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短編小説              「かけまい!」石清水と深山霧島

おおくぼ系


推しとは、ありがたいもので、新刊の電子書籍二冊を書籍(紙本)にしてくれという声をいただいた。期待にこたえようと、来月にはPODで刊行できるようにグアンバッテおります。その短篇集から「かけまい!」を今回掲載します。深山霧島シリーズのハードボイルドのミステリーアクション?
 読んでくだっせ~い!


「かけまい!」 石清水と深山霧島
                     
     1
 公立の女子高に隣接して、旧サツマ藩主の別邸が良好に保存されている。
 境は桜の並木となっており、毎年ソメイヨシノの開花が春を告げるころになると、風情のある邸宅を利用していろいろな茶会が催されるのが恒例となっていた。
淡い花が舞い散り緑の若芽が吹き出している、晩春のものうさを感じさせる曇りの日であった。旧型の黒塗りセダンが門のまえにとまった。
助手席から随行員が降りて後ろのドアを開けると、ダークスーツに落ち着いたエンジのネクタイをした人物が降り立った。
 背を伸ばしたその壮年は身のたけ、百七十センチなかほどで中肉中背のほどよくしまった体つきであった。門をくぐり、目隠しの一ッ葉の生垣を回り込むと広がる亀の池があり、築山から広がる松の枝の横を通り抜けていった。先に回廊でつながった家屋が建ち並んでおり、男は、その奥の茶室屋へと随行員に案内され、たどりつくと、一呼吸おいて敷石にあがり靴を脱いで縁台へあがった。明かり障子にむけて、「失礼します」との声をかけて、白くはえる戸を開けて中へと入っていった。あとに包みをもった随行員が続いた。
 六畳ほどの茶室は、真ん中にいろりが切ってあり、釜から湯気が上がっている。床の間を背にして小山のような人影が座っている。ダークスーツの男は正座をすると、釜の向こうの人物に深々と頭を下げた。
「就任のあいさつにうかがいました」
「ああ、ご苦労さんじゃな」と、渋い声の返事が聞こえた。
「確か、警視庁組織犯罪対策第一課長さんからの出向でしたな。祝着ごわんな」
「はい、恐縮至極に存じます」
「茶をいれもそか」と、茶主は、縦長の箱からひとつの茶碗を取り出した。
「茶の湯じゃが、作法なしということでな」たぎった窯の中から湯を取り出し、茶碗の抹茶にそそぐ。十数回ほど茶せんで混ぜて、どうぞと、客の手前に出した。男は碗を手に取りしばし見入っていたが、
「超先生、これは深山霧島茶碗ではありませんか」と、感慨深げに述べた。
「はは、わしのつくった深山霧島茶碗じゃ、先々代の模倣じゃ、らちがあかんと口をしめ、うすく金をひき、たけを深くし、さらに花も金で縁取りをしたと、わびさびを抜けて俗世間にもどしたつもりじゃ、はは」
「なるほど、時とともに器もうつり変わるとのことですか」
「まあ、一服してたもんせ、ところで、須賀井さんといわしたな、今回のあなたの仕事はないじゃな?(何ですか)」
「そこなんですが、見ていただきたいものがありまして」と、須賀井は、うしろの随行者をふりかえった。随行の秘書は持参してきた風呂敷包みを前へ出した。濃紺の包みを解くと桐の箱があらわれ、須賀井は、なかから茶碗を取り出し、ふくさにのせて、超翁へ差し出した。翁が受け取ってしげしげと見つめだした。
「んー、これは? この黒いうわぐすりは、石清水じゃごあはんか」
「ええ、これは警視総監室に秘蔵されている、神器のひとつです。先生に愛でていただけとのことでした」
「なるほどの、総監、勅命の証ということですか」
「………」茶室に沈黙が漂い、静止画となったなか、釜からは湯気が立ち上っている。
「最近、東シナの海は色んなやからが、たむろしちょっ。海上交易が盛んになって、瀬取りで不都合なものが日本へ大量に流れ込んでくる。そのことじゃろう」
「はい、いろいろと先生にご尽力いただけとのことでした」
 障子から光が差し込んできて、部屋のなかがあからんできた。白い霧島茶碗と黒い清水茶碗がそれぞれの色合いをかなでた。
「わしのは白茶碗での、在日名誉韓国総領事として白日のもとでの働きはできるのだがのう、黒い石清水を証に使うには、その筋につうじている、それ、あの県境の竹林の聖人に相談せばよかせんけ(よくはないですか)」
超翁は、いいものを見せていただいたと、石清水を返却した。
「では、先生からのご助言もあったということで、石清水を持参すればいいのですね」
「ああ、竹林へよろしく伝えてくんやい」 
 黒茶碗をつつみ、ありがとうございましたと、一礼を残し須賀井は退出した。
 
……何でこんなことになったんだろう……出会いは、コウジが信用農協組合・国分寺支店へ配属されてきて、チハルが先輩として窓口業務を教えることになったのが始まりである。角刈りの髪と眉毛が濃く大柄なコウジはゆったりとしていて、気が利くというタイプではなかった。窓口の新人は、なれないうちは隣のものが手をかさねばならない。すこしアドバイスが必要かなと考えて、チハルは、彼を終業後に食事にさそった。
「それは、やりまいですか」彼の言葉がわからずに首をかしげた。
「いや、行かなければならないのかと、女性と付き合うことがなかったもんで」
 コウジは笑顔をたたえながら言い直した。
「年上だからこわくて食事できないってこと?」
 冗談にしてその時は納めたが、その後の誘いにも彼はのってこなかった。自分に魅力がないからではないか、敗北感は意地に変わった。何回も断られると、果ては、コウジはがっしりした体躯で男っぽさが匂い立つが、女には興味がないタイプではなかろうかとも考えた。
それが半年ほどたったある日、コウジから突然の誘いがあった。勤務終了後、喫茶店の椅子にかけ、ブレンドコーヒーを二つ注文すると、コウジはやや身を寄せて切り出した。
「チハルさん、二十万円貸してもらえませんか」
「二十万、そのお金を……」何に使うの、カードローンもあるじゃないという言葉をかろうじて飲み込んで、まじまじとコウジをみつめ、後は気まずい沈黙となった。「考えてみるわ」と言い残して即座に席を立った。結局、借用書を書いてもらって貸すことになったのだが、その後の進展が早かった。
週末のある日に、コウジが酔っ払ってきてカオルの部屋のチャイムを押したのである。しかたなく介抱したことから、金曜日には部屋を訪ねてくるようになっていった。そして最初はイヤヨだったが、抵抗をはずされて親密な関係におちいり燃えさかっていった。年下の男をつかまえてのめくるめく秘め事が続いて二月もたったある日であった。新たに三十万円貸してくれないかと懇願されたのである。前の二十万円も返してもらってないし一体全体何に使うのと、激しい口論の応酬となったが、二人の将来のためにも何も聞かずに自分を信じて賭けてくれ、と泣きつかれた。ところが、その三十万円とともにコウジはあくる日から欠勤となり消えてしまったのである。
 コウジが消えてから最悪となった。チハルは支店長に呼び出されて、コウジとの関係を詰問された。その時うけた驚きと悔しさ、屈辱は全身をむしばんだ。
ーー彼が担当していた現金自動支払機の金額が合わなかったんだーー
えっ、まさか、いったい何なんだ。管内に設置されている現金支払機八台の補充点検を、コウジともう一人の男性社員とで行っていたのだが、コウジだけが積極的に札束の入れ替えを担当して、常に一人で点検して金額は間違いありませんと答えていたそうだ。今年度になり補充点検業務を委託に切り替えるので精査したところ、現金がかなり足りないことが分かった。コウジに問い質したところ、最初は十万円ほど借用のつもりであったのが、二十万、三十万円と、毎回ギャンブルにつぎ込んだのだという。その処理と処分をどうするか、話し合っていたところ、コウジは消えた。
支店長からコウジとの関係を根掘り葉掘り聞かれ、恥ずかしさに加え共犯者じゃないかと疑いの眼差しも感じられ、泣き崩れる寸前だった。  
チハルが退職を考えて、日々呆然としてさまよっていた時にコウジから、彼の懇願? いいわけ、さらに泣きの入り混じった携帯がかかってきた。
「なんていったって犯罪じゃない。今さらなにいってんの!」
 怒りが堰を切ってあふれてくる、同時に目頭がにじんできた。
「すまん、これにはふかーいワケがあって、いや、申し訳ない」
「すまんですめば、警察はいらないでしょう。君は犯罪者なのよ! わたしまで共犯を疑われたじゃないの どうしてくれる!」
「だから、これはワケありなんだよ。それに、支払機の件については間に立ってもらって、今、農協組合側と交渉中だ。なんとかなる」
「ほんとかしら? だまされつづけたから信じろという方が無理だわ。私の貸したお金も帰ってきてないのよ」
今は表に出られないので、代わりになって力を貸してほしいと懇願された。さらに、これからはコウジのイニシャルである「K」として連絡するのでKと呼んでくれと言う。まったくの勝手だ。不可解な世界に無理やり引きずり込まれていった。
 今、喫茶店で密かにあっっているコウジは、幾分精悍になったように感じた。それはKという呼称のように符号によった違和感が生じてきて、温かみが抜けているようであった。確かにKとコウジの二人がいると感じられた。
「いなくなったあとが大変だった。この気持わかる? 」
「ん、それについては悪かった」
「悪かった、の一言ですむような、問題じゃないでしょう」 
カプチーノのカップを見ながら、苛立ちがつのってくる。
だから、あやまってるだろう、こちらの話も聞いてくれ、と、今後について述べ、これが一段落したら結婚しようと持ちかけてきた。それは、コウジの郷里に行き闘牛の試合に賭けることで彼を助けることになる……百パーセント信じたわけではなかったが、女としてすでにからめとられていては従うしかなかった。そして、彼の指示に従って朝日嶋へ行くこととなった。 
コウジの故郷、朝日嶋は闘いの島だと言われ、闘牛があり、闘う風土の中でコウジは育ってきたという。牛のオーナーは、春、盆、秋それに正月と年四回行われる闘牛の日を目指してすべてを牛に注ぎ込む。その意気込みが周りを巻きこみ、これぞと思う牛に夢をかけて、地縁、血縁の応援団が結成され、当日は島をあげてのお祭りとなる。さらに勝負ごとにはつきものの賭けがともない巨額の金が動くという。勝てば御殿が立ち、負ければ行方をくらまさねば危ないらしい。
 
