世界で一番美しい音楽

 夫が世を去って何年かが過ぎた。私は鍵の付いた、木目の浮き出た古い木箱の引き出しから白い布包みと、紫色のベルベットで覆われたオルゴールを取り出すと、部屋の西側に置いた箪笥の上にそれらを載せて手を合わせる。包みの中身は二つに割られたCD、それと今はもう鳴らないオルゴール。二度と聴くことはない音楽が詰められた物たち。

 私はお見合い結婚をした。安定した生活、だけを考えて選んだ夫には正直あまり愛情はなかったけれど、穏やかで真面目なその人柄に私は満足していた。だが、夫と私は趣味にも性格にも何ら共通項がなく、特に私に理解できなかったのは夫の無類の音楽好きだった。夫は四六時中、某かの音楽を部屋に流していて、音楽に全く興味のない私はいつも耳に入ってくる雑多な音楽に多少嫌気がさして、やがて夫もそれを察したのか家ではいつもイヤホンで音楽を聴くようになった。静かになった環境に私はやっと落ち着いた気持ちになり、それと同時に私たちの会話は徐々に少なくなっていったけれど私は気にも留めていなかった。もともと夫とそれほど心を通わせたいわけではなかったから。

 ある年の私の誕生日に夫はオルゴールをくれた。紫色のベルベットで覆われた、見るからに凝った造りの高価なものであるらしかったが、内心私は、音楽に関心のない私にオルゴールなんて、花束か何かの方がまだよかったわ、と思っていた。蓋を開けると聴いたこともない音楽が流れてきて、でもなかなか素敵な旋律だと私は生まれて初めて感じた。しばらくその音楽に耳を傾けていた私がふと目を上げると夫と目が合って、夫は今までに見たこともないような嬉しげな笑顔で私を眺めていたので、私は驚いたと同時に少し恥ずかしくなって、オルゴールの蓋を閉じ、ありがとう、と素っ気なく言うと木箱にそれを仕舞い込んでしまった。

 それからも夫は、私には聞こえない音楽を聴き続けていた。そしてだんだん食事も眠ることも忘れて音楽を聴くようになっていった。私が見かねてイヤホンを取り上げようとしたり、何を聴いているのかとこっそりCDを手に取ってみたりすると、いつもは物静かな夫が、人が違ったように怒り出す。その様子から私は夫は何かひとつの音楽を繰り返し繰り返し聴いているのだと確信していた。それはいったいどんな音楽なのか。私は初めて夫と、彼を虜にしている音楽というものに興味を抱いたのだった。

 その日、買い物の途中で住宅街の中を歩いているとどこかで聴いたことのある音楽を耳にした。子供のピアノの練習曲が聞こえてきているのか、それにしてはちょっと物悲しい、大人びた曲を弾くものだなあと思っているうちにそれがあのオルゴールから流れた曲だということに気付いた。ちょうどそのメロディが聞こえてくる家の前を通りかかると、掃除でも始める感じの姿の女性が玄関のドアを開けて出てきた。私が少し立ち止まってピアノを聴いている様子を見て女性が笑顔で会釈したので、私はどなたかご家族がピアノを弾かれるのですか?と聞いてみた。すると、はい、娘が、と女性は笑いながら答えた。小学5年生の娘さんがピアノを習っているという。私たちはひとしきり話をした後、

「この曲は何という曲です?」

と私はたずねてみた。

「確か…ノクターンです。ファリャのノクターン」

 私はその時、夫がいつも聴いているのはこの曲だと直感した。私は女性に挨拶して家に戻ると、仕事に行っている間は何処かへ隠しているCDを探し回っている所へその知らせは届いた。結局、遺されたものは二つに割られたCDだけだった。木箱に放り込んでいたオルゴールも、もう疾うに鳴らなくなっていた。

 西に向かって手を合わせてから、私はまたオルゴールを木箱に片付け、しっかり鍵を閉めると居間のテレビをつけた。番組のBGMにどこかで聴いたような歌謡曲が聞こえてくる。私にとって音楽はこんな風に流れ去って行くだけのもの。音楽に、何ものかに心を捕らわれるなんてまっぴらだ。ファリャのノクターンなんて二度と聴くまい、私は今もそう思っている。

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