アルターワールドへの接続

■「ドローイングの可能性」展 戸谷茂雄 「視線体一散」
 この作品は、室内に作られた空間を隔てる3面の壁の内側に配されている。その外壁には戸谷のドローイングのコンセプトを表す空間への眼差しを可視化した彫刻作品を配し、内側はその眼差しの「構造の結実」と表現する作品が配された。この作品は中央に刻印された立方体の木があり、その周辺の壁にはそこから出たように見える木片が一面にはりつけられている。
 戸谷はこの作品を『空間の中を行き交う幾つもの視線が交差したところに立ち現れる「視線体」(ドローイングの可能性展図録より)』のインスタレーションと位置付けているようである。

 この展示は作品のある小部屋に立ち入ることが可能で外からみたときと中からでは全く違う体感を覚えた。囲われた壁の外から観察した時、中央の立方体と個々の木片がそれぞれ無数の線で結ばれているように感じ、戸谷のいう視線の交差を見ることができた。さらに、私にとってはここからが新たな体験であった。ひとたびこの空間の中にふみ入るとその木片と自分の視線が線となり結び付けられるのだ。周囲に存在する無数の木片からの線の交差は、中央の「視線体」から「私」に移ったように感じ取れたのだ。
この時私は戸谷茂雄のアルターワールドに自身が介入したかのような錯覚を覚えた。

■「自己」と「他」の接続
戸谷作品を鑑賞して得たものは、私は過去街中のタグを目の前にした時の感覚に酷似していた。彼らの他我に触れられるこの感覚の正体はなんなのだろうか。
そもそも我々にとっての「世界」が自我によって成り立つならば、他人のアルターワールドを共有することは可能なのだろうか。

これはあくまで仮定に過ぎないが、この「世界」がアルターワールドの重なりに自身の「世界」を重ねることで成り立つとすれば、我々の視線(意識)が線を描くように互いに交差し合うことで「場」が生まれ、「世界」が生まれるのだとすれば、これら「ドローイング」によってリアルに体感できる、戸谷のインスタレーションや街中にあふれるグラフィティが我々にもたらす気づきは他者の「存在」の共有であり、互いの「意識」の共有にはならないだろうか。社会において「他者」は不可欠である。社会を見直す必要がある時、我々は自己と共に「他者」を見直す必要がある。そしてこれは「他者」に限らない「自分以外のもの」全てに置き換えることも可能であると考えた。

■今後の考察
ともあれ、この考察に対してはまだ論調としては弱く、方向性に対しても不安が残る。
ただ、大山のいうグラフィティがアルターワールドを折りなし、互いに共振するシグナルであり、芸術作品の潜在性の現れと記していたことに対し、グラフィティがより社会構造における「自己」と「他」を結ぶものとしてアルタースフエアを表出する力があるのではと考察してみたいと考えている。

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