空港から約一時間で朝日嶋へ着いた。タラップを下り駐機場に立つと日光がふんわりと包み、冒険の予感を風があおる。照り返しのまぶしさに目を細め、ぬるく放たれた空気のなかを到着口へと歩いていく。正面のガラス戸には「五月四日春の全島闘牛大会」の大きなポスターの文字が見えて、角をからませ向かい合う黒牛の写真があった。Kが熱く語った、かけまいの世界へ一歩近づいたのだ。レンタカーの軽を借りてナビの案内で走り出すと、一時間ほどで、海のほとりの和式旅館へ着いた。チエックインして部屋のキーをもらうと、Kに請われるままに来てしまったと思った。
 暗くなりタクシーで町へ出かけた。後座席で厚い封筒の入っているショルダーバッグを抱きかかえて、ハブのたたきとつぶやいた。港と並行して走り店が連なった古い橋を渡ったところで降りた。行先は、街中で聞けばすぐわかるとのことである。島料理の看板を掲げた古民家風の居酒屋があった。暖簾をくぐってカウンターに腰を下ろし、バッグを膝の上にしっかり持った。いろいろあったので大分やせたが、すこしずつ食欲ももどりつつあった。Kの渡してくれた地図をとりだして、ウエイターに聞いて、めざすパブラウンジは、この二筋、先であるとわかった。「ありがとう」と礼を言いビールのピッチをすこしあげた。島かまぼこに油ソーメンを食べると腹もきつくなってくる。ジョッキを空けるとほんわりしてきたので、腰をあげてもいいこころもちになった。「おあいそ」といいレジに向かった。
 教えられたとおりに行くと、スナックやパブの灯りが点々と賑わいを見せており、なかに「光輝」とのかがやきがあった。店の扉を押した。
「いらっしゃい」とカウンターの中からママの声が響いた。
チハルは、肩から掛けたバッグをだいたままカウンターに腰かけた。
「はじめてですね。琉球からいらしたの」
ママは頭を琉球髷に結い上げて黄絣の着物が天井からの灯にたちあがり、背丈もあり、これから琉球舞踊が始まるかのごとくに感じられた。
「本土、いや九州から、黒糖酒を水割りにしてください」
ママが後ろのカーテンのかかった棚からボトルを取出してグラスに満たし、ナッツと島かまぼこを突出してくれた。
「宿が空いてなくて探すのでたいへんだった」
「この時期はそう。特にサツマ大島や琉球から大勢見えるし」 
「棚にカーテンがあると、ボトルを取り出しにくいんじゃ?」
「いえね、だれそれのボトルが置いてあるとわかると、かえって都合が悪いのでね。ふふ、ここは賭けることで生きる島よ」 
 そうなんだとほんのり思う、義理、人情に篤くて単純に生き運が良ければ極楽を味わい、時に運悪く地獄に堕ちる。それは、幻想を追いつづけるようにしか見えないが。闘牛に賭けてみることでKをすこしは理解できるかと思ったが、賭金を送ってきた時、なぜこんな大金をドブにすてるのかと、携帯で抗議した。わけは言えないけど、今回は絶対に五倍以上、場合によっては十倍以上になって帰ってくる。じゃあ自分のことだから自分でやればいいんじゃないと粘ったものの、顔を知られていてやばいし、今、身動きがとれない、今回が最初で最後にしてすべてカタがつくと説得された。
「ところで、ママさん、ハブのたたきを食べさせてくれる処を知らない」
「ふふ、ハブのたたきねえ。美味しいもんじゃないわよ。特に朝日のハブは毒が強いの。それで、ハブのたたきをここで聞けと誰から教わったの」
「あるところから、それはないしょです」
 ハブのたたきを所望すれば、「毒が強い」という合言葉があるはずだとKは教えてくれた。合言葉をしっかり聞いて平然として賭けてくれと注意をうけた。秘密を共有すると、しかたがないなとの諦めもついたのだ。はすかいにかけ、膝の上のバッグの中から厚み五センチほどの茶封筒を取り出して、何度も練習したセリフをポツンと言ってみた。
「かけまい、です。横綱戦に賭けます。四つあります」
 ママはしばらくこちらを見定めていたが、うなずいてメモ用紙とボールペンを取り出して目の前においた。先ず取組と賭ける牛、掛金額、名前に住所、連絡先、さらに銀行の振込み口座を書いてくれと言う。言われたとおりに書いて渡すと領収は出ませんよと言う。
「わかってます」声のふるえをかくすようにきっぱりと言い切った。
ママはメモの内容を見つめ封筒の札束を確認し、まとめて大ぶりの封筒の中に入れると、奥の暖簾の中へ消えた。そして戻ってきて口を開いた。
「琉球からきて全財産を賭けた人がいて、転んだって話を知ってる?」
「ああ、そういうウワサは聞きました……」
ドアが開いて客が入ってきた。まさかK? 一瞬ときめいたが、中年の客で周りを見回してカウンターの真ん中に座った。ママが離れていった。カオルはしばし客をみつめていたが、しっかりした首に肩幅のある中肉中背の男の横顔は精悍さを漂わせている。男を見ながら、肩幅があり太い首、コウジの大らかな体格はこの島特有のものかも知れない……忘れないうちにと、「ハブのたたき無事完了」とKへメールを打った。
 
