられたのである。
 10年まえからすれば、小説という活字の物語が読まれなくなったような気がする。デジタル社会は、こま切れの情報が縦横無尽に飛び交い、次々と話題を創り出していく。それに遭遇しないと次はもうない。右往左往して時間が過ぎゆき流れに乗れないのが、アナログ作家たるゆえんである。
 『花椿の伝言』を上梓した時は、それなりに読まれ推しもあったが、最近の作はトント読まれない。それで、一人でも読んでもらおう、関心を持ってもらおうと、パートナートともに、きりしま読書会へ出かけてみようかとなった。
 
 当日になり、会場である霧島市の図書館は豪勢な複合施設で、ぜいたくなほど広くて絵画の展示会も催されていた。
 定刻前に、読書会を主宰する池田幹子氏に、ごあいさつをしていたところに新任の図書館長さんがいらしたので、こちらとも名刺の交換をさせていただいた。
 出席者は十人ほどで、とりあげる小説は中島敦の『山月記』である。
 まずは、それぞれの自己紹介から始まった。
 
私の番がまわってきたが、小説家と読者が面と向かうと、けっこう微妙なものがある。小説はフィクション、作り話であるので、小説をはさんで裏表の関係で対峙することになるのである。さらに、概して文字を媒介にして読者と対話する作家は、つづることは大好きであるのだが、話すことは苦手で下手である。ひとりで取り留めのないことを語り出すのは最悪である。で、系どんとしては、案内用として事前に、「K氏について私が知っているニ、三の事柄」という8頁からなるパンフを5部ほど用意したので、適当に読み回しして紹介に代えさせていただいた。
 
『山月記』の感想を順番に述べることとなったが、この作品は、マンガになったり絵本になったりと、現在でも生きているのである。〈乙女の本棚〉という人気シリーズがあり、二名ほどがその『山月記』の絵本を持参してきていた。トラのイラストに乙女も舞うという表紙は、異世界へさそうに十分のものがある。
本作品は、国語の教科書で出会って感銘を受けた方が多く、博学で才能のある李徴の独善的な生き方への疑問が語られた。それ故に、ウサギではなくて独尊的な孤高のトラになったのであるが、このストーリー展開を、薬物中毒者の妄想の世界を現わしたものであるとの意見もでた。また、国語時間の作品の解釈について、作者本人が、そのような模範的な解答を意図した小説ではないと、否定的な意見を述べたという例もあるとの前提のもとに、李徴が出世できなかったのは、ワイロなどを贈ることに疎すぎたことが、ひいてはトラにならざる得ない理由ではないかと述べる。
また、『山月記』を研究していたという若い男性からは、中島敦の父は、漢学者であり彼は並々ならぬ漢文の素養があって、本作の最後に出てくる漢詩については、彼がモデルとした『人虎伝』には記載されておらず、敦の創作と考えられるが、厳密には漢詩ながら完全な韻を踏んでいないことをあげ、そのことが意図的であったかどうか疑問を呈すと専門的な考察があり、かつ彼は、芥川の再来と言われたのだと、教えてくれた。
 
小説を提供する側の系どんにすれば、どのような意図をもって『山月記』が、現わされたのかは分かりにくいのである。小説には、モデルがあるということで、ある種のパロデイであり二次創作、三次創作でもある。
漢語の達人たる中島敦がはいり込んだ中国の作品文化は、巨大過ぎるものであったろうし、それに対する彼自身は、一匹の虎がわびしく吠える感慨のみを感じたのかもしれない。
 
 とにかく参加者全員して、忌憚のない意見や考えを一時間以上にわたり披露し合った。これって、ジャズ・セッションではないか、ふと思いあたった。一人がピアノを弾きはじめると、次々にトランペットなどが、それぞれ独自に参加して自由に曲を奏でる。それが、不協和音にひびきながらも、いつしか一つの壮大な音楽の流れとなっていく。不協和音自体も、何にもとらわれない自由の発露かもしれないのだ。
 このきりしま読書会もそのイメージに満たされていた。
 最後に池田氏が、小中学生の『山月記』の読書感想文を披露してくれた。
 それは、〈この李徴という、ややこしい性格の人は、人生を生きにくいであろう〉というものや〈妻や家庭をすててまで、漢詩の道を進むとは、なんて身勝手な人だろう〉
というもので、面白くてなるほどと、感心させられた。
 
 小説家、創作者というものは、ひとつの楽曲(小説)を提供して、読者はそれを、それぞれにアレンジして奏でて味わうものなのだろう、と考えたところである。
 
 話はかわって、最近の読書であるが、まずは、手嶋龍一の『ウルトラ・ダラー』と『スギハラ・ダラー』というチョー大作に挑戦してみた。手嶋氏は、NHKの元ワシントン支局長でもあり、国際情勢にかかる知識・学識は、半端ない方である。
 ウルトラ・ダラーと呼ばれるスーパー偽札をめぐって始まる「通貨のテロリズム」が「核兵器のテロリズム」へと発展し、現行のウクライナ進行を予言するような国際政治や経済の実情を背景にして、平和な日本では想像もできない、国際問題の複雑さを小説にして解き明かしている。読みごたえのありすぎる傑作である。
 『スギハラ・ダラー』は、日本の外交官杉原千畝の尽力により、ナチスドイツの支配からのがれ、アメリカに渡ったポーランドのユダヤ一家の軌跡を中心に据えた、その子孫の織りなす国際情報物語で、初期のシカゴの先物取引の成立やそこで財を成す若者の成長などを映している。いずれも、日本人ばなれした気宇壮大な群像小説である。国際政治や経済の現実感を知るための最良のテキストとなりえると思う。
 
 難解な小説は、これくらいにして現在読み進めているのは、阿刀田高の『花の図鑑(上)』である。主人公は、30代半ばの独身、鉄鋼会社の営業職・中座啓一郎で、東南アジアからの出張の帰途で、美貌のジャーナリスト麻美と知り合う。さらに、学生時代からの友人で、パリで個人画商をいとなむ法子、さらにスナック・バーのママ薫、この三人との濃密な逢瀬が繰り広げられる。
 仕事はちゃんとしているのかとヤジが飛びそうであるが、情事の間合いのフレーズが結構読ませるのである。
 
――会社には大勢の人間がいるよ。・・・でも実際には直属の上司だけで、会社のよしあしはきまるんだ。――
――でもいきている花がいいわね。明日は散るの。・・・造花がどんなに本物に似ても、命のりりしさがないでしょ。――
――「なんのために咲くのかしら」
  「植物にも自己顕示欲があるのかもしれない」
  「この花はずいぶんかわいらしい自己顕示欲ね」――
 
 花がモチーフになっており、この三人の花(女性)をめぐって下巻ではどういう結末にたどり着くのか、興味を持ってもっか読み進めているところである。


                                              (適時、掲載します。ヨロピク!)
 


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