もうひとつの玄関

 私の部屋には大小2つのクローゼットがあって、小さい方は以前、外に通じていた。
 クローゼットの奥に、うっかりすると見過ごしそうな小さなドアノブがあって、開けると狭い通路がある。それを通り過ぎると結露なのか、時々頭上から冷たい滴のしたたる階段が続き、しばらく昇り降りしていくうちにマンションの裏の、ほとんど人の寄りつかない薄暗い公園に出る。
 私は大分長いこと、そのからくりのような隠し通路を使ったことがなかった。閉所恐怖症で狭いところは苦手だし、公園にいきなり髪ボサボサでスウェット上下の薄汚い女が現れたら不審だし、何しろ普通の玄関から外に出る方がはるかに楽だし手っ取り早かったから。

 では何故私がその「玄関」の存在を知ることになったのか。

 ある日、私が洗いざらしのやぶれたTシャツにジャージという格好で、座椅子に半ば寝っ転がって海苔巻きせんべいを囓りながらテレビを見ていると、突然クローゼットのドアが開いて、白地に青い花柄のシャツを着た男が入ってきた。
 考えてみれば、鍵も何もついていない扉が部屋にあるわけだからそういうことがあっても不思議はない。
 男は手を伸ばして、海苔巻きせんべいの袋に残っていた最後の1枚をあっという間に食べてしまった。通常人の倍はあるかと思える異様に大きな手だった。
 男の着ているシャツの柄が、もう一方のクローゼットに掛けている、私が持っている中で唯一女性らしい服であるワンピースの柄と全く同じなのに驚いていた間の出来事で、私は大好きな海苔巻きせんべいの残り1枚を持っていかれて非常に腹立たしい気持だったが、とにかくこの男はお腹を空かせているのだろうと思って、白ご飯を炊き、冷蔵庫に玉ねぎ1個とキャベツとにんじんの切れっ端と冷凍した豚肉があったので、それで肉野菜炒めを作って、まあ何でもいいやと100均で買った白に変な赤の渦巻き模様のある丸皿にそれを盛りつけてテーブルに置いた。
 男は当然のようにそれらを食べ始めた。大きな手で操る箸の動かし方が完璧に美しいのが目を引いた。
 
 男はそれからも時々やって来て、私はその度に白ご飯と肉野菜炒めを用意して一緒に食べたが、さすがに皿だけは100均のではどうかと思って、縁に彫り模様のある、真っ白な来客用のものを使うようにした。毎度、嘗めたように綺麗に私の料理を平らげると男はそそくさと何も言わずにまたクローゼットへと消えていくのだった。

 私の部屋の窓からは山の連なりと、その麓に高速道路の高架と、それに続いて古い住宅の屋根がひしめいて見える。
 雨の日や、何となく胸苦しい日はよくその景色を長い間、窓から眺めていた。
 その日も、雨に煙って薄灰色の空との境界が曖昧になった稜線や、一定の間隔でぼうっと光る高速道路のオレンジ色のライトを見つめながら呼吸の辛さに耐えていると、男が乱暴にクローゼットのドアを開けて入ってきた。
 いつもと違う雰囲気を感じて見ていたら、男は、深い紅色が気に入って買ったが今はほとんど使っていない私の机に走り寄ると、いきなり引き出しを開け、中に入っているがらくたを凄い勢いで次々に放り出しながら何かを探し始めた。
 そのただならぬ様子に私は、男を止めることも出来ずその場に凍り付いていた。
 男は随分長いこと探し物を続けて、全ての引き出しの何もかもが放り出されようかという頃、机の一番奥にあった何かをその大きな手で引っ摑んでクローゼットから出て行った。持って行ったのはおそらく私が昔、何かを書き付けた雑記帳らしかった。何しろあまりにも素早すぎて何を持って行ったかはっきり分からないぐらいだったのだ。その雑記帳に何を書き付けたかも覚えていない。
 私は、男が去っていった後のとっ散らかった惨状を片付ける気にもならず、いつものように座椅子に寝っ転がってテレビを見始めた。

 その後、男が私の部屋に来ることはなくなったが、私はそれからしばらく、時々クローゼットの奥のドアを使ってみることがあった。たどり着いた公園にあの雑記帳がぽいと投げ捨ててあるような気がしたからだ。それに何を書いたか知りたかったのだが、結局それは男が持ち去ったまま、私の手元に戻ってくることはなかった。 そのうち私も諦めてその、もうひとつの玄関を開けてみることもなくなり、しばらくぶりにクローゼットの奥を覘いてみると、ドアノブは消え去って扉のあったところはただの白い壁になっていた。

 今でももちろん、時々肉野菜炒めを作って食べるけれど、その度にあの男の大きな手と完璧な箸使いを思い出す。
 私は箸の持ち方がおかしく、その扱いも下手だ。あの男はそれを見てどう思ったかしらと考えたりもするけれど、彼がもとより私に一瞥もくれなかったことはもう、お分かりだろう。

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