 九時前にチエックアウトして、軽のパレットで闘牛ドームを目指した。ナビに従い海岸沿いに南下して、しばらくすると右折して山のほうへ上る。前後に軽自動車や軽トラックが、傾斜のきつい畑の中のあぜ道を一列になって走っていく。雑草の茂みが深くなると車が詰まりだした。青いはっぴの人々が誘導している。丘陵の先には、青い屋根に白い壁の円形ドームが見え、周りには牛を荷台に載せたトラックなどがたむろしている。次から次へ軽自動車が到着し、目の前を老若男女さまざまな人がドームを目指して混然としていた。奥の空地へ駐車して、人々のざわめきに紛れて歩いて行くと、「全島闘牛大会」ののぼり旗がドームの入り口に数本翻っている。
入り口をくぐると、そのまま最上段の階段席へとつながっており、すり鉢状に階段を下った先には丸い闘牛場が開始を待っていた。四千人以上入るというドーム席の九割方は埋まっており、作業服を着たもの、背に勢子と大書したはっぴを羽織っているものが行き来し、若い女性、子供、年配者なども動き回っている。上の隅の席が空いていたので、そこに座った。
 十時になり開会が宣言されて取り組みが始まった。デビュー戦から横綱戦まで十戦あるという。ジャンジャン、ジャン……三線(サンシン)による軽快な音が響いてきて、エイサーエイサーと六調の連が、鉄柵で囲まれた闘牛場の入り口に踊り出てきた。はやす人々の間を黒くてたくましい牛が勢子に引かれて入ってくる。牛は大きさに似合わず軽やかに闘牛場内を一周すると向こう側に陣取り、前足で土を掘ってはしきりに体に舞い上げる。闘気に満ちて興奮の極みにみえる。牛の首から肩にかけて黒い筋肉がもりあがっており、チハルはたくましさに圧倒されて息をのんだ。対戦相手の黒牛が遅れて入ってきた。牛の勢子は鉢巻をして白いはっぴに黒の文字が入っている。対する勢子は赤いはっぴに白文字が抜かれていた。
互いの牛を真ん中に引き寄せて頭を下げさせて、両牛の角を交互に組み合わせると、お互いの勢子が呼吸を合わせ牛の背中を同時にたたく。闘いが始まった。黒い巨大な塊が、どちらも角をあわせがっぷりと組み、びくともしない。立ち合いが成立すると、勢子が牛の鼻のロープを抜いて闘いやすくする。五分ほど中央で押し合っていたが、一方が少しずつ押し出し、勢いがついて相手はずるずると後退していく。ああっー、と観客から大きな声がでて、押された牛が角を離して柵に沿って逃げ出した。審判員の手が上がり勝負ありである。生でみる闘いの迫力に体が熱くたぎってくる。エイサー、エイサー、六調子の掛け声が起こり、のぼりを立てた老若男女が、一群となって勝牛になだれ込んできて勝祝いをあげる。幼い子を牛の背に乗せ周りの人々が、さらにエイサーエイサー、ジャンジャンジャンと踊り狂う。勝利の喧騒が一段落すると次の取り組みのアナウンスが続いた。
 新たな黒牛が声援を受けて登場し、しばらくして挑戦牛がのっそりと現れた。闘牛場の中央でお互いの角を絡めようとするが、挑戦する牛は頭を振って、なかなか角を突き合わそうとしない。そうこうするうちに挑戦牛が踵を返して柵に沿って走り出した。緊張のとけた笑いが起こり、審判員が戦意喪失とみなして手をあげ不戦勝を宣告する。逃げるが勝ちと走り回る牛を眺めながら、チハルも、その手もありかと笑みがこぼれた。
中堅の取り組みが終わった最後に本日のメインイベントとなった。
さすが、経験豊かな牛同士は、四つに組み合ったままお互いに一歩も引かない。挑戦牛の方がやや小柄に見えるが押し比べでは負けていなかった。十分を経過し、十五分にかかる長丁場になっていった。挑戦を受けて立つ横綱・宝珠一輝号が徐々に押し出した。勢子が勢いづいた横綱の背中を手でたたき、ハイヤーと奇声を発し足を踏み鳴らしてもう一押しを促す。
ハイヤー! 掛け声に合わせて宝珠一輝号がぐいと押し出した、と、挑戦牛は後がないとみてか、尻をふってつつと回り込む、オオッー、試合巧者に対して観客の大声援が飛ぶ。チャンピオンを中央に押し戻し、ひるむことなく角を突き合わせて中央での押し合いに戻った。どちらも息が激しくなり下腹が上下に波打っている。さらに十分ほど経過する。横綱が再び押し出すと挑戦牛はまた回り込む。ハイヤーハイヤー、 勢子の掛け声の間隔が短くなって猛烈にけしかけ、宝珠一輝号が押し出した。が、二、三歩出ると押し戻される。ピーッという口笛や怒声が湧き上がって、チハルも固唾をのむ、水入りともいうべき大相撲である。ーーガンバッテ、ガンバッテと必死で呼びかける。両牛ともに押しあったままビクともしなかったが、突然、宝珠一輝号が頭を横に振って自ら角を外した。アアッーとの怒号が飛び交う。闘いを放棄したのである。敗北を認め柵に沿って歩き出した。すると挑戦牛の朝日基山号が、ここぞとばかり横綱の腹部めがけて突進した。ワオー! と驚きの声が上がるなか、勝牛はチャンピオンの腹に角をかけて持ち上げ柵の外へと押し出そうとした。柵の近くにいた観客が騒然として逃げまどい、見守っていた勢子六人があわてて駆け寄り、牛を引き離し落ち着かせる。敗北牛がそそくさと引き上げていくと、応援連がのぼりを立ててなだれ込んでくる。粘り勝ちの番狂わせで興奮も最高潮に達し、チハルもいつしか闘いに酔っていた。
会場に、「挑戦牛、朝日基山号の勝ち!」との宣言がなされた。非難と悲鳴の混ざったどよめきが場内に渦巻いた。ハラハラ、ドキドキしていたチハルは、チャレンジャーの勝ちと聞くと、やった! との電撃が体を貫いた。極度の緊張がどっと抜けて、それはエクスタシーの波に変わって小刻みに何度も打ち寄せてきた。
この闘う牛のすさまじいエネルギーは、部屋で二人だけになったときに、突然チハルを襲ってきたときのコウジのたぎりを感じた……オスの獣性なのか、勝った朝日基山号の荒い息づかいにコウジがかぶり、かすかな興奮が下半身を貫いた。さっそくKへメールを入れる。ーーかった、勝ったよ。バンザーイーー 
 どよめきが落ち着いて人々が立ち上がりだすと、チハルも早いうちにと席を立った。動悸も収まり、賭けたお金が無くならずに良かったと、ほっとし同時に配当がいくら振り込まれるだろうかとの期待にふくらんだ。携帯が着信をつげた。
 ーー了解、十倍以上になるだろう、気をつけて帰れよーー
 昨晩、パブ光輝で、かけまいと言って、受け取った用紙に横綱戦のチャレンジャー牛を記入し現金の厚い封筒とともに差し出した。ママは用紙に目を通しちょっと怪訝そうな顔をしたが、何も言わずに受け取った。予想はみな本命のチャンピオンであったのだ。
「ギャンブル好きにはみえないけど、穴狙いは何かわけあり?」
カウンター客のひとりを送りだした後、ママがささやくように語りかけてきた。それでKのことをポツポツと語りだした。
「朝日の男どもは夢に狂ってるからね。そんな男と関係を持つとつらいね、女も強くならなくっちゃ、やっていけないよ」ママの言葉がほろ酔いの体に滲みわたった。
        
 チハルは、闘牛ドームを後にすると県道へ出て大きく西へと迂回した。左には濃紺の海が広がっている。盛り上がる海面を伴走して走り続けると唐湊町へたどりつくのである。三十分ほど走ると唐湊物産センターの表示があり、その横筋へと入って行った。前面に広がる街並みとを見比べながら、ナビが点滅する目的地の三五五三番地にたどり着いた。少し先に軽を停め降り立って開け放たれた門から中をのぞく。なかの平屋は、瓦の線が大きく波打ちツタが絡まり荒れ放題であった。なるほど、これが一時期、全盛をきわめたコウジの実家なのかと過去に対面して幾分さめてくる。両隣にはコンクリート塀のがっしりした邸宅が建ち、その間に古くて傷ついた廃家がひっそりとして、草に覆われた庭は自然へとかえりつつあった。何かの匂いをかぎ取ろうとしたが、閑散とした街区のたたずみは賭けで札束が乱舞する華やかさはみじんもなかった。Kは、朝日嶋では選挙の一票に十三万円と言う破格の値が付くと言う。それゆえに裏切りは許されずに、それが「かけまい!」の本質だと聞かせてくれたが、やはりげせない言葉であり、わけのわからない情念でしかなかった。
空腹を覚えてきたので、和風レストランで鶏飯ランチの昼食をとった。アフターコーヒーを飲み終わると、いだいていた期待もしぼんでしまっていて、ガラス窓からぼんやりと外の様子をながめることしかなく、はや飛行場へむかおうと県道へでた。
「かけまい」に敗れると男は屈折するのだろうか。敗けは死を意味する。それなら闘わなければいいじゃないと考えるが、そうもいかないらしい……Kは追い込まれていたのだと思う。男とはなんと不可解な生き物であろう。夢に破れ現実に破れると存在そのものを疑って消えてしまう。平穏な日々に大波を立てて、周りの迷惑も考えずにかってなもんだ。だが、なんとかよみがえった。これを最後にしてくれれば……
レンターカーを返却する駐車場のとなりは畑になっており、収穫期を過ぎたキャベツが、あそこここに葉を垂れて、季節はずれのモンシロチョウが沸き立ち、はげしく乱舞していた。チョウが祝福してくれていると、満たされたものが沸き起こり、チハルは、ひとときの幸せを味わった。
 
