シキ外れ

第四章

「いま、救急を、」病室のドアをどっかり開けて、叱り飛ばすつもりしそうな医者が泣き声の張本人を見つめると、話が途切れて、心の怒りを抑えながら、優しい声を絞った。
「武、おじいさんは泣き虫が好んでいないでしょう、いまおじいさんの具合はちょっと良くなさそうですから、もし武が笑ってくれたら、おじいさんのご褒美がもらえるよ。」医者が言いながら、ポケットから持ち出したティッシュペーパーで涙を拭く。

「さあ、泣きは駄目よ、武、良い子、笑って。」
「はい。」伊江武が袖で涙の跡を消して、眉を顰めた医者にうなずいたりする。

「あの、せんせい、爺さん、大丈夫ですか?」伊江武が不安そうにドアを引いた医者に言葉を投げた。
「武のおじいさんですから、きっと大丈夫ですよ、安心してください。」医者さんが言葉を後にして、速やかに部屋に戻った。

 「さっき、母さんの悪い、おっちょこちょい母さんを許してくれないの。」我に返る伊江奈々子が伊江武のほっぺたを軽く揉んで、歪んだ襟を捻って、作り笑いをした。

 「もちろんだよ、だって、お父さんの代わりにお母さんを守るとお父さんと約束したから、お母さんはもし何か悲しいことにあったら、必ず武に話すよ。」伊江武は誇らしげに両手を腰に当たって、仁王立ちのように凜々しく背筋を伸ばす。

「武もなかなか立派な男になったようだね、えらいえらい、さぞ、武もお父さんの意志を引き継いで、大黒柱として伊江家を支えるようになろう」李鳴が拍手しながら、欣快に笑った。

 「それはもち…」
 「その話はまだ早いのではないでしょうか。李さんの言うことは、ちょっとね、」自信満々そうに李鳴の言葉を応じるところを、何粒の涙が掛かって、弱々しそうな伊江奈々子が二人の会話に割り込んで、その承諾を遮った。

 「それもそうね、確かに、でも伊江さんが実にその伊江家のために、複雑な局面のバランスを維持して、伊江家の最大利益を得に知恵を絞って、いろいろ苦労して、入院する始末ですが、すみませんが、今の話はないことにしていただけませんか。」李鳴が言いつつも、携帯を弄って、時折に病室を垣間見たりする。
 「こちらこそ、助かりました。」伊江奈々子が李鳴の意思を合点して、話題を終わらせた。

「伊江さん、もう遅いでしょう、武がベンチで眠るっぱなしって、ちょっと。」看護師の衣装なような人が廊下に立ちっぱなし二人のところにやってきて、眠りそうな伊江奈々子の背を軽く叩いた。
「あ、でも、お義父さんは。」
「それなら、ご安心しください。救急の役を買った医者陣がずっと見守ってくれていますので、今お子様を第一位にすることこそはお母さんの責任なのではないでしょうか。」
「え、伊江さんがいつお目覚めになりますか。」李鳴が二人の話し合いを途切らして切々と顔の暗さに等しい惑わいを投げた。
「いつかわからないのですが、お二人はもう心配するには及ばないことになります。」看護婦が二人の心の憂えを晴らすように言い含めた。

 李鳴は答えをもらうとゆっくりと壁に寄りかかって、目を瞑ったが、顔の暗さが少しも晴れない。


「そうですが、李さん、私が武を連れて帰って、李さんは?」伊江奈々子が伊江武を抱き上げながら、忍び声で、うつらうつらしている目つきに出た李鳴に言葉を投げた。
「うん、武の体の調子を第一位しないと、遅くなるし、送りましょうか。」李鳴が上着を引き締める。
「また一つことがありますが、この間、伊江奈々子さんと伊江武さんとお二人がしばらく旦那さんの家に住んでいただけないでしょうか。それも旦那さんのご意思です。」看護婦が言い続けている。
「伊江さんのドライバーがそのうち急用で、お忙しいですが、さっき連絡しておきました。十五分ぐらいお待ちなさい。」看護婦が言い終わってから、伊江奈々子にお辞儀をして、遠ざかって、病室の側に歩む。
「もう遅いです、そっちも雑務にされているそうですから、やっぱり、送ってさせてもらいましょう。車、近くに止めておきましたし、帰り道も同じことですし、どうですか」李鳴が眼鏡を外して、使い草臥れそうな縮れた灰白色のハンカチをポケットから引き出して、眼鏡を綺麗にした。
「いいですか。李さんがもともと、うちのお義父さんを見舞ってくれて、半日もかけて、ずっと見守ってくれて、もう大変お疲れそうな様子ですが、お誘いはどうにも受け取りがたいと思いますが、」
「いいえ、お言葉は少々疎いのではないでしょうか、ずっと伊江さんが一方的に何十年の贔屓を受けてばかりいますから、それくらいのつまらないことなんて、感謝には及ばないです。もし伊江さんが信用してくれば、伊江さんのお宅の前に送ってさせてもらいましょう。先ちょっと考え事で、少し眠気がしたからですが、もう大丈夫です。」
「あ、そうですか、はい、ご厚意に甘えて、ありがとうございます。では、一応看護婦さんに知らせて、少々お待ちなさい。」

