見出し画像

バラは孤高に⁈

アナログ作家の創作・読書ノート       おおくぼ系

 

今般、九州文化協会主催の〈文学カフェin鹿児島〉が開かれ、40数人の文芸愛好家が集った。

講師は大道珠貴(だいどうたまき)さん、2003年〈しょっぱいドライブ〉で芥川賞を受賞した。九州文化協会は九州から芥川賞作家を輩出しようと設立された団体であり、現在まで村田喜代子、又吉栄喜、目取真俊、大道珠貴の四人の受賞者を輩出している。現事務局長も自身の任期の間に受賞作家を出したいとの熱い意気込みを語られた。

毎年開催される九州芸術祭文学賞の最優秀賞を受賞した作品は、文芸春秋社の〈文學界〉に掲載され、そうなると芥川賞の候補作家とみなされる。大道さんも文學界へ最優秀賞受賞作の〈裸〉が掲載されると、即、多くの出版社からうちで書きませんかとオファーがあったそうである。

 

文学カフェは、出席者の中から応募のあった4編の作品を中心にして感想を述べるゼミ形式でおこなわれた。

はじめの〈オホーツクの歌声〉は、北海道の農家で牛の世話に追いまくられるストーリーで牧歌的な味わいがあった。次の〈スーパーマーケット〉は、作者によると、夫がストレスを与える存在なのでそれを書いたとのことで、スピ-ド感のあるエッセイみたいな作品との評をえた。〈三つの短い作品〉はニューヨークで日本の舞台作家のドキュメンタリーを製作しようとクラウドファンデイングを計画したが、失敗してホームレスになり、そこで同じようにホームレスの画家とすごす。のちに画家が脚光を浴び日本で再開をはたすという、十分に面白い話であった。実体験をもとに描いた作品であるとのこと。

最後の〈迷走〉は親しかった昔の同窓生をさがす物語で、評は、村上春樹の世界観っぽい妖しいにおいがするとのこと。饒舌ではないがもう少し話をふくらませて悪人を出せば面白い、もっと迷走してもいいのではとのことであった。

 

大道氏は、〈物書きはヘンタイか犯罪者にしかなれない〉とのたまわれるチョー個性的な作家であった。高校生のころは金髪に染め半分を刈り上げたレディースで、やりたい放題だったとのこと。ドラマの脚本を書くことから文学に興味を持ち、いまだに川端康成に心酔している。芥川賞は四回目の応募でギリギリ受賞にこぎつけた。その後アイロン台一つをもって上京し、それを食台にし、また執筆机にして、体を壊しながらも書いた。  

10年ほど書いたら書くのが嫌になって出版社との約束を破って書いていない。ごく最近、長野の出版社のものに書いているが、新人の作品や他の本は読まない。

天の邪鬼だから、読んだ人が大道さんだとわかる文体を心がけ、さらに、作家同士の付き合いはしないし、忖度などの気遣いもしない。芥川賞の候補作の推薦依頼についても毎回〈なし〉で押し通しているとのことである。

  大沢在昌氏が述べるように、文芸の世界もヒエラルキーでなっている。

系どんは、文学が現代的な力をもち興隆したのは、文豪と呼ばれる神々たちが祭り上げられた結果からだと思うし、芥川賞の創設により純文学が成立したことは、文学を極限にまでもちあげ高尚なるものにした。

 大道珠貴氏は、芥川賞作家というステータスに立ちながら、なんとなくアンチ(反骨)が匂ってくるかたであった。

当人の生き方はそれなりにわかる。だが、賞作家として祀り上げられて、あがめられるバラであり、当然のようにわがもの顔で孤高を保ち咲き誇っている雰囲気がただよってくるのである。やはり賞作家はヒエラルキーの頂点にたっている。

 

さて、ここから先は、系どん好みのドグマ談となるので、心して読んでほしい(笑)。

 何かのきっかけがあるたびに考えこむようになった。その辺が小説を読みあさり、さらに書くための伏線だったのだろう?

  人があつまって集団がつくられると、中心者があらわれる。参加者が多くなり、組織が大きくなるほどに、リーダーが現れ、暗黙の了解のもとに秩序や共通意識が生まれていく。リーダーは組織の運営など、いろんなことを調整していくのである。

 

現役のころ、職場で、〈職員はみなが仮面をかぶっている〉と嘆いている若者がいたが、職場とは日常生活とは違って業界用語を使う別世界なのだ。組織に属すると、言葉は組織の言葉となり、個人の意思は封じられる。

  組織は、定められた権限によるフォーマル組織や人の感性や相性などによるインフォーマルな組織などでなっており、それらの多面性は組織が躍動するには無視できないものである。かように、組織・機構の現実は、多面的なシステムであって、表があれば裏もあるものなのであろう。

 

 系どんは、こういう〈組織と個人〉の現実が面白くて、組織のなかでうごめき、関わり合う人々の行動を小説にしてきた。その点からかんがえると、個人の内面心理を探っていくという、私小説(純文学)とちがい、群像小説(エンタメ)小説家であると思う。とにかく、組織や社会のメカニズムが面白くて、ひとびとの行動と、その場での発言などを観察し書きあらわしてきたのだ。

  また、集団において一人のスター(中心者)が誕生して、多数の〈推し〉がつくと、いわゆる〈まつりごと〉現象が起こる。小説家村上春樹のハルキストなるものもそうであろう。

 

〈まつりごと〉とは、〈政治〉を意味する。まつりごとに至る歴史であるが、太古においては、人々の本能として武力が源泉にあり、人が生きぬくためには闘って勝ち残らねばならなかった。常に力が正義だった。

だが武力による支配者に対して、次々に挑戦者が現れることで暴力の連鎖を生みだされていき、社会が安定することがはなはだ困難であった。

それで知性の発達とともに争いをさけて統べる方法は? と変化するのだろうが、これがどうしてで? 武力を誇らない卑弥呼の登場となったと考える。

 武力はエネルギーやパワーを消耗しすぎるし、憎悪の連鎖を生み、勝った後の恩賞も莫大なものとなる。武力以外の理性や論理による〈支配のありかた〉から考え出されたのが、高みにのぼり仰ぎ見る神(上)の概念であったのだろう。

 

あちこちと迷走してしまったが、結論を言うと、人は社会・組織・集団の一員として生きているし、集団には、必然的にヒエラルキー、ステータス、カーストといった階級が形成される。その一因は、人々の祀り上げによるものと思っているのだが(笑)。


                (適時、掲載します。ヨロピク!)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?