連休が明けた。チハルは朝日嶋の余韻をもてあましながらも日々の仕事に戻った。
配当への期待がつのったが、二週間たった土曜の昼前に、宅配便で段ボール箱が届いた。
 
         2
Kは、銀メタのクーペに乗り込んで、高千穂連山の麓にある、広葉樹におおわれた道を大きくまわりこんでいた。木漏れ日もないうっそうとした森林に囲まれて一時間半ほど進んでいたが、じょじょに日光をとり戻していくと、小林の町並みにつながっていった。簡易な駅をすぎ踏切を渡ってさらに細い道を進んでいくと青山に囲まれた窪地に出た。これ以上は車では無理と、クーペを道際に停めて坂にそって下っていく。左手に竹が密集し、奥に門柱があり家らしきものがたたずんでいる。玄関まで続いている石畳の上をわたり、開け広げてある格子戸の玄関まで来ると一歩踏み込んで、「ただいま、つきました」と声をかけた。しばらくして中から作務衣を着た老人がでてきて、Kを見るとうなずいた。
「失礼です」とKは靴を脱いでかまちを通ってその翁の後に続く。
居間に入ると老人は籐の椅子に腰かけ、伸ばした髭に手をやりながら、開かれた窓から緑のこもった庭を眺めながら、ぼそっとつぶやいた。
「首尾はどうじゃった」
「チャレンジャーに賭けたところへ、それぞれジャガイモが一箱送られてきたとこです」
 Kは、老人の前に腰をおろして丁寧に話し始めた。
「そうか、ジャガイモ払いになったとか」
「今年のジャガイモは、北海道も豊作で、キロ二十円しかせんので、掘り出しても人件費も払えん、どげんでもしてくれチ、朝日ではみな投げ出しとるようです」
 ジャガイモ払いか……朝日嶋の支払い手段のひとつである。
もともと賭ける土地柄であるから、今日は成金でも明日は文無しへ転落する。再び盛り返して一世を風びする。浮き沈みの連鎖が日常茶飯事となり、現金がなければ支払いを延ばしてツケにする。さらにジャガイモを渡し、あった時払いの催促なしも慣習となっていた。翁は庭にやった目線をかえようともせずに、ポツリと述べた。
「ジャガイモ畑を押さゆっ必要があっな(押さえる必要があるな)」
「十五年ほどは押さえたいとです。そいで金での支払いをうるさく言うとです。チハルのほかに数人ほど賭けさせとるので、配当は億を超すこつでしょう」
……その方向にもっチけば、中城も動かざるを得んじゃろ。アサ弁護士へ出向いてジャガイモを担保に取るよう直に伝えてくれ。
「わかりました。先生、報告は毎回来た方がよかですか……」
「ん、携帯は盗聴ができるから、どうも気がおけん。中身が漏れんでも頻繁に電話があっと、何かを匂わすかもしれん、間をおいて直接顔をあわせたほうがよか」
Kを諭すように述べる翁は、八十半ばを過ぎ痩せて背はやや前かがみである。薄い銀髪とあごひげの間にある、しわを刻んだ顔の両眼は、くぼんだ中に過去の栄光が照り返してみえる。Kは会うたびに、この竹林の憂国者への感慨が身に走り、かしこまってしまう。
「そいでん、宝珠一輝号によく勝ったですね」
「ああ、朝日基山号に細胞活性剤に興奮剤をあたえ、赤はっぴに反応するごとしたとが、功を奏したごたる。むこうもドーピングの牛じゃから微妙な勝負じゃった」
「こいで、ドンが去って、闘牛もかわる、ですか?」
「中城は簡単にはおりんじゃろう、莫大な負けとなっただろが、何かで取り戻す。そこがねらいよ……」
 嶋からは若者が、毎年「かけまい」を全身にまとい本土で一旗揚げようと出て行った。なかから多くの成功者や著名人が出ている。大相撲の横綱、九州のホテル王、医療法人旭州会さらには広域暴力団のナンバー2まで上りつめた者まで多彩である。絆は一心同体であって裏切りは許されない。島魂が郷土を出て都会に根を張る有機肥料となった。鉄板のつながりが強固に育ち、多かれ少なかれ社会的に影響力を持ちだすと、当然に当局や反勢力がうごめきだし、同郷からのやっかみも出た。今、島に君臨する黄龍会の中城は、朝日から琉球をのんで、さらに本土に昇って行こうと画策していた。もともと彼は琉球出身であり、よそ者が朝日を牛耳っているとの反発も起こっていた。琉球は歴史的に王国の伝統を持ち自尊独立の気概が高く、サツマ大島や朝日嶋から出稼ぎにいった歴史があるが、琉球朝の民は島人を下級民と見下し、けんもほろろな扱いで、まともな職につけなかった。
 四月中旬、竹林の憂国者、源庵のもとに超栄冠の紹介だとして、石清水をもってサツマ県警本部長へ就任した須賀井があいさつに来た。翁に向かって下げた頭をあげると、
「朝日は、近ごろ、眼にあまるようですが」と、ひとつの謎を投げてきた。
 精悍な本部長の口元のゆるみが、慇懃無礼で権力の不遜に見えたが、
「わしはもう過去の人間じゃ。列強に戦いを挑んで国はケ死んだ。とり残された老いぼれが、あがいてん、もがいてん、滑稽じゃが……国に生きがいを求め、行きついたところが、死に場所を得るようなものじゃった、国破れて皆死んだ」
「そうですか、死に場所? ……国をおもう純粋ゆえに、政治犯として民衆の狂気にさらされた」
「狂気でも何でもよかが、正義チいうのは、結局は無いもんじゃろ、んにゃ、正義チ一つじゃなかと、無数にあっと、ときの移りで消えてしもう……やっとわかった。須賀井さん、中城が眼にあまっとなら、つかめっみればよかじゃろ、それが仕事じゃろ」
 源庵は、須賀井へ目を流し、再びじっと庭を見据えた。しばらくあって、もうよかろ、とつぶやいた。
「朝日のことですが、石清水へのご配慮をなにとぞよろしく」
ーーこのような経緯があった。
「いろんなとこが、動き出したとですね」
湯のみ茶碗を手に取りながら、Kが口を開いた。
「中城もやりすぎた。貪欲に……急ぎ過ぎたごちゃっ」
一昨年、石材をくり抜き、なかに覚せい剤を隠して輸入していた業者が、麻薬取締当局の泳がせ捜査で摘発された。石材は朝日嶋でいったん荷揚げされたが、その後、国内船便を使ってサツマ港を経由し博多港へ、さらに横浜港へと回送された。そこで麻薬取締官が石材を取りに来た連中を現行犯で逮捕した。運搬船は各港を転々としており捜査対象から逃れようとしていたものだったが、日本の朝日嶋に着くまでの船のルートが、中南米コロンビアから中国青島、韓国釜山を転々としてきていたので、かえって不審に思われたのだった。だが黄龍会の中城は、うさんくさいとの嫌疑はかかったものの首謀者だとの確たる証拠がなく逮捕は免れた。この事件があってから、麻取当局は新たに発生した中城の覚せい剤の輸入ルート壊滅作戦を強化した。さらに警察も捜査に乗りだしたのだった。
「いままでの借りや今回の支払いをどうするですかね」
「借り入れは不可能じゃろ、覚せい剤で大きく損した。闘牛でも損してしもうた。次は慎重に何かをやるじゃろ」
「ところで先生、ないごてオイにそこまで、力を入れてくれるとですか」
……そうだな、ヌシが追われて転がり込んできた時、また、賭けて終わりたい気持ちが、わいたチゆおうか、戦後、今立ち上がらねば国は滅ぶ、と決起したとき朝日のヌシの親父さんも駆けつけてくれる手はずだった。裏切り者がでて警察に通報されて、結局計画倒れに終わったが……
「なら、今回、麻取りや県警などにつくのは分からんですが」
……わしも戦後は民主主義にそまり反権力を貫いてクーデター計画にも加担したとじゃが、結局は、権力との関係は持ちつ持たれつじゃチわかってきた、正義なんてどこにでも転がっちょっと(転がっている)。すぐ消えてしもて、どこにも残こりゃせん、ドンには一定の人望も必要じゃ、島民に愛されんといかん。首領も島民といっしょき社会の一端を担わんと、金もうけばっかいで、反社会的になってはダメじゃ、劣化するドンは疫病神じゃから消えざるを得ん……。
そんなもんかと、Kは納得出来なかったが、源庵翁の助けにより死に体から生き延びることができ、復活のきっかけとなったのだ。やっとチハルのもとにも顔を出すことができる。
 
カバーのかかったベッドにKとともに腰掛け、チハルは筋書どおりに、携帯電話に話しかけた。
「ジャガイモありがとうございました。ところで、配当はいつごろ振り込まれますか」
「チハルさん、ジャガイモ払いの意味をご存知ないの。しばらく待ってくれとのあいさつよ」
「それは朝日でしょうが、本土ではちゃんとするのが、当然ですよ」
 チハルに寄り添って、K、コウジが聞き耳を立てている。
「あら、本土は本土、ここは朝日よ。ああー、大和ンチュウとヤマト言葉で話すのは疲れてしまう」
「せめて、元金だけでも即、返してもらわなくては、どうしようもない」
 退社後の七時に郊外のホテルの一室でKと待ち合わせをしたのだ。Kは光輝のママに催促の携帯をかけてくれと言う、何もいわずに従った。
「金があれば、すぐ返すわよ。ないからジャガイモでしょう」
「まさか、掛け金をママさんが、吞んでしまったのじゃないでしょうね」
「ふふ、心配はご無用。ちゃんと賭けは成立してるわよ」
「では、耳をそろえて支払ってくださいと、胴元に強く言ってください!」
「チハルさん、それ、胴元が誰だか知ってていってるの」
「誰だか知らないが訴えますよ。それでもいい?」
「何言ってるの、賭博ってもともと法律違反でしょ。訴えて困るのはそっちよ。お店を開けなくちゃならないから、切るわね」
 ママのアクセントのある強気のセリフに、この人は胴元のなんなのだろうと思いつつ、通話終了のキーを押した。
「なにやってるか、ワケわからないわ、これでいいの」Kに振り向いた。
「ああ、また、週に二、三回、しつこくかけ続けてくれ」
 一円も入りそうにないのに、いやだわ、こんなの、と文句を言うとコウジが胸に手を触れてきた。失踪以来、お互いが直接顔を合わすのは初めてであった。
「ちょっと手を放して! 私がどれほど大変だったかわかってるの」
 いらだちの声を上げ、Kの手を振りほどいて立ち上がり、テーブルに備えてある電気ポットでお湯を沸かし始めた
「どげんしてん金を増やし、胴元の座を取り戻さんと、家を再興せんと」
「それで、今度とりもどせた? ワケがわからないよ」
「いま、胴元の中城を追い込んどる。朝日黄龍会のドン、すべり落ちるのは時間の問題だ。代わって俺がドンへの道を昇って行く」
 コウジの熱に対し、コーヒーは苦く、粉末を入れ過ぎたと感じながら、
「やっぱ、ワケが分かんない。私は、日陰や夜道を歩く生活は望んでないの」
「金がすべて、いや、金がなければやっていけない。今に良い思いをさせるさ。それより、再会を祝ってビールを飲もう」
 やはり、ちょっとだけ、いやだいぶズレてきている、目の前にいるのはコウジではなくてKだ。Kが冷蔵庫から缶ビールを取出し、グラスを手渡してくれた。注がれたビールの盛り上がる泡を眺めながら、光輝のママは中城のなんなのさ、そして私は、と連想が続いた。Kがチハルのグラスに缶をあわせて、カンパーイと一気に飲みほした。さらにベッドの上にあるスイッチを押して照明を落とした。
 朝になり、チハルは一人だった。Kはまどろんでいるとき、またなと先に出て行った。燃えたみたいで、そうでなかった昨晩のことが少しずつ蘇えってくるが、かえってさっぱりした気分になった。コウジじゃなくてKは、私と向き合っていく男ではないと体で悟ってしまった。たんなる情事の夢に違いないのだと……
 
