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ブラックコーヒー

ブラックコーヒーが苦手だ。
さらに言えば常温のブラックコーヒーが苦手だ。

冷たくもあたたかくもないブラックコーヒーはそのざらついた苦味の輪郭が際立ち、舌の上に居座り続けなかなかお暇してくれない。
せめて微糖、もしくは半分以上をコーヒーフレッシュなどの乳成分で構成させないとカフェインの作用により緩い動悸に見舞われる。


私は小さい頃から記憶の上書き保存が出来ない。それは成人した今でも変わらない。
記憶力があるといえば聞こえはいいのだが、パソコンのデスクトップ画面いっぱいに色々なフォルダや文書データのアイコンが所狭しと敷き詰められている様子を思い描いてみてほしい。私の頭の中は常にあのような状態なのである。

敷き詰められた記憶の数々を整理整頓がてら見つめ直していくと、そのどれもが常温のブラックコーヒーを飲んだときの苦々しさやなかなか消えない酸味をまとっている。

中でもそれを一番に感じるのは小学生の頃に友達の誕生日会に行ったときの記憶だ。本当に地獄だった。

その誕生日会に自分がなぜ参加することになったのかなどの過程は一切覚えていないけど、胸焼けするほどの幸せに溢れた空間に対し希死念慮にも似た劣等を抱いたことだけははっきりと覚えている。

子供は生きている中で死にたいなんて思うことはないはずなんですけどね。と以前カウンセリングを受けたときに医者に言い放たれたけど、あれは確かに死にたさ以外の何物でもなかった。その場に居たくなかったし、消えたかった。

皆からお祝いされているその友達の目に、こんな真っ黒な気持ちを抱いた自分は映ってはいけないと何度も目を逸らした。他の家の子供たちに何の見返りもなく豪華な食事やプレゼントを与えもてなすその子の親の目にも映りたくなかった。なんだかすごく惨めだった。動悸がした。

いつの日か私が親になる日が来るのなら、人様のお祝いごとを地獄呼ばわりしたり、自分を惨めに思うような子にはなってほしくない。まだ見ぬ我が子には死にたい消えたい居なくなりたいなんてことは一秒たりとも思うことなくその日々を過ごしてほしい。

ブラックコーヒーを口にするたび、人の幸せを願えなかったあの日の苦しさが想起される。
大人になった私に今できることは、その光のささない黒い記憶に甘やかな何かをくわえ諦念を抱きながら生きていくということ