 看護婦のところから戻った伊江奈々子が伊江武をそっと抱いて、李鳴に随って、コテージを出た。
 懐中電灯の光に頼って、鉄門を通った李鳴がニ、三本の方形ランプシェードの光が点滅している街灯を見て、消した懐中電灯をもう一度つけた。
「壊れた街灯を避けたほうがいいですよ。漏電したら大変になりそうですね。ちなみに、あと、バトラーに知らせましょう。」

「はい。」

 子供を抱いた伊江奈々子が李鳴の後ろについて、駐車場についた。
 寒夜の街灯に照らされたしめやかな池袋への夜道を走行している銀色のY31が冷え冷えとした冬の夜の寒風をきって、和光市を離れた。

 「えーと、すみません、あの建物ですか。」
 「はい、ちょっと暗くて、なんだかなじんでいなくなった気がしますが。示してくれて、ありがとうございます。ここでいいです、ありがとうございます。夜中故に、くれぐれもお体を気をおつけなさい、さよなら。」
「さよなら。」
 挨拶をしてから、車を背を向けにしたところ、また引き返した。

「あの、今日のことは、とんだ失礼しました。」
「いいえ、伊江さんのトラウマでしょう。わかっていますのに、そんなひどい言葉を口にしましたって、こっちも随分気にすまないです。もし、その日、南谷の隣にいられば、武もお父さんを失わないはずなんでしょう。あくまでも私のせいだと思います。」
「そんな言葉を言わないでほしい、それはただ南谷の宿命で、決して、李さんと関係がありません。心は過去の沼にずっと陥ったら、時間も止まらないでしょうか。私も、そろそろ抜けなくてはいけないと思います。やっと、乗り越えたつもりなのに、やはり、すみませんでした。では、お帰りに気をつけなさい。さよなら。」
 子供を抱いて、茫然自失のような伊江奈々子の姿が通りから引っ込んだ大きな家への路地裏の阿に消えるまで、ずっとその後ろ姿に目を凝らしていて、その言葉に耽っていた李鳴が解放されたように、ため息をついて、Y31のエンジンをかけて、夜闇に潜り込んでいく。

   グローランプの微光に包まれた部屋に消毒用アルコールの臭気が水仙の香気に混ぜて、変な匂いが立ち込めている。
「もう夜中になってしまったか、って、なぜ看護師の服をしているの、長野さん、妙ね。」伊江圭が看護師の服をしている男の人に視線を移した。
「え、事故でした。この間、自分の弟子が誤りをして、患者さんがそのため、命を落とす始末です。師匠の私がなんとなく、その責任を買わないと気が済まないですから、その様子を手術の定番服に決めました。」目遣いをして、目をぱちくりさせて、気が散ったように見えた長野弥助が手元の容器をそのまま握る。

「長野さん、わがままね。って、この身体がどのぐらい持ちこたえられるか。なんだか、薬を飲むごとに、効かなくなっているみたい。痛みは強くなるたびに、ここは現実だとはっきり感じされる。痛みから逃げるには、目の前の現実を一筋に否定し続けるなんて、今から見れば、これは惰弱でなくてなんであろうか。」

「さあ、悲しい言葉はやめといてください。お残り時間は体内のウィルスの気持ち次第で、もっと正しく言えば、お気持にかかっていることです。どうか、お気持ちをコントロールしてください。大悲や大喜びなどは禁物で、念のため、私は一応お付き添いに伝えときました。では、ごゆっくりです。」

「待て、慰安の言葉は必要はない、言え、残り時間。」伊江圭は炎が宿っているような目で、長野弥助をじっと見つめている。
「恐らく一ヶ月弱です。」突然の問に身震いした長野弥助の手が滑って、握った容器を転がした。
「わかった。」伊江圭淡々した口で言い返して、まるで自分の死を他人のことに扱うように、身じろぎをして、布団をかぶせて、目をつぶった。
 長野弥助が小心翼翼と素早く倒れた瓶を起こして、モルヒネ瓶や使い済みの注射器をアルミ作りの皿に載せて、他の医者に頷いて、一人で部屋をそうっと後にした。

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