          3
 フレデイは、グアムのアンダーソン飛行場を飛び立って、北上を続けていた。五千メートルの小型機専用レーンの高度を取って自動操縦にはいったが、機内は零下七度を下回りしんしんと冷えてくる。行先は韓国のソウルで、そこまでこのシーバードSRを運ぶ飛行プランの申請をしていたが、途中一か所着陸する予定が組み込まれていた。目的地ソウルまでの飛行距離は約三千三百キロあり、平均時速三百キロで進むと約十一時間でつくと、デイスプレイ画面は告げている。ただこの機体は、航続距離を倍以上に伸ばすために後ろの座席いっぱいに燃料タンクを二つ増設しており、かつバランスをとってある。ノンストップでもなんとかソウルまで飛べるはずではある。
ーー視界良好、GA一〇二四八号機は、このまま北上を続けるーー
 フレデイにとっては久しぶりの単独長距離飛行であったが、明け方一番で離陸許可をもらうと軽やかに舞い上ってきた。小型機特有の揺れは大きいのだが、この機体の設備は斬新で失速がおこると、レバーを操作すればロケットが飛び出して飛行機用パラシュートが開きゆっくりと軟着陸できる機能がついていて、その分安心して飛べるのであった。途中でこの装置のデモンストレーションをおこない、パラシュートを開き大空をただよい決められた場所に着陸する手はずになっていた。そこで念のため燃料を補給する。
 雲の上へでて日の光を受けると後はナビ画面を見ていればよい。自動操縦であるが、前面にある操縦桿には軽く手を添えていた。狭い操縦席で十時以上もこもるのは窮屈であり退屈でもあるが、報酬を考えると割のいい仕事であった。
最初の目的地はGPSで緯度二十七度四十三分四一秒、経度一二九度一分二秒に設定してある。昼を過ぎたころランチボックを取り出しサンドイッチにコーヒーのブランチをすませ携帯トイレで用をすますと、眠気がおそってきた。うつらうつらしながらも機体の流れを修正しつつ北上を続ける。八時間をなんとか過ぎたとき、雲の切れ間から眼下の海が銀色に照り返すのが見えた。小さな島々がまばらに見えて来て、ナビ上端に目的地の表示がでてきたので、拡大した。デモを開始する時間がまじかにせまったことを感じた。手動操縦にきりかえていったん高度を上げて、朝日嶋の唐鎌山を検索し通過目的地に設定した。しだいに見えてきた朝日嶋の海岸線の東南方向から目的の山に向かってスロットルを絞りながら進入した。
並んだ山のなかにナビの指示する唐鎌山が見えてきた。そのふもとの草地にパラシュートと滑空を利用して緊急着陸するのである。
やるぞ、とスロットルをいっぱいにしぼり操縦桿を幾分前に倒した。
ーー緊急事態発生、GA一〇二四八号、エンジン出力低下、失速のおそれあり、不時着を試みる。GA一〇二四八号不時着ーーレシーバーで異変を伝えた。デモの開始であるが、いかなる場合もパイロットは冷静であらねばならない。そして速度が二百キロを切ったところで、パラシュートレバーを引いた。ボンと音と振動がありしばらくしてガクンと機体が大きく揺れた。エンジン出力を停止してバランスをとり安定させた。高度計をみると分速五百メートルで降下して行く。降下速度に負けないように滑空を利用して補助翼を操作して、下界にみえる唐鎌山林麓の大きく開けた草地を目指して機体を誘導した。風の影響が少なく十分後には広々とした草地に固定脚機は無事着陸した。大成功である。
 フレデイは操縦席のベルトを外して、コックピットの外に出ると暖かさに歓迎された。極寒と緊張から解放され大きく伸びをした。朝日には先発隊がいて降下中の撮影を行い、さらに機体をトレーラーで飛行場まで運んでくれるはずである。到着を待てばよかった。十五分たって先に車が何台か見え近くまで寄ってきた。車からおりた人が数人寄ってきて五メートルほど手前で声を上げた。
「我々は日本のポリスだ。出入国違反容疑で現行犯逮捕、捜索を開始する」
 
ーー十二日午後二時過ぎ、朝日唐湊町の原野に小型飛行機が不時着したと警察へ通報があった。操縦士の米国人男性(38)が乗っており、今回、同機体を韓国へ運搬飛行する途中で、エンジントラブルのため機体に備わっていたパラシュートを開いて着陸を試みたものであるーー翌日の全国紙に小さくフレデイの記事が出た。
 
Kはソファーに腰掛け、源庵に向かって話し始めた。
「今回はやはり空からでしたか、ヤクのことは出とらんです。運び役は何も違法行為はおこなってないと言うとるが、知らされとらんかったんでしょう。航空管制官に定期航空便以外で、朝日嶋へ近づく機影があれば県警へ通報するは、ズバリでした」
 フレデイが不時着した現場へ、まず県警が到着しさらに出入国管理官、税関職員、麻薬取締官など十名以上が急行して、シーバードSR機を徹底的に捜索した。結果、後部座席に創設された燃料タンクは二重構造になっており、解体されたなかからヘロイン百キロが押収された。
「官憲が待ち構えちょったで、中城もただ眺めているしかなかったじゃろ」
 もみじが赤く色づき、奥にみえるクヌギも黄色にそまった庭を、竹林翁は眺めている。
「そいが幸いして、中城につながる証拠がみつからんで、首謀者との立証は、今回もできんとです」
「災難は運び屋だけか、知らされておらんかったというのが妥当じゃろな。ところでジャガイモはどげんなった」
「アサ弁護士に交渉してもらい、十五年分の収穫権をとったとこです。ただ、畑の名義は女名義となっており、不足分は、宝珠一輝なども渡してもろとです」
Kは、証文の写しだと言って、封筒を差し出した。
「なるほど、こんジャガイモを足掛かりに、ヌシも朝日へ戻っか(もどるか)」
「はい、中城が失脚したら、闘牛を合法的な庶民の賭博にできんとか、特区制度など研究しっせえ、オッズなど観光起こしをやってみるつもりです」
「なるほどのう、変わって行かざるを得んたろな」
時代かのう……もう一度翁はつぶやいた。が、ここまで追い込めば、こちらの意図がみえみえになり、あちらも死にもの狂いになっかもしれんぞ、ドンの意地で。
「当局がこっちと連携して標的にしちょるとわかれば、勝ち目のない徹底抗戦より、引退の道を選ぶんじゃなかでしょうか」
Kには、かけまいに勝利の女神がささやくのが見えてきた。
 
 いっしょに昼飯を食べようとKからチハルにメールがはいった。Kは、昼前に朝日嶋からサツマ空港へ返ってくるので、県都にあるアパートまで送ってほしいという。
到着口で待つと、いままでと違ってKは堂々と出て来た。チハルは愛車のベントに乗せ、近くの空港ホテルの一階にあるレストランへ滑り込ませた。
テーブルで向かい合うと、コウジはKへ変わりつつあるのが解かる。背筋をしゃんと伸ばし、メニューをながめる眼が細くなり、いままでのポッチャリ感がほほもこけ精悍になりつつある。
「寿司定食にする。チハルさんもそれでいい? ……喜んでくれ、もうすぐ朝日を制圧できるんだ」
セイアツ? 意味が分かんない。抑圧するということか、Kの関心はチハルにはなくて朝日だけを見つめている。「違った話題はない、お土産はないの」もうすこし気を使った会話はできないのかと思う。運ばれてきたイカ、トロをほおばり、茶わん蒸しをすすりながらも、Kは何かをしきりに考えている。
「光輝のママさんは、その後どうだい」
「先日久しぶりに電話してみたけど、結構いら立ってるみたい」
「そうかもな。先月、弁護士といっしょに乗りこんで借金のかたに、チャンピオン牛を手に入れた。これで中城も壊滅へ一歩近づいた」
「へーそうなの。言われたとおりママに、貴方のボスは、金を計算するソロバンだけが大得意で、義理人情、読み書きはできない島ンチュウだってよ、って言ってやったけど。さすがに怒って、即、切られちゃった」
「そうとう追い込まれているからな。新春の闘牛大会はなんとか取り繕うだろうが、牛主でなくなったから五月の連休まではもたない」
 ……闘牛もドンの話ももういいから、私たちのことは、どうするの、これが聞きたかった。朝日嶋の闘牛への旅は、Kとの秘密を共有するようで、何かが起こるワクワクとドキドキに満ちていたが、今は霧散してしまって、Kの部下として仕事をしている感があった。K社長に言われたことを担当として忠実に実行しているにすぎないのだ。
「中城は解散届を出すと、うわさも流れている。真実味のある情報だ。そうなると朝日へ正式に進出する。落ち着いたらチハルさんも来れば?」
何なんだ、そのいいぐさは、私はあなたのセックス・フレンド? 付け足しの一人でしかないのか、何かがひとつ終わった……コウジとともに手をつないで春の空に舞いあがったつもりだったが、奴はKに変身して一人飛び去って行く感じ。放り出された私は、きりきり舞いさせられて、急降下、墜落寸前である。少し、いやだいぶむかつく。
 昼食は淡々として二十分で終わった。Kが支払いをして、これからアパートまで送ってくれと言う。駐車場へ向かい、待っていたホワイト・グレーのベントのドアを開け運転席に座った。熱気がこもっていたので窓をフルオープンにした。Kが助手席に乗り込んできて座った。スターターを回した。
ゆっくりとベントを進めいっきに加速した。ブオーンと特有の音を発して二千CCが走り出した。車内はときめく密室とはならず、横にいるKは単なる荷物に思える。走りに徹した無骨なワーゲンの手ごたえはコウジに似ていると感じていたのだが。すぐに六十キロを越した。カーブの多い下り坂をこの速さで下りるのは難しく、対向車が少ないのが幸いする。小さい頃から鍛えられた反射神経は三十歳を越したいまでも自信があった。それにやはりドイツ車だ、アウトバーンを想定した堅固な造りで曲線が連なる坂を、タイヤをきしませて下っていく。なだらかになったところの赤信号で停止して直線道路に出た。ここから車も多いので流れに乗る運転に切り替えた。となりの荷物はまた考え込んでいる。
 真っ直ぐに伸びる二車線を県都方向へむかって走る。もう少しすると左に曲がり近道の迂回路へ入る。丘陵を上りきったところで分岐点にさしかかりハンドルを回した。舗装されているが一車線やっとの狭い旧道である。周りを林に囲まれゆったりした畑の中を、速度をおとしぎみにして走り続けた。五分ほどして左右に分かれるT字路に出た。直前で、ブレーキーを踏み込んで右左を確認したが車も来ず、ゆっくりハンドルを繰った。左折して二十メートルほど行った時である。いつのまにかセダンが後ろについていた。
「そこの車、止まりなさい! 」後ろからスピーカーの声がする。
 セダンは覆面パトカーであった。何事であろうと、ベントを路肩の草地に停めた。後ろを振り返ると覆面パトから制服の警官がおりて、こちらへ歩いてくる。
チハルはドアを開けて車外に立った……なんか事件が起こったのだろうか。
「角を曲がるとき一時停止をしませんでしたね。一時停止違反です」
 中肉中背で帽子をかぶりサンブラスをかけた警官が一人、ゆっくり近づいてくる。
「免許証をだして、同乗者もおりてください調書をとりますから」
 Kがドアをあけて出てきて警官へ視線を移しながらベントの前を回り込んで、チハルの横に立った。刹那、警官が腰のホルスターから拳銃をひきだした。あぶない! Kがチハルを突き飛ばし警官に飛びかかるのと同時に音が聞こえた。
パスン、パスン、空気の抜けたような音がしてKはそのまま崩れ落ちた。さらにパスン、パスン、何かを留めるような音が再びした。警官は急いでセダンに乗りこみ、急発進の響き音のみが後に残った。コウジ! カオルは立ち上がると駆け寄った。胸と脇腹あたりに血だまりが三つほどあり、ブルーのシャツを鮮血で染めつつあった。
……くそっ、やられた、やりまい、Kがつぶやく。
チハルは携帯を取出し、一一〇を押し、叫んだ。
「殺人です、殺人事件です、早く来てください。早く、殺人事件です」
 
          4
 デジャビュ……チハルは、一瞬にして抗争事件に巻き込まれた女となった。
 西南日報の三面で大きくとりあげられて、テレビの全国ニュースで流されると、もう超有名人である。なにが何だか分からないままに朦朧(もうろう)として激痛の時が過ぎてゆく。一人になると強烈な混乱がデジャビュになって襲ってきて、半狂乱になって崩れ落ちる。コウジの葬儀に行けるはずもなかった。県警の組織暴力対策課で事情聴取をうけ根掘り葉掘り聞かれた。抗争事件の当事者の情婦であり、恐喝の片棒ともなり共犯者扱いである。Kとともに金をゆすり取ろうとしたことの報復じゃないかと、やり過ぎたのでは殺されても仕方ないとも聞こえた。早く犯人を捕まえてよ、相手は警官の服装をしていたのよ、と懇願するのだが、昨今、コスプレで誰でも警官になれるし、捕まえるために詳しいことを知らねばならぬ、と言われた。闘牛のことから延々と質問攻めにあったが、何も知らない、わからない、自分もあの場で狙われたのだと狂乱した。警察は護ってくれないのか! 大丈夫です心配ありませんとのセリフがうつろに聞こえた。ところで彼と何回どこで会ってどんな話をしてセックスをしたかどうか……おかまいなしに女の弱みに突っ込んでくる。こいつら、弱い被害者に対して何だとむかつくが、あらがう気もなくただ極度の憎悪から吐き気を催してつっぷした。解放されたとき、母が心配して付き添ってくれたが、一人にして! と、アパートに引きこもり窓のカギをしてカーテンを閉め、薄闇にひとりポツンと囚われると、生きる自由をも奪われてしまっていた。
携帯の音も恐怖を増幅し、かといって電源を切るのは孤独に抹殺されそうで怖かった。マナーモードにして遠くの座布団のうえに置いた。外を歩くと、さらし者になり行き交う人が皆、仮面をかぶっているような気がするのでこもらざるを得ない……食べなければ……夕方、コンビニをめざしたが、家の外ではマスコミが待ち構えていた。振り切ってドアを閉め、また貝になった。人が恐くてしようがない。深夜、丸いサングラスに帽子をかぶって、ドラッグストアへ駆け込んだ。仕事で疲れすぎているからと鎮痛剤、精神安定剤、眠り薬を買い込むと一安心し、コンビニまで足を延ばした。サンドイッチ、インスタント麺、ヨーグルト、ビール、ワインなど無造作に買い込んで袋一杯の食料を確保した。宅配便のパンフも無造作につかんできた。仕事は欠勤続きとなっていて、母に電話して一身上の都合で退職したいことを伝えてほしいと頼んだ。母から後ほど電話があり、ああそうですか、大変でしたね、お体に気を付けてくださいと言われ、意外にあっさりしたもんだったと聞いた。すべてが、どうでもいいことになってしまった。被害者なのに……コウジと関係をもったばかりに、平穏な郷土に騒動をおこした加害者にされてしまった。人生を間違ってしまっていた、ああっ! 考え出すときりがなく、ワインを空け焼酎をショットグラスであおるが、デジャビュはますます鮮明になり追い込んでくる。眠っているのか起きているのか分からない。酒の酔いと睡眠薬でうつらうつらし始めると、突然、警官の銃口が光る。それがKに変わる……おののきが湧き上がってきて、あの時に戻る。
母から電話がかかってきて、心配だから実家へ帰ってこいとしきりに誘うが、一人でないと休めない、心配しないでと決まり文句を返し、すぐに切る。携帯が呪いの箱に見えて、いやなのだが、外界とつながる唯一の窓でもあった。
 夕刻、Kの唯一の接点として残っている、光輝のママへのボタンをおした。
 ツルー、ツルー、ツルー、携帯が何度か叫びを発すると、「もしもし」との声が響いた。
話すことは何もなく、ただ声を聴きたかったのだが、しばらくの間は呆然として、耳だけが研ぎ澄まされなすすべを知らなかった。相手もしばらく間をおいて話し出した。
「チハルさん、おひさしぶり。事件のことを新聞で知ったけど、やりすぎた報いじゃない。朝日の男の闘いはすさまじいから、やられた者は残念しごくでしょうがね」
勝ち誇った含み笑いが見える様だった。
「いちおう、御愁傷様でしたと、お悔みを申し上げておきますね。お体にはくれぐれも注意してくださいね」流ちょうなリズムで慇懃無礼な社交辞令が舞ってきた。
「………」ひとことも述べられずに、クソッと通話を切った。
腹立たしさのまま今までの携帯の記録を読みなおすが、気がますます陰りゆき、Kからの通信記録をひとつずつ消していく。二十ほど削除した次のメールに、「何か困りごとがあったら、源庵先生に相談しろ」とのフレーズが眼に留まった。気にも留めなかった文字が急にかがやきだした。そうだった、すがるようにメールに記載された番号を打ち込んで発進キーを押した。
 プッ、プッ、プッ、ツルー、ツルー、ツルー、呼出音がとまった。
「もしもし、源庵先生でしょうか、桑野チハルと申します」
「ああ、K、いやコウジ君の友だちだったチハルさんですか。この度は大変ごわした」
「先生、コウジから以前なにかあったらと先生へと言われていたので、今、先生にお電話しているんですが、犯人はコウジがいってた黄龍会の中城じゃないんですか。先生、お願いです仇を取ってください」
「……チハルさん、めったなことを言うもんじゃなか。わしは、政治犯にはなったが、任侠者でも暴力団でもないんじゃ」
「ですが先生、殺人の黒幕をほっといていいんですか。警察は犯人を追ってますが、殺した者が捕まってもほんとうの解決ではない、違いますか」両手で携帯をもち哀願した。
「ボスの指示は明らかです。中城をなんとか、お願いします……お願いします」
 ママの笑顔を無茶苦茶にしてやりたいと思った。
「内容が穏やかじゃなかですな、チハルさんよく聞いて下さい。そのようなセリフをはくと冗談じゃ済まされんで、殺人の教唆または殺人の共犯者そのものとなっど。それに、昨今は犯罪にかかわる電話の盗聴はあたりまえじゃ。電話の内容しだいでは、いつ捜索を受けるか分からんとですたい。警察に、はやくコウジ君を殺した犯人をあげて事件の真相を明らかにしてくださいとは言いもすが」
 それじゃダメじゃん、何にもならない、と思うが声にはできなかった。
「チハルさんの気持ちは充分わかります。力になれんで申し訳なかとですが、何かあったら、また電話をくいやんせ」
狂おしい想いを率直に述べたが、空振りになって孤独が何倍にもなって返ってきた。
 ……この部屋にコウジが酔っ払って来て、ことが始まったのだが、あのときの甘美なおののきは跡形もなくなったーーおい、コウジ、早く金を返せよーーもうちょっと待ってチョーー二人だけの密やかなやり取りも懐かしく、すべての人々から避けられ消し去られようとしているコウジが無性に愛おしくなった。消えてはうかんでくる情景……あの拳銃には弾が何発はいっていたか……有無を言わさぬ殺傷力、人を消す力、それが男どもの芯となる。女性は弱く、か弱くて病んでいる……すべてにむかつきが起き上がってくる。
 
 晩秋にはいっていた。日に照らされたジャガイモ畑の畝がはるか先の防風林まで続き、緑の絨毯のうえに白い花を散らばらせていた。中城徳篤は、作業服に地下足袋履きで軽トラを一人運転してきて畑に向かい合っていた。
この夏に北海道では未曾有の豪雨にみまわれて、ジャガイモ畑が壊滅的な被害を受けた。それで、ポテトチップ用の在庫が底をつきだしたとのニュースが流れだした。
今、黄色い芯をもった可憐な白い花をながめるのは、黄金を育てるに等しく、大きな儲けが期待できる。日々の楽しみと育っていた。朝日嶋の赤土はジャガイモの栽培に適しており、サトウキビの需要が減り出すにつれてしだいに増え、ニシユタカを秋に植えて二月には春一番と銘打って出荷できた。エグサの抜けた甘味を持ち、かたくずれしない品質は本土への評判が広まりつつあった。
 おもえば、琉球がはるか昔の過去になりつつあり、生活も言葉も朝日に染まってしまっていた。畑の中ほどへ進み松と雑木の混ざった暴風林の向こうを想った。海の向こうへ、その先へ先へと気がすべって行くと琉球へあたる。琉球抗争に敗れて古い漁船で黄龍中城一家四人が朝日嶋へのがれて来て二十六年がたっていた。朝日に根を張った義弟もひとり一人と亡くなって、当時一番若かった最後の一人六十歳が、黄龍会の意地を貫かねば、男が立たない破門してくれ、と去って行った。その後、殺人事件が起こったのだ。
畑にかがみこんで小さな白色に目を近づけた。情け深いーーこの花言葉のように生きてきた。抗争家業からまともへ転換するきっかけを、ジャガイモに託したのだったが、琉球にとって帰るには莫大な資金が必要だった、手っ取り早くて湯水のような豊富な資金が……もうすこしという時期に、密輸や闘牛でケチがついた。が、絶対に勝ちあがって海の向こうへ、本土へも……黄龍の旗をあげてみせる。あぜ道へと歩みを進めた。カヤや雑草がひざ丈ほど生い立っていて向こう側は茂みと化していた。草を刈らねばならないな、足にからみつく煩わしさを想った時であった。左足首にガラスの破片が刺さったような激痛を感じた。ウッとうなると、次の一撃が来た。シモタチー、マジムン、クウラチ(しまった、ハブだ、ハブに咬まれた)足のコントロールを失って腰から崩れ落ちた。
 タンガ、フランカヤ、タンガー(誰かいないか、ハブにやられたあー、誰か)……うずくまっていると、動悸がだんだんと細くなっていき目の前が花畑のように白く染まりだして行く……まだまだ大丈夫だ意識はある。だが、ドウヤ、エランダー、タスケテタモリ(俺だ、ドンだ、助けてくれ)……とは叫べなかった……
 
ーー中城徳篤さんがハブに咬まれて死亡。六十九歳。昨日の早朝、中城さんは畑を見に行くと言って出かけたが昼を過ぎても戻らないため家人が、心配して見回りにいったところ、あぜ道に倒れていた中城さんを発見した。足首にハブに咬まれた傷が三か所あり、すぐに病院へ搬送したが、すでに手遅れだった。中城さんは被害を軽くするハブトキソイドの接種を受けていなかった。この畑の近辺では一ト月ほど前にも咬傷被害があり保健衛生所ではハブが多生している一帯を駆除する検討をしていたところであった。ハブ被害者は年々減少しており、朝日嶋では昨年十四人がハブ咬傷被害にあい、うち五人が死亡しているーー翌日の西南日報にベタ記事が出た。
 
 チハルは、昼のインスタント焼きそばを食べながら、ハブに咬まれ死亡とのローカルニュースを見ていた。顔写真のついた一分ほどのニュースであったが、えつ、中城というと黄龍会のドンだ、亡くなったのか、こんな顔だったのかと呆然とした。コーヒーカップを持つ手が微かに震え、一瞬、戦慄が走り、頭が真っ白になった。ハブに咬まれたとは天罰に違いない、が、やったーと、もろ手を上げてはしゃぐような喜びはわいてこず、運命のいたずらに底知れぬ恐怖を感じた。しかし、光輝のママから投げつけられた真っ黒な敗北感がはげおちてゆき、かすかな快感へと変質した。
食事をそこそこに終えると、携帯を取出し発信のボタンを押した。
もどかしい通信音を数回聴くと相手が出た。
「源庵先生、今、テレビニュースを見ました。コウジの仇を討ってくださったのですね。ありがとうございます。感謝、感謝です」早口でまくしたてると目尻がゆるんだ。
「チハルさんか、めっそうもなか。あれは偶然の事故じゃよ」
「事故だとしても天佑です。先生をはじめとして、なんらかの願いが通じたのだと」
 チハルは目の前に源庵翁が居るかのごとく深く頭をたれた。
「ただな、話の種としてじゃが……ハブ捕獲人があぜ道の藪の一帯で、ハブを放し飼いにしちょったと言う。起こりうる事故ではあるかもな」
「えっ、ということは?」
「うわさ話じゃけん、警察も事故死として問題にしておらん。ハブによる事故死じゃよ。じゃが、仕掛けをしたとしたら蛇の道はヘビじゃろ、大蛇、パイソンと呼ばれる中国の結社じゃろか。中城は長い付き合いのあった中国の麻薬ルートを見限って、インドネシアからグアムを経由したイスラムルートに頼ろうチしおった。朝日をめぐってというより、日本はあらゆる国の勢力が暗躍しているというか、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が、ばっこしちょる……いや、チとしゃべりすぎたか。これでよかろ」
 翁はゆったりしゃべって受話器を置いた。
チハルは、しばらく間をおいて通話を切った。源庵のたとえ話は複雑にいりくんだ現実を感じ、十分に理解できなかった。けれど、中城の死の真相を知らせてくれたようで、自信に満ちた語りはチハルを勇気づけるカンフル剤となった。ベッドに這いつくばってもだえていたものが、全開モードになり立ち上がってくるのを感じる。ざまあみろ、やってやる、ニヒルなスマイルも漂ってきた。
 携帯で光輝のママの番号を呼び出し強く押した。
予想に反して即つながった。
「………」互いに沈奥が続いたあとで、チハルが口火を切った。
「さすがに観念したみたいね、すぐに出た、そこはほめてやるよ。これでお互いにご愁傷様になったわね。」
「単純バカの見本みたい。当然、かかってくるだろうと想定ずみだよ」
「なら、参りましたといいなさい。そして、元金からなんとかして返済するの」
「何のお話、言ったでしょう、その話はとっくにすんでるの。胴元は命で支払ったじゃない。こちらの方が頭にきて、慰謝料に賠償金を請求する立場よ」
「それなら、ハブに対して請求すれば。ついでに貴女もハブからキスしてもらえば? いや、マングースをたらしこんで、あのハブを殺って下さいと頼めば?」
「よくも……そこまでいうか」
「なら話題を変えようか。あなたは中城のなんだったのさ」
「想像におまかせするわ。答える必要がないもの。あんたこそ、黒コウジか白コウジが知らないけど、コウジのなんだったのさ」弾の打ち合いが続いた。
「まだまだ、私が元気だってわかっただろ。もう切るよ、じゃあ」
 ママは平静をよそおっていたが、精一杯だったのだろう、崩れ落ちる様が浮かんだ。ざまあみろ、こちらの悲しみをドンと投げ渡してやった。悲しみよ、さよならだ。通話を切ると気が抜けた。売り言葉に買い言葉で、女としてママだけには負けたくない、私のかけまい、いや女のヒステリーだ。気持ちが高ぶって爆発することで危うい安定を保つ。かすかな笑みをつくり直感した、この戦いは勝てるかも。完勝とはいわないまでも負けはしない……読めてくると、高まりが急激に引いて別次元へと飛んだ。
 
 年が明け、早春の息吹が感じられる季節になってきた。
 コウジを殺した犯人はまだあがっていないが、日々新たなことが起こって行き、事件自体がうすれてゆき、チハルはようやく薄紙が剥がれるようにわずかながら再生しつつあった。素顔をさらして外出できるようになり、くれなずむなかアパートを出て大通りを横切った。三つ目の筋を右に折れて路地裏の居酒屋「南花」に向かう。店の引き戸を開けると止り木には二人の先客がいて、チハルは右の端に腰掛け大将に焼きと生の小をと注文した。「お待ちどう」ビールが半分ほどになったころにやっと串焼きホルモンが出され、濃厚な匂いに一瞬むせた。軟骨のホルモンを取り上げる。ガシッと歯ごたえがあり、かみ砕くとタレとともにうまみが口に広がる。疲れが飛んでいき体にエネルギーが満ちて元気が戻ってくる。大将は、事件のことを知ってはいるのだろうが、匂わすことや元気づけることはなく泰然としていた。これから何とか平穏無事に生き続けることもできようか、やりまい、やらなければならないと思った。
 春の酔いは、ふんわりとしていいものだ、おあいそと、勘定をすませて外へ出て夜道をアパートへと帰る。ドアをあけたときに、ただいまと声が出た、忘れていた言葉だった。テレビの音楽番組を流し、残っていたロゼワインをグラスに半分ついでベッドに寝転んだ。流れるポップのリズムをぼんやりと聴き、忍び寄る季節の生気にひたっていた。
 ピンポーン、チャイムの響きが起こった。ドアをあけると、宅配便でーす、とひとつの段ボール箱を渡された。ああ、ご苦労様ですとは言ったものの、贈り主を見ると、またジャガイモかとうんざりとした。
 ベッドの横に運び、カッターナイフで送状とガムテープを切りとった。
箱のうわぶたを開けたとたん、うぎゃーと、のけぞった。
 戦慄が走り、腰に力が入らなかった。箱の中にとぐろを巻いたヘビ、ハブがいたのである。ふるえながらあわてて、ふたをして上からクッションをかぶせ、ガムテープを持ってきて幾重にもはりつけた。箱をそっとベランダへ出して窓の鍵をかけた。そこまで夢中ですると、またふるえが起こりだした。残ったワインをあおり、ひきだしから精神安定剤と睡眠薬をとりだして飲み込んだ。心臓の動悸がすこしおさまると、ベッドへ倒れ込んだ。
 ブーッ、ブーッ、ブーッ、意識の中で携帯の音がする。
 頭の上でふるえている携帯に手を伸ばした。画面を見ると、しまったと意識で叫んだ。あいつからだった。受信キーを押して耳にあてたが、しばらくは無言が続いた。
暗闇のなかに、おぞましい声が響いてきた。
「ふふ、まだ生きていたんだ。心臓マヒを起こさんかったんだ」
「……卑劣にもほどがあるじやないか」誘発されて反応した。
「みごとなハブのはく製を、今年の新ジャガといっしょに進呈したのさ」
「よくも、よくも、やってくれたわね」
「案外、心臓は強いんだ、残念! としかいえない。ハブはヘビの王者さ、本土の蛇とは比べ物にならない。ありがたく思ってよ」
「ふん、お互いの怨念を乗せ込んだ、かけまいの第二ラウンドかい」
「鎌首をもたげて実に堂々としたもんでしょう、闘う男のシンボルよ。本土でのワラ人形にくぎを打つってのは、オモチャでしかないだろ」
「コウジはダメだったが、私は絶対に負けない。それは私の若さよ。さらにこの美貌」
「あいかわらずよくゆうね……ところで北海道の壊滅で、ジャガイモがキロ千円を超すそうよ。来られるものなら取りにきなよ。取り分は確保してある、朝日ではツケは最後には払う、けっこうな値段になる……じゃあ、切るよ」
 携帯をおいたとき時計の針は午前零時をまわっていた。
 あの野郎、いやあの女、ゆるせない、脳の芯が怒りで震えていた。
 
 部屋に日がさし、うつらうつらと眠ったようで眠れなかった夜が明けて行った。
コーヒーをわかしてパンで遅い朝食をゆっくりとると、幾分しゃんとしてきた。
やってくれるじゃない、コウジから受け継いだ「かけまい」がまだ続くのだ。人生の残り時間はまだ十分にある。昼過ぎになって、よしとアパートを出た。
大通りに面したお菓子屋でかるかんが十個はいった小箱をていねいに包装してもらった。それからスーパーに行き、コンビニを回ったが、目指すものは見つからなかった。小道をうろつき、昔の小間物屋をさがして右往左往した。裏道のはるか先にやっと半分閉まったような店を見つけ、店の婆さんに聞いてやっと念願のものを手に入れた。アパートに帰って手にいれた品を見ながらしばらく考えた。小さなクリアケースを取り出して、中にそれを入れた。これでよし。かるかんの箱の上に、透明ケースに入った両刃かみそりの刃を乗せた。さて、これをどうしようかとカオルは考えた。このまま宅配便で送りつけるか、それとも手土産にして朝日嶋のママの店にのりこむか……やはり、朝日へ乗り込もう。
                       
 数日後、チハルは朝日嶋へ飛んで午後五時前に、パブラウンジ「光輝」のドアを力強くおした。うすぐらいカウンターの中にいるママの姿をみとめると、
「直接、請求に来たよ」と、目の前にどっかと腰をおろした。
「これ、手土産ね」と、かるかんの箱を差し出した。うえにはクリアケースが添えてある。
「これどういう意味?」 クリアケースを持ち上げて、ママが不快の眼差しをした。
「こんなものいらないわ、お返しするね、そうだ、それよりお互いの無事と再会を祝して乾杯しない」
 土産を横に押しやり、カウンターの上にワイングラスが二脚ならんだ。赤ワインの栓を抜いて、グラスに液体がそそがれた。さらに、からつきのピーナッツとしまかまぼこの突き出し。
「ふたりの男の流した血にみえない」ママのトーンが幾分落ちた。
「これって、ハブの毒入りじゃないでしょうね」チハルが声を出した。
「それはわからないよ。では、亡くなった男どもにささげる……これで、二人とも、もう過去になるね」
カチーンと、合わせたグラスから乾いた悲痛な音がでた。チハルは、ワインの半分ほどを一息で飲み干すと、いままでの緊張がゆるんできた。ママは、髪を短くして、ショートボブにみえた。
「髪を切ったんですね」
「まあね、ところで、ジャガイモも結構な配当ができそうよ。畑はもともと私名義のものだったからね。私も中城にかけまいだった……」ママがしばし押し黙った。
「……それで、生き残ったかたき同士は、ここまでにして手を組まない。これから、ジャガイモだけではなくて、コーヒーやマンゴーなどを多角的に栽培して本土で売りまくる。まっとうな商売でともに生きぬいていく、資金はあるし」と、一気にしゃべった。
そうね、すごくいい考えだけど、しばらく考える時間をちょうだいと言って、チハルはママと再度グラスを合わせた。
 
三月になり、警視総監の異動があった。須賀井県警本部長も本省へ呼び戻され、警視庁刑事部長職に就くこととなった。彼が退任のあいさつに見山をおとずれた。
「超先生、お世話になりました。今後ともよろしくお願いいたします」
「ああ、栄転ですな、須賀井さん。ついでに、これを新しい警視総監へもっていってたもんせ」
「十四代の深山霧島茶碗ですか、ありがたくお預かりします。深山霧島に石清水、総監室の秘宝がふえますね。ところで先生、東シナの海はまだまだですね」
 そうじゃなと、超翁は、遠くをみるようにしてつぶやいた。
「しかし、まだ日本は安心で安全じゃ……」 
 
 
 
                  (本作品は創作である)
 

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